ひとりのものじゃなくていいんだよ
耳の奥にこびりついたさよならの言葉は、どうやったら消せるのだろうか。耳を塞いでも目を閉じても四六時中響く言葉は様々な声色で紡がれている。さみしそうに言う者。静かに呟く者。そもそも文面で伝えてくる者。元気に笑って告げる者。いろんなさよならが体内にたまっていって、そろそろ溢れて零してしまいそうだった。自分ひとりで抱えるのにはいかんせん量が多すぎる。だけど、ほかの誰かに譲るのもまた違うとまたひとつ、たまっていく。誰もいない廊下の真ん中で、吐きそうになるのを口元を抑えてなんとか耐える。喉の途中まで流れてくるなにかが胃液でないことは確かだった。朝に食べたぐちゃぐちゃのご飯でないことも確かだった。指の隙間から呼吸がこぼれておちていく。壁にもたれかかりながらしゃがみ込んで、襲ってくる吐き気を我慢する。ここが人の通らない場所でよかった。人が近づかない場所でよかった。安堵の息とともに、咳がひとつおちた。
次の撮影はなんだったか、ここからどのぐらい離れた場所だったか。誰と、一緒だったか。飲み込んだ塊のせいで生理的な涙が浮かんで思考すらも溶かしていく。
「……もちさん?」
余計なことがぐるぐると回る中、ぽつりと落とされた声は自分の名前を呼んでいる。それだけが頭の理解できる範疇で、その声が誰のものなのか、ほかの声と被って判別ができない。俯いたまま顔を上げることができないまま、返事もできないまま、布の擦れる音が近くで聞こえた。視界の中に鮮やかな色が入り込んだ。この色を知っている。知っているはずなのに、この色を持つ人間がだれなのか脳が理解してくれない。
「もちさん、大丈夫ですか」
囁くような声は脳に優しい。刺激を与えないその声の主がようやっと判別できそうなところで、また他の声に消されてしまった。だれ、だれだっけ。たしかに知っている声で。最近特によく聞く声で。忘れたわけではないのに。ちゃんとおぼえているはずなのに、どうしてだれかわからない。そもそもどうしてここに人がいるのかすらわからない。いま、じぶんはどこにいるのだろう。
「ちょーっと触りますね。嫌だったら叩いてくれていいので」
あたたかい手が、背中に触れる。優しく触れたまま撫でられるたび、溶けた思考が元通りの形に固まっていくような気がした。無意識の内に乱れていた呼吸が整って、ようやくまともに息を吸い込めた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
輪郭を持ち始めた自分に、いつの間にか喉に居座っていた塊は消えていた。飲み込めたのか、吐き出したのか。定かではないが、違和感はとうにない。必死に口元を抑えていた手の力が緩んでも吐き気は襲ってこなかった。
「まだ収録まで時間はありますから、ゆっくりで大丈夫ですよ」
優しい声だ。人を安心させる声だ。低くゆるやかに紡がれる声の主を、僕はようやっと理解した。汗が滲んで前髪が張り付いたまま顔を上げると、やさしく笑っている彼の顔が近くにあった。普段騒いで怒って情けない顔を晒している姿とは到底同じ人物だとは思えなかったが、僕は彼が心底優しい人間であることを知っている。
「……どうしてここにいるの」
久しぶりに出した声は掠れてほとんど音にはならなかった。
「偶然っすね。もちさん、もう大丈夫そ?」
「うん、だいぶマシになった」
「それなら良かったです。まだ時間に余裕はあるんで、もうちょっと休んどきましょうか」
残りの収録はあと三本。どれぐらい時間がかかるかは未定だけど、夜遅くにならないことは確定している。確か体力の消費が激しい内容もあったはずだから、その申し出はありがたかった。いつもの様に振る舞える自信はあるが、それを悟られないようにできる自信はなかった。
背中を撫でる手はとまらない。幼子をあやす様にさする温度は、生きている人間にしか生み出せない。まだその温もりに触れていたかった。普段ならやめてと止めていただろうに。目を閉じて受け入れている。何も聞かない、聞かれない。言うこともない。ただの体調不良だと思われているのか、それでも帰れと言わない辺り、自分の性格を正しく把握されているのだと柄にも無く嬉しく感じる。
「ありがと、甲斐田くん」
「いえいえ、お易い御用ですって」
