不老不死の嘆き

「何でも屋の剣持刀也≠ウん?」
「え?」

 足元から聞こえた声に、剣持は立ち止まる。視線を下にずらせば、青と緑の混ざった綺麗な瞳が己を見上げていた。抑揚の少ない声をそのまま映したように声の主に表情は無い。剣持は真っ直ぐ見つめてくるその子どもに対し、不気味だな、と感想を抱いた。
 まさか自宅の前で、しかもこんなに小さな子どもに声をかけられるとは思っていなかった剣持はしばし困惑のまま硬直し、すぐに持ち直す。

「依頼したいことがあるんだ」
「きみが?」
「うん」

 正直なところ、剣持の感想としてはめんどくさいな≠セった。それを表に出すことはしないけれど。どこからどうやってこの子どもに情報が与えられたのかはわからないが、あまりにも古くないか。なんせ今の剣持は、ただの高校生の剣持刀也なので。

「……人違いじゃないですかね」
「だとしたら否定が遅いよね。それに聞いてた特徴と一致してる。あなたが剣持刀也さんでしょ?」

 その子どもは、あまりにも賢かった。
 見た目で言えばまだ小学校にも進学していないような年齢で、子ども特有の舌っ足らずではあるけれどはっきりと物事を話す。

(本当に子どもか?)

 剣持が疑問に思うのも仕方がなかった。
 己が剣持刀也であると疑わない子どもに盛大な息を吐き出して膝を折る。持ち歩いている竹刀袋が地面にぶつかって揺れた。
 小綺麗な格好をしている子どもは、その服装に反してやけにやせ細っているように思える。骨と皮しかないんじゃないの? 剣持の感想は最もだった。その見た目も相まって正確な年齢を察することはできないけれど、幼い子どもなことに間違いはない。
 剣持がしゃがんだ事により距離が近くなった子どもは、逃がさないと言わんばかりに剣持の服を掴む。その力はとても弱いものではあるが、人通りのある場所、ましてや自分の家の前で振り払うデメリットを数秒考えて、剣持は自宅に招き入れた。

 自宅、とは言うが、剣持が暮らしている住居スペースの下の階には事務所として機能する部屋がある。かつて使っていた部屋をもう一度使うことになるなんて思ってもいなかったが、子どもの目的からしてこの部屋で間違いないだろう。
 掃除はこまめにしているものの、やはり使っていないと埃っぽさは残る。今から掃除するわけにもいかないのでそのままソファに座ってもらい、まだ賞味期限の切れていないお茶っ葉を使って一応もてなす。剣持は子どもの向かいに置かれたソファに腰掛けて、とりあえず、と話を切り出した。

「きみの言う何でも屋の剣持刀也が僕であるかどうかは一旦置いておくとして、話ぐらいは聞きましょう」


 剣持刀也は、目の前で倒れていく男を眺めた。得物に付着した液体を払うように落とせば、まだ汚れていなかった床に色が着く。地面に拡がる水溜まりの量を見て、そっと刀を鞘に戻した。金属音が頭に響く。剣持は刀を握り直して、張り詰めていた空気を緩和させるよう息を吐いた。頭の奥で見知らぬ人間の悲鳴がこだましている。まぶたを下ろしてじっとしていると、その声は次第に消えていった。
 何人もの人間が倒れている。男も女も関係ない。誰もが呼吸をとめて、生命活動を終わらせていた。この場に立っているのは剣持ただ一人だけだった。動かなくなった人間を無感情にも見つめて、剣持は歩き出す。靴の裏に汚れがつかないよう慎重に。けれどその足取りは慣れていた。
 顔についた汚れが乾く前に自身の服で拭いとる。黒色の生地は、それを上手いこと隠してくれた。

(明日も学校はあるのにこの時間まで起きてるのキツ〜……、朝練あったっけ?)

 自分の足音しか聞こえないのは、建物を出たあとでも変わりはなかった。
 真上に登っている月を眺めて、あくびをひとつ。普段健康的な生活を送っている剣持にとって、夜が深まった時間まで行動するには眠気が邪魔をする。早く帰って睡眠を取りたいと願うが、家にいる子どものことを思い出して気を落とした。

 予め聞いていた名前を持つ子どもは約束通り引き取る。他の子どもがこれからどうなるのか、剣持にはわからない。調べた中で不安要素の少ない場所へと送りはしたが、その後のことまで責任は持てないのだから仕方がない。すくすくと成長しようが、死んでしまおうが、それは剣持のあずかり知らぬことだった。
 大人しく眠っていてくれたら助かるのだけど。しかし、人の扱いをしてもらえない場所で過ごしていた子どもが、見知らぬ場所で意識を手放せるのかどうか。剣持には経験がないのでわからない。

 静かに帰宅した剣持は、扉のすぐ側で膝を抱えて座り込む子どもを見て、頭を抱えたくなった。

(やっぱり無理だよなぁそうだよなぁ。えこれ僕がどうにかするの?)

 顔は俯いているため見えない。起きているのかどうかさえわからないのは、扉の音に反応がなかったからだ。いくら静かだと言っても最低限の音は出てしまうのに、無反応だった。……寝てる? 剣持が近付いて手を伸ばした時、子どもが勢いよく顔を上げて、思わず叫ぶ。

「お、起きてたんですか……」
「おかえりなさい」
「……、…………、ただいま」

 久しく聞くことのなかった言葉に、反応が遅れる。返した言葉も、またしばらく口にすることがなかったものだった。いつからか口にしなくなった言葉を発して、なんとも言えぬ感情が浮き上がる。

「けんもちさんに、聞きたいことがあって」
「ああはい、なんでしょう」
「ぼくは、お父さんとお母さんのところへかえれますか?」

 純粋な疑問だった。それはそうだろう。剣持はこの子どもの境遇をよく知らなかったが、普通であれば両親はいるはずである。そしてよくわからぬ大人から解放されたのなら、親の元へ帰れると思うのは、ごくごく普通のことだった。ましてやそれまで問題なく暮らしていたのだから、余計に。
 剣持はなんて答えるか悩んだ後、素直に伝えることにした。隠していたって意味はないので。例え今この時に理解がされなくたっていつかその時はやってくるだろう。

「これは、あくまで聞いた話ですが」

 そう前置きをして、剣持は、彼にとって残酷な真実を告げた。

 なぜ依頼をしに来た子どもが、彼を引き取ってくれと頼んだのか。剣持は話を聞いた時から予想できていたことをあえて聞いた。そしてその答えは予想通りだったわけである。
 彼の――加賀美ハヤトの両親は、既に死んでいる。
 あの子どもがどうやって調べたのかまではわからないけれど、軽く調べただけの剣持でさえある程度の情報が読み取れたのだから、調べること自体は簡単だったかもしれない。加えて加賀美の名前がはっきりとしているので余計に。
 簡単に調べた結果では事故死だと書かれていたが、きっとおそらくそうではないのだろう。口にはしなかったが、剣持はそう考えていた。なんせ死亡のタイミングが出来すぎている。ニュースの記事に書かれていたのは家族三人で出かけ、子どもは行方不明。両親は捜索中に不慮の事故で死亡≠セなんて、わかる人間にはわかりやすすぎる文面だった。

 加賀美は剣持の話を聞いて、泣き出すでもなく、問いただすわけでもなく、ただ目を伏せた。

「…………そうですか」

 静かに受け入れる子どもは、剣持に聞く前からわかっていたのかもしれない。小さい反応にどうするべきかわからず、動こうとしない加賀美をその場に置いて剣持は上の住居スペースへ向かった。

「……眠れそうなら来てくださいね」

 剣持としては早くシャワーでも浴びて着替えたかった。飛び散って付着した返り血は既に乾燥していて見た目ではわからないが、気分的にはよろしくない。明日――もう本日ではあるが、学校だってある。休んだってなんの支障もきたさないが、それはそうとして。
 いろいろあった一日を振り返って、加賀美の体力がどれほど残っているのかはわからないが、小さな子どものこと。きっとすぐに眠くなって眠るだろうと剣持は予想した。


「え、まだいる……」

 が、しかし。
 剣持が普段起きる時間に目が覚め、念の為にと事務所へ顔を出してみれば、加賀美は深夜から一歩も動いていなかった。反射で飛び出た言葉に反応がないのを見るに眠ってはいるのだろうが、それにしたって座ったまま眠るのは体が痛むだろう。まだ若いとしたって。

「……加賀美ハヤトくん?」

 声をかけても動かない。完全に眠っていることを確認した剣持は、しばし考えて加賀美を移動させることにした。
 事務所スペースは基本的に使用していないため、いろいろと体に悪いだろう。カーテンのないそこは登った朝日に照らされて眩しいが、よくこんな所で眠れたものだ。
 抱き上げた加賀美の頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。




 ピピピ、ピピピ。
 軽い電子音がくぐもって聞こえて、剣持は脇に挟んだ電子機器を取り出した。ぼんやりとする頭のまま表示された数字を眺めて、理解するために頭を回転させるがなかなか数字の意味を正しく受け取ることが出来ない。全く反応のない剣持に、甲斐田が隣から覗き込んで「うわ、」と心底引いたような声を出す。聞こえるままに顔を向けると、眉間に皺を刻んだ甲斐田がこちらを見つめていた。

