← 6/7 →
なんとなく、夢だなと思った。あまりにも心地よかったから。
図書室だった。僕一人。
空気のこもった、それでいて陽射しに浄化されたような空間。差し込む光にほこりが輝いていた。電気はついていない。僕は本を手に、図書室の大きな机に座っていた。
何を考えることもなく、ページを捲る。文字はどこか滲んだようにはっきりしなくて読めなかった。ただ紙をめくる音が響く。誰もいない図書室で、背後のカーテンが揺れる。日差しが眩しく、僕の背中は暑かった。
裸の男女が絡み合ったイラストが目に映る。ページを捲る手が止まる。
「岸沼」
僕が囁くように言うと、ふふ、と笑う気配がした。
顔を上げると、無人だった図書室は僕と岸沼の二人になっていた。机の向かいに座る岸沼が頬杖をついて満足気にほほ笑んでいる。
「なぁに?」
楽しそうだね。ぼぉっと岸沼を眺めてしまう。光に逆らい、岸沼の顔は半ばシルエットのように見えた。岸沼には逆光になっている僕のことがちゃんと見えているのだろうか。
「別に。呼んだら来そうな気がしたから」
「よく気がついたね」
岸沼はどこか超然としていた。それはいつもそうなのだけど、殊の外時間の概念がないここに至ってはその気が増す。むしろ濃密に、岸沼の不気味とも呼べる気配が立ち込めていた。
「僕の夢なのに都合がいいね」
「だからだよ。俺は川邑くんが望むようにしかなれないよ。幻想世界の絶対神はその夢の持ち主だから」
「不便なものだね」
本に視線を落とす。はっきりと文字が読めた。
そうだ。淫魔は人間の男性から精液を奪って、それを持って人間の女性と性交する。それなのに、夢の中で全権を握るのは淫魔の彼らではないらしい。
「だいぶ効率悪くない? わざわざ夢に入っても精液をもらえるかは博打ってこと?」
「まぁね。でも大抵うまくいくんだよ」
そりゃその美貌だものね。
「でもなんで僕の夢に男の岸沼が現れるんだよ」
「だって川邑くん、俺じゃなかったらどうするの。そもそも俺が美少女になって現れたら相手してくれるの?」
「まぁ……道案内くらいは」
「ほら。絶対勃たないじゃん」
別に岸沼だから勃つって話でもないんだけど。
岸沼は別にセックスしたいわけではないように見える。ただ精液が欲しいっていうだけ。挿絵の男女の性交にはゾッとするのに、岸沼のその不健全で健全な願望に嫌悪はない。
「セックスって気持ちいい?」
「人によるんじゃない?」
「そういう答えが一番ムカつくんだよ」
「怒んないでよ、ごめん」
余裕そうに岸沼が笑う。睨めば余計に目を細めた。
「相手との関係による」
「なにそれ」
「俺が川邑くんのことが大好きで、川邑くんも俺のことが大好きだったら、たぶん死ぬほど気持ちいいよ」
「そうなんだ」
岸沼の手が伸びてくる。本に添えていた指を撫でられた。指先からすっと、ゆっくり、岸沼の指が伝う。僕はその様子を見下ろした。
「この間は? 川邑くん、出してくれたよね」
「あれはちょっと、気持ちよかった」
「へぇ、ちょっとかー」
岸沼の瞳にハートが浮かんでいたのを思い出す。意外とちゃんと思い出せた。夢の内容って夢の中でも思い出せるんだ。
「僕の精液どうしたの」
見ず知らずの女になんか渡してないよな。
岸沼は派手な女性と歩いていた。援交っていうんだろ? 僕もちょっとは調べたよ。羽柴の言う通り、本当にちゃんと規制されてた。お前、本当に何してるんだよ。ご飯が欲しいの? そんなの僕が作るのに。犯罪になんて手を染めやがって。それとも、やっぱり女じゃないとダメなの?
