「あれ? 甲斐田くんは?」
部屋の中をぐるりと見渡して、肩に背負ったスクールバッグをソファの定位置に置きながら、一言。その隣に座っている加賀美が書類から剣持に視線を上げる。
「おかえりなさい、剣持さん」
「もちさんおかえり〜」
「ああ、ただいま。で? 甲斐田くんは?」
また研究? とは思いながらも言葉を続ける事はしなかった。
剣持が学校から帰ってくる頃には、余程の事が無い限り全員で集まっているのが暗黙の了解だったから、甲斐田の不在を疑問に思うあまり挨拶よりも先に口から飛び出してしまった。
研究熱心な甲斐田の事、一つでも対象を見つければ時間も忘れて部屋に篭もる事は良くあるが、最近は比較的落ち着いていたはずだ、と剣持は振り返る。
「甲斐田さんなら研究に必要な資料を求めて買い物へ行きましたよ」
「集め尽くしたって言ってなかった?」
「それがまだ残っていたようで」
剣持の疑問に答えた加賀美は再度書類に視線を戻す。横から覗き込めば最近受けた依頼の資料をまとめている様だった。さすが組織のトップ、真面目である。
加賀美の向かい側に座りスマホを弄っていた不破がでも、と口を開く。顔は画面から上げられており、その先は時計を見つめている。秒針が数回音を鳴らしたあと、不破は神妙な顔をして加賀美と剣持と顔を合わせた。
「甲斐田、遅ない?」
「……確かに。出掛けてから一時間ぐらい経ってますね」
現在の時刻は午後七時。季節は秋。剣道部の剣持が部活動を追えて帰ってくる時間帯、という事は、それなりに外も暗くなっている。特に甲斐田はその性質からして夜の一人歩きをしないよう口酸っぱく言い聞かせてきた人物であり、二人が見送ったのも直ぐに帰ってくるだろうと見当をつけていたからだった。
――嫌な予感がする。
全員が口を閉ざした中、皆の気持ちは同じだった。
「甲斐田ァ!!」
「もうほんと! ほんとに! なんですぐに巻き込まれるの!?」
「あのアホを迎えに行ってやりますかぁ」
座っていた二人が立ち上がり、剣持は竹刀袋を握り直す。
そうして戸締りをする暇もなく、三人は事務所を飛び出した。
甲斐田は焦っていた。
見知らぬ黒服を身にまとった男数人を後ろに置いて、知らぬ土地を駆け抜ける。黒服達は人がいようがいまいが関係なく大声で甲斐田を呼び止め、しまいには銃すら取り出す始末。なんとか魔法を使って防げているから怪我はないものの、甲斐田はいつになく焦っていた。
なぜなら甲斐田には体力がない。争い事の際は後衛としてサポートをしているので、必要最低限の体力を作らなくてもよかった。
全力で走り回っている上に魔法だってもう何度も使っている。そろそろ体力も尽きて足がほつれだす頃だった。
肩で息をしながら右に曲がり左に曲がり。途中行き止まりに当たらなかっただけ運がいいのだろう。
街の人間も誰かが追われている光景は日常茶飯事なのか気に止める事もしない。ただ巻き込まれないように道を開けて知らんふりするだけだった。追われている甲斐田も他人を巻き込みたくないのか、助けを求めることはしない。求めたところで、ではあるが。
軽く一時間ほど追いかけ続けている黒服達の体力は無限にあるのかと問い質したいほど、彼らの足の速さは変わらない。対する甲斐田のスピードは着実に落ちており、捕まるのだって時間の問題だった。
なんせ土地勘もない。隠れられる場所なんて、甲斐田が知るわけもなかった。
追いつかれるが先か、甲斐田の体力が無くなるのが先か。
(ああもう! しつこいなあ!)
カーディガンのポケットから紙を一枚取り出す。音には出さず口の中だけで呪文を唱えると、そのまま紙を手放した。和紙のような素材で出来た長方形の紙は、簡単に風に乗って甲斐田の視界から消えていく。
どうか、どうか彼らに届きますように。
(そろそろ捕まりそう……つかれた、むり、もう走れないってぇ……)
彼らに助けを求めるために使った魔法を最後に、全ての魔力を出し切ってしまった。
そもそも、本来の魔法使いとは、魔法を使用する際には立ち止まり詠唱をする必要がある。それは己の生み出す魔法を確実に成功させる為であり、集中する為でもあった。
甲斐田は己の努力と生まれ持った才能でそのどちらも不要にすることができたが、その分デメリットはあった。――正式な手順を踏んだ魔法よりも効果が低くなるか、魔力の消費が激しいか。流石の甲斐田もそのデメリットまでかき消すことはできないでいる。故に、甲斐田は基本的に一人で行動することが許されていなかった。三人との口約束みたいなもの。だけど、それをしっかり守るのが甲斐田、のはずだった。
(油断したなあ……)
大丈夫だとタカをくくっていた。
目的地はよく知る古書屋だったし、住んでいる場所からも近い。スムーズにやり取りさえ出来れば三十分も掛からないだろうと、そう思っていた。実際、甲斐田を見送った二人もそう思っていたからこそ、付き添うこともせずいってらっしゃいと言葉を送ったのだ。
まさかこんな事になるなんて。
それは、全員が思うこと。
足がもつれて勢いよく傾く体を支えることすら出来ず、地面に転がっていく。スピードだけは出していたのでその分止まることが出来なかった。体のあちこちが地面とぶつかって、擦れて、衣服から露出している肌に傷が付く。
甲斐田が転んだことによりもう逃げられないと判断したのか、後ろの黒服たちは走ることをやめた。黒服たちが、近づいてくる。
急に動きを止めた体は呼吸を難しくした。浅い呼吸を繰り返すが酸素は上手く脳に行き渡らない。霞んでいく視界の中、気味の悪い笑顔を浮かべた一人が己に手を伸ばすのを見て、甲斐田は意識を落とした。
甲斐田晴は魔法使いである。
それは生まれた時から決まっていたことであり、変えることのできない事実だった。
親は魔法使いが生まれた事を大変喜び、大切に、丁寧に育てた。
しかし、魔法使いとは。
甲斐田の生きる現代において貴重な存在であった。
遠距離から攻撃ができるもの、味方を強化し、敵を弱体化できるもの。人間の想像を超えたなにか≠生み出せるもの。争いの耐えない現代では、夢のような人材だった。生まれてくる確率が低いというのも、狙われやすい理由の一つである。
つまり、味方に魔法使いが一人でもいれば、勝算はぐっと上がる。負ける未来が見えなくなる。
魔法使いというだけで、それだけの価値があった。そこに魔法使いとしての素質は関係ない。ただ、魔法使いとして生まれた、それだけで良かった。
それに加え甲斐田は勉強熱心である。本人は好奇心だと言うが、それにしたって資料の少ない魔法の事を調べ尽くし、かつオリジナルの魔法まで作れるようになるまでどれ程の時間がかかったのか、誰にもわからない。
甲斐田晴という男は、間違いなく、魔法使いのトップに立つ男だった。努力を積み上げてきた結果、誰よりも優秀な魔法使いへとなった。本人は、そんなことは無いと謙虚するけれど。
だからこそ、どの組織も甲斐田を狙う。
魔法使いであれば誰でもいい時代は終わってしまった。
甲斐田晴がいい。
甲斐田晴でなければ、意味が無い。
(くっら! なにここ暗い! 目隠し……はされてないみたいだし、腕の拘束だけか)
頭がズキズキと痛んでしょうがない。痛みで目が覚めた甲斐田は視界の暗さに驚いた。しかし慣れたものですぐに冷静さを取り戻し、今置かれている自分の状況を把握することが出来た。嫌な慣れである。
金属製の手錠で繋がれた両手は後ろで拘束されているが、足は自由に動かせる。目は隠されていないから、慣れれば薄らと部屋の中を確認することができるだろう。詠唱対策の為か口は塞がれているけれど、甲斐田にとってはどちらでも良かった。元々魔力を使い切ってしまったため今はもう魔法は使えないし、口が塞がれているぐらい、詠唱無しで魔法が使える甲斐田には意味をなさない。
