よだるい


白日





 目が覚めれば微温湯の中。包まっている毛布の温度は熱いとも寒いともつかないもので、俺の生活を体現する様にも思えて苦笑をもらす。一晩を共にした相手も、もうこの部屋を抜け出して行ってしまって、塞いでいた寂しさが又どろどろと澱の様に溢れてくる様だった。
 酷く身体が重い。屹度流れ出た澱に自由を奪われているのだろう。こう言う日は、大抵どうしたって気分が上がらない。カーテンから差し込む光でさえも、雲に阻まれて思う様に行っていないし、俺の機嫌とおそろいみたいに白んで掠れてしまっている。
 どれ程辛い中を生きていても、気分がすぐれなくても、時間は平等に過ぎていく。ベッドサイドの電話が煩わしい程存在を主張する。少しでも短く音を止めるためには厭でも電話を取らなければいけない。半ば辟易しつつ受話器を持ち上げ耳に当てれば、柔和な声の男性が使用時間終了の近いことを教えてくれる。ここに一人で残って一日を費やしても構わなかったけれど、態々お金を使ってまで二度寝をする気にもなれなかった。手短に部屋を出る旨を伝えれば容易に電話は断たれた。
 手短に支度を済ませなくてはならない。ラックに掛けたジャケットに腕を通して、襟を正して形を整える。ポケットの部分に少しの違和感。これは手を入れなくてもわかる。何故ここにこれが入っているかも理解が出来るから、今は考えないことにする。
 テーブルに置かれたルームキーと相手が置いていったのだろうㇱガレットケースを持って部屋を抜ける。フロントに降りれば、先程の声の持ち主らしい男性が此方に笑いかける。鍵を渡して手短な挨拶を告げれば、本当にここにいる理由は何もなくなった。



 建物を出たところで特に行く当てなんてなくて、でもまだ何処にも戻りたくもなくて意味もなく脚を動かした。何となくで費やす時間は嫌いじゃないけど、この話をすると大体好い顔をしない人も一定数居る。基本的に、毎日を一生懸命すぎるくらいに生きている人達だから、息を抜くことさえ苦痛を伴うのではないだろうか。だから、羨望や嫉妬の感情をナイフの様に突き立てるのだろう。きっと言葉を放った本人も薄々理解している。その言葉を俺に向ける必要の無いこと、望めばその現実から逃れられる事を。でもそれが簡単でないことくらいは誰にだってわかるから簡単に責めることも難しい。
 でも実際のところ、矢っ張り生きている上で無駄なことはないんじゃないかと思う。こうしてただ脚を動かしている時間でさえ、前来た時にはなかったものを見つけたり、季節の移り変わりを感じたりする。少なくとも俺にはこれが無駄な時間の様には思えないから。
 仕事で慌ただしくしている間にすっかり町の姿が変わってしまったみたいで、ぽつぽつと見える人は少し肌寒そうに肩を竦めて歩く人や、まだ活力にあふれている人は身体を動かしている。今日は生憎の曇りだけど、陽が上って余り時間も経たないような時間だから、見える範囲には人は数えるくらいしかいない。何時もこれ位の人数なら屹度生きやすかったろう、なんて思うけれど、それは敵わないだろうし、仕事柄不可能に近い。それに、普段がそれだけ付き合いが多いからこそ、オフの日のこうしたゆったりした時間の有難みというものが上がるのかもしれない。

「Hi、お兄さん。こんな朝早くからどうしたの」
「ん、あ、やあ。……そうだね、君と同じく散歩かな」
「へえそうなの? にしてはお疲れみたいね」
「あはは、そうかな」

 公園のベンチに座ってぼんやりとしていたら、余程心配していたのか、或いは単なる興味からか声を掛けられる。正面から歩いてきた彼女はランニングウエアで長い髪を後ろに束ねていて、実に快活そうな印象の人だった。目は確りと開いていて意思が強そうな印象だ。

「そうよ。こんな朝早くからする様な顔じゃないわね。恋人かしら?上手くいかなかったの?」
「まさか、違うよ。昨日飲み過ぎてしまって、それで介抱されてその帰りだよ。だからかな、少し疲れて見えるのは」
 本当かしら、なんて揶揄う様に、それこそ俺に恋人がいると疑わないからその粗を探そうとするような視線。屹度望みの回答だとか、彼女が満足するまで解放してもらえないのだろう。心の中で溜息をついて、早急に対応しなくては後戻りが出来ないであろう問題に、改めて向き合う覚悟をする。

「そう、本当だよ。だから今日ここで一人でいるのは恋人だとか、そういう理由じゃないんだ。でも、……そうだな、恋人はいないけど気になっている人はいるよ」
「へえ、それってどんな人なの?」
「そうだね……俺より年上で、綺麗だけど可愛い人だよ」
「そう、とても好意的なのね」
「え、そう…かな…」