お前、あの人とセックスなんかしてないよな。
じりじりと胸の奥で不快な何かが渦巻いていた。気持ち悪い。
気持ち悪さに耐えるようにして岸沼を見据える。それは睨みつけているように見えたかもしれない。岸沼は僕を見据えて不敵に笑うだけだった。
「ちゃんとここにあるよ」
ちょっとだけ首を傾げて、片手でお腹をさする。僕の手をきゅっと握った。大きな手だった。
「見せてみて」
「もう飲んじゃったよ」
「まだあるんでしょ」
「うん」
「もっと欲しい?」
「そりゃもちろん。そのために来てるんだから」
銀色の光が目を刺した。思わず目をつむる。ゆっくりと目を開けば、よく研がれたナイフが机に置いてあり、それが光を反射していた。いつの間にか真っ白のテーブルクロスが布かれている。
図書館の大きな机は食卓になっていた。それも貴族の晩餐会のようなきらびやかなものだ。ナイフもフォークもある。お皿もいっぱい。だけど、ここは依然として図書館のようだった。僕の想像力の限界なのかもしれない。
「岸沼、おいで」
僕よりもしっかりとした男の手を引くと、岸沼は思ったよりも簡単にこちらに動いた。岸沼を食卓の上に寝かせる。僕はその上にまたがると、手近なところにあったナイフを手に取った。ただのカトラリーだ。切れ味はよくないかもしれない。刃を透かして見る。僕が映っていた。凡庸な顔。こんな綺麗な男と並ぶにはあまりにもそぐわない。
僕の下で岸沼が一瞬、ビクッと震えた。僕はどうしても確かめずにはいられなかった。
「川邑くん……君、つくづくサイコパスだよね」
呆れたように岸沼は笑っていた。ちょっとその笑顔は引きつっている。おどけてみようとするものの、怯えているようだ。
「俺、ちょっと想像ついたよ? おれのこと切り刻むんでしょ。もう何回殺せば気が済むのさ」
何を言うのだ。確かめるだけ。本当にまだそこに僕の精液があったなら、いくらでも、直接注いであげる。
「岸沼」
僕は静かに、岸沼の喉元にナイフを当てた。
「じっとして」
カーテンがたなびき、光が直接差し込んだ。直射日光にさらされた岸沼の瞳孔が小さくなる。一層、不思議な色の瞳が大きくなった。綺麗だった。
意外にも切れ味はよかった。解剖用のメスでもないのに、ステーキを切るよりも突っかかることなく肌が切れる。
岸沼の胸から腹にかけて、一本の赤い線ができた。滲んだ血を見下ろす。相変わらず彫像のように綺麗な体だった。皮膚の下に埋まっているものを想像して、僕はごくりと唾を飲み込んだ。岸沼の喉仏が上下する。
「岸沼」
まばたきをした拍子に、岸沼の長いまつ毛にこぼれた涙がのっかった。僕はそれを拭ってやって、そのまま指の背で岸沼の頬を撫でた。
体を倒すと、岸沼の涙の跡に軽くキスする。しょっぱかった。耳元も軽く食むようにして口をつける。
「開くよ。ちょっと痛いかも」
「……」
岸沼は何も言わず、ただ口をちょっとはくはくと動かした。岸沼の体が少し力むのがわかった。怯えているのが伝わって、なんだか愛おしく思えた。
大きくメスを入れている。流石に岸沼ほど体格が良ければ、胸筋が邪魔だった。胸を綺麗に開くのは難しいかもしれない。別に僕は医者じゃないし、慣れてもいないのだ。やりにくいが傷はつけたくない。こんなに綺麗なのだから。
「もうちょっとメス入れる」
「……それ、ただのナイフね。ただの食器だから。人切るためのもんじゃないんだよ、川邑くん」
掠れた声で岸沼が返す。流石に悪魔だ。もし自分の胸が医者でもない人間に割かれていたら、僕は一言も話せないだろう。
僕は驚くほどの集中力で岸沼の胸にナイフを入れていた。肋骨だか胸骨だか、わからないけれど、骨に癒着している筋肉を剥がすことに苦戦していた。あぁ、しかも心臓が動いてる。揺れてうまくできない。
「ちょっと心臓止められる?」
「無理に決まってんだろ」
「そんな無茶言うなよ」
傷でもつけたらどうすんだ。ちら、と岸沼の顔に視線を向けると、唇を薄く開いて、天井に目を向けていた。ベッドに沈み込むように机に倒れ、シャツをはだけられ、人形のように放り投げられた腕はぴくりとも動くことがない。
僕がさっきナイフを持って動いたからか、真っ白のクロスには点々と赤い血が飛んでいた。まだ酸化する前の鮮やかな赤。岸沼の色素の薄い髪が広がっている。虚ろな目。絵画のような男だった。僕は血の付いた指を岸沼の唇につけてみた。蒼白な顔にその赤は不気味なほどよく映えた。