だが、しかし。
(参ったなあ〜! ここどこなんだろ。あの人たちにメッセージ、届いてたら良いんだけど)
いかんせん、途中で魔力が尽きてしまったが故にきちんと届いたのかわからないのである。届けばいいと願いはしたが、現実は無情であることを甲斐田は知っていた。
周りに人がいないことは気配でわかっている。いつでも動き出せるように足を動かして、そっと目を細める。だんだん暗闇に慣れてきた瞳が、薄らと部屋の中を照らしていく。感じた気配通り人は誰もいないようだった。
どうやらここはコンクリート製の、小さな部屋らしい。窓は無いから恐らく地下。人が暮らすためのベッドや机はおろか、布一枚でさえ存在しない。あるのは手錠で繋がれた自分自身のみ。扉がどこにあるのかまでは確認することが出来なかった。
ひんやりと冷たいコンクリートは体を冷やしていく。出来るだけ接着面を減らそうと試みるが、手が後ろで縛られていては立てそうにもない。
助けが来ないとは思っていなかった。きっと誰かがなかなか帰らない甲斐田に違和感を持って探してくれるだろうと、そう信じていた。信じられるだけの年月は重ねてきたつもりだ。いくら普段いじられようとも、大切な仲間の一員であることは、身をもって理解しているので。
ただし探してくれることと見つけてもらえることはイコールでは無いことも、よく知っていた。だからこそ甲斐田は最後に便りを出したわけだし、その便りにはしっかりと甲斐田の居場所がわかるようにもしていた。
問題は、どれぐらい時間が必要か、ただそれだけだった。
この場所が彼らのいる場所からどのぐらい離れているのか検討も付かない。なんせ甲斐田は見知らぬ街を駆け巡っていたので。捕まった場所からでさえどの程度距離があるのか把握していなかった。
不意に、部屋の外から足音が聞こえてきた。革靴がコンクールを鳴らす音がよく響く。小さかった音は徐々に大きくなってきて、ぴたりと止まったのは、恐らく部屋の前だった。
ギィ、と古びた音がして、蛍光灯の光が部屋に差し込む。突然の光に目を閉じて、鳴らすように瞬きを数回。ゆっくりゆっくり光に慣れていく目は、そこに立つ人物に向けられていた。
突然現れた男は一歩、一歩と甲斐田に近付き、口元を覆っていた布を下にずらした。わざわざ喋れないようにしておいてすぐに外されるそれに呆気に取られるが、目の前には敵がいる。すぐに気を引き締め直した。
「おはようございます、甲斐田晴さん」
「誰ですか」
「貴方の部下になる者です」
「……ここは、どこだ」
「手荒な真似をしてしまって申し訳ありません、甲斐田晴さん。私たちは貴方を歓迎しています。私たちには、貴方が必要です」
甲斐田を捉えた人物と同じ黒服の男だが、見覚えはなかった。つまり追いかけていた中にはいなかった人物。丁寧な言葉遣いはねっとりとしていて気持ちが悪い。思わず背が震えてしまって、隠すように声を低くするが男は何も気にしていないように話し始めた。
歓迎する、という言葉通り両手を広げてにっこりと男は笑う。
抵抗をして、逃げ出すか否か。
逃げ出せる自信はなかった。体力はとうに底を尽きているし、魔力も同じ。この男一人をどうにか出来たとして、敵陣であることは火を見るより明らかで。
(歓迎も何も、無理やり連れて来といてそれは無い……)
結果、甲斐田は何もせずにただ男を見上げるだけに留めた。
何か男たちについて聞けたのなら御の字。聞けなくても殺されなければなんとでもなる。
「僕が必要って、どうして」
男は近くまでやって来たかと思うと、すっと膝をついた。座っている甲斐田と同じ目線に来た男は、笑みを絶やさない。
「甲斐田晴さん、貴方は最高の魔法使いです。皆が知っている、皆が欲しがる人材です。それは、貴方がよくご存知でしょう」
「そんな事ない。僕が魔法使いってだけでしょ、僕よりすごい魔法使いだっている」
「はは! そんなわけが無いでしょう。貴方がうちの組織へ来てくれたのなら、国のトップにだってなれる」
そんなわけが無いと、甲斐田は口の中で言葉を転がした。
希少価値のある魔法使いがいるだけで有利になる組織がたくさんあることは知っていたし、事実、こういったことは初めてではない。だからこそ、隙を突かれないように慎重に言葉を重ねていく。
「そもそも、貴方たちは僕を仲間に入れて何を果たしたいんですか」
甲斐田の質問に膝をついていた男は立ち上がり、よくぞ聞いてくれました!≠ニ謳った。
その場でくるくると周り、楽しそうに理想を口にする男の話は、本当に、ただの理想でしかなかった。真剣に聞くことすら馬鹿らしくなってくるようなその話は、つまり、要約すれば国を変えたいのだと。時折自分の主張を重ねるせいか長ったらしい話にはなったが、そういう事らしい。
国を変えるために甲斐田の力が必要なのだと謳う男の表情は恍惚としており、口には出さないが甲斐田は内心ドン引きだった。
確かに、話の途中途中では共感できる部分だってあった。技術の発達はしているものの人々の争いが絶えない世界では疲れてしまうし、なによりも大事な仲間や友人たちだって危ない目にあってしまう。まあ、だからと言って甲斐田がその誘いにのる理由もないのだけれど。
「甲斐田晴さん、ぜひ私たちと共に世界を変えてみせましょう!」
目を閉じた。男が伸ばした手を掴もうとすら思えない。――そもそも、手錠のせいで動かせないのだけれど。それにしたって、やっぱり、その手を掴もうとは思えなかった。
敵対組織を潰すために攫われた方が、よっぽどわかりやすくていい。
こんな事をしたって、意味なんて無いのに。
甲斐田を探しに出ていた三人は、再び事務所に集まっていた。テーブルの上には長方形の紙が一枚。そこには魔法使いが使う特有の文字が書かれているが、この場に解読できる人物はいない。
最後に振り絞って飛ばした便りは、無事加賀美の元へと届いた。走っていたら突然目の前に現れた白いものに驚いたものの、手に取ってみればそれはよく甲斐田が好んで使用している紙だった。
文字は読めなくとも意図をしっかりと理解した加賀美が残り二人へ集合、と号令を掛けたのだった。
「逃げ切られへんかったかぁ」
「ま、これを飛ばせただけ妥協点でしょ」
「そこを妥協していいのか……?」
加賀美の言葉は最もであるが、なんせ相手が甲斐田である。犬も歩けば棒に当たるように、甲斐田も外へ出れば攫われる。それが全員の共通認識であり、この度三十分弱の外出すら出来なかったのだから、今後甲斐田が外出をする時は必ず誰かしらと一緒に出かけることになるだろう。
不破が紙に手をかざす。すると文字が浮かび、ふんわりと柔らかい青い光を放った。光は徐々に形を成していき、小さな蝶へと変わる。この蝶が彼らを甲斐田の元へ導いてくれることを、よく知っていた。
冷たい色をしているはずなのにどこかあたたかさを感じるその光は、甲斐田の性格をよく表していると思う。
蝶がふわふわと浮いて、剣持と加賀美の間を飛んでいく。事務所の扉の前で留まる蝶は、扉を開けろと言っている様だった。
全員で顔を見合せ、頷く。
最初は慌てていた三人も今は落ち着いていた。甲斐田から飛ばされてきた紙が機能したということは、まだ甲斐田は生きている。魔法使いが殺されること自体滅多にないが、それはそうとして生きていることが証明された今、そこまで慌てる必要は無いだろう。いくらサポートメインの甲斐田と言ったって、頭はキレる。助けに入るまで命を絶やさずにいることぐらい、甲斐田なら出来る。
目の前を飛ぶ蝶を追いかけていると、案内されたのは事務所を構える街から二つ離れた場所だった。街の中でも辺鄙なところで、いつから使われなくなったのだろう、コンクリート製のビルが立ち構えていた。入口の前でくるくると回る蝶を横目に、慎重に中へ進んでいく。案内が終わった蝶は弾けて消えてしまった。