「なんぼやった?」
「八度五……」
「剣持さん、今すぐ寝てください」
「………………うーん」

 反応の鈍い剣持に、これはいけないと真っ先に動いたのは甲斐田だった。抵抗されないのをいいことに、剣持の腕を掴んで引き上げる。逆らうことなく素直に立ち上がる剣持に、なぜか甲斐田が驚いた。一拍遅れて加賀美も驚く。通常であれば一人で動けるから≠ョらいは言いそうなものなのに、口を開く気配すらないということはそれほど体調が悪いのだろう。
 抵抗される前に、と甲斐田が剣持を引っ張って自室に連れて行く。初めて足を踏み入れた剣持の部屋は、とてつもなくシンプルでできていた。
 シングルベッドにテーブルとデスクチェア。衣服は全てクローゼットにしまわれているため見受けられない。そもそも、制服かパーカーの二択であるからして、そこまでの数は持っていなかった。テーブルの上にはノートが一冊とペン立てにボールペンが数本立っているだけ。甲斐田は引き出しの中身が気になったが、さすがに病人を置いて盗み見るなんてことはできなかった。

「あつい」
「すぐに冷えピタと飲み物持ってきますね、食欲はありますか?」
「ない……」
「うーん、できれば食べて欲しいんだけどなぁ……。でも無理やり食べさせて吐かれても困るし……」
「いらない。だいじょうぶ。ねる」

 吸い込まれるようにベッドに倒れる剣持を最後まで支えた甲斐田は、すぐに寝息を立て始めた様子を見て下敷きになっている毛布を引っ張り出そうとする。力を精一杯込めてみるが、軽くは無い剣持の重さによってびくともしない。体は熱を持っていても季節は冬。暖房をつけたところでたかが知れているし、できれば毛布に包まって欲しいところ。しかし折角眠ったところを起こすのは忍びないし、かといって甲斐田の力だけでどうにかできるほど剣持も小さいわけではなかった。

 社長呼ぶかぁ。
 甲斐田が諦めて部屋を出ようとした瞬間、視界の端に小麦の毛糸のようなものが流れた。反射でそちらの方に顔を向けるが、一瞬視界に入ったはずの色は何一つない。カーテンは半端に空いているから太陽の光は差し込んで部屋の中は明るい。足を踏み入れた時と何一つ変わらない配色に、見間違いか? 首を捻るが、どう目を凝らしたって景色は変わらなかった。
 とりあえず眠りを妨げないようカーテンは閉めておくか。

「しゃちょー、ちょっと手伝って欲しいんですけど」
「構いませんよ」

 甲斐田が加賀美を引き連れて剣持の部屋を覗くと、ベッドの上にこんもりと山ができていた。剣持の姿はなく、甲斐田が出てから自力で毛布を被ったことがわかる。戻ってくる際に冷えピタとスポーツドリンクは持ってきたが、本人が眠っている、しかも様子を見るに頭まですっぽりと毛布を被っているのならわざわざ起こす必要も無いだろう。目が覚めた時にすぐ飲めるよう、そっと部屋の中に入った甲斐田はベッド付近にペットボトルを置いた。

 忍び足で部屋を出、部屋から離れる二人の足音を聞いた剣持は、ゆっくりと体を起こす。吐き出した息はひどくあつい。ゆっくりとした動きで甲斐田が置いていったペットボトルを掴むと、ひんやりとした冷たさが心地いい。どうせなら冷えピタも置いていってくれれば自分で貼るのに。回りきらない思考のまま、冷たいスポーツドリンクで喉を潤わしていく。

(今日の予定……、は、特になかったはず……)

 学校には加賀美が連絡を入れているだろうし、ROF-MAOに依頼が来たとしても誰かが対応出来るだろう。万が一があったとしても留守番ぐらいならなんとかなる。
 頭の中で書き出されている全員のスケジュールを浮かべたあと、自分がいなくてもなんとかなると結論づけた剣持は再度ベッド沈んだ。深く眠れるように、とこだわりぬいたベッドは優しく剣持を包み込む。
 どろりと溶けていく意識の中、お疲れ様です、とやけに元気な声が頭に響いた。


 剣持刀也は夢を見ない。
 剣持は、眠りの浅さ関係なく夢を見ることがない。
 それは昔からであったが、生まれつきなのかまでは覚えていなかった。なんせ剣持刀也の体は十六歳で変わってしまったので。十六歳以前の記憶を掘り起こそうとすれば、もうどれだけ前になるのだろう。途中で考えることを諦めた故に、正確な年数はわからないけれど。
 十六歳の誕生日を迎えて数ヶ月経ったある日、剣持の体は成長しなくなった。空腹を訴えることはなかったし、眠気に襲われることもなくなったが、今まで通りと同じように食事を摂ることは出来るし睡眠を取ることもできる。怪我をして血を流すこともあるが数日放置していればその傷はどこにも見当たらない。昔から剣道を嗜んでいた剣持にとって、すこし、ほんのすこしだけありがたかった。

 そしてそれは、剣持が人間ではなくなった証拠でもあった。


 部屋の外から聞こえる物音に、剣持は目を覚ます。体に怠さは残るが、ぼんやりとしていたはずの頭はしっかり回っているし意識もハッキリとしている。
 住居スペースはリビングから各自室へ行けるようになっているため、剣持以外の誰かしらが自室に戻ったのだろう。起き上がらず、被っていた毛布が足元の方にズレていたので肩まで持ち上げた。しかし、コンコン、と控えめなノックの音が響いて、はい、と剣持は寝起き特有の掠れた声を出す。開いた扉を見ることはなかったが、足音を聞いて誰が訪れたのかは理解した。

「もちさんおはよ〜」
「……おはよう」
「声やばくないっすか? 乾燥した? あ、甲斐田が持ってたったやつは飲んだんやね」
「うん……ごめんだけどもうちょっとボリューム落として」
「あ、はぁい」

 普段から声がとても大きいわけではないが、熱が出ている剣持にとってはそれでも頭に響く。囁くような声に変えた不破は、少し減ったペットボトルを手に取り寝転んだままの剣持へ差し出す。受け取って起き上がろうとするが、上手いこと体が持ち上がらず、ペットボトルをしっかり手に持ったままベッドに倒れ込んだ。

「大丈夫すか?」
「うん」

 倒れた衝撃で脳みそが揺れる感覚に、頷くので精一杯だった。喉の乾きは特にないものの、一応飲んでおいた方がいいだろう。重たい体を起き上がらせた剣持は、普段よりも弱い力でペットボトルの蓋を開けると一気に飲み干した。
 別に、喉が渇くことはない。ないけれど、水分を取れば喉が潤う感覚はある。食道を通って胃に溜まる感覚も、ちゃんとある。

(相変わらず不思議な体してんなぁ)

 もうずっと付き合いのある自身の体に思うことでは無いけれど、感じる度に思う。

「ゴミ捨てとくんで。もちさんはゆっくり休んでもろて」
「ああ、うん、ありがとう」

 カラのペットボトルを受け取った不破は、次いで「なんかいるもんある?」と問いかけた。剣持は首を横に振って大丈夫だと答えたあと、大人しく横になる。体として睡眠は必要ないが、今はひとりでいた方がいい。

「なんかあったら呼んでな」

 不破は目を細めて微笑んだ後、できる限り足音を立てないように部屋を出た。後ろ姿を見送った剣持は寝返りをひとつ。無機質な壁と向き合って、肺が空っぽになるまで息を吐き出した。体温はおそらく下がってはいないので、吐き出された息も熱いままだった。

「いつも思うんだけど、なんで熱は出るのさ」

 ぽつり、と。小さく呟いたのは一人言だった。
 一度眠りについたことにより区切りがついたのか、ぼんやりしていたはずの頭は徐々にいつもの思考を取り戻している。しっかりと言葉にも反映されているので、呟いた音も普段通りとは行かずともハッキリとしていた。
 睡眠も食事も必要なければ怪我もすぐに治る体を持つにしては、よく熱を出してしまう。原理も理由も不明。汗を大量にかくわけでもなければ、咳が出るわけでもない。体の芯が冷えているわけでもないので、暑いのに寒い、という訳の分からない状態になることもない。
 完全に体が熱を持って怠さを伴うだけの発熱は、何度経験したって理解はできなかった。どうせならば発熱だってしなくていいのに。無駄に時間を潰すだけだろう、と。

 ――こればっかりは仕方がないっすねぇ。

 完全なひとりごとに遅れて返事がやってきた。脳内に響く声は男の声と判断できるものの、低くはない。剣持は突然の声に驚くこともなく、そう、と瞼を下ろす。次に目を開けた時には、目の前にふよふよと浮かぶ小さな小麦をまとった男が、そこにいた。
 というより、熱が出ているのだから脳内に直接話しかけないで欲しい。最初からそこに現れてくれれば、きちんと会話ができるのに。

「刀也さんは元々人間だからねぇ」
「それと発熱は関係あるわけ」
「言ってなかったっすか? 調整が必要だから、そのためっすよぉ」

 調整、とは。剣持は疑問を浮かべたが、どうせ説明を受けたってほとんど理解はできないと聞くことを諦めた。相手は人間の生み出した理論を簡単に崩してくる存在なので。
 黒を基調とした和服を身にまとった男の髪は長い。向かって左目のすぐ下に描かれた赤い模様が何のためのものなのか、長い付き合いではあるが剣持はいまだ知ることがなかった。頭の上には髪と同じ色のふさふさが、動物の耳のように立っているが、その下には人間と同じ耳もついている不思議な見た目をした男こそ、剣持を人間の理から外した人物だった。否、人では無いけれど。

「不便すぎない?」
「こればっかりはオレじゃどうしようもないんで、甘んじて受け入れてください」
「勝手にしたくせによぉ……」
「それは謝ったじゃないですかぁ! 受け入れたのは刀也さんでしょ!?」
「知ってる? こういうのは受け入れざるを得なかったって言うんだよ」