手元に目を落とす。太陽の位置は変わらない。それでも穏やかな風は流れていた。たなびくカーテンの隙間を縫って、白い光が細く届いた。
きらきらしている。川面のように、赤と、白と、黄色と。僕の語彙じゃ言葉にできないや。
「……こいのぼりみたいに綺麗だよ」
「感性が独特すぎるよ。俺、こいのぼりを綺麗だと思ったことない」
慎重に、手を入れる。温かい。ような気がした。夢の中の温かい温度。ちょっとの間、岸沼の中に指を突っ込んでぼぉっとしてしまった。
「……っ」
岸沼が音もなく呻く。心臓の鼓動を感じた。岸沼の心臓が僕の指先を、皮膚を揺らしている。
じわり、と指を動かす。ゆっくりと、絶対に傷つけないように。
僕はどんくさいわりにナイフを扱うのはうまいみたいだった。左胸を大きく開き、肋骨が覗いた。
乳白色の檻に守られた真っ赤な――
「あ……ははっ」
思わず声が漏れた。自然に持ち上がってしまう口角をどうすることもできない。
心臓が動く度に胸骨を叩く。その心臓は内側から発光するように仄かな赤い光をたたえている。突然笑い始めた僕のことを、岸沼はどんよりした顔で見ていた。
「もぉ……なに」
「岸沼、淫魔の心臓ってハート型なんだね」
かわいい。
そう思ってふふっと笑えば、顔面を青い顔をした岸沼が力なく口を歪めた。
「知らねぇ……」
「えっ、そうなの。見てみる?」
「川邑くん……自分の心臓見たことある?」
「あるわけないじゃん」
「俺もだよ。初めて知ったよ。ハート型なんだ……はは」
脈打ってる。ハートの形をした心臓を見つめてうっとりと笑った。
「恋してるみたいだね」
「胸も張り裂けてるしね」
岸沼を見て、僕はくすくす笑った。
「川邑くん……」
死にそうな岸沼が手を揺らした。持ち上げることはできなくて、それは震えるだけだった。僕は、岸沼の投げ出された手に手を重ねる。岸沼の血がべっとりとついてしまった。
「約束、守って」
唇の端に、さっき僕がつけた血をつけて、岸沼は僕を見つめる。
岸沼の顔には僕の影が落ちている。目元はいつもより赤くなっていた。僕が集中している間に、また泣いていたみたいだ。流石に可哀想なことをしちゃったな、という気持ちになる。
僕は妹が転んでしまった時のように、岸沼の頭に手を当てた。ゆっくりと撫でてやる。柔らかい髪すら繊細な芸術品のようだった。
「でもまだ見つけてない」
「また確かめていいから」
ぎゅ、と岸沼が眉をひそめる。重なった僕の指にきゅっと岸沼の指が絡みついてくる。
僕の手からナイフが落ちていった。危ない。幸い、それは岸沼の体を不躾に傷つけることなく、テーブルの上に落ち、赤い斑点を周囲に散らした。
うっかり開いていた口から唾液でもこぼれそうになった。ごくり、と飲み込む。体がずっと熱を持ったように疼いていた。
岸沼の目は、分かっているぞ、と言っているようで、僕を非難しているようだった。ナイフを持っていた手で岸沼の肩をつかむ。
ずっと岸沼の上に馬乗りになっていた僕は、自分でも無意識に、自分の腰を岸沼に押し付けていた。すっかりと熱く屹立した性器を刺激する度、ずり、と衣服の擦れる音がする。この間よりもずっと、刺激が気持ちよかった。
「ほら、やっぱり勃ってんじゃん。男の俺に、こんなことして、興奮して。自分の加虐性くらい認めてほしい……」
岸沼が何か言っている。そんなこと、もう僕には頭にも入らず、自分が前後に
動いてしまっていることを意識すればもうそれは止められなくなった。
「くっそー聞いちゃいねぇ」
「っ……は、ぁ」
岸沼のどこか暗い目。明るい虹彩なのに、光が入らない。それでもヘーゼルの瞳がこちらを見ている。
白い肌と、赤い血と、ピンク色と黄白色と、内側から発光する赤いハート。きらきらと光を反射する体の内側。
岸沼の目が細くなる。
「あっ……は、」
もとから馬鹿なのに、僕の頭はぐるぐると回り始めた。もっと馬鹿になってしまうかもしれない。
「川邑くん、気持ちいい?」
笑いを含んだ岸沼の声にゾゾ、と腹の底から何かがやってくる。
「っ……き、気持ち、いい?」
これが? 僕は岸沼は思わず睨んだ。
名前を付けてはいけないものがある。名前を付けると認知できるようになってしまうから。
視界が回る。夢の輪郭は徐々に歪み始めていた。視界に映るきらめきがマーブル模様のようになっていく。
照らされた臓器に向かって、吐精したような気がするけど、僕の記憶はもうとっくに消えていた。
・・・?