このビルのどこかに、甲斐田がいる。
先頭から加賀美、剣持、不破の順で進んでいく。割れた窓の破片を踏んでは音が鳴り、足音が反響する。
人の気配はない。不法侵入した三人を引き止める人物が存在しないことが、やけに不気味に感じた。
ところどころ欠けている階段を登って、フロア全体を探して、登って、登って。繰り返すうちに動きは大胆になっていったが、隙は見せない。手分けしてフロアを探している時でさえお互いが視界に入る距離にいた。
「……いませんね」
加賀美の呟きに頷く。
探索を繰り返して既に最上階。ここまで人ひとりもいなかった。
人を攫ったのなら見張りがいるのは当たり前だろう。その奥に敵が待ち構えていることだって、当たり前だろう。少なくとも今までの経験ではそうだった。こんなに閑散としているなんて、おかしい。
「……地下、とか?」
「ただのビルですよ? 地下なんてあります?」
「でも晴がここに案内したんやし、ここなんは絶対やろ」
「一度、下に戻ってみますか」
一階に戻りながらもう一度フロアをくまなく探索したが、やっぱり甲斐田の姿どころか敵の一人もいない。三人分の足音だけが響くのは、場所と時間が相まってほんの少し不気味に感じた。
太陽が完全に沈んでしまったこの時間帯では、電気の通っていないビルの中だと月明かりしか頼れるものがない。スマホのライト機能もあるが、万が一のために温存しておきたいし、隙を狙って攻撃をされた場合、スマホは片手が塞がってしまうため避けたかった。
それでも月明かりは十分に中を照らしてくれるので、不気味さはあれど今はこの立地に建っている事がありがたい。
さて。入口に戻ってきた三人は向かい合っていた。他の階と同様この階も調べ尽くしたはずだが、地下があるとしたらその入口がどこにあるのか検討もつかない。
それらしき扉も、ましてや隠し扉であろう場所も見つからない。しかし、甲斐田がここにいることは明白で。もう一度調べ直そうとそれぞれが動き出したが、やっぱり地下へ行けそうな場所はどこにも無かった。
「違うんかなあ」
「でもこのビルのどこかに居ることは確実でしょうし……、いっそのこと壊してみます? 誰か来るかもしれませんよ」
「野蛮なことするのやめない?」
「じゃあなにかいい案でもあるんですか?」
「ないけどさぁ。……不破くん?」
「不破さん? どうかされましたか?」
急に黙り始めた不破を不審に思って見てみれば、どこかある一点を見つめたまま動かないでいた。何を見ているのかと同じ方へ視線を投げてみても、どうして不破がそこを見ているのかわからない。
名前を呼んでも反応しなくなった不破に加賀美が一歩近づくと、片手を上げて動きを制されてしまった。困った顔をして剣持を見るが、剣持も不破が何をしないのかわからず眉を下げているばかり。
暫く場が動かないまま時間が過ぎていく。
加賀美と剣持が不破に注目する中、不意に、不破がぽつりと呟いた。聞き取れなかったため聞き返そうとしたが、先程のこともあり口を開くのは憚られた。
やっぱり、と。今度は確信を持って呟く。
「何か音しません? 二人は聞こえないっすかね。たぶん、外ちゃうかな」
「外ぉ?」
「不破さん、それはどんな音ですか?」
「はなし、ごえ……? ちゃんと聞こえへんからわからんけど、人の声、やとおもう……たぶん……」
「自信なさげだなぁ」
不破は、この中で一番耳が良い自覚があった。事実、甲斐田の魔法で強化されていない素の状態で一番耳が良いのは不破である。それでも不確定な情報になってしまうのは、それほど聞こえる音が小さいからだった。
剣持は抱えていた竹刀袋の中から竹刀を一本取り出す。何度か握る動作を繰り返して手に馴染ませて、行きましょうか、と声をかけた。
今度は不破を先頭に、話し声が聞こえると言う場所へ向かう。近くなるにつれ話し声が聞こえてくるのは不破だけではなくなった。
ちょうど探索していたビルの裏手になる位置に、茂みに隠れるように立っている男が二人。そのどちらもが似たような服装をしていて、背格好だけを見れば個人の判別は難しそうだった。決して上等そうには見えない黒のスーツをしっかり着込んでいる男たちは、話すことに夢中になっているのか不破たちには気付いていないようだった。真っ黒な姿は周りが緑に囲まれてさえ居なければすぐ見失っていただろう。
剣持も加賀美が顔を見合せて、ひとつ頷く。
裏に回った剣持が竹刀を振るう。首裏に直撃した竹刀はそのまま男の意識を刈り取った。もう一人の男が驚いて警戒する前に加賀美が手刀を落として、同じように意識を奪った。
どさりと男二人が雑草の上に転がった。完全に動かないのを竹刀でつついて確認すれば、隠れていたままの不破が顔を出す。
「さすがぁ」
「これ、一人はそのままの方が良かったんじゃない? せめて甲斐田くんの場所聞けばよかったな」
「恐らくここだと思いますよ」
よいしょ、と掛け声と共に男を移動させた加賀美は、つま先で地面をコンコンと叩いた。
雑草が生えるような地面では絶対に鳴るはずのない音がする。男を動かした時に現れた木目に、おぉ、と不破が感嘆の声をあげた。
人工的に乗せられた土を足で払うと、金属出できた取手が現れる。声を掛けずに加賀美が取手を引っ張れば、木目の扉は簡単に開いた。
中は真っ暗で先が見えないが、どうやら階段に続いているらしい。どこへ続いているのかはわからない。わからないが、恐らくこの下に甲斐田がいる。なんの確証もないが、そんな気がした。
不破が自身のスマホで明かりを灯す。最初より先が見えるようになった階段は、廃ビルよりマシなものの随分とボロボロになっていた。
リーチの長い剣持を先頭に、ゆっくりと階段を降りていく。着替える暇も無かったのでローファーがコンクリートを叩く。余裕さえあれば着替えてスニーカーを履いてきたものの、すぐ後ろにつく加賀美も革靴なので結局意味はなかったかもしれない。
足音がしっかりと響いているが息を潜めて、長い階段を降りたその先は、対して長くない廊下に繋がっていた。
地上で見つけた男たちと同じような背格好の男が数人いるのを見て、声を出される前に素早く意識を奪っていく。物音はバッチリ響いたが、仲間が増える様子もないので元々そこまで人数のいる組織ではないんだろう。組織と言って良いのかも怪しいぐらいの人数ではあるが。
扉はひとつしかない。この中に、甲斐田がいるのだろう。中には二人分の気配しか感じないため、剣持は戸惑いもせず勢いよく扉を開いた。
中には、何かに取り憑かれたように声高らかに話している男と、目をぐるぐると渦を巻かせた状態の甲斐田が半泣きで座っていた。
予想していなかった光景に呆気に取られ、助けに来たはずの三人はぽかんと口を開く。予想では、物理的か精神的かは問わずとして悲惨なことになっていると思っていたのに。
状況が理解しづらいという点では、完璧に悲惨な状況で間違いないのだけれど。
しかし、どうやら甲斐田は正面にいるにも関わらず扉が開いたことさえ気がついていない様子だった。先頭に立っている剣持も目線が合わないし、何よりこちらを見ようともしない。扉が開く際にそこそこ大きな音を立てたにも関わらず、だ。いつもなら情けない声を上げているはずなのに、背を向けている男でさえ周りが見えていないのか、敵がやってきたにも関わらずずっと喋り続けている。
今までにない以上の混沌とした現場に、どう動けばいいのか考えあぐねている時、加賀美は後ろの人物が大きく息を吸う音を聞いた。
「甲斐田ァ!!」
不破が吠えるように叫ぶ。ただ一人で喋り続けていた男の口が止まって、甲斐田の視線がようやく動いた。
「え…………、ぁ、アニキ!? もちさん! 社長も! 来てくれたんですね!」
