ミュゲの花言葉

 強い日差しがなまえの肌を焼く。
 だがこの街の夏がつらいのは日差しのせいだけではない。人と機械とが織りなす熱気と、特有の湿気。それがこの街の夏を、より過酷なものにしている。
 殺人的ともいえる晩夏の熱気は、まるで夏がその生命のすべてを振り絞っているかのようだ。
 まるで、あの夜のあのひとのように。
 
 オールマイトの最後の戦いを、なまえはその他大勢の民衆と同じようにテレビのニュースで知った。
 画面いっぱいに映し出された悪夢のような強大な敵と、痩せ衰えた英雄の姿。それでも彼は拳をふるう。人々を守るそのために。
 神野の悪夢と呼ばれるあの一戦は、オールマイトというヒーローをますます神格化してしまった。

「みょうじさん。入ります」

 死にそうなくらい緊張しながら、けれどそれを全く表面に出さず、なまえは現場に脚を踏み入れた。
 開かれた扉の先に待っていたのはかつての恋人、オールマイトそのひとだ。
 なまえの背に一筋の汗が落ちる。別れた男と仕事での再会。そんなことはこの業界にいれば、よくあることのはずなのに。

 今回の仕事は、女性向けファッション雑誌の撮影だった。抱かれたい男ナンバーワンに選ばれた彼と、目標にしたい女ナンバーワンに選ばれたなまえとの対談企画。
 つまり今、なまえとオールマイトは女性からの支持においては同格なのだ。
 付き合っていた時にあれほど夢見たことが、現実になった。けれどなまえの心は晴れない。

「久しぶりだね」

 席に着くなり、低い声がそう告げた。出会った時にそうしたように、そして別れた時と同じように、大きな手を差し出しながら。

 不覚にも、懐かしさに涙してしまうところだった。
 オールマイトは別人のように痩せ衰えてはいたが、その手の大きさはかわらない。差し出された手を振り払うわけにもいかず、大きな手を握りしめてなまえは微笑んだ。
 うまく笑うことができただろうか。嫣然と、だが凛として。

「お待たせして申し訳ありません」

 自分が仕事でオールマイトを待たせる立場になるなんて、彼とつき合っていた十数年前の自分には想像もできなかったことだ。
 けれど、なまえはハリウッドで成功した数少ない日本人の一人。
 長いことアメリカを拠点にしていたが、今春、父が死んだのをきっかけに生活の場を日本に戻した。すっかり足腰の弱ってしまった母を、ひとりにすることはできなかった。
 日本で暮らしながら、ハリウッド作品に出ている俳優は何人もいる。なまえもそのひとりになるだけだ。
 そう割り切って帰国した。
 
「みょうじさんがブレイクするきっかけになったのは、オールマイトさんと共演したCMからと聞きましたが」

 ミドルエイジの記者が、まずそう切り出した。会話のきっかけにはちょうどいいだろう。モデルから女優に転身し、身長が高すぎる故に役が付かなかったなまえを一躍有名にしてくれたのが、あのCMであったのだから。

「ええ。こうして一緒にお仕事をするのは、それ以来でしょうか」
「……うん」

 小さく答えたのは、少しかすれた低い声。その声に、かつての張りはない。

「でも、二年ほど前、今のお姿のあなたと六本木ですれ違いました」
「驚いたな。覚えていてくれたのかい」
「二メートルを超える身長の方はあまりいませんから」
「ああ……そういうことか」

 オールマイトが笑う。けれどその笑みはかつての豪放磊落なそれとは違い、少しさみしそうな、影のある笑みだった。

 立ち枯れ木のように痩せ細ったその腕は、包帯とギプスで覆われている。げっそりと削げ落ちた頬の肉。薄い胸と細い肩。
 彼は話すたびに小さく咳込み、時折少量の血を吐いた。

 それが、とても悲しかった。

***

「みょうじさん。よかったらこのあと食事でもどうだい?」

 対談と撮影も滞りなく終了し、帰り支度をしていると、そう声をかけられた。
 なまえは迷った。姿は変わってしまっても、何年も忘れられずにいた人だ。二つ返事で承諾したい。
 けれどそれをするには、互いを隔てた年月が長すぎた。

