ふうと息を吐きながら、星はおろか月すら見えない曇天の夜空を、ついと見上げる。
ブイヤベースであたたまったはずの身体が、あっという間に冷えていった。
「寒っ……」
「そうだね」
そう答えた低い声の主は、二メートルを超す長身を少しかがめてにこりと笑った。
落ち窪んだ眼窩の奥できらめく蒼い瞳がきれいだと、わたしは思った。
***
彼と出会ったのは、本や映像ソフトを取り扱う複合量販店。
一番上の棚にある本が取りたいのに、脚立がみあたらない。こんな時に限って店員の姿もない。
もう諦めて帰ろうかと思ったそのとき、はるか上から、低い声が降ってきた。
「本、とってあげようか?」
声をかけてきたのは、ぶかぶかのTシャツに、これまた腰のあたりがぶかぶかのジーンズ姿の、長身痩躯の男性だった。
その人からは香水だろうか、ふわりと甘苦い香りがした。
***
それから何度か、同じ店で姿を見かけた。二メートルを超える長身は、どうしたって目立つ。
映画や音楽が好きなのだろうか、彼はたいていレンタルのコーナーにいた。
いつしかわたしは本を買うためでなく、彼の姿を探すためにその店に通うようになっていた。
「映画、お好きなんですか?」
銀杏の葉が色づきそして舞い落ちるころ、思い切って声をかけてみた。
店に併設されたカフェで、コーヒーを飲みながら話をした。思っていた通り、彼はとてもきさくな人だった。
誰かと食べると美味しいからとたまに食事をするようになり、たくさん、たくさん話をした。
職場と家が、出会った店から近いこと。
映画と屋久杉が好きなこと。
数年前に大けがをして、肺の半分と胃袋を失ったこと。
結婚はしていないこと。
恋人もいないこと。
会うたびに、少しずつ彼のことを知ってゆくよろこび。
あるとき年齢をたずねたら、小さく笑ってはぐらかされた。
きっと、たぶん、ずっと年上の人。
彼の連れて行ってくれるのは、お洒落な人の多いこの街の中でも、ひときわ落ち着いた大人の雰囲気のお店ばかり。
そこで自然にふるまう姿を見ていると、今はフリーでも、それなりに女性とつきあってきたのだろうと考えずにはいられない。
どんな女性だったのだろう。
きっとわたしとは違う、大人のおんなのひと。
でも幾度も食事をしてくれるくらいだから、嫌われてはいないだろう。
もしかしたらと、期待してしまうときもある。
若い友人の一人としか思われていないのかもしれないと、落ち込むこともある。
いつも思考は堂々巡りで。
***
「なまえちゃん、今日はなんだか元気がないね」
庭園の小さな池のほとりまできたとき、彼がぽつりとつぶやいた。
「ひょっとして、オジサンと食事するのに飽きちゃった?」
声はおどけた調子だったが、その姿は、どこかさみしそうなようすで。
この状態を打破するのはきっと今だと、自分の中で声がした。
でもどう伝えればいいのだろう。せつない気持ちをもてあまし、わたしはもう一度空を見上げる。
かりり、と、音のしそうなほど、空気の澄んだ冬の夜。お天気さえよければきっと、空に美しい月が見られただろう。
だがあいにくと今夜は曇天。月は雲の下に隠れてしまっている。
暗く陰った眼窩の奥で輝く蒼い瞳を見つめながら、思い切って口唇をひらいた。
「月が、とっても綺麗ですね」
「え?」
不思議そうに、彼が夜空を仰いだ。
耐えきれなくて下を向くと、訝しげな低い声が追いかけてくる。
「なまえちゃん、もしかして酔っているのかい?」
「いいえ」
彼は数秒のあいだ逡巡したのち、そっとわたしを引き寄せた。
長い腕が背に回されて、ブランデー漬けのドライフルーツのような、甘い香りに包まれる。
「ねえ、なまえちゃん。もしかして、それって、かの文豪の言葉かな?」
耳元で響く低いささやき。
羞恥に顔が熱くなる。きっとわたしは今、耳まで赤くなっていることだろう。
すると彼は、ふ、と小さく息をついた。
「そうだね、君と見る月は、とてもきれいだ」
弾かれたように顔をあげたわたしの唇に、彼のそれがそっと重なる。
「月がきれいですね」
昔、ある文豪が「I LOVE YOU」をそう訳した。
2015.2.17
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