 かみさま・・・・は、いつだって理不尽だ。
 脳内で文句を流した剣持は、しかし、人間だって理不尽だと思い直す。
 剣持は、伏見ガクと名乗る男のことをよく知らないまま今まで一緒に過ごしてきた。とある誰かたちは彼のことを神様だと言うが、剣持は神様らしい威厳を感じたことは一切ない。しいて言うならば人間だった剣持を、人間でないものに変えた時ぐらいだろうか。それ以外は服装を除けばいつだってただの好青年にしか見えない。大きな声で笑うところも、情けなく眉を八の字にするところも。
 その時はまだ伏見は実態を持ちいろんな人間から見えていたが、今では剣持にしか見えない小さな存在になってしまった。本人曰く、信仰が薄れたからだと言うけれど。昔は自身よりも大きかった背は、今では剣持の手のひらサイズまで小さくなっている。

 空中で胡座を組んでいた伏見は立ち上がり、そっと剣持の額に手を当てる。あつい、と言うが果たしてその体に熱は伝わっているものなのか。

「神様パワーとかで熱は下げられないの?」
「残念ながら無理ですねぇ。そもそもオレにそんな力はないよ」
「使えねぇなぁ!」

 言葉に鋭さが消えているのは発熱しているせいだった。突然の大きな声は部屋の外まで聞こえ、外に人がいたのか控えめなノックの後、もちさん? 不破が声をかける。防音ではないがまさか人がいるなんて思っていなかった剣持は少し焦ったが、どうせハッキリは聞こえていないだろうと心を持ち直した。

「ごめん、大丈夫だよ」

 外に聞こえるように声を張るために体を起こす。言葉通りに何も問題は起きていないのだが、そこで引いてくれるわけもなく。ゆっくりと開いた扉の先に、全員がリビングにいるのが見えて驚いた。いつの間にか目の前に浮いていた伏見は姿を消している。
 普段ならば依頼者が来るかもしれないと事務所の方へ集まっているのに。リビングを使うのは、朝昼晩の食事の時ぐらいだった。それほど心配されているのだが、剣持はなぜわざわざリビングに、と首を捻る。

「もちさんなんかあった?」
「いや大丈夫、本当に大丈夫だから」
「そ?」
「剣持さん、一度熱を測っておきましょうか」
「あー……うん、」
「あとお昼ご飯も、食べられるのなら」
「……もうお昼?」
「そうですよ」

 確か学校には間に合う時間に起きたはずなのだけれど。どうやら一度の眠りで数時間は経っているようだった。確かにカーテンの隙間から溢れる光は眠る前より強くなっている気がする。
 なるほど。朝はよく回っていなかった頭が今は動いているのはこのためか。寝起きで発熱して体が追いついていなかったのだろう。今はもう体が熱さに慣れているので、普段と変わりない受け答えができている。元より、寝起きの剣持はあまり頭が働いていないのだけれど。
 甲斐田が持ってきた体温計を脇に挟んで待つこと数分。機械音とともに引き抜かれた体温計は、剣持が確認するより先に不破に奪い取られてしまった。

「八度三分っすね」
「朝とあんま変わってないですね……。大丈夫ですか? しんどくない?」
「結構元気だけどな」
「ぽやぽや感はなくなりましたよね」
「とりあえず軽く食べて薬を飲んでください」
「冷えピタ貼りましょ、冷えピタ」

 加賀美と甲斐田がリビングに戻る。不破は役目を終えた体温計をケースに直しているところだった。
 すぐに戻ってきた甲斐田の手には、一枚の冷えピタがフィルムの剥がされた状態で部屋に持ち込まれる。横から不破が剣持の前髪を上げるのをただ眺めて、迫り来る感覚に目を閉じた。ひんやりと冷たいシートは、徐々に体温と馴染んで冷たさを感じなくなる。大人しくされるがままの剣持が珍しいのかなんなのか、不破と甲斐田は二人してその場を動こうとしない。

(本当に風邪だったら今頃移ってるぞ)

 風邪ではない説明はできないので口にすることはないけれど。

 更に数分経つと今度は加賀美がトレーの上に湯気のたつ丼椀と風邪薬を載せて戻ってくる。食べやすいよう小皿も準備してくれているようだった。テーブルの上に置かれたそれらはお粥のようで、お米のほんのり甘い香りが漂っている。食欲があるわけでも空腹であるわけでもないが、加賀美が小皿に移している様子を止めることなく眺めた。

 ――風邪だと思われてんすね。

 そりゃそうだろ、と思う。周りに人がいるため口にはしなかったが、恐らく伝わってはいるだろう。
 ただ発熱しているだけで喉の痛みも咳も鼻詰まりもないが、そもそも発熱で最初に思い浮かぶのは風邪である。用意された風邪薬は剣持に効かないが、飲んだところで何が起きるわけもないので拒否するのもめんどうだ。
 拒否したところで不破辺りは子どもが嫌がっているようにしか思わないだろうが。
 この家に置かれている薬も、怪我を治療するための消毒液も、包帯も。救急箱に入っている全ては基本的に剣持以外のために置かれている。なぜなら剣持にはそれらを必要としないから。しかし余計なことを突っ込まれるのも面倒なため、専ら剣持専用に成り果てているのは如何なものか。加賀美は察していそうなものだけど。

「熱いので気を付けてくださいね」
「……ありがとう」

 受け取った小皿は綺麗に盛られており、熱そうにほくほくと湯気がたっている。じっと剣持を見つめる三人に居心地悪く身を動かすが、部屋から出ていく素振りはない。

「…………なに? 食べづらいんだけど」
「ちゃんと食べるんかなあって」
「食べるわ! ちゃんと食べるから向こう行っててよ」

 剣持の言葉に、三人は仕方ないなぁとそれぞれ表情に滲ませる。なぜ見つめられながら食事をしなければならないのか、普通に気になって仕方がない。
 姿を消していたはずの伏見が突然現れケラケラと笑っているが、笑い声は剣持にしか届かないだろう。スプーンを手にしたままじっとりと三人を見続けていれば、観念したのかそれぞれが部屋から出ていこうとする。

「刀也さんも大変っすねぇ!」

 誰のせいだと思ってんだ! 叫びたい衝動を内に秘めたまま、目線だけを動かして伏見を見る。
 だから、剣持は気が付かなかった。
 加賀美が、不意に聞こえた聞き慣れぬ笑い声に反応したことを。




「あの、お二人は聞こえましたか……?」
「はぇ?」
「なにがですか?」

 思ったより剣持が元気そうでよかった。そう話す不破と甲斐田に、加賀美はひとつの疑問をぶつける。恐る恐るといった様子で問いかけた加賀美は、二人の反応を見て察した。あれは、自分にしか聞こえていなかったのだと。
 扉に背を向けて立ち止まった加賀美を不思議に思うが、それよりも問いの方へ意識が行く。場合によってはふざけることもあるが基本的に落ち着いた人間である加賀美は、こういった突拍子もないことを言わないので気になるのも仕方がない。

「社長、何が聞こえたんすか?」
「声、らしきものが……」
「俺らの声じゃなく?」
「はい。何を言っているのかまでは聞き取れませんでしたが、確かに知らない声ではありました」

 この建物に、ROF-MAO以外の人間がいるわけがない。いたとすればそれは不法侵入になるわけで。今すぐ追い出さなければならないのだが、事務所の戸締りは三人がかりで確認しているので侵入者の線はないだろう。
 そもそも、暗黙の了解として。有事の際以外は個人の部屋に立ち入らないルールが設けられている。それぞれのプライベートを守るために、使用するしないは個人の自由だが鍵だって設置されている。今回簡単に剣持の部屋へ入ったのだって、彼の発熱があるからであって。
 首を傾げる加賀美に、不破がぽつりと呟く。

「……幽霊、とか」

 静かな声が部屋に響き渡って、静かに溶けた。四つの目が不破に向けられる。暫く誰も口を開かない状況が続いて謎の緊張が走った。

「そ、そんな非現実的なもの存在するわけがないじゃないですか! ねえ! アニキが言ったら本当にいるかもしれないじゃん!」
「いやーわからんでぇ」
「いないって言って……!!」
「はいはいおらんおらん」
「あにきぃ……」

 甲斐田の言葉が面倒になった不破は適当にあしらうが、当の本人は少し泣きそうだった。拉致監禁拷問経験者が今更幽霊に怯えるなんて……、それはそうとしていい大人なのに。そもそも甲斐田は魔法使いであるからして、万が一本当に幽霊がいたとしても魔法でなんとかできそうなものだが。加賀美は一連の流れを見届けて、苦笑いを浮かべることしか出来なかった。

「お二人が聞こえていなかったのなら、私の気のせいかもしれませんね」

 空耳かもしれないし、何かの音が人の声に聞こえただけかもしれない。そう自分を納得させるが、やはりあれは人の声で間違いないと心の奥底では確信を持っていた。理由はわからない。わからない、が。
 間違いなく、人の言葉を話していた。聞いた事のない声だったけれど。――本当に?