「ごめんなさい。このあとは別の仕事があるの」
「そうか……残念だよ」

 オールマイトの誘いに二度目がないだろうことは、なまえが一番よく知っている。
 けれどこのまま別れてしまうのはやっぱり惜しい。昔のようになるのは無理でも、一知人として関わることは可能かもしれない。そんな気持ちが泡のようにぶくりと生じる。
 人はきっと、こんな感情のゆらぎを「未練」と呼ぶのだろう。なまえは密かに自嘲する。
 一度壊れた関係が、うまくいくはずなどないのに。

「明日ならなんとかなるんだけど……」
「残念。私は明日の朝には向こうに戻らなくてはいけない」
「そう……残念ね」

 オールマイトが東京在住でないことを失念していた。彼は今、母校の雄英高校で教鞭をとっている。
 なまえとオールマイトの関係は、やはりここまでなのだろう。

「じゃあさ、もしよかったら君の連絡先を教えてはもらえないかな。私が東京に来ることがあったら、また食事でもしよう」

 そんな社交辞令じみた言葉にうなずいて、なまえは自分の連絡先を彼に教えた。事務所から渡されている仕事用の番号ではなく、私用の番号を。

***

 オールマイトから連絡が来たのはそれから数日後のことだった。
 仕事の都合で東京に来ると彼は言う。
 ところが残念ながら、なまえはその日、地方での仕事が入っていた。
 運がいいのか悪いのか。雄英高校のある都市だ。

「……え、こっち方面にくるの? いつまでいられるんだい?」
「お誘いいただいた日に撮影が終わることになっているわ。翌日はオフ」
「わかった。じゃあその日、こっちで会おう」
「え? でもあなた、その日は東京なんでしょう?」
「戻ってくる」
「……何言ってるの?」
「戻ってくるさ。いいだろ、なまえ。いっしょに美味いワインでも飲まないか」

 昔とは違うのよ。馴れ馴れしく呼び捨てにしないで。

 他の男には簡単に言える言葉を、そのまま飲みこんだ。肯定も否定も、他の男にならさらりと告げることができる言葉が、オールマイト相手だと出てこない。
 自分はどこまで未練がましいのかと、なまえはちいさく息をついた。

***

 海浜公園に吹く風は優しかった。
 夏と秋のいいとこどりをしたようなこの夜は、温かいけれど爽やかだ。

 オールマイトは約束の時間きっかりに、海の見える公園に現れた。ギプスはとれたようだが、枯れ枝のような右手にはまだ包帯が巻かれている。それがなんだか痛々しい。

「別の場所に移動するけど、いいかな」

 小さく頷くと、オールマイトは「こっち」と告げてすたすたと歩きだした。

 オールマイトは車だった。彼の愛車はアメリカ製のSUV。いかにもアメリカンといったかつてのオールマイトにも、今の彼にもよく似合う。

 海の見える公園からドライブすること数十分。シルバーのSUVが住宅街の中のビルの一つに吸い込まれた。
 オールマイトが入口のセキュリティにカードをかざすと、鉄の門扉がゆっくりと開く。
 各戸にセキュリティつきの独立した駐車場がついた建物は、店というよりも個人の住居のように思えた。

「ねえ、ちょっと……ここ……もしかして」
「ウン、私の家」

 車を降り、エレベーターにつながる扉にまたカードキーをかざしながらオールマイトが応える。まったく悪びれず、涼しい顔をしているのがまた憎々しかった。

「どういうことなの? ワインバーに行くんじゃなかったの?」
「私はうまいワインを飲もう、としか言っていないよ」
「……ひどいわ」
「こわいのかい?」
「は? まさか」

 からかうような口調にかっとして、思わずそう答えてしまった。
 こわいだなんて、ばかばかしい。
 もう、小娘だったあのころとは違うのだ。男をいなすすべくらいは身につけている。

「まあ、そんなかっかしないでくれよ。用意したワインは君のお眼鏡にかなうと思うから」
「そうでなかったら、即帰るわよ」
「ン。わかった。特に引きとめはしないよ」

 このひとは実際そうするだろう。それがわかっているからこそ、ますます腹が立った。自分は未だに彼に執着しているというのに、彼のほうはそうではない。
 おそらく、彼は誰にも執着しない。誰のことも愛さない。それが悲しく、そして悔しい。

