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忘れっぽいものだから、きっかけを詳細に覚えているわけではない。それでも風のぬるさや、桜が青空の下に舞っていたことなんかははっきりと覚えている。絵画の世界に迷い込んだような、非現実を感じた。
「Frustration」
やけに発音がよかった。見た目も相まって、ああ、日本人じゃないのか、なんて思う。柔らかい茶髪は陽の光に照らされると金色に近い。色素の薄い瞳はグレーのようにもグリーンのようにも、アンバーのようにも見えた。そんな魅惑的な瞳を細めて、僕だけを見つめている。
「ねぇ、溜まらないの?」
口の端からキャンディの棒を出して、僕の前にぴらりとゴム風船を掲げる。なんとなく、しかしとてつもなくイラついた僕は、男の細く長い女のような手から膨らんだコンドームをむしり取って顔面に投げつけた。
並んで歩いていた友人たちがぎょっとして僕を止めに入る。手際の悪い僕を普段から何かと助けてくれる岡田が焦ったように耳打ちした。
「バカッ、こいつ岸沼だぞ」
岸沼? あぁ、そうだ。そうそう。岸沼。
ヘラヘラふらふら掴みどころのない問題児。文武は両道だが素行は最悪、眉目秀麗だがおよそ品格というものをどこかに落としてきたらしい。
確かに、ものすごく綺麗な男ではある。岸沼は僕の投げたゴムを真正面に受けたせいで頭から水を被ってゲラゲラ笑っていた。
「ごめん、岸沼くん。わざとじゃないんだけど、なんか反射的に……よかったらこれ使って」
中庭にいる岸沼に廊下からハンカチを渡してやれば、岸沼は下品な笑い声とは正反対の優雅な仕草で受け取った。
にこり、と笑いかけられると心のどこかがパキンと音を立てた。感じたことのないざわつきが胸の中を渦巻いている。僕はぽかんと岸沼を見上げて目を離せなくなってしまった。恐ろしく綺麗な男の背後では桜吹雪が舞っている。
「ありがとう。優しいね、川邑くん」
「え、そうかな」
のどかな春の陽気に、えへへ、ぎゃはは、と僕らの平和な笑い声が響く。あまりにも平和なものだから、急に飛び散った赤い液体を鮮血だと認識するのに時間がかかった。
「いってぇ……」
急に野太い声を上げた岸沼が、額を押さえて倒れ込んでいく。ピストルで撃ちぬかれたように眉間から血が噴出していた。ギャグマンガのようにぴゅーっと効果音でもつきそうな、ありえない吹き出し方だった。
「うわぁ! 何! 岸沼くん、血が出てるよ!」
「いててて……クッソ」
「どうしよう! 岡田くん救急車呼ばないと!」
「なんでまた……」
みるみるうちに岸沼は真っ青になっていった。慌てて窓を飛び越え中庭に出るとうずくまった岸沼に駆け寄った。岸沼はぷるぷると震えて僕の腕に倒れ込んでくる。
「あぁ〜痛い」
「もういいよ、しゃべらないで」
「なんでまたこうなるんだ……?」
青い顔をしてぼそぼそと呟く岸沼は薄く目を開けたり閉じたり、すでに意識が朦朧としている。僕は咄嗟に岸沼を揺さぶった。
「岸沼くん、しっかり!」
「ぉえ、ちょ、タンマタンマ……揺さぶら、揺さ、揺さぶらないで川邑くん、お腹が、あ、お腹が」
「お腹が痛いの!?」
「いや、きも、気持ち悪くて……頼むから、精子……ちょうだい」
しばらくの間震えていた岸沼のまつ毛が完全に沈黙する。ぱったりと僕の腕の中で力尽きた岸沼に僕は涙した。なんて情けない最期の言葉なんだ。情けないというか気持ち悪いよ。どういうことだよ。
しくしく泣いていれば、ふ、と僕は覚醒した。
「川邑くん、大丈夫ですか?」
5時間目の古典の授業中だった。周りの生徒も軒並み船を漕いでいるが、流石に当てられたのにも関わらず寝こけることは許してくれない。
ぼんやりと先生の顔を眺めていれば、先生もこちらを見つめていた。丸眼鏡を押し上げた先生がはぁ、と溜息を吐く。
「もうちょっと堪えてくださいよ。僕も眠いんですから」
日頃の行いの良さだろう。大して怒られることはなく、言われた通りに教科書のセンテンスを読むと、先生は後ろの席の生徒を起こしにかかった。
それにしても、最近はよく岸沼が夢に出てくる。授業中の数分の居眠りにすら現れる始末だ。お昼に岸沼と話したからだろうか。今の夢なんて途中まではやけにリアルだった。
僕が岸沼に絡まれるようになったのは今年の春だ。夢の中と同じように、中庭にいた岸沼に声をかけられて、なんでかムカついた僕が水風船を投げつけた。その時隣に岡田はいなかったし、岸沼の額から血が噴き出るなんてこともなかったけれど、それを除くとほとんど記憶の通りだった。
出会いがしらに水風船を投げつけられたにも関わらず、岸沼は僕の何が気に入ったのか、次の日から校内で僕を見かける度に声をかけてくるようになった。しまいには昼飯をたかるようになった。
たかるというか、最初は僕が岸沼に昼ごはんのおにぎりを分けてあげたのがきっかけだ。岸沼はでかい図体をしているわりに、ほとんど飯を食わない。牛乳と稀にパン。それも一個では足りなそうなやつばかり。
僕は密かに心配している。岸沼は遅刻の常習犯だし、授業中にもふらりとどこかに消えることがあるし、忘れ物も多いし提出物も出さない。お前は小学生か、と先生の頭を悩ませる生徒ではあったけど、ご飯がないのはそれとは別だ。
もしかしたら岸沼の親は岸沼にご飯を食べさせていないんじゃないか。岸沼に昼を買うお金も与えていないんじゃないか。僕の考えすぎかもしれないけれど、実際、岸沼から親や兄弟など家庭や生活感を感じる言葉を聞いたことは一度もなかった。
僕は秩序が好きだ。だから岸沼から感じる不審な匂いに耐えられなかった。
一度、一人では食べきれないほどのおにぎりを作ってきた。僕一人では食べきれないから、と言って岸沼に何個か渡せば、岸沼はこれまでに見たことがないほどの笑顔を見せて「うまいうまい」と平らげた。
ちょっと安心した。それまで岸沼のことをネグレクトの家庭に育った可哀そうだけど、正味本人も頭のおかしい奴だと思っていたから、ご飯を美味しそうに食べる姿にようやく親近感が湧いたのだ。
味を占めたのか、岸沼は以降僕に昼ごはんをたかるのが日課になっている。僕は自分の作ったものをうまいうまいと食べてもらうことに味を占めていたから、ここぞとばかりに餌付けした。
僕のおにぎりのおかげか、最近の岸沼は出会った頃に比べて頬が少しふっくらしてきている。もとからハッとするほど整った容姿だったが、健康的な見た目になるほど、岸沼に一目ぼれする人も増えた。たいてい岸沼の常識のなさに引いては散っていく。岸沼本人は男子高校生であるというのにあまり女の子に興味がなさそうなのが面白かった。
思い出してふふ、と笑ってしまう。授業中だったから慌てて下を向いた。岸沼は今日も美味しそうに、満足そうに、おにぎりを食べてくれた。普段はどこか目が笑っていないような笑顔なのに、僕のご飯を食べているときは心からの笑顔になる。
せっかくならもっとおいしいものを食べさせてみたい。僕だって、得意料理はおにぎりの一辺倒じゃないのだ。
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