「まぁそういうこともあるわな」
「気のせいでありますように……。………………ぁれ、」
「どうしたん」
「………………いや、なんでもないです」
「なんやねん」

 加賀美が聞いたという声が気のせいだとしたら、今、視界の端に揺れた小麦だって、きっと気のせいだろう。甲斐田は、そう思い込むことにした。


 部屋を出ていた伏見が、扉をすり抜けて戻ってくる。実態の伴わない体は至るところをすり抜けできるらしい。同時に、それは物に触れることができないと言っているようなものだけれど。便利なのか不便なのか。火傷しない程度に冷ましたお粥を頬張っていた剣持は、刀也さーん、と己の名前を呼ぶ伏見に目線だけで答えた。

「バレたかも」
「なに?」

 口の中に入っていたものを飲み込んだ剣持は、悪びれている様子を見せないながらも結構重要なことを言っている伏見に低い言葉で返す。やばいっすねぇ、と言うぐらいならケラケラ笑うのはどうなんだ。
 小皿に分けられた最後の一口をスプーンで運んだ剣持、そのまま伏見に目をやって続きを求めた。変わらずふよふよと浮いている伏見は近づいて、小皿の縁に腰掛けた。体の前で腕を組んだ伏見は目を伏せる。

「聞こえてたらしいんすよねぇ」
「……誰に?」
人間・・に」

 ぱちぱち。目をかすかに見開いた剣持は数回瞬きを繰り返して、あぁ、と伏見の言う人間≠ェ誰なのか理解して呟く。決して人間でないものがいるわけではないが、世界と伏見の感覚が違うことなんてとうに知っている。人間ではないものなんて、この場においては己と伏見だけだろう。

「そういえば加賀美さん、昔聞こえるって言ってたな」
「オレ聞いてないんですけどぉ?」
「でも忘れてるっぽいし、良くない?」

 まだ加賀美がやってきてまもないころ。ほんの少しの怯えを潜めた目で見つめられたことがあった。最初は人に対するものだと思っていたが、曰く、誰もいないはずの場所で声が聞こえるのだと。言葉をきちんと聞き取ることはできないが、確かに知らぬ声がするのだと。
 剣持はすぐにその声の正体にたどり着いたが、加賀美には「気のせいじゃない?」と誤魔化しておいた。きっとまだ幼い子どもに説明したところで理解も納得も得られないだろう。大人になればどうかと問われれば、剣持は首を捻るしかないが。
 現在において、世の言う神様は人間である。いつしか世界はそう変わっていった。伏見から言わせてみれば、それはただの自称でしかないし、そもそも、この世界にもう人間はほとんど存在していないのだけど。
 お粥のおかわりをするためテーブルに置かれた丼椀を手に取って、今度は直接スプーンを差し込んだ。小皿の縁に腰掛けたままだった伏見は手で追いやった。やってきた時はほくほくと天に向かって流れていた湯気も、もう色を消している。中を見れば思ったよりも存在している量に、普段からこんな食べてないだろ、と心中呟いた。空腹も満腹も感じないため食べれない量ではないが、総量を見れば加賀美基準で作られていることがわかる。

「最終的に気のせいってことになりましたけど、共有されてましたよ、オレの声」
「気のせいになってるならいいじゃん」
「幽霊にされかけたんですけど!」
「似たようなもんでしょ」
「ちがいますぅ」
「はいはい神様だもんねガクくんは」

 剣持は幽霊を見たことがないが、神様だと呼ばれる伏見との違いはいまいちわからない。人間にとっては幽霊も神様も人間でないものという括りは同じのはずなのに、どうして区別したがるのか。不思議な気持ちになりながらも、剣持は頬いっぱいにお粥を詰めて食していく。

「人間だって、区別したがるでしょ」

 丼椀の中身が空になりかけたとき、伏見がぽつりと声を上げた。返事はしなかったものの同意だけ示して、最後の一口を食べる。

(それはそうだ)

 剣持の生まれた時代から、人はみな区別した。否、区別と言うより、――アレは、ただの差別。
 世界に能力者が生まれてからも人は人を分けたがったし、その結果が今の世の中だろう。昔から生きる二人にとって、人はただの人でしかないのに。時代が進んだことによりいろいろと便利にはなったが、不便なことは不便なままだった。

「ガクくんはさぁ、能力の持っていない人のことを人間と呼ぶでしょ」
「そうっすね」
「でも僕は、能力の有無関わらず人間は人間だと思ってるよ」

 いつの時代だって、争いを始めるのは人間だった。それは能力者が生まれても変わらないのだから、――むしろ、過激化しているのだから、人間とは愚かなものだと思う。だからといって剣持は世界を変えようなんて思わないのだけれど。いや、出来なくはないだろうが、やる意味を剣持は持ち合わせていなかった。

 なんせ、剣持刀也は正真正銘、人間の理から外れた不老不死≠ネのだから。


 ――コンコン。
 日付がちょうど変わった頃、ノックの音が聞こえて剣持は体を起こした。どうぞ、と口にすれば遠慮気味に開かれる扉の向こうには、ラフな格好をした加賀美がいる。もう寝るところなのだろうことが読み取れるが、わざわざこの時間に部屋にやってきたのはなぜか。別に今でなくたって、朝起きてからでも問題はないのに。
 いつかの夜と立場が逆になってしまった。普段、深夜に部屋を訪れるのは決まって剣持の方であったのに。

「どうかした?」
「お休みのところすみません、……少し、聞きたいことがありまして」
「うん、いいよ」

 入室を許可すればおずおずといった様子で中に入ってくる加賀美に笑いそうになる。初めてでもあるまいし、そんなにかしこまらなくたっていいのに。ベッドの縁に腰掛けた加賀美は、頼りなさげに視線をさ迷わせたあと覚悟を決めたのか剣持の名を呼んで目を合わせる。昔から時折加賀美が見せるその目は、迷子になった子どものようだった。

「体調はいかがですか?」
「大丈夫だよ。みんな大袈裟すぎるんだって」
「でも熱が高ければしんどいでしょう」
「そうでもないよ。ただの発熱だし」

 で? 聞きたいことってなに?
 できるだけ声を優しくした剣持は問う。加賀美が聞きたいことはなんとなく予想できていたが、本人の口から聞かれるまで答えるつもりはない。もしここで加賀美が誤魔化すのならば、剣持だって知らぬフリを通すつもりだった。
 加賀美は一度開いた口を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「今日、久しぶりに声を聞いたんです」
「うん」
「昔……、私がここに来たすぐのときに、聞いた声を」
「うん」
「あの時は剣持さん、気のせいだと言いましたよね」
「そうだね、言ったよ」

 ガクくんさぁ。穏やかに相槌を打ちつつ、剣持は心の中でかみさまの名前を呼んだ。なぁにが気のせいってことになっただよ。ばっちり疑問になってんじゃん。予想はしていたけれど、本当にそうである確率は低かったのに。
 どうやら姿は見えていないようなので説明は全て剣持に丸投げされているこの状況に、ただただ呆れる他ない。当の神様はどこへいるのやら、剣持の視界には写っていなかった。

「その声が誰のものなのか、ってこと?」
「はい。剣持さんなら知っているかと思いまして」
「そうだなぁ。まず前置きとしてだけど。信じる信じないは自由」
「はい」
「アイツはね、……かみさま≠セよ」

 かみさま、と口の中で言葉を転がした。加賀美はゆっくりと目を丸くして、ただそうですか、と答えることしかできない。
 反応を観察していた剣持は、だよなぁ、と苦笑いするしかない。自分が生まれた時代であればすんなり受け入れる人間がほとんどだったが、この時代のかみさま、なんて。誰が信じるのだろう。そもそも剣持だって、神様という存在がいることを理解していても、小さくなった彼が神様であることはいつまで経っても半信半疑のままだ。

「……その、どうして神様が、ここに? すみません、答えたくなければ言わなくてもいいのですが」

 じっと、加賀美を見つめる。加賀美が剣持を見つめ返す。どのぐらいの時間そうしていたか、見つめ合うこと数秒、もしくは数分。沈黙を切り裂いたのは、この場に似合わない明るい声だった。

「刀也さんの親みたいなもんっすからね!」

 ぽん、と効果音がつきそうな登場の仕方をした伏見が目の前に突然現れる。相変わらず好き勝手に現れるやつである。加賀美には見えていないようで声の主を探しているが、目の前にいるぞとは教えてやらなかった。剣持の目にはしっかりと伏見の姿が写っているというのに、不思議なものだ。

「え、どこから……。親? 剣持さんの保護者の方ですか!? 神様が!?」
「違う違う真に受けるな! 違うから! ちゃんと人間の間に生まれてるから!!」
「刀也さんの保護者です〜」
「オイ待てガクくんちょっと黙って、お願いだから。ややこしくなるだろ」

 これ以上喋らせないために手を伸ばすも、伏見に触れることなく通り抜けていく。はっきりと伏見の姿が見えている剣持は、己の手が体を貫く様を見て慌てて腕を引っ込めた。加賀美は一連の流れを見て、そこにいるのか、と姿の見えない伏見を捉える。
 引っ込めた手で項垂れる頭を支える。はぁ。大きく息を吐き出して自身を落ち着けたのち、指の隙間から加賀美を見上げた。

「僕はちゃんと人間として生まれてるし、神様と血が繋がってるわけじゃないから」
「……そうなんですね?」
「信じてないでしょ」
「いえ、まさか。剣持さんが嘘をつくわけないじゃないですか」
「…………まぁ、まぁ……」

 ハッキリと答えることができなくて口をもごもごと動かす。曖昧な返事になってしまったが、気を取り直すように咳払いをひとつ。

「…………聞いても?」

 恐る恐る伺いを立てる加賀美に、少し思考をめぐらせたあと、面白くないよ、と前置きをする。本当は話すつもりなどなかった。どれだけ長い付き合いがあろうともそれらは全て過去であり、これからの未来に関係がないから。だけども話したくないか、と問われれば、否。別に話さない理由も特別なかった。今まで、聞かれる機会がなかっただけで。
 真面目な話をするために背を正したが、結局、剣持は肩の力を抜いた。