 通された彼の部屋は、がらんとしていた。
 広いけれども、余計なものはおろか必要なものすら置いていないような、そんな部屋。

 家具らしきものといえばローテーブルと大きなソファくらいだ。テレビもない。そのかわりに、壁の上部にスクリーンモニターの収納口らしきものがある。きっと、スイッチを入れればあそこからスクリーンが下りてきて、大画面で映画やテレビ番組を観ることができるのだろう。
 あとは家具と呼ぶにはいささか小さな、壁に掛けタイプのマガジンラック。そこに数冊のヒーロー雑誌や映画雑誌が収納されている。
 さびしい部屋だな、となまえは思った。

「まあ、そこに座ってくれよ」

 促され、欧州製の大きなソファに座ると、グラスとつまみを運んできた彼が隣に腰をおろした。

「ねえ。距離が近くない? 昔とは違うのよ」
「わかってるよ」

 いたずらっぽくオールマイトが笑う。まったく、この笑みに昔から何度ごまかされたことだろう。
 こんな風に笑まれると、まあいいか、と思ってしまう。このひとのこんなチャーミングなところも、彼がナンバーワンたりえた理由の一つでもある。

 ローテーブルの上には、彼が用意した美味しそうなチーズとドライフルーツ、古伊万里の皿に綺麗に盛られたおつまみ、リーデルのグラスに注がれた上等の赤ワインが並ぶ。ワインはなまえの方にはなみなみと、彼の方には気持ち程度に。
 おそらく彼は、もう昔のようには飲めないのだ。胃袋をなくしたときいている。

「それにしても、がらんとした部屋ね」
「ここはたまに戻ってくるだけの部屋だからね。荷物の殆どは別の場所に移してあるし、生活の拠点もそっちだ」

 彼は言葉を濁したが、おそらく生活の拠点とやらは雄英の敷地内にあるのだろう。
 この秋から、雄英は全寮制になったときく。生徒の安全を守るための全寮制だ。機械によるセキュリティだけでは意味がない。ヒーローである教師陣も、同じように雄英で生活していることは容易に予想される。

 君の瞳に乾杯、と二十年前のドラマのようなセリフをオールマイトが口にして、グラスを合わせた。いまどきこんな真似をする男はいない。いたとしても笑われてしまうのが落ちだろう。
 けれどこんな時代がかったセリフや仕草が似合ってしまうのだから、痩せても枯れてもオールマイトは伊達男だ。

 そして彼の言った通り、赤ワインは美味だった。古伊万里の皿に盛られていたのは、マグロの漬けにバルサミコソースを添えたもの。これがまたワインに合う。

「これ、どうしたの?」
「私が作ったんだ、と言いたいところだけどね、さすがに時間がなかった。この近くに、しゃれていてうまい惣菜を扱っている店があるんだよ」
「たしかに美味しいし、ボルドーとよく合うわ。見事なマリア―ジュ」
「マリア―ジュ……ね」

 オールマイトがまたさみしそうに笑った。

「ねえ、どうしてわたしをここに呼んだの?」
「君と話しがしたかったから」
「話だったら外でもできるでしょう?」
「うん。でもね、人目があると本音で話せないこともあるだろ。お互いに」

 本音で何を話せばいいのだろう。
 なまえは少し困惑し、次にがらんとした室内をもう一度見渡した。
 上部に収納されたスクリーンと、壁面のマガジンラック。ラックの中には数冊の雑誌。それしかない部屋。
 だが、ラックの中の一冊に気がついた時、なまえの背に冷たい汗が流れた。

 なんということはない、市長を務めたこともある大スターが表紙の、アメリカの映画雑誌だ。
 この号にはなまえの記事も載っている。ページ数はそう多くない。
 だが、そこで自分が語ったことをオールマイトが見たのだと思うと、恥ずかしさにめまいがした。