岸沼は来なかった。
クラスが違うから、僕はそのことを昼休みに知った。いつもは僕の教室までやってきて連れ去られるのに、今日はいつまで経ってもやってこない。
トイレに行くふりをして岸沼のクラスを覗いてみた。去年同じクラスだった顔見知りに聞いてみれば体調不良で休みだと言う。こんなことは初めてだった。遅刻は多いけれど、意外と欠席は少ない奴だ。
大人しく一人で教室に戻っておにぎりを出していれば、羽柴と数人が僕の机の周りにやってきてお弁当を広げ始めた。
「岸沼くんは?」
「今日休みなんだって」
「へぇ。珍しいね」
みんなあまり興味がなさそうだ。僕は試しに作ってみた卵焼きを箸で掴んで、何度か落っことした。ようやく掴むことに成功した卵焼きを口に運んで、窓の外を見てみる。
久しぶりに雨が降っていた。強くもないが弱くもない。止む気配のないそれに肩が重くなるのを感じた。
「川邑?」
「雨なのにたそがれてる」
「声かけてやんな。たぶん寂しいんだよ」
はぁ、と小さく溜息を吐くと、小さめの水筒に入れてきた味噌汁をすすった。あったかくて美味しい。
「元気出せよ」
気がついたら僕の前には唐揚げやコロッケや春巻きなど、茶色いものでいっぱいになっていた。
「米ばっか食ってないで油食え」
「油揚げとか食べたよ」
「タンパク質を取りなさいよ」
そうか。タンパク質。
「そういえば」
精液ってタンパク質から出来てるんだよね。
そう言いそうになってハッとする。僕は今なにかとんでもないことを口走りそうになったぞ。
羽柴が首を傾げて僕を見る。僕はへらり、と笑うと誤魔化すようにして差し出された唐揚げを食べた。
あんなことを口にした日には、クラス中が10秒以上の沈黙になり、女子があまりのドン引きにクラスから出ていき、男子からは汚物でも見るような目で見られ、放課後担任に呼び出された僕は蔑まれた目で見られ、未来永劫誰からも受け入れられなくなる。そんなのは嫌だ。
「川邑ちゃん、いつもよりぼんやりしてる」
「雨だからじゃない?」
「いや、最近夢見が悪いんだよね」
「じゃあ寝不足?」
そういうわけでもないような気がする。寝てはいるし、むしろ目覚めはいい方だ。
昨日もなんだかすさまじい夢を見たような気がする。覚えていないけど。目が覚めた時、頭の中で脳みそをかき混ぜられているような感覚があった。そんな強烈な感覚を残しておいて、いざ起き上がると体はすっきりとしている。
どうせまた岸沼だ。目が覚める前の数秒の記憶の前に必ずある存在。
「毎日同じ人が夢に出てくる」
「あー、たまにある」
「えっ本当?」
「俺は最近、セクシーなお姉さんとデートしてる夢よく見る」
「いいな」
赤いミニスカに黒のタイツを履いていて、そこにばっかり目が行ってしまうから顔は覚えていないらしい。
「なんだそれ」
「そういえば昨日岸沼くんがそんな感じの人と歩いてたな」
うわ。
羽柴が同意を求めるようにして僕を見たが、僕は突発的な腹痛と胸痛に襲われていたからすごい顔をしていたと思う。
「えっ、大丈夫?」
「なに、吐く?」
「……大丈夫。ただの食中毒……」
「潜伏時間短っ」
「うそ、俺の唐揚げのせい?」
しばらくじっとしてみたが、あまりよくはならなかった。熱い鉛でも飲んだみたいで、それが胃や腸の中で暴れまわってるみたいだ。
僕は残ったおにぎりを包むと、心配してくれる羽柴たちに曖昧なことを言いながら教室を出た。身をかがめるようにして保健室に急ぐ。
腹の奥でうねりを上げているこれが何なのかわからない。気持ち悪いともお腹が痛いとも言えなくて、僕はちょっと混乱していた。
保健室に駆け込むとのんびりお昼ご飯を食べていた養護教諭が慌てて僕をベッドに寝かし熱を測ったりいろいろなことを聞いてきたが、そのどれにも僕ははっきりとしたことを答えられなかった。