生気が宿ったように甲斐田の表情が変わった。ニコニコと嬉しそうに笑う顔のなんと呑気なことか。あなた今捕まってるんですよね? と聞きたいところだが、その前には目の前の男をどうにかしなければならない。
背を向けていた男が振り返る。さっきまではあんなに楽しそうに話していたと言うのに、侵入者を見つめる瞳は虚無を映し出していた。
剣持が男に竹刀の先を向ける。後ろにいた加賀美が隣に並んで、いつでも動けるよう体勢を整えた。二人の間から顔を出す不破は甲斐田を見つめ、目立った傷が無いことを確認して、表には出さないよう息を吐いた。
転んだ時に出来た浅い傷は複数あれど、拷問を受けたような傷は見られない。
「何が目的か知らないけど、うちの甲斐田くんを返してもらいますよ」
剣持が目を細めて男を見る。顔は笑っていないが、声のトーンはいつもふざけている時と同じだった。
「目的なんてひとつだけですよ」
男は無表情のまま話し始める。
それは、甲斐田に語ったものと全く同じ言葉だった。凄いなぁ、と思わず甲斐田が感心してしまったのは、一言一句変わらず、ロボットのように同じ話を繰り返したからだった。ただし、甲斐田一人に対して話していた時とは違って、抑揚もなければ感情の乗っていない言葉たちだったけれど。
剣持が顔を顰めて隣に立つ加賀美を肘でこつく。視線だけを剣持に投げ掛けるが、その意味を正しく受け取ることは出来なかった。なぜなら剣持は変わらず男を見ているので。
後ろでバタバタと複数の足音が聞こえてくる。いつの間に連絡を取ったのか、恐らく目の前にいる敵の味方だろう。今まで倒した敵の中に連絡らしき動作をしている人は見受けられなかったし、目の前の男がそういった素振りを見せた覚えもないが、四人揃っている以上やって来るのは敵しかいない。
加賀美は男に目を向けたまま下がり、剣持と己の間に不破を挟む。
一、二、三、四……。目の前の男は剣持に任せるとして、後からやってきた男の数を数えていく。目視出来る範囲にいるのは六人程度。このぐらいであれば間違いなく加賀美一人で倒せる。万が一取りこぼしがあったとしても剣持が処理できる。
「不破さんは甲斐田さんをお願いします」
「りょーかいっす」
目の前の男が口を開き出すと同時に、剣持が地面を蹴った。竹刀の先端が男の顔めがけて勢いよく飛び出すが、男は簡単に避けてしまう。何度か竹刀を振って攻撃するが、すべて避けられていく。男は後ろに下がって避けるばかりで傍から見れば剣持が押しているようにも見えるが、見えるだけだった。動体視力がいいのか反射神経がいいのか、はたまた両方か。男は綺麗なほど剣持の攻撃を避けていた。
男が剣持に気を取られているうちに不破は視界の外を回って甲斐田の元へ駆け寄った。味方が自分の元へやってきた安心感からか、無意識に張り詰めていた息を吐き出す。
「うわ、手錠やん」
「そうなんすよ〜……。鍵らしきものもどこにあるかわかんなくて。魔力さえ残ってたら魔法で壊せたんですけど……」
「しゃーない、後で社長に壊してもらお。立てるか?」
「…………立たせて貰ってもいいですかね」
「ほんま世話焼けるわ」
「スミマセン、ありがとうございます」
甲斐田の腕を思い切り持ち上げる。あまりに勢いをつけすぎたせいかバランスを崩すのです咄嗟に支えるが、二度目は無い。一度立たせてやったのだから転んだらもう手は貸さないと決めて、剣持の邪魔にならぬよう部屋の隅へ移動する。
素人から見て何度か良いところに竹刀が打ち込まれているように見えるが、決定打にはならないのか男が倒れることは無い。男が避けながら何度か口を開いて音に乗せているように見えるが、果たして何を話しているのかは聞こえなかった。
続く攻防に剣持が舌を打つ。攻撃を一度止めた剣持は、背負ったままの竹刀袋を肩から下ろす。不破と甲斐田が待機している所へ思い切り投げて、剣持は竹刀を両手で持ち直した。
「ごめんだけどそれ持っといて!」
一方、廊下でやって来る敵をちぎっては投げ続けている加賀美は、次々に増える敵にどうしたものかと考えを巡らせていた。最初にやってきたのは六人程度。けれども最初の敵を気絶させたと思えば後からねずみのように湧いてくる。
「一体何人いるんだ!?」
このままじゃ埒が明かないとは思いながらも、部屋の中ではまだ剣持が戦っている最中であるし、不破には甲斐田を守る必要がある。全員一度に襲ってこないあたり自分一人で対応が出来るからありがたいとは思いつつ、また聞こえてくる足音にそっと息を吐き出した。
廃ビルに侵入した時、人の気配はどこにも無かった。不破が人の声を聞いて向かった先でも二人だけ。一体どこからこんなに湧いてくるんだと疑問に感じながらも、加賀美がやることは一つだけ。
白い手袋が敵の血によってところどころ赤く染っている。手を開いて、握って。殴り続けたせいで麻痺してきた感覚を取り戻すように動かして、よし、と呟いた。
「あと何人倒せば終わるんでしょうねぇ」
笑顔で両手を構えた加賀美は、向かってくる敵一人一人を丁寧に投げ飛ばしていく。廊下の突き当たりには既に投げられた敵の山が積み重なっており、これ以上増えてしまえば崩れ落ちるだろう。それでも構わずに、加賀美は投げ飛ばす。
思考能力が揃って低いのか、一直線に向かってくる敵はとても投げやすかった。
一体どれだけの敵を投げ飛ばしたのか。最初から数えてはいなかったが、きっと、おそらく、数えるのも億劫になるほど投げ飛ばしていた最中。
――パシン、と何かが弾けるような音が部屋の中から聞こえて、加賀美の意識と共に視線が逸れた。
一瞬動きが止まってしまったせいで焦りが生まれるが、敵からの攻撃はやって来ない。前を見ると山ほどいたはずの人はどこかへ消えており、飛び散っていた血でさえも綺麗さっぱり消えていた。
築き上げた山さえも残らず消えている。首を傾げるが、まあいないのなら……、とすぐに部屋の中へと意識を移した。
「あ、しゃちょ〜! これ外してもらっていいですか?」
部屋の中からひょっこりと顔を表した甲斐田は、くるりと背を向けて手元を鳴らす。しっかりとはめられた手錠を見て、甲斐田の言うこれ≠ェなんの事か察した。
「甲斐田さん、手錠似合いますね」
「なんで!? どういうこと!?」
甲斐田が部屋の中から出てきたという事は、中で行われていた戦闘が終わったということ。安全を確保出来ないまま外へ出す人達ではないし、なにより甲斐田の反応がいつもと変わりないから。
加賀美は近付いて、手錠の鎖の部分を握る。ふん、と呼吸を止め力を込めれば、鉄製の鎖はあっという間にバラバラに砕けていった。
「やーっと自由だ……。しゃちょ! ありがとうございます!」
「いえいえ」
固まった肩をぐるぐると腕を回してほぐしている甲斐田を横目に、加賀美は部屋の中を覗く。中央には対峙していた男が伸びた状態で倒れており、その傍らでは剣持が竹刀を袋の中へしまっていた。不破と剣持が数回言葉を交わしているのが見えるが、話し声までは聞こえなかった。
片付けを終えた二人がやってくるのを見て、加賀美はようやく息ができた。
「腹減った」
「そうですね、結構遅くなってしまいましたし、今日は外食にしましょうか」
「甲斐田くんの奢りね。ポケットマネー」
「財布! 共用! ポケットマネーとかありませんけど!!」
甲斐田は、普段と変わりないやり取りを繰り返す背中を見て、いつも思う。
己の性質上よく攫われては仲間に助けられているが、その度に、甲斐田は彼らと出会った時のことを思い出すのだ。
その時の甲斐田も、魔法使いであるが故にどこかの組織に捕われ、身動き出来なくなっていた。
今までであれば魔法を使いなんとか逃げ切っていたものの、今回は人数が多かったこと、甲斐田の反応が遅れてしまったことによって抵抗らしい抵抗も出来ないまま連れていかれてしまった。
