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「っ、」

 ものすごい勢いで跳ね起きた。心臓がバクバクしている。100m走でもしてきたのかと思うほど、荒い呼吸を繰り返していた。
 体が汗だくだ。制服のシャツが肌にべったりと張り付いている。スラックスでさえ、汗を吸収していた。
 保健室の簡素なベッドがギシ、と音を立てる。僕はまだ落ち着かない鼓動に混乱しながら、辺りをゆっくりと見回した。蛍光灯の不健康な白。保健室のアカチンの匂い。人の気配はない。ベッドをしきるカーテンをそっと開いて見てみれば暗い窓の外にささやかな音を立てながら雨が降り注いでいた。

 ふ、と息を吐く。カーテンをもとに戻し、ベッドに体重を預ける。白いシーツとノリのきいたかけ布団に目を落とす。耳に安らかな雨音が響いていた。

 全部夢だ。

 まだ心臓の激しい動きにシャツの胸元が揺れている。僕はぼんやりと天井に目をやった。
 全部夢だ。わかってる。激しい夢だった。自分の感情でさえ、自分を破滅させるほどに激しかった。
 有孔素材の天井の穴の数を数える。僕は馬鹿だから素数など数えられない。いち、に、さん、よん。ご、に行きかけたところで、自分がどの穴から数えているのかわからなくなった。
 穴の数は分からない。そんなことすら数えられない。1から10も数えられない。

 でも、僕にも一つだけわかったことがある。

 天井の無数の穴が僕に降り注いでいた。深淵だ。手の中で力を失った岸沼の姿がまだ脳裏にこびりついている。鼓動を落ち着かせるようにして、大きく深呼吸した。息を吐ききって、目をつむる。

 僕は岸沼のことがとてつもなく、気になって気になって気になって、全てが手につかなくなるほどに、気にしている。


???


 なにかがおかしい。

 昨日まで目に見えていたものに不審感を覚える。朝、目を開けた瞬間視界に映り込む自室の光景、空気、母親の話声、妹の態度、通学路の景色、空の灰色、鳥の鳴き声。
 何もかもがどこか夢の中のように判然とせず、ぼんやりと歩いた。橋を渡る。川を覗く。なぜだか今にも大量のコイが橋に飛び上がってきて襲われるのではないかと錯覚した。ただの妄想だった。

 古びた駄菓子屋の前を通る。開店前だ。ガラスのドアから暗い店内に、知らないキャラクターのお面がかけてあった。くりぬかれた目玉がじっとこちらを見つめている。ぶら下がった飴と、プラスチックの容器に入った飴玉でさえ、なぜだか偽物のように感じられた。
 治安の悪い団地の前を通る。朝っぱらから不良がたむろしていた。道を間違えたかな、と思う。僕の通学路に団地なんてあっただろうか。それでもなんでか見覚えがあるような気がするのだけど。

 あぁ。そういえば岸沼はこの辺りに住んでいた。こんなところまで無意識に来てしまうなんて、僕ってやっぱりちょっと気持ち悪いかもしれない。

 岸沼。今日は学校来るのかな。昨日は休みだった。体調不良だろうか。心配だ。心配過ぎて動悸がしてきた。ご飯は食べているのだろうか。いや、大丈夫か。援交?とかやってるもんね。あり得ない。さっさとやめさせないと。
 視界は妙に灰色だった。団地はみんな同じ形をしていて、建物の壁面にはヒビが入っている。灰色のコンクリートが丸出しで、見上げれば、灰色の塊が大量に上空に伸びている。コンクリートに塞がりかけた空も、今日は太陽が見えず灰色だった。全部灰色だ。僕の頭はどうかしている。

「あれっ川邑くん?」

 灰色の建物の影から急にひょっこりと出てきたのは岸沼だった。制服を着て通学バッグを背負っている。色のない世界に突如現れた鮮やかすぎる人間にぎょっとして立ち止まった。