「加賀美さんは知ってるでしょ、僕が歳を取らないこと」
「そうですね。出会ったときから何も変わっていない」
「そうなる原因、というか、キッカケというか、そういう話になるけど」

 これは、はるか昔のお話。
 まだコンクリートの家が存在せず、当たり前のように電子機器も存在しない、そんな時代の話。

 剣持刀也は、二人の人間の間に生まれた、ただの子どもだった。裕福な家庭が珍しい時代に似合うように生まれた家も、当然日々を生きるのに精一杯であったが、それなりに当時のことを思えば満足した生活を送っていたと思う。天候に命が握られていたとしても、ほどほどに、生きる程度には安定していた。
 どこかの土地では争いがあったらしいが、剣持の生まれた村は平和だった。元気に育った剣持は継ぎ接ぎだらけの布を身にまとって走り回っていたし、時々農作業を手伝ったり、極々普通に生きていた。――過去形である。
 山の神がおり。川の神がおり。豊作の神がおり。そして、土地の神がいた。
 剣持は伏見がどの神に値するのか知らないが、それでも村の人間は様々なものに神が宿っていると考えていたし、実際、いたのだろう。他の神を見たことがないので断言はできないが。

 それは、本当に、突然の出来事だった。何歳のときだったろうか。確か、六つの誕生日を迎えたすぐ後だった気がする。
 まだ幼い剣持を連れて出たのは両親で、繋がれた手があたたかかったことだけを覚えている。目的地は大きな洞窟で、奥に小さな祠があった。その祠の前で両親が礼をするのを真似して頭を下げた剣持は、その時両親が口にした言葉を聞き逃すことなくしっかりと耳に入れた。
これからよろしくおねがいします
 年齢の割に利口だった剣持ではあるが、その言葉が何を意味するのか、その時は全く理解できずに同じ言葉を続けて口にした記憶がある。今思えば、なんて愚かなんだろうか。いや、ある意味正しかったのかもしれない。
 両親はそのまま剣持の手を離して帰ろうとするので後ろを追いかけるが、「とうやはここにいるんだよ」と、その一言で縛り付けられることになる。

「……あの、剣持さん、それって」
「まあ、そうだね。わかりやすくストレートに言うと生贄」
「……すみません」
「いいよ、別に。殺されたわけじゃないし」

 どうして自分が選ばれたのか、剣持はついぞ知ることはなかった。今では知る由もないし、当時の自分でも別に知らなくていいと思っていたはずだ。知ったところでどうにかできる問題ではないことを、剣持は幼いながらに理解していたので。
 あくまで放置という手段で捧げられた剣持は、そこで伏見と出会った。両親が捧げた相手が、伏見だった。

 ――ありゃ、また子ども?
 ――はじめまして、けんもちとうやです
 ――はじめまして! 伏見ガクっす!

 目の前をふよふよと浮いている伏見と何一つ変わりない姿で出会って、剣持は今まで過ごしてきた中で伏見が容姿を変えたところは見たことがない。そういうところは人間ではないのだろうな、と思わせるところではあるが、それ以外はとても人間らしいのが不思議である。なんなら、今の剣持よりも人間らしいまである。
 六つという幼さではあったが、洞窟での暮らしは村での暮らしとほとんど変わることはなかった。なんせ時代が時代である。自分たちで食料を手にしなければ生きていけない時代で、場所が変わったぐらいで生活が変わるわけがない。どういう手段を用いたのかはわからないが、伏見が時々食料を分け与えてくれたのも大きいのかもしれない。捧げられてからは降りない方がいいと伏見が忠告したので、素直に従った剣持はそれ以来、村の人間と顔を合わせることもなかった。
 それから十年。なにも問題なくすくすく育った剣持の成長は、ぴたりと止んだ。
 十六にもなればそこまで大きな成長があるわけでもないので最初は気がつかなかったが、朝昼晩、どの時間になっても空腹が訪れることはなく、そして、眠くもならないというのは、合図としてわかりやすかった。数日だけであればそういうこともあるか、と納得できるものの、数ヶ月となれば話は別。
 なにか病気にかかったかもしれない。ひっそりとした不安はできるだけ隠して伏見に相談すると、心底申し訳なさそうな顔をして白状した。

 ――…………すみません、オレが止めました
 ――と言うと?
 ――自分勝手なのはわかってるんすよ、わかってるんですけど、でも、刀也さんって人間じゃないですか
 ――そうだけど
 ――いつか、いつかきっと、死んじゃうじゃないですか
 ――そういうものだからね
 ――だから、……人間じゃなくなればいいな〜、みたいな……?

 この瞬間に、人間の理から外れた不老不死、剣持刀也が誕生したのだった。十六歳から歳をとることはない。怪我をしてもすぐに治るし、それは致命傷でも同じだった。基本的に病気になることもなく、不調と言えば、定期的に訪れる発熱だけ。四肢の切断は再生できないのでやめろと言われたので試していない。
 伏見の話を聞いたとき、剣持は怒ることをしなかった。悲しむこともなかった。六年育ててくれた両親と同じように歳をとって死ぬことはなくなってしまったが、それでも、剣持は特に大きな感情を持つことはなかった。
 ただ、自分勝手だな、とは思ったけれど、それまでだった。せめて相談するか予め話を聞かせてくれたらよかったのに、とは思ったかもしれない。覚えていないということは、そこまで強く思うことがなかったのだろう。
 自分勝手なのは、人間も神様も同じだっただけ。ただ、それだけの話。

 ――……怒ってないんすか?
 ――うん
 ――ほんとに?
 ――ほんとだよ
 ――うそじゃなく……?
 ――ほんとだってしつこいなぁ。僕が怒ったところで戻してもらえるの? 人間に
 ――いやぁ……

 その反応が答えだった。ぴょんと跳ねた髪が心做しか元気がないように見えるが、そうなるならどうして黙って実行したのか不思議で仕方がない。もう起こってしまったことはどうしようもないし、戻せないのなら尚更だった。それよりも剣持は、今後どうやって生きていくのか考えるべきだと思う。
 人間ではなくなってしまった。聞くに、人間と同じように過ごすことはできるが、しなくても問題はないのだと。それならばそれで、もう開き直るしかないじゃないか。

「ちょっと待ってください、あっさりしすぎでは!?」
「だってどうしようもないじゃん。ねえガクくん」
「……そぉ、っすねぇ…………」
「ああ本人……いや本神? の元気が……」
「あとはもう、のらりくらり過ごして今に至る、って感じかな」

 申し訳なさから、伏見は剣持の視界から外れ物陰に隠れてしまう。加賀美からすればその行動は見えていないのだが、声の位置が遠くなったことを感じてなんとなく察していた。
 時代が進み、学生という身分ができてからは周りに馴染むよう学校に通うことを始めた。自分の知らない場所で起きた出来事、生まれたものを知るのは楽しくて苦に感じたこともなければ、小さい頃から触れていた剣道をしっかりと学び続けられることは間違いなく嬉しい。正直、そういった点で言えば、剣持はこの状況に感謝していたし、満足もしている。

「まあ、知らない間にぽんって生まれた能力者が増えて今では困ることもあるけど」
「え、剣持さんの生まれた時代に能力者はいなかったんですか?」
「いなかったよ。みんな普通の人間。加賀美さんと一緒。……ああだからかな? ガクくんの声が聞こえてるの」

 確か村の人間は神様、もとい伏見の声を聞いていたはずだ。もう記憶が朧気なので確証はないが、たしか、そうだったはず。

「そういう……、なるほど……。剣持さんが能力の影響を受けないのは能力者のいない時代の人だからでしょうか?」
「いや、それはどうなんだろ、あんまり関係ないんじゃない?」
「生まれた時代じゃなくて、刀也さんが人間じゃないからだねぇ」
「らしいよ」
「今発覚する事実ってどうなんです?」

 剣持は永い時を生きているが、すべてをしっているわけではないのだ。当然しらないこともあるし、これからしっていくこともある。その内の一つが、能力に関することなだけで。なんせ、剣持にとって突然変異で生まれ始めたのが能力なので。
 不破と出会ったとき、彼の能力に名前を与えたことがあるけれど。それは偶然不破の能力のことを知っていただけであって、知らない能力だったなら剣持だってわからなかった。あの時は偶然に偶然が重なっただけのこと。
 剣持の話を咀嚼し終えた加賀美はゆっくりと息を吐き出した。短く話してくれたものの、いかんせん情報量が多い。ひとつひとつ整理するように呑み込んだ加賀美は、ありがとうございました、と礼を言った。

「遅い時間に付き合ってもらって……」
「言ったでしょ、僕は寝なくても大丈夫だから気にしなくていいよ。それよりそっちの方が眠そうだけど」
「まあ、時間も時間なので……そろそろ」
「ん。年寄りの話に付き合ってくれてありがとね」
「その見た目で年寄りは違和感があるなぁ」

 過去に同じ話をした人間は複数いる。しかし、次の日になればみんな綺麗さっぱり忘れているのだ。恐らく、剣持の予想では伏見の仕業なのだが、聞くようなことでもないので真相は闇の中である。
 果たして。寝て目が覚めたとき、加賀美は今の話をどれぐらい覚えているのだろうか。

(まぁべつに、忘れててもいいんだけど。………………ちょっとは、さみしいかもしれない)




「ただい、…………?」

 剣持が事務所のドアノブに手をかけた時、中から聞き慣れぬ女の声が聞こえて動きを止めた。音を出さないようにそっと扉を開けて覗き込んだ剣持は、加賀美の背中越しに見える姿を捉えたあと、事務所に二人がいないことを確認して閉める。

