5話 迷妄モラトリアム


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 いつの間にか雨が上がっていた。
 教室に差し込むのは、もう日が沈む直前の眩しい夕日。隣に座るのは、やけに機嫌よく小学生みたいなあどけなさで笑う先輩。
 
「………あ〜」
「えへへ、だいじょうぶ?」
「……あんた、すごいな…」

 童貞藤崎千紘のはじめてをもらった処女久世谷は、疲れ果てていた。気力、体力、精力全てを貪りつくされた。とてもじゃないけど、受けをやり続けるのは俺にはできそうにない。それを思うと、今までの先輩の体力ってすごいもんだったんだな、なんてまわらない頭で思っていた。セックスで腰が立たなくなることってあるんだな。何がきついって…何だろう。体勢?衝撃?

 果たしてこれは快楽だったのだろうか。これはもはやスポーツの類。
 
「俺は今感動してるよ!攻めって偉大!まだまだイケるぜ!」
「俺のケツが壊れる」
「そんなこと言わないでよ〜俺のケツ貸してあげるから〜」
「俺のちんこがちぎれる」

 まぁ結論は結局同じところに行き着くのだ。

 先輩が良いなら、先輩が望んでいるなら、残念ながら俺は付き合う。やめてくれ、なんて思ったところで、体が言うことを聞かないのだから。
 
「…あのさ、久世谷くん」

 若干掠れた先輩の声は静かで、穏やかで、聞き心地がよかった。普段は先輩が俺の肩に頭を預けるけど、今日は体がだるすぎて俺が先輩によっかかった。骨ばった身体は枕として快適なわけではない。
 
「…なんですか」

 目をつむれば、そのまま眠入ってしまいそうだった。教室に差し込むオレンジ色の光が温かくて心地よい。
「今まで…ごめんね」
「なんで謝るんですか」
「俺が謝りたいから」

 先輩は俺に謝るようなことなど一つもしていない。床に垂れた先輩の手に、自分の手を重ねた。俺の手が熱すぎるのか、先輩の手はどこかひんやりとして気持ちがよかった。
 
「あんな関係から始まったことは変わらないけど、俺本当に久世谷くんのこと好きだよ」
「…そすか」
「だから……これからも、仲良くしてね」

 最後に何と言うべきか迷ったのか、先輩は自信なさそうに小さくそう言った。
 
「もう先輩、呼ばれても俺以外の人とシちゃ駄目ですよ」
「やらないよ!」
「ちゃんと断れるんですか?」

 ちらりと横目で先輩を見れば、その瞳はどこかずっと遠くを映していた。

 複雑な気持ちは今もある。しかし事実は変わらずとも、過去にはなる。思い出せないくらい上書きして、塗りつぶして、嫌なことを苦しくないものにする。

 先輩はしばらく口を結んで黙っていたが、やがて弱々しい声で呟いた。
 
「一つだけわがまま言っていい?」
「なんでも聞きますよ」
「俺のこと好きでいて。俺が必要って、ちゃんと伝えて、不安にさせないで」

 とんでもないわがままだ。笑っちゃうくらいに、呆れるくらいに、どうしようもない。

 せいぜい目移りされないように、顔面のスキルでも上げようか。見返りなんて求めない。先輩はいつもみたいに気まぐれで俺に構ってくれていたらいい。

「好きですよ。千紘先輩じゃなきゃダメなんです」

 重ねた手に力をこめる。ずっと、だとか、これからも、だとか不確かな言葉は嫌いだ。そんな薄くて安い言葉は口にできないけど、先輩と過ごす時間が変わらないものであればいいと思う。そして少しずつ、誰よりも近い存在になれたらいいと思う。

「だから先輩は俺の好意の上に胡坐でもかいてたらいいです」

 先輩の骨ばった身体じゃ、肩の骨が当たってあまり快適じゃない。だるい体を引きずって、立ち上がろうかと思ったが、途中で力尽きた。そのまま先輩の太ももをまくらに横になる。この人太ももまで筋肉でかったいな。小柄なくせに。

 先輩の妙に震える腹筋を不思議に思って上を見上げたら、先輩は泣きそうな顔でクスクスと笑っていた。なんというのか、器用な人だ。

「はは……君のそゆとこ、好きだよ。ほんと図太いよね。俺のこと何考えてんのか分からないとか言うけど、久世谷くんも大概分からないよ」
「まぁいいじゃん。俺、友達も大していないし、きっと誰も知らないよ」

 日が沈むまで、きっともう少し。眩しい光の高さがずいぶんと低くなっている。ぐにぐにと俺の頬をいじる先輩の腕を掴んで、重い体を起こして立ち上がった。

「帰りますか」
「うん、そーだね」

 軽やかな声でそう答えると、先輩はいつものようにきゅっと目を細めて笑った。


おしまい
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