どんな組織かも分からない。ただただ捕まって、魔法を使えと命じられ、抵抗すれば傷が増えていく。それでも甲斐田は一度たりとも頷くことをしなかった。
傷を癒すことも出来るには出来るが、魔力の消費量がほかの魔法と比べることが出来ないほど多く、普段から限界まで使わないと決めていた。更に言えば魔法使いは滅多に殺されることもなく、甲斐田自身、多少の傷であれば放置してしまう無頓着さがあるため、あまり得意ではない。
しかし、組織の人間は甲斐田がどのような魔法を使えるのか把握しているらしく、下手をすれば死んでしまうかもしれないほどの傷を刻んでいった。
死ぬ前には魔法を使うだろう。
魔法の事なんて全く知らない人間の、都合のいい考えだった。
そこに使われる必要な魔力や気持ちなんて全て無視で、ただ使えるだろう、と。それだけだった。
浅い切り傷が全身に刻まれ、止血されない傷は血を流して、そして固まっている。まだ致命傷になりえる傷がないことが、唯一の救いだった。
けれどいつまでもこうしているわけにはいかない。なぜなら甲斐田はどの組織にも所属しておらず、行方を眩ませたって気付いてくれる人がいなかった。当然、助けなんて来ない。
どうしよう、なんて心では思いながら、正直、甲斐田はここで死ぬことを覚悟していた。
魔法使いは稀有である。
様々な能力を持って生まれるこの世界ではあるが、複数の能力を持って生まれることはまずない。時代が進み、研究も進んだ現代ではある程度持って生まれる能力のコントロールが出来るとはいえ、持てる能力は一つのみ。
例えば目の前で甲斐田に傷を増やし続ける男は物を動かす#\力を持っている。
例えば時折甲斐田の様子を見に来る男は物を生み出す#\力を持っている。
外で監視している二人の男の能力は見ていないからわからないが、二人にもそれぞれ能力はあるのだろう。持たない人間こそ、魔法使いよりも産まれてくる確率が低かった。
それぞれに制限はあれど、特化した能力は凶器だ。それしか出来ないけれど、皆生まれ持った能力を工夫して使用している。
その点で言えば、魔法使いは不思議な存在だった。魔法使いとして生まれるだけで、本来ひとつしか手にできない能力を複数使えると言っても過言ではなかったからだ。
使える魔法に限りがあるとはいえ、だからこそ、魔法使いは稀有な存在だった。
そんな魔法使いとして生まれたからこそ、この能力を争いのために使いたくはないと、昔から思っていた。
魔法の事を調べて、研究して、この後に産まれてくる同士のためになればいいと願う。
生まれ持った能力では手が届かなくなった時、ほんの少しでも助けになれる存在が魔法使いであればいいと、甲斐田は願う。
「……そろそろ、家に帰して欲しいんだけど」
「そんなこと出来るわけないだろ」
部屋の隅から繋がれた長い鎖は甲斐田の首まで伸びている。窮屈な首輪は、目の前の男からすれば簡単に命を奪えるものなんだろう。鎖には少しなら動き回る余裕はあるが、最初の抵抗で片足の骨は折られてしまっていた。
繋がれた首輪に触れる指にも傷があり、血が零れている。感覚が麻痺してしまっているのか、痛みはもう感じない。
捕まってどれだけの日が経ったのか、甲斐田にはわからなかった。換気のために備え付けられた小窓から見える空でかろうじてだいたいの時間帯は把握できるものの、日数までは数える気力がなかった。
出される食事だってパン一切れの時もあった。水分だってろくに摂取させてもらっていない。十分に栄養が与えられていないせいで、日を追う事に思考が溶けていくのがわかる。生命は維持出来るだろうが、それもいつまでもつかわからない。
不意に、部屋の外が騒がしいことに気が付いた。壁を一枚隔てているため正確には聞き取れないが、男の叫び声が聞こえる。
目の前で甲斐田を傷つけていた男は外の騒ぎに気を取られ、扉から顔を覗かせた。
扉が開いたことによりはっきりと聞こえた侵入者の言葉。まさか自分が捕まっている時に侵入者がやってくるなんて、タイミングが良すぎるが、甲斐田はできるだけ体を動かさずに繋がれた鎖の先を見る。
(――隙を見て逃げ出すか?)
折れた足は不格好にはなるが走る程度にはすぐに治せるし、それを考えても数回は魔法が使えるだろう。
足を治すための魔法、鎖を千切るための魔法。この二つは必ず必要として、あと何回使えるか。
小窓から見える空との距離を考えるに、そこまで地上からは離れていないはずだ。問題は、当の侵入者が味方になり得るか、どうか。
甲斐田は鎖を引っ張って、そう簡単に外れないことを確認する。
鎖を握って、息を吐き出して、――そうして、手を離した。
侵入者の目的も、人数も、そもそもこの組織がどれぐらいの規模かもわからないまま逃げ出すのは、あまりにも勝てる未来が見えなかった。元より逃げ出す気なんて無かったのだ、別に、チャンスかもしれない巡り合わせがあったとしてそれを諦めたって気を落とすことは無い。捕まってしまった自分が悪いのだから。
まあある程度の研究は進んでいるし、誰かがそれを見つけてくれさえすれば、今までやってきたことも無駄にはならないだろう。
諦めていた。
どうせ侵入してきた人間も甲斐田が魔法使いだとわかれば自由になんてさせてもらえるはずが無い。
わかっていた。わかりきっていた。己が魔法使いとして生まれた時点で。
両親からは愛され大切に育てられてきたが、周りがそうはいかないことぐらい、とっくの昔から理解していた。
目の前にいたはずの男はいつの間にかいなくなっていた。どこか遠くで声が聞こえるから、きっと対応のために席を外したのだろう。自分以外存在しない部屋の中を見渡して、思う。どうして魔法使いはこういう扱いしかされないのだろうと。今更持って生まれてしまった時点で仕方の無いことだとわかっていながら、やっぱり、思わずにはいられなかった。
甲斐田は何もやる気が起きず、後ろに倒れた。冷たい地面に寝転がる。
目を閉じて、甲斐田はその時を待った。
人の叫び声と、倒れる音が聞こえる。
銃声と、金属音、騒がしい足音。
どちらが優勢で、どちらが劣勢なのだろう。
(……どっちでもいいや)
どうせ、運命なんて変わりはしないのだから。
暫く外の音だけを聞いていると、不意に、何も聞こえなくなった。部屋の外から聞こえていたはずの雑音が全て消えて、静寂が包み込む。
どちらが勝ったのか。甲斐田はこのままここに居続けるのか、それとも連れ去られるのか。
光の失った空が、姿を現した。
「あれ、起きとるやん」
「……!? ……!?」
己の体を跨ぐように立つ男が、紫の瞳を輝かせて甲斐田の顔を覗き込んでいた。
銀髪に濃いピンクと紫のメッシュを揺らした男がケラケラ笑う。あまりに突然すぎる登場に甲斐田は声も出さずに驚いて、口をはくはくと開閉させていた。
確かに扉は開いていた。けれど、だからって、足音なんて一切聞こえなかった。いつの間に近付いてきたのか。目を開けるまで甲斐田はまったく気が付かなかった。
何も言えないまま固まった甲斐田に対し、笑っていた男は雑に上から退いたかと思えば、扉に向かって叫んでいる。
「もちさぁん! しゃちょー! 見つけましたよー!」
「不破くんほんと?」
銀髪の――不破と呼ばれた――男が叫んだ直後、扉から顔を覗かせたのはまだ幼い顔立ちをした濃い紫髪の青年だった。
青年は竹刀を握り締めたまま部屋の中に入ってくる。入れ替わるように不破が部屋の外へ顔を出して、何かを眺めているようだった。
青年はいまだ寝転んだままの甲斐田を見て、幼げな顔を更に幼くさせた。不破の後ろ姿と甲斐田の顔を交互に見たあと、青年は甲斐田に目線を近付けるようにしゃがみ込んだ。
「きみ、魔法使いですか?」
「………………そう、です、ケド」