 隣に腰かけている彼女は満足げに話を聞いて、心なしか嬉しそうに目を細めていた。聞いた話から何を考察したのか、俺には理解が難しくて、思わず聞き返す様に、当惑を表にした。その様子を見て、少しばかり驚きの表情をした彼女が、またすぐ母親が子供にするような様子でゆっくりと口を開いた。

「屹度そうね。断言はできないけど、好きな人のことを考えている目ね。ふふ、貴方、知ってた? 目はね、身体の中で一番素直なパーツなの。だから感情が表に出やすいのね。そしてその感情が強ければ強いほど分かり易いっていうの」
「それで、俺は凄くそういう目をしていたって事かな」
「ええ、そうよ。本当に、分かり易すぎるくらいにね。でも、恋人じゃないのね? 貴方位綺麗で素敵な男性が、そんなに焦がれても靡かないなんて、屹度相当の人なのね」
「……そうだね、その人は凄い人だから、俺なんかじゃ釣り合わないかもしれない…それに、強みが容姿だけじゃどうにもならないような相手だからね」

 そこまで言えば彼女はそうなのね、とただ静かに相槌を打った。このくらい話しをしたのなら、彼女の満足を得られたことだろう。多少の念は残りつつも、此処を離れる旨を伝えれば、少し残念そうな表情ではありながらも肯定を得られた。

「ね、最後に一つだけいいかしら。貴方容姿だけが強みみたいに言ったけれど、それだけじゃないわ。貴方とっても優しい人よ。今日はどうもありがとう、貴方の恋路がうまくいくことを祈っているわね」

 別れの言葉を聞きながら、少しだけ振り返って手を振った。もう会うことはないだろう一人の女性。浅瀬を泳ぐような気紛れな情を与えられて、少しだけ、自分の心の中にある感情に対する考えが少し首を持ち上げる。それでも今は向き合うことが難しいから、必死になって蓋でその頭を押さえ付けなくてはいけない。そうしないと困ってしまうような気がしたから。それで困るのは俺なのか、彼なのか、分かりはしなかったけれど……。



 支部に戻れば何時もと変わらず、重たい扉が唯々厳格に佇んでいて少し背筋が伸びる。少しだけこの扉が苦手だ。どうしても、入り込む人間を試すような威圧感が有って、緊張感を覚える。エントランスに入ってしまえば、先程の緊張感は薄れる。基本的に支部の人達は視聴覚室や食堂に溜まりがちで、特にこの時間なら尚更かもしれない。だから、この少し早い時間にここに人影があることに驚いた。佇んでいた背中は良く見慣れたもので、此方から声を掛ける前に彼はゆったりとした動作でこちらを向いた。

「おや、おかえりなさい。今日は随分と速いんですね」
「ただいま。相模さんこそ早いね。これから仕事?」
「ええ、これから向かうところです」
 そうなんだね、頑張って、なんてありきたりな言葉を繋げれば、不思議そうな色をした視線が此方に向いた。相模さんの口許が柔らかに弧を描いていることに注視しているうちに、お互いの距離が詰まっていた。は、とした時にはもう遅くて、長い髪がさらさらと動いて白衣の上を滑っているのが見えて、彼が耳元に顔を寄せていることに気付く。

「今晩は空けておいた方が良さそうですね」

 偶に聞く甘く熟れたような音声で、内緒話をするみたいに小さく落とされた内容に思わず目を丸くする。彼を見遣れば悪戯が成功した子供の様に楽し気で、からからと口許で鈴を転がしている。俺の表情を確認したかったからか、また会話をする位の距離に向き直った彼は、口許に手を当てて楽し気に目を細めている。

「…ねえ、いきなりそういうのは心臓に悪いよ……」
「ふふ、御免なさい。でも君があんまり寂しそうな顔をしていたから、つい、ね?」
「余り意地悪なのは感心しないよ」
「そうですね、心に留めておきます。……それで、僕の手は必要然うですか?」
「……本当に、今日は意地悪なんだね」

 矢張り揶揄う様な目線で俺に穴をあけようとする彼にその先を促される。望むようにただ一言、今晩の時間を共有する事を告げれば、満足げに笑む姿を認める。

「解りました。それじゃあ、今晩お伺いしますね」

 楽しみにしていますという言葉も残して彼はまた俺に背を向ける。そのまま重そうな荷物を肩にかけなおして、真っすぐにエントランスを抜けていく。その背中に何か言葉を投げかけてやりたいのに、俺の思考ときたら上手く歯車がかみ合ってくれなくて、仄かに口を開閉させるだけで何の音も出してはくれなかった。ああ、本当に彼はずるい人だ。誤魔化す様に髪を撫でれば仄かに頬が熱持つのを感じて羞恥心が募る。
 たった一時、俺の感情を動かすのに、彼にはそれくらいの時間で充分なようだ。澱んでいた雲が流されてしまえば、もうどうにもならない。胸中に射した陽の温度を感じれば、また少し口角が持ち上がるのを感じた。




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