「どうしたんだい。なまえ。顔色が悪いよ」

 悪いのはわたしの顔色ではなくあなたの性格だ、と叫びたい気持ちを必死で抑える。
 でも、なぜ彼はこんなものを。この雑誌は日本では発売されていないはずなのに。

「ああ。あの雑誌?」

 なまえの視線に気づいたオールマイトが、くいと顎をしゃくった。

「……」
「ここに書かれていることは本当かい?」

 なまえは女優だ。こんな時こそ演技しなくては。けれど今夜のなまえは日本一、いや、世界一の大根役者だ。とてもではないが演技などできそうにない。

『当時のわたしの恋人は、日本のスーパースターでした。彼はわたしよりもずっと格上。わたしは、どうしても彼につりあうような女優になりたかった』
『で、そのひととは』
『それっきりよ。当たり前でしょう。別れようと言ったのはこちら。有名になれたからよりを戻してと言えるほど、わたしは厚顔ではなかったの』
『ミズなまえ、あなたは未だに彼を?』
『さあどうかしら。それは言わぬが花というものよ』

 あの時記者としたやりとりを、なまえは一字一句たがわず思い出すことができる。

「なまえ。答えてくれないか」
「ええそうよ。そうだったわ。でもそれはあなたと別れた当時の話。今は、あなたのことなんか別に何とも思ってない」
「……そうか」
「そうよ。第一、今さらそんな話をしてどうするの?」
「わからないかい?」
「なにが?」
「あの雑誌がここにある理由だよ」

 オールマイトはそれ以上何も語らず、少しさみしそうに眼を細めた。
 日本未発売の雑誌、それが彼の手元にある。その理由を考えろと彼は言う。

 なまえも同様の行為をしたことがある。
 ストーカーじみていると思いながらも、思い出しては彼の名前で検索をかけた。時折、彼の載っている雑誌を日本から取り寄せもした。
 この十数年のあいだ、他の男とつき合ったことも、抱かれたこともある。けれど、彼以上の男など、なまえの前には現れなかった。

 オールマイトのことを忘れたことなどなかった。紫苑の花言葉そのもののように。 
 まさか、オールマイトも同じ気持ちだったと。彼はそう言いたいのか。

「……あなたは、わたしのことなんてすっかり忘れていると思っていたわ」
「私が君を忘れるはずないじゃないか」
「お上手ね」
「本当だよ。君は私が結婚を意識した、ただ一人の女性だから」

 いま、なんて?

「君は私の名前を知りたがっていただろう? でもあの時の私は身内でもない人間にそれを知らせるわけにはいかなかった。だから」

 オールマイトの本名は、たしかに引退した今でも謎のままだ。

「あの夜、私の名前を伝えながら、身内になってもらえないかと伝えるつもりだった」

 なまえは軽く頭を降って、ワインを飲み干した。
 衝撃のあまり頭が破裂しそうだ。

 あの夜、たしかにオールマイトはおかしかった。どこか不自然で落ち着かないようすで。
 しかもあの日のデート場所は、個室とはいえ人目につく流行りのレストランだった。いつもは人目を忍んで会っていたのに。
 今までわからなかったこと。けれど、それらすべてが今の話を聞いた後なら納得できる。けれど。

「……過ぎたことよ……そんなこと……今さら言われても困るわ」

 声が震える。

「まあ、そうだろうね」
「どうしてあの夜、それを言ってくれなかったの?」
「言えるわけないだろ」

 少し困ったように、オールマイトが薄くなってしまった肩をすくめる。

 あの夜、先に話を切り出したのはなまえだった。
 別れて欲しいと。アメリカに行くのだと。そう彼に告げたのはほかならぬなまえ。
 一度終わってしまった関係は、二度と元には戻らない。床にぶちまけられた水が、二度と盆の中には戻らないように。
 あの夜、ほんの少しタイミングがずれた。それだけで、互いの距離はこんなにも離れてしまった。

 オールマイトが無言のままなまえのグラスに酒を注いだ。なまえは黙ったままそれを見つめる。

 年月を経たボルドー特有の深い色合い。この色は時間をかけて熟成されなければ決して出ないものだ。熟成が浅く薄っぺらな若いワインでは、この色は出ない。
 人との関係も、この酒のようであればいいのに。
 葡萄の汁が樽の中で熟成されるように、互いを隔てた時間がこの関係を深く味わいのある重厚なものにしてくれれば。
 けれど、現実はそう甘くない。
 
