寝付けなくて布団を抜け出した夜は、大抵洗面に水を張る。何も考えない様に、そこへ顔を浸す。インクを水に入れたときの様に、じわじわと脳髄が溶け出して、そのまま自分の記憶も薄れていくんじゃないか、と思う。実際にそんな夢想が叶うことはない。
眠ることが難しい日は、過去の事を思い出してしまう。自身の失敗や、恥を掻いた事。そうしたことから、次に未来を思いやって、杞憂を繰り返してしまう。不安感と言うのは、過ぎた事やこれからの事を思案するほど濃くなると誰かが言ったことも思い出す。全くその通りだと、自身の姿を見れば肯定するよりほかが無い。
半身をゆったりと起こせば、浴室は沈む様に暗い。青々とした影が水面に反射していて、厭に冷たく感じる。顔の凹凸を滑り落ちる雫も、皮膚の温度を共有することはなかった。そのためだろうか、肺に溜まる酸素はひどく重い。少しでも安楽を求めようと吐いた呼吸は、溜息と殆ど大差がない。しんとした空気に寂しさだけを残した。
「なあ、寝ないのかよ」
気配も無く声を掛けたのはジョンだ。浴室の入り口に寄りかかるようにして僕を認識している。その様子だと、きっと僕が布団から抜け出している時には既に目を覚ましているような雰囲気だ。
壁につけられた薬棚に手を伸ばしていた僕は、その声ではっとさせられた。それは彼にも伝わったのは明白で、僅かに眉間に皺が寄る。悪戯が見つかった子供みたいに、許しを請うような視線を与えれば、仕様が無いと後ろ頭をかいた。
「…眠れないんだ」
「だろうな。体調は」
「問題ないよ」
そう言って笑えば、彼は呆れたように肩を落とす。一時的でも安堵を得たためか、切り替えるように僕へ向き直る。
「なら良い。ただ、あんま無理するなよ」
「ありがとう」
「じゃ、もうコレに用はないな」
彼が指差したのは薬棚だった。そこには睡眠導入剤や精神安定剤などが入っている。確かに、今の僕には必要のないものだ。ジョンの言葉の意味を理解して、小さく首肯してみせる。すると、彼は口許に薄く笑みをたたえた。片側の口角を持ち上げる、普段の笑い方とは違う、柔らかい微笑だ。
「そしたらもう寝ちまえよ。眠るまで見ててやるから」
何でもないことの様に言った彼は、静かに踵を返した。呆けた僕に気付いて、又こっちに顔を出して、幾分か優しい語調で催促をする。不謹慎かもしれないが、それが少し面白いような、嬉しいような気持ちで、少し歯痒くなる。
扉の隙間から橙の光が漏れている。先に言った彼がつけたのだろう。
彼のお陰で不安感も和らいだ。眠りにつくまで、何かお礼を言ったり、とりとめのない話をしよう。早く行かないと、彼はまた催促のために腰を持ち上げるだろう。そうならないために、軽い足取りで寝室へ戻った。