だったらどうする気なんだ。僕が魔法使いであれば、この人たちの望むことは何なんだ。
甲斐田は警戒心を隠そうともせず、下から青年を睨み付けると、青年は声を上げてコロコロと笑い始めた。竹刀はいつの間にか手から離れており、床に放置されている。
伸ばされた手に視線を動かした。包帯でぐるぐる巻きにされた手のひらがどのような意図を持って差し出されたのか、甲斐田にはわからない。
「はじめまして、剣持刀也と言います。あなたを保護しに来ました」
「……ほご?」
「保護です」
「どうして?」
「依頼されたので」
「……どこに、ですか」
「んふ、あはは! それは秘密ですけど、僕たちが請け負ったのは保護だけです。受け渡しではありませんよ」
剣持の言葉に嘘はないように見えたが、それはそれとして簡単に信用出来るわけが無い。甲斐田は差し出された手を取れないまま、じっと剣持の瞳を見つめる。ブレない緑の瞳が三日月を形取ったかと思えば、パッと両手を顔の横に挙げて「まぁ、」と口を開いた。
「信用出来ないのはわかりますよ、こうなるのは予想してたし。でもそうだなぁ、この組織が完全に潰れるまで――最低でも一日は、僕たちと居てもらわないと困るんです。なぜなら受けた依頼が保護だから。あなたが二度とここへ戻ってこないように」
「ア、もちさーん、社長終わったっぽいっす」
「ほんと? じゃあ今回の仕事も終わりだ」
侵入者だと騒いでいた声はひとつも聞こえない。静かな空間で、誰かが近付いてくる足音だけが響く。不破が手を振っている相手は社長と二人から呼ばれている人間だろう。
「さて。出来れば頷いて欲しいんですけど、正直、僕たちはあなたの意志よりも依頼を優先したい。うちにはゴリラがいるので人を一人連れて行くことぐらいなんでもないんですよね」
廊下から、淡いミルクティ色の髪をした男が現れた。「彼が?」「みたいっすよ」と不破と会話しているのが聞こえるのは、わざとか、偶然か。
二人が甲斐田に近付き、囲まれる。見下ろす目が増えたところで、甲斐田にはどうすることも出来ない。四肢を投げ出して、睨みつけることすら馬鹿らしくなってくる状況に、勝手にしてくれ、と口が動いた。
元より捕まった時から助けが来る予定も逃げ出す予定もなかったのだ。今更、組織が変わったところでその意思だって変わらない。抵抗する意思が無いことを伝えるために、甲斐田は目を閉じた。
(どうせ魔法は使わないんだから、好きにすればいいんだ)
鉄と鉄がぶつかり合う音が直接響いてくるようだった。首が閉まらない程度の力で引っ張られたと思えば、次の瞬間にはフン! と掛け声が。次いでパラパラと細かい鉄が床に落ちる音がして、流石の甲斐田も目を開けた。
上体を起こして音のした方に目をやれば、部屋の隅と繋がっていた鎖が途中で途切れている。その場所にはミルクティの男が立っており、なんて事ないように両手のひらから粉々になった鎖の破片を地面へ落としていた。
「……………………え?」
「流石社長っすね〜」
「いや、いやいやいやいや、え?」
「言ったでしょう? うちにはゴリラがいるんです」
「え? いや、うん?」
「ゴリラとは誰のことでしょうねぇ? 剣持さん」
目の前の光景と繰り広げられる会話を、甲斐田はすぐに受け入れられないでいた。
確かに能力には様々な種類があるし、強化系、もしくはパワー系の能力を持つ人間がいたって何もおかしくは無いけれど、こんな当たり前のようにされても困る。甲斐田の周りには今まで居ない系統の存在だったから、表情にはありありと困惑が表れていた。
確かにこの中では一番背が高いかもしれないが、それにしたって見た目は力任せに鎖をちぎるようには見えないのに。
さて、と男が甲斐田の目の前で片膝をついた。
「申し遅れました。私、加賀美ハヤトと申します」
「ア、はい」
「では失礼しますね!」
加賀美と名乗った男が綺麗なほどにっこりと笑って――え? 疑問を音にする暇すらなく、甲斐田の体は浮いた。
(……浮いたァ!?)
お腹にかかる圧迫感と、頭に血が上る感覚。手足が重力に逆らう事無く揺れている。視線の先には加賀美の履いている革靴と、すらりと伸びている長い足だった。
担がれているのだと理解するのに、数秒。
確かに足は折れているが、なにもこんな担ぎ方をしなくてもいいのでは無いかと思いながらも甲斐田は叫ぶ気力すら持っていかれた気分だった。勝手にしてくれと言ったのは甲斐田だけれど。
(どうにでもなーれ!!)
彼らの住処は、どこにでもある様な変哲もないビルだった。隠れているわけでもなく、かといって大々的にわかりやすいわけでもなかった。なんと移動手段で徒歩を選んでいた彼らは、できるだけ目立たないように人目の少ない道を選んでいたが、それでもやっぱり成人済みの男が担がれているのには注目を浴びた。
甲斐田はただ顔を上げずに、一歩進む度揺れる体に集中することで時間を潰した。足が折れているから自力で歩くことが出来ないとは言え、担がれている状態を注目されて平然としていられる精神は持っていない。
ソファに降ろされた甲斐田の隣には不破、正面には加賀美が座った。加賀美は足を組んで微笑んでいるが、その真意は読み取れない。剣持は部屋の奥へと行ってしまっているため、姿は見えない。
部屋の中を見渡してもどこも変な場所は見られなかった。事務所の真ん中にローテーブル。それを挟むように二人がけのソファが二つ置かれており、窓際には木製のデスク。
普通の、どこにでもあるような事務所だった。
「なんも無いよ」
「へっ!? あ、はい……」
不破はソファの背に体を預けながら、キョロキョロと視線を動かす甲斐田に言葉をかけた。いきなり話しかけられたことに驚いたが、自身の挙動不審さを思い出して佇まいを直した。
いくら変哲のないビルだって、普通の事務所だって、それが見掛けだけの可能性があることを、甲斐田はよく知っていた。
保護だと言う彼らに勝手にしてくれと言ったのは確かに甲斐田だけれど、なぜ自分が今ソファに座らされているのかわからずに警戒心を強めた。
「お待たせしました」
不在だった剣持が救急箱を両手に抱えて顔を出す。戦闘の際に誰かが怪我を負ったのだろうか、なんて考えている甲斐田の足元に膝を着いた剣持は、翡翠の瞳を持って甲斐田を見上げて、一言。
「脱いでください」
「…………ハァ!?」
真剣な顔をしておきながら突拍子もないことを言ってくる剣持に、思わず大きな声が出て立ち上がる。その際折れた足が痛んですぐにソファに逆戻りとなったが、言葉の衝撃は無くならない。
隣で聞こえる笑い声は楽観的だった。正面の加賀美は呆れ顔で「剣持さん……」と名前を呼んでいるが、当の本人は眉ひとつ動かさないまま甲斐田を見上げている。
「手当ぐらいしますよ。どうせ服の中にも怪我はしてるんだろうし、男しかいないし、別にいいでしょ。足はどうにもならないけどさ」
「……いや、大丈夫デス…………」
「はぁ? どうして? そのまま放っておいたっていい事ないでしょう。そのままお風呂に入るつもりですか? それとも汚いまま寝るつもりですか? 嫌ですよ僕、汚い人を布団に入れるの。掃除だって楽じゃないんだから」
「そういうわけじゃなくて、」
「それとも素人にやらせたくないって事ですか? 大丈夫ですよ、軽い傷なら慣れているので。ホラ!! 脱げ!!」
立ち上がって見下ろす形になった剣持は、両手を腰に当てて仁王立ちしている。その顔は微かに怒りが込められているような気がするが、甲斐田からすればどうして怒るのか理解できなかった。
相変わらず隣からは楽しそうな笑い声が聞こえているし、見下ろす剣持は怒っているし、助けを求めるように正面に視線を移動させれば加賀美は先程の呆れ顔は何処へやったのか、にっこりと笑っていて取り合ってくれそうになかった。
(どういう状況……?)
