待宵の月

 ねえ、君は知らないだろ。
 君が私をみつけたんじゃなくて、私が君をみつけたってこと。

***

 あの日の六本木交差点は、うだるような暑さだった。
 乙女の像の前で、地図を片手に困り果てていたおばあさん。道行く人に無視されていたその小さい背中に、目的地まで案内しましょうと、笑顔で声をかけたのが君だった。

 近くに住んでいるのか、それともオフィスが近いのか……それ以来、ちょいちょい君の姿を見かけるようになった。
 かわいいけれど、絶世の美女ってほどじゃない。スタイルだってまあふつう。
 なのに、常に人でごった返しているこの街で、君はやたらと目に留まった。

 今から思うと、このときにはもう、私は君に恋をしていたんじゃないかな。

 本屋で、君は一番上の棚に手が届かなくて困り果てていたよね。あの時ほど、伸びすぎた自分の身長をありがたく思ったことはないよ。

 秋が訪れるころ君が声をかけてくれた時、私がどれだけうれしかったかわかるかい?
 よくぞこの店のこの場所で声をかけてくれましたと、危なくマッスルフォームになるところだった。君が恥ずかしそうに微笑んでいたのは、ちょうどカフェの真ん前だったのだから。

 おかげで
「こんなところじゃなんだから、そこでコーヒーでもどう?」
 なんて言葉が、まったく自然に滑り出た。

 聞けば、この界隈のオフィスに勤めているという。
 自宅は、六本木から都営地下鉄で20分強の住宅街だと。
「あの路線だと、私、天井に頭ついちゃうんだよね」
 などと他愛ない会話をしながら、どうやって次の約束をとりつけるか、私は頭脳をフル回転させていたんだ。

***

 今夜のなまえちゃんは元気がない。話しかけても浮かない顔だ。
 いやだな。『彼氏ができたから、もう会えない』なんて言われちゃうんじゃないだろうか。

「ひょっとして、オジサンと食事するのに飽きちゃった?」

 思い切って、小さな庭園の、小さな池のほとりでそう尋ねた。さりげなく言えただろうか?
 ビルの谷間の庭園に吹く一月の風は、痛いほど冷たい。だが彼女の答えを待っていたこのときは、身体より心のほうがいっそう冷たく、そして痛んでいた。

 なまえちゃんが、もう一度空を見上げる。
 なんだい、今日はほんとに空ばかり見て。やめてくれよ、いやな予感しかしないじゃないか。

 やがて彼女の澄んだ瞳が、空から私に向けられた。小動物を思わせるよく動く瞳に映る、自分の姿。

「月が、とっても綺麗ですね」
「え?」

 緊張した面持ちで放たれた意外な言葉に、思わず夜空をふり仰ぐ。
 だが残念なことに曇天の空、月は雲に隠れてしまっている。
 酔っているのかと思ったけれど、真っ赤な顔で小さく震える姿に、そうではないとすぐにわかった。
 ここははずしちゃいけないとこだ、そんな気がする。

 ああきっと、これはなにかの比喩だろう。彼女の趣味は読書だった。
 どこかで聞いたことがある。
「月がきれい」
 その言葉の持つ、隠れた意味を。
 思い出せ、思い出せ私。

 答えがわかったその刹那、凍りつくようだった心と身体が、瞬時に溶けてゆくような気がした。反射的に身体が動き、小さな身体を引き寄せる。

 同じだ、私も同じ気持ちだよ。
 だからね、拒絶なんかしないでくれよ、頼むから。

 彼女を抱きしめ、口唇を重ねた。
 最初はそっと触れるだけ。やがて徐々に角度を変えながら、少しずつ口づけを深めていく。自分の舌がようやく彼女のそれにたどり着いた時、これ以上ない至福を感じた。

***

 そしてあれから早ひと月、そろそろいいんじゃないかなって思うんだけど、どうだろう?
 なまえと一つになりたいと望むのは、まだ早いのだろうか。
 私はずいぶん待ったつもりなのだけど、あの子にとってはどうなのか。
 小さく嘆息して、ぐっと空を仰ぎみる。そこに、真円よりもやや痩せた月が輝いていた。

 今夜はなまえの好きなイタリアン。特別な日にしたいから、ちょっと奮発して個室をとった。なのになぜだろう、なまえは妙に機嫌が悪い。
 機嫌が悪いというか、思いつめた感じというか。
 そう、ひと月前のあの夜と、とてもよく似た雰囲気だった。
 グラスをテーブルに置き、一呼吸してから口唇をひらく。