「わぁ、珍しいねー。やった! 朝から川邑くんに会えた」

 にこ、と目尻を下げる岸沼をぼんやりと見つめる。岸沼は僕を見て、なぁに?と聞くようにちょっと首を傾げた。岸沼って僕のこと嫌いなんじゃなかったっけ。なんでこんなに笑いかけてくれるんだろう。僕って本当は嫌われてない? だったら、いつもみたいに岸沼に構ってもいいかな。ほら、こんなに笑ってるし。あはは、僕も笑っちゃう。

「あ、せっかくだからサボっちゃう? 川邑くんは真面目だからねぇ。たまには息抜きも覚えないと」
「息抜きって、例えば? 知らない女の人とえっちなことする代わりにお金貰うの?」

 ぎょっとしたように岸沼は僕を見る。僕は岸沼をちょっと睨んでやった。僕は知ってるんだからな。岸沼が悪いことしてるの。

「岸沼はそういうことやってるんだろ」
「いや、やってないよ!?」
「この前、派手な女の人と歩いてただろ。羽柴はどう見てもエンコーだって」
「えっ、あれ?」

 岸沼は一瞬びっくりして、慌てて僕に弁解した。

「いや、あれ、違うからね。あれ、ただの母親だから」
「母親ぁ!?」

 そっちのほうが問題じゃないか。岸沼にいつも満足にご飯を食べさせない母親だろ。急に全身から殺意を出し始めた僕に岸沼がきょとんとしている。

「いや、ほら。俺遅刻が多すぎて、親まで呼び出されちゃってさぁ」

 笑えないよ、そんなの。僕が岸沼に言い返そうとしたその時、下品な笑い声が聞こえてきた。朝から嫌な声だ。岸沼と声の聞こえたほうに目を向けると公園にたむろしていた不良達だった。
 着崩した制服にいまいちキマらない金髪。煙草をくわえて、片手にワンカップを持っている者もいる。ワンカップってどうなんだ。どうせ飲むならもうちょっと年相応に可愛げのあるものにしたらいいのに。僕がワンカップを持っている人を見たのはアル中で死んだじいちゃん以来、初めてだ。

「この辺治安も悪いんだよねー。こっちの道で行こ、川邑くん」

 絵に描いたような不良をむしろ感慨深い気持ちで見ていれば、岸沼が僕の背中に手を回して方向を変えさせた。岸沼は慣れているみたいだった。

「おぉい、岸沼ぁ」

 下品に間延びした声が背後からかかる。岸沼は一瞬眉をひそめたが、何も反応することなく、僕の手を引いて歩き続けた。

「なんか呼ばれてない?」
「あぁ、たぶん気のせいだよ」
「いや、けっこうがっつり名前呼ばれてたけど」
「この辺岸沼って名字がすっごい多い地域なんだよね」
「へぇ。ていうか典型的なヤンキーすぎてちょっと面白いね」

 たん、と何かが背中に当たった。振り返ってみれば不良たちがげらげら笑っている。僕を見て、僕の反応を見て笑っているようだった。ちょっと不快な気持ちになった。
 隣で岸沼がはぁ、と溜息を吐いている。僕の背中に当たった木の枝がからん、と地面に落ちる。

「ごめんねぇ。川邑くん。やっぱり先に行っててほしいかも」
「あれ、知り合いなの?」
「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと今はタイミングが悪いんだよ」

 岸沼も大概頭のねじが外れた奴ではったが、この時代錯誤なところがある不良の前ではむしろ常識人のように感じられた。

「お前、男もいけるんだ」

 下卑た声とはこんな声だろう。不良の言葉に反応したのは岸沼よりも僕だった。

「何の話?」

 振り返った僕を馬鹿にするように笑い声が上がる。僕を見て「怒った」とか言ってはやし立てる奴らに一歩近寄る。岸沼が僕の腕を引いた。

「あれ? ボク、こいつが人の女寝取ることで有名なの知らない?」
「いや、どう考えてもこの子童貞でしょ。そういう話分からないって」

 けらけらと笑いながら僕のことを馬鹿にしたようにそう言う。僕はちら、と岸沼を見やった。

「いや、してないよ。してないからね、川邑くん」
「何いい子ぶってんだよ。お前、こいつの彼女たぶらかして寝とっただろ」
「いや、あれ母親だから。寒気のすること言うなよ」
「んなわけねーだろ! サイカさんは二十歳っつってんだろ!」
「だからそれ年齢詐称だって」