伸びてきた剣持の手が服に触れそうになるところをやんわり抑えて、頬を引き攣らせる。
「あの、本当に手当はいりません。魔法で治せるので……」
「え! 治せんの?」
「マァ……そうですね、治せないことは無いので」
「すげぇ〜!」
治せる、とは言ったものの、甲斐田にその気は無いが。折れた足は不便極まりないので魔法は使うけれど、致命傷にもならない細かい傷なんて大したことはない。放っておけばいつの間にか塞がっているのだから、治療も魔法も必要ないだろう。
――と、甲斐田本人は考えているのだが。
隣から刺さる輝いた目に、甲斐田はぐっと息を呑んだ。
仁王立ちしている剣持もさあやってみろと言わんばかりの表情で甲斐田のことを見下ろしているし、加賀美は変わらず笑顔を保ったまま甲斐田の動きを観察しているようだった。
しっかりと視線のある中で魔法を使うのは戸惑われる、が。しかし、使わなければ使わないでこの状況が永遠に続くかもしれないことを考えれば、わかりやすく傷のひとつでも治してみせればいいのかもしれない。
妙案だと甲斐田は数ある中から目立つ傷を選んで彼らの前に晒した。音には乗せずに呟くと、聞こえないはずの自身の声が脳内に響いた。
目を凝らさなければ見えないほど薄い青い光が傷を覆う。そして切り傷はゆっくりと端から塞がって、皮膚が引っ付いていった。
おぉ、と三人から感嘆の声が零れる。
甲斐田はふぅ、と息を吐き出して、久しぶりに使った治癒魔法に滲んだ汗を拭った。
「で?」
「はい?」
「まだ傷あんのにそれだけなん?」
「アッ、スー…………。別に今じゃなくても、いいんじゃないでしょうか……」
全てを治す気が無いことを、見透かされている気持ちだった。不破はあくまで純粋な目をして甲斐田のことを見ているけれど、何も言わない二人も不破と同じことを考えているのか無言のままだった。
「そもそも! どこの組織から言われたのか知りませんけど、一日だけの保護でしょう? 今はここにいますけど明日になれば僕は自分の家に帰りますし、そこまで僕の怪我について言われる覚えはありません!」
きゅっと目尻を吊り上げて抗議するが、取り合ってもらえそうな雰囲気には変わらなかった。
ずっと何も言わなかった加賀美が足を組み直して、確かに、と口を開く。ずっと甲斐田のことを見下ろしていた剣持は諦めたのかなんなのか、場所を移動して加賀美の隣へ腰掛けていた。救急箱は甲斐田の足元に置かれたままだ。
「確かにそうかもしれませんね。私たちの受けた依頼はあくまで保護≠ナす。貴方の能力を悪用しそうな組織への受け渡しではありませんし、依頼の内容に怪我の治療は入っていません」
「なら別に良くないですか? 布団がどうこう言ってましたけど別に一日ぐらい寝なくても問題ないですし」
「でもさぁ、それ、痛ない?」
「……これぐらい、慣れてますし」
「ふーん。そんなもんか」
「いや不破くんおかしいから、納得しないで」
「……正直、これ以上関わる気は無いので放っておいてほしいです」
どうしてここまで関わってくるのか、甲斐田には何も理解が出来なかった。最初に言われた通り保護だけであるのなら――加賀美の言うように治療まで依頼されていないのなら――ここで放っておいたって何一つ問題はないはずだろう。それに甲斐田自信が治療出来ることは今目の前で見せたはずだ。
甲斐田は握り拳を膝の上で作って、真剣な表情で加賀美を見つめる。しかし加賀美は姿勢を崩さずに、甲斐田に何を言われても余裕を持って見つめ返している。
「これは明日お話しようと思っていたのですが、」
「仲間にならん?」
加賀美の言葉を遮ったのは隣に座る不破だった。遮られたことに驚いたものの、人物が変わっただけで言いたいことは同じなので口を挟まない。
なんとなく予想は出来ていたものの、まさか不破から言われるとは思わず体の向きを変える。やけに期待の込められた瞳は、照明が反射して綺麗に輝いている。数回瞬きをしたって、不破の表情は変わらなかった。
誰にも気付かれないように息を吐き出した。
「なりません」
甲斐田の答えは決まっている。
ずっと昔から。それこそ、魔法使いとして生まれ、自我が芽生えた時から、決めていた。
「優先してやりたいことがあります。し、そもそも、僕は魔法を使うことがあんまり好きじゃないんです。争いの為に使うことはもっと好きじゃない。知らない間に争いごとに使ってるぐらいなら、誰のためにも使わないって決めてるんです」
だから、僕は誰の仲間にもなりません。
はっきりと、まっすぐ答えた甲斐田は、しかし、内心これから何をされるのだろうと震えていた。
経験上、よろしくないのだ。誰も彼も力ずくで甲斐田に魔法を使わせようとしてくるのは、身をもって知っていた。
だけど甲斐田だって、譲れないものはある。
甲斐田の言葉を最後まで聞き取った加賀美から表情が消えたのを見て、全身に力が入る。もしかしたら殴られるかもしれない。今さっき魔法で怪我を治せるところを見せてしまったから、また傷が増えるかもしれない。
なんの反応も返ってこないことに気まずさを覚えて、視線を揺らす。目は見れないが、何を言われるのかわからないので口元を注視するしか無かった。
剣持も、不破も、何も言わない。加賀美がどうするのか決めるのを待っている。
数秒、もしかしたら数分が経ったかもしれない。時計の秒針が聞こえるほど静かな空間で、手汗が滲んでいた。
ひとつ、加賀美がまぶたをおろした。
「わかりました」
一言。たった、一言。加賀美が呟く。
目を開いたその奥に、強い感情は宿していなかった。むしろにっこりと笑っていた時よりも穏やかになっているようにさえ見える。
「それなら仕方ありませんね」
「エッ…………?」
「えー、しゃちょ諦めんの?」
「本人が嫌がるなら仕方がないでしょうが」
「まぁね、魔法使いがいたら受けられる依頼の幅も広がるってだけで、無理やり入ってもらうものでもないし」
「そういうもんかぁ」
拍子抜けだった。
抵抗らしい抵抗が出来るかは置いておくとして、力ずくで来るのならこちらもある程度は対抗を、と考えていたのに。自意識過剰だと言われるかもしれないが、こんなにあっさりと諦められるなんて思っていなかった。
先程までの張り詰めた空気はとっくに緩み切っている。ピンと伸ばした背筋が丸まっていくのがわかった。
「……僕が言うのもアレなんですけど、軽くないですか?」
「こんなもんですよ、いつも」
甲斐田の問いに答えたのは剣持だった。
「さて。勧誘に失敗してしまったのでご飯にしましょうか。甲斐田さんはご自身で怪我を治すか剣持さんに手当されてください。この上が住居スペースになります。私たちは夕飯の準備をしておくので、歩けるようになったら来てくださいね」
「アレェ……?」
加賀美が立ち上がり、唯一の出入口へ向かうその後ろを不破がついて行く。剣持は甲斐田がどうするのか決めるのを待っているらしく、ソファに腰を下ろしたままだ。
(こんなあっさりしてていいのか……? いや僕からしたらありがたいんだけど……ありがたいんだけどさぁ……)
いやまだ諦めたとは限らない、と甲斐田は首を振って緩んだ気持ちを引き締める。もしかしたら食事に何かを混ぜるつもりなのかもしれないし、油断はできない。引き下がったとみせかけることなんて簡単だろう。緩んでしまった雰囲気のせいで甲斐田の気も抜けてしまったが、それではいけないと思い直す。
「警戒心が強いんですね」
「……そうですかね?」
「いい事だと思いますよ。ちなみにご飯には何も仕込みはしてませんし早く治すか手当受けるか決めてもらっても? どちらにせよ折れた足だけは治してもらわないといけないけど」
「足、気付いてたんですね」
「むしろ腫れてるのに気づかない方がやばくない? バカだと思われてる?」
で? どうするんですか。再度問われて、甲斐田は大人しく傷口を差し出した。流石に服を脱ぐことはしなかったけれど、脱がなくたってある程度の手当は受けられる。
剣持は目を丸くしたあと口元を緩ませて、手当のために必要な消毒液や包帯を取り出した。
当初の予定通り、日付が変わり日が登れば解放された甲斐田は、自身の家に帰ることができた。念の為後ろに注意していたが誰かが着けている様子もなく、しつこく勧誘されることも無く何事もない日々を過ごしている。
以前と変わりない日常に、やっと帰ってきたのだと、ようやっと安心できた頃。
「――甲斐田晴くーん」
不意に街中でフルネームで呼ばれた。
またどこかの組織に狙われてしまったかとも思ったが、名前を呼ぶ声を甲斐田は聞いたことがあった。しかし、もう二度と聞くことの無いと思っていた声でもあった。
振り返って、その姿を視界に収める。前回会った時と変わらない装いをした男が、ニコニコと笑顔を振りまいてそこに立っていた。
「えぇっと、不破さん、でしたっけ」
「そうそう! よう覚えてんなあ」
「……なんの御用でしょうか」
そっと後ずさる。靴と地面が擦れる音がやけに響いて聞こえた。
道の途中で立ち止まった二人を避けて通り過ぎていく人々は、面倒事には関わりたくないと見て見ぬふりをして去っていく。
「ここやと何やし、家に来やん?」
ニコニコ、ニコニコと、不破は笑顔のまま。
何が面白いんだと悪態をつきたくなったが、飲み込んだ代わりに飛び出たのは甲斐田の悲痛な願いだった。
「お断りします!!」
言うのが早いか、走り出すのが早いか。
言い切る前に足を動かした甲斐田は人の間を縫って駆け抜けていく。時折人にぶつかりそうになるのをなんとか交わしながら――しかし体勢を崩してよろけてしまうが――見知った道を移動していく。後ろから追いかけている足音も一緒に聞こえて、甲斐田は泣き出したい気持ちに襲われた。
(なぁんで来るんだよ〜……!! 諦めたんじゃ無かったのかよ!!)