(……裏口から帰るか)

 この建物には、剣持しか知らない場所が複数ある存在する。建物の裏側へ回った剣持は、南京錠で施錠されているのを手持ちの鍵で開いたあと、静かに階段を登っていく。外側に設置されている非常階段となるその場所は足音がよく響くが、周りも同様ビルばかりなので剣持の居場所がバレることはない。非常用ではあるが、住んでいる人間がなかなかに腕っ節がいいため使用されたことは今まで一度だってなかった。
 どうやら不破と甲斐田は出払っているようで、誰にも姿を見られることなく自室へ戻ることに成功した剣持は、荷物を乱雑に置いたあとブレザーを脱ぎネクタイを変えて部屋を出る。シャツとズボンは制服のままだけれど、知らない人間からすればそれなりの服装には見えるだろう。非常口に放置されたままのローファーを手に持って玄関で履いたあと、堂々と表の階段を下り事務所の扉をノックする。中からの返事を聞くことなく扉を開いた剣持は、にっこりと笑みをたたえて部屋の中へ一歩踏み出した。

「はじめまして、剣持刀也と言います」
「……誰ですか?」
「剣持さん……。私の上司にあたる人です。申し訳ありませんが私はここで退席させて頂きますので、あとは剣持へお願いいたします」

 初老の女は驚きで目を丸くした。加賀美は一度深く頭を下げてから席を立ち、心配を含んだ瞳で剣持に目をやったあと静かに部屋を出る。
 見たところ随分と若いようだけれど、本当に大丈夫なのか。女の目がそう語っているのも気にせず、剣持は加賀美が座っていた場所へと腰を落ち着ける。普段の定位置ではない場所は、同じ景色のはずなのに違って見えた。足を組んだ剣持は目の前に座る女を観察して、上機嫌に微笑んだ。
 落ち着かないのか体の重心がよく動いているが、上品な色合いでまとまっている着物は素人目からしても上等な品だとわかった。服に着せられているような雰囲気もなく、見栄を張った結果の服装でないことは一目瞭然。若い剣持が現れたことにより不審がってはいるが焦燥は見られない。この手の依頼をしてくる人間は二分されるが、どうやら当たりのようだった。

「改めてお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 笑みは絶対に崩さない。視線も絶対に逸らさない。剣持はこの女がどのような要件でやってきたのか察しているので、その余裕が崩れることは決してなかった。
 なぜなら、いつも通りに交渉すればいいのだから。


 剣持と交代した加賀美はリビングの椅子に座り帰りを待った。女の話す依頼内容を考えるに、剣持が適切なことも理解しているし、見た目と実年齢が伴っていないことも充分に理解しているが、それでも、加賀美は過去を聞いた上で心配していた。出会ったときから姿が変わらなくたって、今の加賀美からしてみれば歳下に部類されるのだから。実際は加賀美よりも遥か昔に生まれた歳上だったとしても。
 ダイニングテーブルに肘を着いた加賀美は手の甲に顎を乗せて俯く。心を落ち着かせるように何度も吐き出したため息で窒息死してしまいそうだった。何も今回が初めてというわけではないのに、何度見ても慣れやしない。今後の予定を含めて。危ないことをして欲しくない気持ちはあれど、この緩い組織がどうして今まで存在しているのかも、忙しいわけではないのに普通に暮らしていけているのかもきちんと正しく理解している加賀美には、止める言葉は浮かばなかった。

 チクタクと時計の針だけが動いている。不破と甲斐田は安定の猫探しのため不在であるのが救いか。なぜか、剣持はそういった一面を見せたがらないので。加賀美に関してはファーストコンタクトがそうであったため、あまり隠そうとはしていなかった。言及されたことは一度たりともないけれど。そろそろ日が完全に沈むため帰ってくるだろうが、それまでに剣持は戻ってくるのだろうか。少しズレた不安も抱きつつ、ただ待つことしかできず焦れったい。
 永遠にも感じる静寂の中、階段をのぼる足音が聞こえて顔を上げた。この足音はおそらく剣持だろう。今この時革靴を履いているのは己と剣持だけなので。
 時計を見てみればそこまで時間は経っていないが、加賀美の体感としては一時間は超えている。
 扉が開く音が聞こえる前に振り返った加賀美は、貼り付けた笑みを崩した剣持を見て安堵の息を吐いた。

「……どうでした?」
「ああ、大丈夫ですよ。着替えてきます」

 剣持は、嘘をついたり何かを誤魔化すとき、もしくは初対面の相手にだけ、敬語を使って喋る。会話の流れで崩れることはあれど、基本的に丁寧な言葉遣いへと変わる。無意識なのか意識しているのかは不明だが、一緒に過ごす内に加賀美はその法則を見つけていたし、恐らくは正しいだろう。剣持と一番長く過ごしている加賀美だからこそ気づけたので、不破と甲斐田の二人はおそらく知らない。まあ、だからといって加賀美は剣持の嘘の先の真実を見抜くことなんてできないのだけれど。
 すぐ自室へ戻る剣持の後ろ姿を見て、加賀美はなんて声をかけるべきか一瞬だけ悩んだのちに、口を閉ざした。浮かんだ言葉は全て不正解な気がした。

(確か明日の早朝には不破くんが帰ってくるはずだから、それまでに終わらせないと)

 わざわざ付け替えた黒色のネクタイを解きながら、頭の中で全員のスケジュールを巡らせる。夜中に予定が入っているのなんて自分か不破の二択だが、妙に勘がいいのでできれば不破には会いたくない。甲斐田に会う確率は限りなく低いとして、起きていたとしても、自分の帰りを待つ加賀美ぐらいだろう。突然の訪問を除いて明日やってくる予定の客はいないはずだし、加賀美が夜更かししていても問題がないスケジュールだったはずだ。
 特に子ども扱いをしてくる不破は、剣持が夜中ないし早朝に出かけようとすると止めてくるのだ。朝練は仕方がないと割り切っているのか、学校へ向かうため早朝に出ることに関して何かを言われたことはないけれど。こちとらもう百年は軽く生きているというのに。言っていないので、見た目通りの扱いをされることに拒否はできないが。
 部屋着である白色のパーカーに着替えた剣持は、部屋の外にいるであろう加賀美のことを思い出す。そういえば何か言いたげだったが、なんなんだろうか。なにも言われなかったということは、こちらからアクションを取らなくてもいいのだろうか。成長するにつれて遠慮がなくなった加賀美が言い淀むことは珍しいわけではないが、基本的にはないのだけれど。
 剣持は制服を綺麗に畳みながら、ゆるやかに首を傾げた。

 制服をしまうために開いたクローゼットの中には、今着ているものと色違いのパーカーがしまわれている。その隣にはひっそりと自分の手によく馴染んだ得物が立てかけられていた。剣持以外がここを開くことはないけれど、万が一のことを考えて見えないよう奥の方へと置いていることは、加賀美でさえも知らないだろう。知っているのは持ち主である剣持と、気がついたらそばにいる伏見ぐらいである。

「ガクくん、」

 小さく名前を呼んで、数秒の静寂が包み込む。待っても待っても返事が来ないということは、どこか遠くでフラフラしているのだろう。重要なことを伝えたかったわけでもなかった剣持は、今この場にいない伏見が戻り次第言えばいいだろう、と口を閉ざした。

(あの二人が帰ってきたらご飯だろうし、課題でも終わらせておくか)




 足音を立てないように気をつけて自室を抜ける剣持は、誰にも会わないことにそっと息を吐いた。甲斐田が眠りに入ったことは確認済み。不破はとっくに仕事へ向かっていることも知っている。なんなら不破に関しては三人で見送ったので、今家にいることは絶対にないと言い切ることができた。万が一鉢合わせてしまう可能性も考えていたが、しっかり見送ったおかげでその心配はない。加賀美は起きていても寝ていても問題はないから確認はしていないが、夕方の様子からして起きている確率の方が高そうだった。今更なんの心配を、とは思うが、元々そういう性分だったようにも思う。実際言及したことはないが加賀美にはなにをするためにひとり出かけているのか、既に察されているだろうから。きっとほかの三人が自分と同じことをしていたならば、自分だって心配していただろう。そういう自覚だけはあった。
 しっかり施錠されていることを確認した剣持は、己の武器を背負い事務所を後にした。普段持ち歩いている、部活で使っている竹刀袋とは違って真っ黒なデザインのそれは、やっぱり普段よりも重たかった。中から金属音が微かに聞こえるが、それは自分の足音によって周りには聞こえない。
 まだ夜が深まっていないからか、車が横を通り過ぎる。排気ガスをばら撒きながら走る車のエンジン音が聞こえる度、ひとつ、またひとつと奥の道へ入っていく。だんだんと明かりの消えていく道を迷うことなく進んでいく剣持の目的には、もうすぐそこだった。

「刀也さん! あそこじゃないですか?」

 突然現れた伏見が指さすのは変哲もない一軒家。メモはとっていなかったが記憶を思い起こせば、確かに外観は聞いていたものと一致している。剣持はひとつ頷いて、竹刀袋を握り直した。まっすぐ家に向かった剣持は、正面から家を見上げてその場を立ち去った。
 一軒家が連なるその場所は、遠回りになるが道を外れて裏手に回るしかない。流石に正面から堂々と入り込めるような場所ではなかった。人に目撃されてしまってはめんどうなので。いくら人間をやめたからと言って、特別な力が手に入っているわけでもない。そういうのは甲斐田が得意だった。
 辺りを確認した剣持は家と家の隙間に体を潜り込ませる。真っ直ぐ歩けるほど幅はないが、どちらかと言えば体の薄い方である剣持ならば余裕を持って歩いていける。ひとつ、ふたつ、と通り過ぎていく家を数えて、五つ目。

