未確認生物の目撃情報
【1】――ぞわり。背筋が凍った。
そこから目が離せなくなる。見ない方がいいことはわかっている。すぐにでも目を逸らした方がいいことは、本能が警報を鳴らしているから理解しているのに。僕の目線は固定されてしまったみたいに動かない。動かせない。逃げ出そうと気持ちは動いているのに、肝心の体は言うことを聞いてくれなかった。
ソレが、ふわりと揺れた。ひゅっと喉が締まる音が聞こえる。これは僕が生み出したものか。そうか。呼吸が浅くなって、しまいには酸素を取り入れることをやめてしまった。酸素の足りない脳はぼんやりと掠れて思考がうまく回せなくなってきた。
―― 、
くちが、うごく。
何を言っているのか音を聞き取ることはできなかったけれど、たしかに、ソレは、なにかを言っていた。ただ、それだけが確認できた。
くらくらする。足元が歪んでいる。地面が崩れて逆さまに落っこちていきそうで、
「剣持さん? 大丈夫ですか?」
「……、…………、しゃちょ、?」
「顔色が悪いようですが、体調でも崩されてます?」
「……、だいじょうぶです」
いつの間にか呼吸ができるようになっていた。霞んでいた視界が澄んでいく。心配そうに顔を覗いてくる社長はいつもと何も変わらなかった。
「社長は、……いや、なんでもないです」
――ソレは、確かに彼の後ろにいた。
生き写しのように顔の造形はそっくりだった気がする。服装こそ違えど、同じ人物だと言われても納得ができるほどに似ていた。髪は長くひとつにまとめられていて、頭の上に、――?
つい数秒前に見たはずなのに、記憶の中から徐々に消えていっている事実を理解して、さぁ、と血の気が引いた。目の前の彼はどうしてこんなにも平気そうにしているんだ。数歩離れていた自分でさえ呼吸もままならないほど、本能が警報を鳴らすほどの
恐怖を感じていたというのに、どうして。
「今日は早めに終わらせてもらいましょうか」
「大丈夫だって……」
「万が一があるかもしれないでしょう」
「……うん、そうだね、」
アレは、いったいなんだったのか。もう姿すら朧気で思い出せはしないけれど、たしかに圧倒される存在感があって、たしかに、恐怖したのだ。
何も知らない様子の社長に聞くことは憚られた。僕の体はいたって健康だったけれど、このままでいたらうっかり言ってはいけないことを口走ってしまいそうで、大人しく頷いた。
きっと、明日になれば完全に忘れているだろう、と。
【2】
なんか、おるなぁ。
頭の上に浮かんでいる刺々しい輪は、金色に輝いている。眩しい光に目を細めていると、そっとソレが動いた。ゆるり、と首を傾げて長い髪を揺らしている。風は吹いていないはずなのに楽しそうに踊っているのを見て、目を合わせた。片方の目に十字架が浮かんでいるのが見える。真っ黒なその十字架は、罪を背負っているように思えた。
ソレは、うつくしいほどににっこりと笑顔を形取る。笑っている。笑顔だ。なのに、笑っていない。地面から足を浮かせているのはどういう原理なのだろうか。
そこから目が離せなくなって、ただ一点を見つめ続けていと、ソレのすぐ近くにいる社長が近づいてくるのが視界の端に見えた。
「不破さん?」
「はぁい」
「ぼーっとしているみたいですが、大丈夫ですか?」
「んー、たぶん大丈夫ちゃう?」
「どうしてそんなに他人事なんだ……」
「社長は大丈夫なんすか?」
「私は大丈夫ですが……」
彼の背後にずっと浮いているソレは、やっぱりにっこりと笑ったままこちらを見ていた。目をつぶっているはずなのに、視線を感じる。――圧を、感じる。
思わず後ずさってしまいそうで、なんとは踏ん張った。足腰に力を入れていないと座り込みそうになるのを理解して、腰を抜かしそうになっているのだと自覚した。
大丈夫だと困惑した表情で言う通り、社長は特に何も感じていないように見えて、こちらとしては不思議で仕方がない。自分が対面しているとはいえ、単純な距離で言えば社長の方が断然近いのに。彼は、ソレの圧を感じていないのだろうか。
社長の頭よりも少し上をずっと見つめていると、何があるのかと彼が振り返る。ソレは、動くことはせずにそのままそこにいる。いるが、どうやら社長には見えていないらしい。何もない空間に首を傾げて不破さん? 困ったように名前を呼んでくるのを、笑って誤魔化した。
見えないのなら、きっと、アレは見えないままの方がいい。俺の本能がそう告げている。やけに社長と同じ顔をしているのが気になるけど、きっと気のせいだ。見間違いだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返したら消えていた圧に、そう自分に言い聞かせた。
ソレの姿は、もう思い出せない。
【3】
最近、もちさんと不破さんがやけにソワソワとしているような気がする。時折社長を――正確には、その少し上を――見て、すぐに目を逸らしている。肝心の社長は社長で、なぜすぐに目をそらされるのかわからず、ここ最近はずっと困惑気味だった。
――その理由を、知っていた。
なぜ二人の落ち着きがないのか、どうして二人して同じ場所を見つめるのか。その理由を、原因を、僕は、僕だけは知っていた。伊達にこの中で違う世界から来ているわけではない。伊達に、研究者を名乗っていない。ソレは完全に専門外ではあるけれど、この中の誰よりも察することはできるだろう。それぐらいの知識はあると、自負している。
社長のすぐ後ろに控えるソレ――つまるところ、天使は、ここ最近社長の後ろに現れ始めた。顔が瓜二つな理由もなぜ社長なのかも理由まではわからないが、けれど、ソレはれっきとした天使だった。この世ならざるモノだった。確か社長の目に十字架が見え始めたときから現れているから、何か関係はあるのだろうが、それが僕にはわからない。
本当は目を合わせない方がいいのだけれど。というより、見えていることを知られない方がいい。それだけでソレに目をつけられてしまうから。目をつけられてしまったら、僕にはどうすることもできない。何かをできたとするならば、ソレを使えるモノだけだろう。
ソレを理解してしまっている僕も危ういだろうが、それ以上にこの二人の方が危ない。現状ソレが手を出す素振りは見せないからいいけれど、もし、万が一に、なにかが起こってしまえばどうなることか。専門外であることが悔やまれる。
僕が観測している限り、なぜかずっと楽しそうにしているソレの理由がわからない。連れ去るタイミングでも見計らっているのだろうか。
もしかしたら、いつか彼らが連れていかれるかもしれない。そうなったら、どうすればいいのだろうか。きっと何もできないまま終わってしまうのだろうな、と冷静な自分が囁いている。
濁る十字架から目を逸らすと、その先で天使の羽が舞っていた。