卵かけご飯
――疲れたな。テーブルの上に散乱した書類の数を見て、眉間にできた皺を揉みこんだ。目が乾燥してパシパシするのを瞬きを繰り返すことでなんとか潤いを取り戻していく。気がつけば日が沈んでどのぐらい時間が経ったのか、部屋の外は真っ暗だし、集中力を途切れさせないために間接照明しかスイッチを入れていないため、部屋の中の明かりもそこまで存在していない。パソコンの明かりだけがぼやぁと曖昧に光っているまま、甲斐田は腕を天井に伸ばした。凝り固まった背中から関節のなる音がする。あまりの多さに苦笑いをしながら、緩んだ体がぐぅ、とお腹が空腹を訴えた。
キッチンに立った甲斐田はまず、冷蔵庫の中身を確認した。ちょうど明日に買い出し予定なのか特に食材は入っておらず肩を落とす。閉まったままの炊飯器の蓋をボタン一つで持ち上げれば、夕飯の残りがお茶碗一杯分入ったままになっており、しっかりと保温もされていたため簡単に卵かけご飯を作ることにした。
桜の柄が入った陶器で出来たお茶碗にお米をよそう。中途半端に残していても次の人が困るため、食べ切れるか不安ではあるが炊飯器を空っぽにして保温のスイッチを切った。残念ながら炊きたてでないのでツヤツヤとした輝きは失われているが、水分を十分に含んだご飯はしゃもじですくうとずっしりとした重さがあった。むしろ時間が経ったことによりお米同士のくっつきがなく卵かけご飯に最適かもしれない。お米の温かさがなくなる前に、とお箸で真ん中に窪みを作る。冷蔵庫から卵を一つ取り出して台の上で数回叩けばヒビが入ったそれを、両手で綺麗に二つに割った。どろん、と確かな質量を持った新鮮な卵が狙った場所に落ちる。何度か揺れたあときちんと真ん中に収まった卵は色が濃く赤色にも見えた。
調味料の並んだ棚から醤油を取り出す。大量にかけてしまえばお米や卵の甘さが消えてしまうため、いつだって一番慎重になるのはこの瞬間だった。足りなければあとから足すことはできても取り除くことは出来ない。お茶碗の中をぐるりと一周円を描くように醤油を垂らせば、白米がすぐに取り込んで色の着いたお米へと変化する。あればいいなの願望で戸棚を漁っていると、誰が購入したのかは不明であるが目当てのものを見つけた。使いやすいよう小分けに袋詰めされた鰹節を半分ほどかけてやれば、お米の上で鰹節が踊っていた。残った分はいつか使うだろうと輪ゴムで封をして元の場所へと戻す。
これで完成だ、と手を合わせた瞬間、カウンターに置いてある黄金色の瓶が目に入った。試したことはないが、美味しいことに変わりはないだろう。そもそも美味しくないものを入れていない。一度席を立った甲斐田は瓶を持ち出した。蓋を開ければごまの芳ばしい香りが漂って、またお腹が空腹を訴えている。瓶を手に持ってごくり、と喉を鳴らして、ほんのちょっと、醤油よりも少なくなるように踊り疲れた鰹節の上にかけていく。一気に香りがたって、パシン! と手を合わせた。いただきますの声と共に箸で卵を割る。中からとろとろの黄身が周りに広がっていく。目を輝かせながら一口分箸ですくって運んだ。
ごま油の深く芳ばしい香りが鼻腔を通り抜けていく。醤油の塩味、鰹節と卵の甘さが口の中で絡み合って、噛めば噛むほどお米の甘さも追加される。塩味と甘味をごま油が包み込んで、今まさに食べているというのに食欲がそそられた。つるりと丸いお米に鰹節がアクセントになっていて舌触りも最高だ。単純な食事というよりは、しっかり味わう楽しさがあった。一口目をよく噛み締めて飲み込んだあとは、誘われるまま口に運んでいく。残り半分になったところで醤油を足して味を濃くする。ごま油は追加しない方がきっと美味しい。卵のまろやかさと甘味は減ってしまったが、その分味が濃くなって食べている実感が湧いてくる。
お米の一粒も残さず食べきった甲斐田は、はぁ、と満足感から息を吐いた。簡単な作りをしているのに、夜食にしては随分と贅沢なものを食べてしまった気分。口の中にまだ卵の甘さが残っているが、水を飲んで流すのは惜しく感じる。満腹から来る睡魔に抗いながら、甲斐田は食器を流しへと置いた。