 岸沼に彼女を寝取られたと自称する男は頭に血が上ったようで岸沼に掴みかかりそうになりながら喚いている。岸沼は呆れたようにへらへらとかわしていた。

「捨てられてかわいそうに」

 あの人こういうイキった男かわいがるの好きだからなぁ、と岸沼がぼそりと呟いたが、不良の耳には入らなかったみたいだ。その代わり、岸沼の頬には、まだ熱い煙草がかすめていった。

「っ、岸沼!」
「調子乗ってんじゃねぇよ! 女たぶらかしてないと生きていけねぇくせに!」

 どうやらサイカさんとやらは男を狂わす天才だったのかもしれない。僕には女性一人でこうも人間が暴力的になるというのがやっぱりイマイチぴんと来ない。
 ただ、不良の言葉に体の芯が一瞬猛烈に冷えたのを感じた。自分の体の異変に違和感を覚える。

「そうやって女を頼らないと飯すら食えないんだろ。便利だよなぁ、その顔」

 耳障りなその声がひどく不快だった。僕はほとんど考えずに動いていた。
 公園の隅には、きっといつか処分される予定で忘れられた鉄パイプが転がっている。そんな錆びた鉄パイプを手に取ると、僕は不良に近づいた。存在感の薄い僕の異変に気がついたらしい不良が、相変わらず頭が悪そうに笑い声を上げた。僕より頭悪そうだ。

「なんだよ、どうしたんだよボク。そんなもの持ってたら危ないよ」
「ていうか大丈夫? 手プルプルしちゃってるし。無理すんな?」

 ぎゃはは、という笑い声が耳にうるさい。岸沼も大概下品に笑うけど、こんなに人を不快にさせる笑い声じゃない。
 岸沼が慌てて僕の腕を掴んだけど、いつも強引な岸沼のその弱気な力に僕の勢いはむしろ増すばかりだった。ほら、やっぱり嫌なんだろ。岸沼だって傷つくんだ。誰だって嫌な思いなんてしたくない。
 灰色の空の下、小さな子どもが遊ぶために作られた公園に謎の形をした遊び方も分からないコンクリートの遊具がいくつもある。

 僕は秩序が好きだ。

 ガツン、と音が響く。団地の中の公園で、その音は綺麗に反響していった。
 訪れた沈黙が気持ちいい。ほら、やっぱり雑音じゃん。後ろで岸沼が息を飲む音が聞こえた。お前は好きなだけ笑っていて。その声が聞きたいから。いらないのはこいつらの下品な声だ。

「な、ななななんだよこいつ!?」
「かっ、川邑くん」

 鉄パイプは少し重かった。そりゃ筋力の欠片もない僕のことだ。こんなものそんなに長い間持っていられない。だいたい、錆びているものだから手のひらだってちょっと痛いのだ。肩も痛い。もともとハンドボール投げですら10メートル飛ばない弱っちろい肩なのだ。つくづく野球だとかをする人間はおかしい。

「く、くく来るな! 来るな‼」
「…………うるさいな」

 そろそろ僕の肩も限界だ。腕を下ろし、パイプを引きずる。なんでこいつら逃げないんだろう。あぁ、最近よく見るアレか。僕に都合がよくって、それでいて理不尽なアレ。岸沼は言っていたっけ。結局、幻想世界の絶体神はその夢の主なのだと。

 はぁ、と息を吐く。ほら、やっぱりなんにも都合がよくないじゃない。僕は今こんなにも不快な気持ちになっている。
 視線の先では、僕のことを見上げる不良たちがいる。変な顔。岸沼にあることないこと言って傷つけたのはお前らじゃないか。なんでお前らがそんな顔するんだよ。

 僕は情けなく震える不良を見下ろしてその醜態にちょっと笑うと、思い切って鉄パイプを振り上げた。

「いけない川邑くん! これは夢じゃない‼」

 後ろで岸沼が絶叫していたが、僕にはなんと言っているのかよくわからなかった。




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