俊典さんからそんなメッセージが来たのは、先週のこと。
その日はずいぶん前から空けて置いたので、即「行くよ」と返事をした。だってその日――つまり今日――は、わたしたちがつきあって初めて迎えるホワイトデーだから。
初めて迎えたバレンタインも、わたしたちは俊典さんの家で過ごした。わたしがプレゼントしたバスボールをお風呂に浮かべて、それから……。
「きゃー」
あの日のことを思いだし、思わず両手で顔を覆った。
いけないいけない。人目もあるのに、一人で叫んで一人で照れるなんて。これではまるで不審者だ。
気を取り直して、まずは小さく咳払い。そしてわたしは、俊典さんの家のインターホンを押した。
「はい」
聞こえてきたのは、低いけれども甘い声。数秒待って門扉が開いた。そのままエレベーターホールまで進み、俊典さんのお部屋まで。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
扉をあけて待っていてくれた俊典さんを見上げてわたしは微笑む。すると心得た彼が、長い背中を大きく曲げた。目線の高さがぴったり合って、どちらからともなくわたしたちはキスをする。部屋の扉を閉めながら。
***
「今日はホワイトデーだから。なまえ、君に」
お茶を飲みながらあたりさわりのない会話をすること数分、俊典さんがわたしに小さな紙袋を差し出した。
「ありがとう。開けてみてもいい?」
「もちろんさ」
紙袋の中身のひとつは、色とりどりのマカロンだった。カラフルな色合いといい、フォルムといい、とってもきれいでとってもかわいい。そしてもうひとつは――。
「ハンドクリームにしてみたんだ。最近手がかさつくって言っていたろう?」
前回のデートの時、なんのきなしに話したことを覚えていてくれたらしい。
ありがとう、と応えた声が、震えてしまった。だって、こんな小さなことが、こんなにも嬉しい。
「早速つけてみようかな……」
ホワイトデーのプレゼントをもらったくらいで涙声になってしまった自分がちょっぴり恥ずかしくて、ごまかすように包みを開けた。小さな箱の中に入ったチューブはおしゃれな配色のストライプ。香水ブランドが出している人気の香りのクリームだった。わあ、と思いながら封を切ると、ふわりと洋梨とお花の香りが広がった。
「なまえ、私につけさせて」
チューブから出したクリームを手の甲につけていると、俊典さんがそう言った。うん、とちいさくこたえたのと同時に大きな手が伸びてきて、わたしの手に、そっと触れた。
お花と果実の香りのするクリームが、優しい手のひらで温められて、わたしの手の上で伸ばされていく。甲に、指先に、指間腔に長い指が触れ、やさしく滑り、そして擦ってゆく。
なんとなく恥ずかしくて、俊典さんを見上げると、青い瞳とぶつかった。絡む視線の奥にある、小さな欲。彼の虹彩の向こうに揺らめくそれを見つけ、わたしは静かに目を閉じる。細いけれど節くれ立った俊典さんの指は、長年戦い続けてきたひとのそれだ。
「俊典さん、手……もう少しかかる?」
「うん。もうちょっとだけ」
わたしの手の上で、彼の指はうごめき続ける。クリームをすり込むために。
そして数分がたったあと、「はい。綺麗にぬれたよ」と俊典さんがそう告げて、わたしはそっと目を開けた。
目の前には、大好きなひとのやさしい瞳。わたしと俊典さんの手からは、お花と果実の香りがやわらかに立つ。そうしてわたしたちはもう一度見つめ合い、ゆっくりと抱き合った。
骨張った胸と長い腕が、わたしをすっぽり包んでいる。「だいすき」とつぶやくと「私もだ」という声が返された。
――このまま、向こうの部屋に移動してもいいかい?
聞こえてきたやわらかで甘い囁きに、小さくうなずく。
かつて敵に大いなる脅威を与えた彼の肉体は、これからわたしに大きな安らぎと限りないしあわせと、la petite mortを与えるだろう。
2026.3.15
- 91 -
prev / finish