意外にも目を閉じればすぐに眠りが訪れるのが分かった。現実と夢の境のような、体と意識のまどろみを感じる。その瞬間は確かに気持ちがいいのだ。
よかった。なんか調子、治ったかも。
僕は青空の下でそう思った。
網膜を焼き、刺してくるほどの快晴。鮮やかな青。こんなビビッドな青色の空なんて見たことがない。いや、意外と霞んでいない青空ってこういうものかもしれない。
いい天気。空気が美味しい。日差しが温かい。むしろ熱い。頭が焼けそう。青に緑。原色といえるほどの草原。視界がぱっきりと二つに分かれている。一対一。地平線まで続く草の緑と空の青。目が回る。白黒。
つぶらな瞳がこちらを見ている。白黒。牛だ。大きい顔。口元が横にニチニチ動いている。僕を見ている。口が動いている。横に。左右に。口から草がはみ出ていた。青い草。緑の草。僕を見つめる湿っぽい瞳。瞳の粘膜が太陽にきらめいて、尻尾が揺れた。ぺちん、と音がなる。音が聞こえた。ア、と小さな声。大きくなる。小さくなる。ライブ会場の前を通り過ぎるような、小さな歓声。いや、悲鳴。口から草がはみ出ている。牛は僕から目を離さない。草じゃない。柔らかい糸。トウモロコシのひげ? 悲鳴が遠のく。また近くなる。口が左右に揺れる。岸沼の髪が横からはみ出る。
「うわあああああ‼」
岸沼だ。岸沼だ! この牛、岸沼を喰ってやがる。
「何してんだよ‼ 出せっ! 吐け! 今すぐ戻せ!」
僕は牛に勢いよくぶつかり、懇親の力で殴りつけた。びくともしない。
「岸沼! きしぬまぁ!」
どすどすと牛の腹を叩く。牛は相変わらずとぼけた顔で岸沼を臼歯ですりつぶしていた。何度も。何度も? もう岸沼の形などしていない? 反芻して、反芻して、反芻して。
何をしてるんだよ、この牛!
腹の底から煮えたぎるような衝動がやってきて、僕は気が狂ったように牛を叩きまくった。意識が飛んでいた。いつの間に僕はナイフなんて持っていたのだろう。
目が覚めるほどに青い草と真っ青の空の下、僕の周りはどす黒い血の海になっていた。
呆然と立ち尽くす。眩暈がした。全身から力が抜けていくのが分かる。視界に空が映り、徐々に上に向かう視線が太陽をとらえた時、僕は白目をむいて倒れたのだと分かった。
・・??
鳥の鳴き声が聞こえた。それもかわいいやつ。チュンチュン、とかピーヨピヨヨヨみたいなやつ。歌ってるみたいな喋ってるみたいな、機嫌のいいやつ。
温もりに包まれていて、目を瞑っていても辺りに光が満ちているのが分かる。布の擦れる音がした。誰かが僕を窺っている。見守っているかのような温かい空気を感じた。胎内で眠っている時を思い起こすような幸福の気配に、目を開けたくなくなった。きっと現世と繋がれば、ただちのこの幻想に包まれた美しい世界は干からびていく。
いい匂いがした。僕はまだまどろんでいた。
ふふ、と笑う声が聞こえた。なぁんだ、と思う。
僕は目を開き、ベッドに腰掛けていた岸沼に手を伸ばした。柔らかく笑った岸沼が僕の手を取る。
「起こしちゃった?」
「ううん。起きてた」
「気持ちよさそうに寝てたね」
「うん。岸沼が出てきたよ」
「何してたの」
牛に食べられてた。
そんな言葉がパッと頭に浮かんで思わず固まった。そんなこと本人の前で言うもんじゃないし、脳裏に焼き付いたあの光景をわざわざ思い出したくもない。
口を半開きにしてポカンと岸沼を見上げる僕に、岸沼が促すように目を瞬いた。
「いや、忘れちゃった」
「まぁそんなもんだよね。夢なんて」
岸沼は少し口を歪めるようにして笑うと、柔らかい動作で僕の肩を押し倒した。柔軟剤の匂いがするシーツに倒れ込む。岸沼の影が落ちて、視界が薄暗くなった。