出来るだけ人の多い道を選んで移動しているが、後ろから甲斐田を狙う攻撃らしい攻撃が来ない。普段甲斐田を追いかけるような連中は、街中であるにも構い無しに色々と仕掛けてくるのに。
近年シャッターで締め切られた店が増えた商店街を抜けた時、だから、甲斐田は油断していた。左右どちらに曲がるか悩んでしまった一瞬の間に、耳元で声がした。
ぴしり、と。石のように固まった体は、指一本動かせない。急に動きをやめてしまったせいか酸素を脳に送ろうと荒い呼吸だけが繰り返される。後ろから白い髪が横切ったと思えば、甲斐田の目の前には不破がいた。
「やっと追いついたわ」
嬉しくもない再会を果たした時と変わらぬ笑顔を浮かべた不破は、息のひとつも乱れていない。それだけで体力の差を見せ付けられて、甲斐田は動かない体を動かそうと必死に力を込めた。
逃げなければ。今逃げられなければ、また捕まってしまう。
頭の中ではガンガンと警報が鳴っている。だけども体は動かない。いっそのこと不気味さすら感じる笑顔を目の前に、冷や汗が背中を伝った。
「ごめんごめん、別にアイツらみたいに捕まえようとしてるんじゃないんよ」
「……」
「あれぇ? 声も出ん? あらぁ、やってもうたわ」
「……!」
「なんもせぇへんよ、って無理か! ごめんな、動いていいよ。あ、でももう逃げんでな」
不破がそう言った瞬間、全身が解放された感覚に襲われる。一気に息を吐き出して、大きく吸い込んだ。新鮮な空気を与えられた感覚。しかし逃げ出そうと足を動かすことは出来なかった。
「どういうつもりですか」
「仲良くなろうと思って!」
「…………?」
「仲間になって欲しいのは欲しいんすけどねぇ、社長ともちさんが諦めるって言うから、俺はそれに従うだけやし。声掛けたのは俺の判断」
「……どういう…………?」
「魔法使いって俺の周りにおらんからさぁ」
「うん……うん……?」
「仲良くしよーや」
「いや……なんで……?」
楽しげな声に、見える瞳は眩しいほどに輝いていた。そこに曇りは一切ない。不破は、なんの思惑もなく本心からそう言っていることが読み取れるが、それが更に甲斐田をわからなくさせた。
隠すことなく困惑を表に精一杯出してみても不破は取り合ってくれない。一方的に要望を話して、よろしく、なんて頷いてもいないのに勝手に話を進めている。待ってくれと言っても聞こえていないのか――否、確実に聞こえる距離であるからして、意図的に無視していることは確かだった。
「あの…………えっと、不破、さんは、僕を利用しようとか……」
「アイツらと一緒にせんといてくれる?」
「アッハイ」
同じ括りにされるのがよほど気に入らないのか、ニコニコと笑っていたはずの表情が一気に削げ落ちた。反射的に返事をして、スミマセン……、とか細く言うことしか出来ない。
不破が両手で甲斐田の片手を握って、無理やり握手をする形になる。
「よろしく!」
「僕は何もよろしくしたくないんですけど……」
不破が甲斐田に一方的に縁を結んでから、何かと街で遭遇しては声をかけてくるようになった。だいたいいつも不破は一人でいるが、時折、本当に時々、不破の後ろに加賀美と剣持の姿を見つけては体を固くしてしまう。仲良くして油断したところを、と考えてしまうのは、今までの経験からだった。
言う通り仲良くしたいだけの不破は甲斐田を見つけて数分会話を繰り返すだけで、決して無理やり仲間にしようとはしなかった。誘う言葉だって一度も口にしなかった。
なぜなら不破の目的は、本当に仲良くしたいだけだったので。更に言うならば好奇心で動いているだけなので。
街で甲斐田を見つければ一目散に駆け寄る姿を見て、剣持だけは既視感に襲われていたし、加賀美は楽しそうだなぁ、と呑気な感想を抱くだけだった。
「最近よう外出とるやん」
「なぜか毎回不破さんに会うんですけど、監視してたり」
「健康やねぇ」
「話聞いてる?」
にゃはは、と笑う不破の考えていることはやっぱりよくわからない。というか、話しかけるのはもういいとして、会話が成り立たないことがほとんどなのは如何なものか。
しかし慣れとは恐ろしいもので、最初はなぜか甲斐田の方が頑張って会話を成立させようとしていたが今じゃ通じなくても気にならなくなった。
「そういえばこの前社長がドアノブ壊してんけど」
「壊したって何……? 壊れるもんなの……?」
「壊れたドアノブ見て笑ってた」
「怖い怖い!!」
「とりあえず俺も笑っといた」
「なんでだよ……」
「もちさんだけが怒っとったんよな〜」
「そりゃそうでしょ……それが普通の反応だよ……」
「じゃあ俺行くわ!」
「あっ、はい……」
大きく手を振って去っていく不破の後ろ姿を眺めながら、ため息をひとつ吐き出した。
滅多に外出をしない甲斐田は、その度に不破と遭遇する。最初こそ仲良くなりたいは建前で実は狙っているのでは、と疑心暗鬼にもなっていたが、不破の様子を見て違うと確信していた。むしろあの様子で狙っていたのなら恐ろしい。
見えなくなった背中は、すぐに思い出すことが出来る。それだけ不破の背中を、甲斐田は見てきた。つまり、それだけの時間を共有してしまったという事だった。
(慣れって怖ぇ〜……)
心の中で、呟いて。
抱いていたはずの警戒心がもうどこにもない事実に、そっと目を逸らした。
「晴ぅ、なにしてんの?」
「あっすみません!」
「遅いよ、何立ち止まってんですか」
「どこか痛みます?」
「すみません〜! 大丈夫です!」
前を歩いていた三人も立ち止まって振り返る。過去を思い出して歩みを止めてしまっていた甲斐田は、開いた数歩の距離を簡単に縮めた。
結局、あれだけどこの組織にも属さないと決めていたくせに、何の企みもなく接してくれる不破に絆されてしまった。本人はそんな意図を持っていなかったくせに。否、だからこそ。
むしろ不破から聞かされる愉快なメンバーの話に自らが望むなんて、あのころの自分は信じられないだろうな、と思う。望んだくせに決して譲れない条件を並べて、それすら簡単に呑み込んでくれた彼らには日々感謝するしかない。
まあ、仲間になりたいと申し出た時の不破の顔は今でも思い出し笑いするぐらいには愉快だったけれど。
立ち止まったことに気付いてくれる事に。
振り返ってくれる事に。
自分のことを、待ってくれる事に。
隣に並んでもいいと言外に教えてくれる事に。
安心していることを、きっとこの三人は知らない。