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 ゆっくりと視線を上にあげれば、今日も今日とて美しい、まるで全人類を許す女神のような笑みを浮かべた汐が立っている。
 ついさっきまで外の日差しに当たっていたなんて考えられないくらい涼し気で、あんな目をしていたなんて思えないほど穏やかな目をして。
 空恐ろしい笑顔だった。

「……相楽?」

 箱川が訝し気な声を上げる。汐は変わらずほほ笑んでいた。細められたその目がどこを向いているのかはわからない。箱川に握られた手が小さく震えた。
 すぐに箱川は汐を見上げていつものように凄んだ。見ていてひやりとするような目つきなのに、汐は笑顔のまま首を傾げる。睨みつける箱川の肩に汐の指が食い込んだ。

「……んだよ、テメー」
「なに、触ってるの?」

 汐の視線がおもむろに箱川の手に向いた。俺の手を握る箱川の手にほんの少し、包み込むような力が加わる。かさついた肌触りに温かい体温を感じた。
 そんな温かさに反して背筋が凍る。汐が怖い。いつもの汐とも、さっき屋上で見た汐とも違う。
 相変わらず汐は穏やかにほほ笑んでいた。息の吸い方を忘れたように不自然な呼吸を繰り返して、生理的に流れそうになる涙を必死にこらえる。箱川の眉間にきゅっとしわが寄った。

「は?」
「……きたねぇ手で触ってんじゃねぇよ」

 それは一瞬だった。
 恐ろしく低い声で呟いた汐が箱川の肩を強く引き、バランスを崩した箱川が尻もちをついて倒れ込む。そこに汐が容赦のない蹴りを入れた。

「っ……!」

 すぐさま起き上がろうとする箱川に、させまいと汐が強烈な蹴りをまた入れ、みぞおちにはまったらしい箱川が息をつまらせる。
 俺はその光景を目を見開いて見ていた。体が動かなかった。汐にそんな力があったなんて思いもしなかったし、自分が今何を見ているのか、何が起こっているのか分からなかった。

 何だよ。誰だよ。汐……?
 頬がひきつったように歪な収縮をする。

「っゲッホ……」
「箱川くん、君。誰に何してるの?」

 汐が一歩、箱川に近づいた。また蹴りを入れるような、そんな気配を感じたとき、とっさに立ち上がっていた。

「汐っ!」

 箱川の体が九の字に折れる。箱川を踏みつけた汐がゆったりと顔を向けた。目が合えば愛しいものでも見るかのように優しく微笑む。どこか熱に浮かされたような異様さを感じた。そんな顔を見てぞくりと腹の底が竦む。

「……なぁに? 雪ちゃん」

 汐が笑ったのも束の間だった。屋上でみた煽情的な顔とも違う。凶悪な獣のような顔になって箱川を見下ろす。箱川は呆気にとられた顔で汐を見上げていた。そんな箱川に一瞬美しく微笑んで見せると、汐が箱川を蹴り飛ばした。

「やめっ、汐! 汐やめろっ!」
「どうして?」
「汐!」

 箱川の前に飛び出して汐を睨みつける。体が小さく震えていた。汐が怖い。さっきの園田のことだって頭から離れない。あれは本当に汐だった? じゃあ、今目の前にいる汐は誰なんだ。

「……汐」

 ただ睨みつけていれば、緩やかに上がっていた汐の口角が徐々に下がっていった。やがて完全に表情が消える。なんだか泣きそうになった。
 俺は知らない。こんな幼馴染を知らない。

「……」
「なに?」
「……っ」
「! あぁ、泣かないで雪ちゃん」

 汗が流れるように、頬が温かいなにかで濡れた。ぴくりと震えた汐が咄嗟に手を伸ばしてくる。その指が頬に触れるとき、思わず後ずさってその手を振り払っていた。

「っ……雪巳」
「え……いや、ちがっ汐」

 何が起きたか分からない、そんな顔をしていた汐の手がだらりと垂れた。その手と俺の顔を愕然とした顔で交互に見て、ひきつった笑みを浮かべる。

「雪巳、がいいなら、それでいいんだよ……俺は、いつでも。そうだよね……いい、よね……」

 掠れて乾いた声をとぎれとぎれに上げ、すっと汐が後ろへ一歩下がった。
 チャイムの音が張り詰めた空気を壊すように響いていく。
 汐がゆっくりと目を伏せ、長いまつ毛が影を作った。血色感のある白い肌を真っ青にして、そのまま倒れていきそうな顔色で背中を向ける。

 廊下には上履きが床を擦る微かな音が鳴り、やがてそれも遠ざかっていった。

 あとには抜け殻のようになって立ち尽くす俺と、腹を押さえて呆然とする箱川だけが残された。




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