「なまえ」

 耳元に流し込まれた、低いけれども甘い声。かつての張りがないぶんだけ、逆に男の色香が滲む。

「あの夜をもう一度やり直したい」
「あれから何年経ったと思ってるの? わたしに誰も相手がいないとでも?」
「バイオレンス映画で有名な監督に言い寄られてるって聞いたね」
「ええ。そうよ」
「でもそいつより、ずっと私の方がいいはずだ」
「うぬぼれてるのね」
「これくらいの虚勢くらい、はらせてくれよ」

 げほっと咳込んで、オールマイトが血を吐いた。

「なにせこの通り、私はすっかり変わってしまった」

 なまえからさりげなく距離を取り、オールマイトが笑んだ。それがすべてを諦めてしまった者の笑みのように見えて、ひどく哀しかった。

 オールマイトはなまえと別れたあの夜も笑っていた。彼がどんな気持ちで笑んでいたのか、当時のなまえにはわからなかった。でも、今ならわかる。
 このひとはきっと、悲しいときも辛いときも、こうして笑ってきたのだろうと。

「古い話をして悪かったね。でもワインは本当に上物だから。楽しんでいってくれよ」
「……飲み終わったらどうするの?」
「私は一口も飲んでいないから、来たときと同じように、車で君を送り届けるよ」

 ああ、本当に、このひとは。
 なまえは深くため息をつく。
 このひとは、自分の本心を隠す演技ばかりがうまくて格好ばかりつけたがる、大ばか者の道化師だ。傷つく前に、すっと身を引く。

 知らなかった。あなたがこんなに臆病者だったなんて。

 なまえは黙って、骨ばった肩に自分の頭を乗せた。
 びくり、と薄い体が身じろぎをする。けれど彼は、そのまま動こうとはしなかった。
 寄り添ううちに体温があがり、なまえの身体から、じわりじわりとフローラルノートがたちのぼる。

「いい香りだね」

 オールマイトがひくく呟いた。張りのない、少し掠れた低い声。
 けれど、これはこれでセクシーだ。

「……香水かい?」
「ええ。ミュゲの香りよ」 
「ミュゲ……鈴蘭か」

 なまえは小さく苦笑する。
 覆水盆に返らずなどと言いながら、この香水をつけてきた己も、やっぱりどうかと思うのだ。
 結局のところ、なまえと彼はよく似ている。二人は巣穴から出るのを怖がって、弱さと向き合うことを恐れる臆病なうさぎだ。
 でもこんな夏と秋のあいだにある夜は、臆病者同士、体温を分かち合うのも悪くない。それがたとえ、一夜限りの幸福で終わったとしても。

「この香りね、昨年の限定品なんだけど、容器も素敵なのよ。白のリモージュなの」
「へえ……それは悪くないね」
「これにはスプレーがついていないから、一滴ずつとって指でつけるのよ」
「耳のうしろとか手首とか、脈打つところに?」
「いいえ」

 挑発するようにオールマイトを見上げた。彼の口唇がゆっくりとあがる。

 どこにだい? ブルーアイズがそう問うている。
 わかるでしょう? と瞳で答える。

「……今夜……それを確かめさせてもらっても?」

 男の問いかけにこたえるかわりに、細い首に腕を回した。オールマイトの大きな手が、なまえの顎に添えられる。
 近づいてくる、肉の薄い……けれど彫りの深い面ざし。ゆっくりと互いの唇があわさる。

 香水はキスして欲しいところすべてにつけるのよ。
 そう言ったのは、ミュゲの香りとはまた別の、ビッグメゾンの創業者。

 鎖骨に、胸元に、下腹部に、それぞれ一滴ずつ落とした香りのしずくが、互いの熱で香り立つ。優しく清楚に香る、それは鈴蘭。

 すこしずつ、男から与えられる口づけが濃厚なものに変わっていった。痩せてしまっても、このひとから与えられる情熱はかわらない。

 ねえオールマイト、と、なまえは心の中で小さく呟く。
 あなたは知っているかしら。鈴蘭、ミュゲの花言葉を。

 ミュゲの花言葉、それは幸福の再来。

2016.12.5

「紫苑の花言葉」続編 20万打アンケート企画にて書かせていただいたお話。

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月とうさぎ