「どうしたの?」
「え?」
「言いたいことがあるなら言えばいい、顔に出てるよ」
「言いたいことなんて別にないです」
「嘘つき、鼻の穴が膨らんでるよ」

 なまえは嘘がつけない。つこうとしても顔に出る。
 お行儀悪くドルチェをスプーンでつつきながら、なまえは口の中でなにやらもごもごつぶやいた。

「口を閉じたままじゃなんて言ってるかわからないよ」

 頬をつつくと、子ども扱いしないで下さいと、ぷうとふくれる。
 ああかわいい。知っているかい? 私は君の、そういうところも大好きなんだ。

「……んの……」
「なに?」
「……俊典さんの職業を教えてください」

 今日のテーマはそこだったのか!と私は心の中で舌打ちした。
 でもまぁ、それも当然。
 付き合う前に一度だけ職業について聞かれたけれど、適当にごまかしたきりだった。
 あれからずっと思い悩んでいたんだろうな。
 よく考えてみたら、よくもまあこんなに秘密の多い男とつきあってくれたものだ。

「なるほどオーケー承知した」
「教えてくれるの?」
「知りたいんだろう?」
「うん……でも俊典さんが話したくないなら我慢する」
「我慢なんてしなくていいよ。ただ、職業柄話せないこともあるからね。そこはわかってほしいんだ」

 だが、いくらなまえが相手でも、私がオールマイトだということは、まだ明かせない。さすがに時期尚早だ。
 なまえを信じていないわけじゃない。しかし、ことがことだけに、私も慎重にならざるを得ないわけで。
 オールマイトは嘘をつかない。それが私のポリシーのひとつ。
 真実をぼかしながら嘘をつかないということの、なんと難しいことか。

「まず、私の職業はヒーローだ」

 ぽろりとなまえの手からスプーンが落ちた。あんぐりと口を開けたまま、私をみつめる顔ときたらどうだ。
 ちょっと、君、驚きすぎ。
 たしかにしょっちゅう喀血するし、この姿だとそうは見えないだろうけど。

「映画とかドラマで見たことないかい? 軍隊や警察で、特殊部隊の中でもごくごく特別な任務についている隊員が、特殊部隊員であることすら家族に明かせない場合があるって。私はそれのヒーロー版と思ってもらうとわかりやすいと思う」
「……」
「ヒーローでないときの私の姿を知っているのは、仕事上の関係者でも数人しかいない。一般の人は誰も知らない。そういった事情があって、まだヒーロー名はあかせないんだ。でも、いつか必ず話すから。それでいいかい?」

 黙ったまま私の言葉を聞いていたなまえが、やがて小さく息をついた。まっすぐ私をみつめてくる瞳には優しい光が宿っている。

「はい、でもよかった。わたし、俊典さんはヴィランなんじゃないかと思ってたから……」
「は?」

 今度は私が椅子から転げ落ちそうになった。
 真実を知らないとはいえ、ナンバーワンヒーローをつかまえてヴィランはないだろう?

「だって、年齢もお仕事も教えてくれないし……その……着ているものとか持ち物とか……さりげないけど高そうなものばかりだし……忙しそうな割に働いている時間がまちまちだし……それに、よく怪我してるから……」

 言われてみれば確かにそうだ。

「ヴィランだったらどうするつもりだったんだい?」
「え? 別に……どうもしませんよ? だって私は、俊典さんが何をしている人か知りたかっただけだから」

 好奇心に駆られて発した質問に、こともなげになまえは答えた。
 さらりと放たれた言葉に驚き、間抜けな声でまたたずねる。

「ヴィランでもいいの?」
「はい。俊典さんなら、たとえ凶悪なヴィランだったとしてもいいんです。世界中が俊典さんの敵になったとしても、わたしはあなたの味方でいますから」

 ちょっと待て、その言葉は反則だ。
 紅潮した頬にうるんだ瞳。そんな顔でそんな言葉を告げられたら、我慢がきかなくなるだろう。
 その上で、ずっとずっと大好きですからと微笑まれた瞬間、理性の糸がぷつりと切れる音がした。


 店から駅へと抜ける公園で、我慢できずになまえにくちづけた。
 通行人に見られているような気もするが、大丈夫、私は気にしない。

 最初は私にされるがままだったのに、最近のなまえはおずおずと舌をからませてくるようになってきている。
 オヤジっぽいとは思うが、こうやって少しずつ自分の色に染まるなまえを見るたび、たまらない気分になる。

 困ったな。今夜は君を帰したくない。
 もう、待てない。帰さない。

「これから、私の家に来ないか?」
「え?」
「ごめんね、何もしないで帰してあげることはできないと思うけど」

 途端になまえの顔が真っ赤に染まり、それを隠すように腰にしがみついてきた。
 返事が来るまで、待つこと数分。なまえの体温と柔らかさを感じ、半身に熱が集まってくるのを感じた。
 大きくかがんで、もう一度、ふわふわした髪に隠れた耳元にささやく。

「いいかい?」

 私の腰に顔をうずめたまま、なまえは小さく頷いた。

 私となまえの頭上に輝くのは14日目の月。
 満月前日のこの月を、満ちるのを待つこの月を、「待宵の月」と人は呼ぶ。

2015.2.20
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