(……ここか)

 依頼主の指定した家の裏までやってきた剣持は、窓から中を覗き込む。向かいに建物があるからカーテンを設置していないのであろうその窓からは、おそらくリビングだと思える部屋の全体を見ることができた。当然明かりはついておらず、人の影もない。窓の縁に手をかけた剣持は、なんの抵抗も受けることなく開いた。鍵がかかっていないのはそういう予定だったからであって、家主はきちんと戸締りをしている。
 軽々と家の中に侵入することに成功した剣持は、足跡がつかないように靴を脱ぐ。組織同士の争いは耐えないというのに、警察組織はやけに優秀ですぐに犯人を見つけてしまうから。どうせならば甲斐田や加賀美のような人間も安心して暮らせる世の中にしてくれればいいのに、とは思うけれど、これがなければ普通の生活ができるほど稼ぎがあるわけでもなかった。
 竹刀袋を床に寝かせた剣持は、ジッパーを引いてその袋を開く。中から取り出したのは竹刀ではなく一本の刀。鞘に収まっているから判別はつかないが、それはれっきとした真剣だった。手に馴染ませるように数回握ったあと、少し考えて袋はこの場に置いておくことにした。帰りだって同じルートなのだから、置いておいたって問題はない。
 予め依頼主から聞いていた間取りを頭にうかべながら、目的の部屋へ足を向ける。剣持が歩く度にフローリングの床が小さく悲鳴をあげるがこれぐらいで目は覚めないだろう。念の為と言っておいたことがあるので、極力足音を殺しながら、しかし堂々と進んでいく。歩く度に腰で鳴る金属音は、剣持にとって慣れたものだった。
 伝えられていた間取りはおそろしいぐらいに正確なようで、迷うことなく目的の部屋へ辿り着いた剣持は、その扉を開けた。
 ダブルベッドに山はふたつ。内、ひとつが依頼主であることはわかっている。私は向かって右側に寝ています。そう言った依頼主の声が頭の中に響いて、首を振った。

(そんなもん関係ないんだよなぁ)

 腰に携えた刀を構えながら、一歩、また一歩と近づいていく。山を作っている人物は動く気配を見せない。その顔が確認できそうなほど近づいたとき、剣持は戸惑いなく刀を引き抜いた。
 それがどちらだったかなんて、もう覚えていない。

 剣持刀也は不老不死である。
 普通に生まれた剣持は、伏見と出会い不老不死へと成り代わった。
 村同士の争いがあった。国同士の争いがあった。世界での争いがあった。たくさんの人が死んでった。目の前で、必死に生にしがみつきながら死んでいく人間を、剣持はたくさん目にしてきた。だからだろうか、いつからか人の死に対して特に感情を抱かなくなったのは。自分自身が死≠ニ遠い存在になった今、どこかレンズを通して見つめている自分がいた。

 剣持は刀にべったりと付着した血を振り払って鞘に収める。金属のぶつかる音が人のいない部屋に響いた。
 振り払えなかった分は家に帰ったら綺麗に片付けないといけない。手入れを怠ってしまえば鈍ってしまうところではあるが、剣持は自信の持つ刀を大層気に入っていた。はるか昔、剣持に刀を与えた人物は、いったい誰だったか。顔はもう思い出せないけれど、大切な人だったような気がするから、きっと父親だろう。伏見の元へ捧げられた時には持っていなかったが、どこかのタイミングで取りに戻った記憶が剣持にはあった。

「ガクくんいる?」
「いますよぉ」
「先に戻って不破くんが帰ってないか確認して欲しいんだけど」

 呼びかければ姿を見せた伏見は、剣持の願いに首を傾げた。長い髪が重力に従っている様は、浮いている伏見になんだか不釣り合いだった。

「それは別に大丈夫っすけど、刀也さん嫌いなんすか?」

 伏見の問いに、今度は剣持が首を傾げる番だった。
 嫌いではない。そもそも、例え剣持が不破に嫌悪を抱いているならば、仲間になんてならなかっただろう。だから剣持は首を横に振って否定を返して、だけど、と言葉を続けた。

「心配されるんだよね」
「いいことじゃないですか」
「死なない人間を心配してなにになるのさ。それより早く休んだ方が不破くんのためでしょ」

 そういうもんかねぇ。伏見の言葉に返事はなかった。
 剣持は部屋を抜け出したあと、侵入してきた部屋まで戻る。置き去りにしていたケースに刀を丁寧な手つきでしまったあと、ゆっくりと背負いあげた。

 この重みが落ち着くようになったのは、果たしていつのことだったか。

 ▽

「社長、もちさんはまだ帰ってないですか?」
「……えぇ」

 明かりもつけていない暗い部屋の中、そっと自室の扉を開けた甲斐田は、ダイニングチェアに座って剣持の帰りを待つ加賀美の後ろ姿に話しかけた。振り返りもせず甲斐田の問いに頷く加賀美の表情は晴れない。
 いつだってそうだった。なにも今回だけではない。加賀美の知らぬところで今回のような依頼を受けていることがほとんどであるが、タイミングの問題で真正面から突きつけられることだってあった。その度に心配してしまうのは仕方がないだろう。そして、心配するのは加賀美だけではない。眠ったフリをして剣持で出払うのを待っていた甲斐田だって、今この場にはいない不破だって、当然のように心配している。剣持自身は隠せていると思っているが、よく深夜に出かける高校生に気づかないほど落ちぶれた大人ではなかった。
 ただ、知られているとわかればもっと巧妙に隠すだろうと言っていないだけで。あの子どもは、妙に頭が回るので。

「おそらく、そろそろだとは思うのですが」
「……もう三時ですもんね」

 甲斐田の視線が時計に移る。明かりはないが暗闇に慣れた目でははっきりと時間を確認することができた。チクチクと動く秒針がもどかしい。大丈夫だろうとわかっていても心配になるのは、彼が高校生だからだけではない。一緒に住む仲間だからこそ心配するのは、きっと剣持だって同じことのはずだった。
 それなのになぁ、と甲斐田はおもう。自分は心配するのに心配されるのには気づかないなんて、鈍感にも程があるだろう。そう思っている甲斐田も、同じことを思われていることを知らない。

「あれ……?」

 不意に、窓を閉め切っているはずの室内で風を感じた。視界の端には最近入り込むようになった小麦が靡いて、一瞬のうちに消えていく。追うように顔を動かしてもその小麦を正しく捉えることはできなかった。

「甲斐田さん? どうされました?」
「……いや、なんでもないです」
「あれ!? 二人いる!?」
「え?」

 加賀美は、突然響いた第三者の声に驚き勢いよく辺りを見渡した。最近聞いたことのあるその声は、伏見のものだった。声の主を理解した途端姿が見えないのだと見渡すことをやめるが、声の場所からどこにいるのか特定はできなかった。
 急に動き出した加賀美に甲斐田が社長? 呼びかけると、咳払いをひとつ吐いたのちに、なんでもありません、と誤魔化した。伏見の声は、この場では加賀美にしか届いていないのだから、その話をしたところで甲斐田に通じるわけがない。しかし、どうして伏見がここに、と疑問を浮かべている加賀美の頭上に、伏見は浮いていた。誰にも姿は見えていないが。

「うーん、どうしましょっかねぇ……。とりあえず刀也さんに報告……? でもそしたら帰れるか……?」

 顎に手を当てながら独り言をぶつぶつと呟く伏見は、加賀美には声が届いている事実を完全に忘れていた。かといって甲斐田がいる手前話しかけることもできない加賀美は、聞こえる言葉に困るばかり。悩んでいる伏見に力になれるなら手を貸したいとは思うが、それはそうとして、加賀美はまず自分がどう動くべきなのかわからなかった。
 いまだ聞こえ続ける独り言を掻き消したのは、甲斐田だった。

「とりあえず、そろそろもちさん帰ってくると思うんで、僕は部屋に戻りますね」

 時刻は甲斐田が部屋から出てきて十分ほど経過していた。相変わらず晴れない表情ではあるが、今ここに居続けるよりもいいと判断したのだろう。加賀美が頷いたのを確認して、甲斐田は部屋に戻る。

「……伏見さん、あの」
「あれ!? あ、そっか、聞こえてんすね」
「えぇ、まあ。独り言もしっかり……」
「あちゃー、恥ずかしいっすねぇ!」
「私も、部屋にいた方がよろしいでしょうか……?」

 加賀美は、伏見の姿を捉えることができない。だから声が聞こえなくなれば、この場にいるのか確認する術を持っていない。しばらく沈黙が続き、会話の途中ではあったがどこかへ行ったのかと思ったとき、疑問に対する肯定が返ってきて加賀美は素直に自室に戻ることにした。どこへいるのかは把握できていないが、とりあえず、と声の聞こえる方へ一度頭を下げる。これから帰ってくる剣持の様子は心配で仕方がないが、伏見が部屋にいた方がいいと言うならそうなのだろう。聞いた話では、長いこと時を共にしているみたいなので。

「刀也さんのこと、心配してくれてありがとうございます」

 背後から、やさしいあたたかな言葉が聞こえた。




「刀也さぁん、中は誰もいなかったっすよ」
「ほんと? それじゃあ帰るか」

 ビルの前で待機していた剣持は、戻ってきた伏見の報告にそう答えるとケースを背負い直した。来たときと同じようにできるだけ足音を立てないように階段を登っていく。革靴ではなくスニーカーなのでそこまで音は響かないが、それでも慎重にいかなければ足音は鳴る。一段一段ゆっくりと登った剣持は、事務所の鍵を解錠して中を覗き込んだ。