「岸沼?」
真上にいる岸沼を僕は意味も分からず見上げることしかできなかった。
「君はなんだって毎夜俺を殺すんだ」
囁くようでいてどこか疲れた岸沼の声。枕元に投げ出された僕の手を掴む岸沼の手に力がこもった。僕は相変わらず意味がわからなくて、ただぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「俺だって川邑くんの精液がもらえるならちょっとくらい痛い目見ても我慢するけどさ。でも、もう体が間に合わないっていうか。現実に響くっていうか、怖いっていうか」
意味の分からないことをぼそぼそと続けた岸沼は、ちょっとだけ目元を歪めて首を傾げた。
「川邑くん、もしかして俺のこときらい?」
そんな顔するなよ、とつい手を伸ばしそうになったが、岸沼に動きを封じられているせいでそんなこともできなかった。ただ首を横に振った。
「やっぱりお昼? 嫌われるくらいならもう川邑くんのおにぎり食べたいなんて言わないよ」
いったい何を勘違いしているんだろう。僕はもう一度首を横に振った。岸沼は笑ってはくれなかった。
「俺は夢の中で大したことはできないよ。結局は川邑くんの手の平の上にいる。全部、君の意志だよ」
全部、夢。僕の意志で思い通りになる世界。
そうでもない。
夢なんて理不尽。だって、さっきまで岸沼は僕の夢の中で牛にすりつぶされてたじゃないか。そんなことを僕が望んだとでも言うのか? そんなわけないだろ。僕があの光景を見てどう思ったか分かるのか?
灼けるような陽射しと目に刺さる青と緑を思い出す。全身がカッと熱くなった。
「岸沼。お前、僕がお前のこと嫌いだと思ってるの?」
「だって、嗜虐的すぎるんだよ」
「じゃあなんで毎日お前と飯食ってると思ってるんだよ!」
「俺は強引すぎるし川邑くんは流されすぎるから」
「ふざけるなよ!」
なぜかとてつもない衝動で頭に血が上った僕は、あり得ない力で岸沼の拘束から逃れるとまっすぐに手を伸ばした。
視線の先で岸沼が顔を歪める。いつだって整った顔が精緻に歪み、シンメトリーが崩れた。なんでこんなに感情的になっているのかわからなかった。混乱していた。僕が一番僕の感情に追いつけていなかった。ただ、なぜだか無償に悲しくて、腹が立って、そのあまりの激しさに僕は岸沼の首を思い切り締め上げていた。
悔しい。馬鹿みたいだ。僕だけの独りよがりなのか?
脳裏に岸沼のいろんな姿が浮かんでは消える。頬を赤らめてうっとりと笑う岸沼。いつの岸沼だっけ。おにぎりを頬張ってにっこりと笑う岸沼。ずぶぬれになって青ざめた岸沼。毛穴すら見えるのではないかというほどの距離で僕に笑いかける岸沼。宝石のような臓器を外気にさらして僕を見つめる岸沼。知らない女と腕を組んで歩く岸沼。
カハッと岸沼が息を漏らした。真っ赤な顔で僕に抵抗しようとして、ハッとしたように動きを止める。
僕の頭はぐちゃぐちゃだった。記憶の中の岸沼の赤い血と、これもまた記憶の中の女の赤いスカートがちらつく。炎天下の下でこちらを見つめる牛と、太陽の熱で沸騰する頭。日差しの眩しさが、女を思い出した時の激しい衝動と重なった。
頬を流れる涙が止まらない。馬鹿って駄目だな、と虚しく思う。どうして自分がこんなにも泣いているのかも言葉にできないし、どうしてこんなに怒りが湧いてくるのかも言葉にできない。
岸沼が僕に向ける感情には好意を読み取れない。岸沼と腕を組む女を思い出した時、僕は無我夢中で牛を殴っていた時のあの衝動が、お昼休みに感じた謎の気持ち悪さと同じものであることに気がついた。
そうして、ようやく自分の感情に整理がつき始めた時、僕はぐったりと倒れて息をしない岸沼に気がついて悲鳴を上げた。
← 6/7 →