(やっぱりさすがにいないか)

 伏見を信頼していないわけではないけれど、やっぱり自分の目で確かめないと気が済まない。建てられてからかなりの年数が経過しているため、扉の開閉ひとつにしても軋む音がする。ほんの少しの隙間だけ開いた剣持は、体を滑らせるようにして事務所の中へ入った。
 夜目が効くわけでもないが、明かりをつければ起こしてしまうかもしれない。剣持は暗闇の中、壁に手をついて事務所の中を歩いて住居スペースへと繋がる階段をまた登っていく。
 伏見は誰もいないと言っていたが、加賀美が起きている可能性は剣持の中でかなり高い。起きていたって特になにかがあるわけでもないが、寝てくれていた方が気が楽だった。
 事務所の時と同じように住居スペースの扉を少し開いた剣持は中を覗く。伝え通り誰も起きてはいないようで、ほっと息を吐き中に足を踏み入れた。住居スペースはほとんど物を置いていないため、気をつけなくてもすんなりと自室に戻ることができる。音にだけ気をつけて歩く剣持は、自室のドアノブに手をかけて動きをとめた。

「社長ぉ、やっぱり待つんですか?」

 剣持の背後から扉の開く音がしたかと思えば、既に寝ているはずの甲斐田の声が暗闇に現れる。音が出るのも構わず自室に入っていればよかったものの、動きを止めてしまった剣持はその場から動くことができないでいた。

(寝たんじゃないのかよ……!!)

 確かに、伏見はいない≠ニ言った。
 決して、寝ているとは言っていなかった。
 その違いに気づけなかった剣持の落ち度ではあるが、そんなややこしい言い方なんてしなくたっていいだろう。伏見を睨みつけようとして、いつの間にか視界のどこにも姿が見えなくなっていた。

(逃げたか)

 あとで覚えてろよ。心の中で恨み言を呟いた剣持は、手をかけていたドアノブからそっと離し、その場に立ち尽くす。
 今まで甲斐田に見つかったことはなかった。それは、普段自室にこもりがちであり、寝る時は早くに寝てしまうから剣持が出るときには必ず自室にいたからだった。今日は研究をしないと言っていたのをたしかに聞いていたし、それならば、この時間にはもう眠っているはずだ。時計を確認していないため正確な時間はわからないが、おそらく、深夜の三時半は回っているだろう。

「え、もちさん……?」

 甲斐田の驚いたような声に、そっと剣持は振り返る。寝巻きを身にまとった甲斐田は眠いのか目を擦っており、さきほどまで寝ていたことがわかる。
 それにしても、だ。なにもこんなタイミングよく起きなくたっていいだろうに。
 実際のところ、甲斐田は寝ずにずっと起きていたし、目を擦っていたのは暗闇の中本当に剣持の姿なのか確認するためであるが、それを当人が知るわけもなく。

「おはようございます、甲斐田くん。早起きですね?」
「エッ……あー…………、喉乾いちゃって……?」
「……そうですか。あんまり起きてるとまた寝れなくなるので気をつけてくださいね」

 にっこりと甲斐田に笑顔を向けたあと自室に滑り込んだ剣持は、扉を背に座り込む。背負っているケースが床にぶつかって音をたてる。紐に引っ張られて体勢を崩しそうになるが、少しよろけただけで終わった。背後から聞こえる物音で、甲斐田がすぐに自室に戻ったことがわかった。聞こえた音では冷蔵庫を開ける音もしなかったし、すぐに扉の開閉音が聞こえたので剣持が自室に入ってすぐに戻ったのだろう。完全に、喉が渇いた人間の行動ではない。

(いつからだ……?)

 いつから知られていたのか。どこまで知られているのか。加賀美はもとより知っていたとして、ほかの二人に伝えるとは考えにくい。不破には深夜出かける姿を目撃され阻止されるが、何をしているかまでは知らないはずだ。わかりにくいよう服装だって普段の色違いしか身につけていないし、ケースだってシンプルな無地のもの。普段部活に持って行っているものとそうデザインは大きく変わらない。暗闇であるなら、なおさら。それに中身が真剣だなんて誰も思わないだろう。
 剣持は顎に手を置き、考える。しかし答えの出ない問いを続けていたって意味がないことはよく知っていた。暫く考えをめぐらせた剣持は、たった数分で考えることをやめた。
 明日の朝には全員揃って食事を摂る。不破はもしかしたら睡眠のために不在かもしれないが、少なくとも甲斐田と加賀美の二人は一緒にいるので、その際になにか言われれば適当に誤魔化せばいい。なにをしているのか知らなかった場合は散歩とでも言えばいいだろう。見た目だけではあるが高校生を深夜に散歩させている大人は、世間的に見れば問題になるだろうが知ったことじゃない。
 偶然の可能性だってあるが、甲斐田はハッキリと待つ≠ニ言っていた。知らない可能性は低いだろう。
 はぁ、と息を吐き出した剣持は、クローゼットに刀を直したあと、汚れたパーカーを脱ぎ捨てた。ほかの服と一緒に洗濯はできないため手洗いになるが、それもいつものことだった。

 刀也さぁん、と情けない伏見の声が聞こえる。ふわふわと部屋の外からやってきた伏見は、申し訳なさそうに眉を八の字にして、顔の前で両手を合わせた。

「スミマセン、まさか出てくるとは思わなかったんすよぉ」
「いいよ別に。もう過ぎたことだし、いるかどうかの確認だけお願いしたのは僕の方だし。でもガクくん起きてるの知ってたでしょ」
「…………まぁ、それは〜……知ってました……」
「次からはできれば教えてね」

 まぁ、その確認も、今後は必要なくなるかもしれないが。


 ――おはようございます。
 朝、制服に着替えた剣持がリビングに顔を出すと、そこには既に三人とも揃っていた。各々自然と決まっていった席に座り、己がやってくるのを待っていたようだった。普段と変わりない時間に出たはずなのに待たれているとは。いつもならば一番手ないし二番手は剣持だというのに。
 普段の朝と変わらない雰囲気のまま、それぞれの挨拶を受け自分の椅子に座る。テーブルの上にはきつね色に焼けた薄切りの食パンと茶色い縁を作った半熟の目玉焼き、こんがりと焼かれた波打つベーコンが。栄養バランスか彩りのためか、隅にはプチトマトが二つ置かれている。
 もし話をされるならば、食事前だろうか。そう考えて、剣持は目の前の食事に手をつけることなく三人の反応を伺う。が、いただきます、と不破を初めに挨拶が始まり、それぞれ手を合わせ始める。

(聞かれ、ない……?)

 慌てて手を合わせた剣持も挨拶を呟いて、食パンを手に取った。一口齧りながら三人の顔を見るが、何も変わらない。いっそ不自然なほどいつも通りだった。溶けたバターが染み込んだ食パンは、口の中で甘塩っぱい味を広げる。口を閉じて咀嚼する剣持は、聞かれないのなら答える必要もないか、と準備していた言い訳を破棄した。




 甲斐田は、深夜にやってしまったことについて、心臓をうるさいほど鳴らして席に座っていた。剣持が起きてくる前に加賀美と不破に相談した結果、触れずにいようと結論づけたが、万が一に剣持から話を出されたらと不安で仕方がなかった。
 関わらないと決めていた。それは、剣持の動向について気がついたときから、決めていたことだった。おそらく触れない方がいいのだろうと察したから、我関せずを突き通そうと決めていた。だからこそ昨晩は鉢合わせたことに驚いたが、剣持が何も言わずに食事を始めた様子をみてほっと胸をなで下ろした。

 不破は、知らんふりが得意である。職業柄か、能力故に築き上げてきたその言動からか、誤魔化すことも得意とした。だからこそ不破は、知らんふりをしてできる限り剣持が夜に出かけなくて済むように気を配った。ホストという職業に就いている不破が深夜に起きていたって誰も不思議には思わない。だからこそ、適任だと自分でも思っている。能力が効かない故に、言葉に気をつけなくても大丈夫だとこちら側に気を使う剣持にとって、少しでも気を休められる場所を作るために。

 加賀美は、初対面が初対面だっただけに、表立って心配することを許された唯一だった。不破と甲斐田の心配を背に、剣持へ直接伝えることができる。本人は不要だと思っている節が度々見られるが、それでも加賀美にとって、心配しないなんて選択肢は存在しなかった。なかなか受け取ってくれない心配を、いつか受け取ってもらえたらいいと、そう思いながら。自分をすくいあげたこの子どもが手を染める機会が、ほんの少しでも減ればいいと願う。


 ROF-MAOという組織を作ってから、何年が経ったのだろうか。どれだけの人が仲間になって、いなくなっただろうか。過去に仲間と呼んだ人間の顔や名前はすべて覚えているが、人数までは覚えていなかった。数え始めてしまったら、両手どころか両足を使ったって足りないだろう。
 どれも大切な仲間だったことに変わりはない。が、しかし。

「おい甲斐田ぁ! 俺の皿にトマト載せるなや」
「エッ、なんのことだかさっぱり……」
「甲斐田さん、好き嫌いはよくないですよ」

 今のところ、このメンバーでいることが居心地がいいかもしれない。剣持は目を閉じて、甲斐田の苦手とするトマトを口に運んだ。

 願わくば、さいごのときまで笑っていられますように。