紫苑の花言葉

 ロケバスに乗り込みながら、なまえは小道具で使われた薄紫色の花を撤去するスタッフを眺めていた。
 紫苑の花とは皮肉なものだと冷めた視線をなまえは送る。よりにもよってこの街でと。
 この街は、彼が暮らす街。かつて愛したあの人が、暮らしそして守る街。

 紫苑の花言葉、それは……。

***

 あれから何年経つだろう。
 もう、はるか遠い昔のことだ。なまえがかけだしの女優だったころの。

 身長が高すぎてなかなか役が付かず伸び悩んでいたなまえのところに、ある日願ってもない話が舞い込んだ。

 男性化粧品のCMで、人気急上昇中のあるヒーローにつりあう高身長の女性をさがしているという。そのヒーローこそが、現在のトップヒーローオールマイトだった。
 若く逞しい肉体に精悍なマスク、礼儀正しい振る舞い、過剰なほどのサービス精神、そして常に笑顔を絶やさない人当たりの良さもあいまって、彼は女性から絶大な人気を得ていた。
 もちろんなまえも彼に憧れるその他大勢のひとり。胸をときめかせながら、撮りの日を楽しみに待ったものだった。

***

「こんにちは。今日はよろしくね」

 がらんとしたスタジオ内に心地よい低音が響く。オールマイトが微笑み、大きな手を差し出した。
 なまえの手を握った彼の手は、力強く、そして温かかった。

「なまえさん、もしよかったら連絡先を教えてくれないか」

 撮影の後、彼からそんな声をかけられたとき、なまえは嬉しくてもうこのまま死んでもいいと本気で思ったものだ。

 その日以来、マネージャーの目を盗んで、マスコミに隠れて彼との逢瀬を続けた。
 お軽い業界人とは違う、誠実なたたずまい。
 二人になったときの彼は、ヒーロー活動時とは少し異なる、落ち着いた物言いをする人だった。

 幸せだった。これ以上ないほど。
 だが蜜月はいつまでも続かなかった。

 平和の象徴オールマイトは、秘密の多い人だった。
 年齢も、名前もわからない。
 ナチュラルボーンヒーローに、名前はいらない。それが彼の口癖だった。
 もしかしたら、正面から尋ねたら彼は答えてくれたのかもしれない。

 けれどどうしても当時のなまえには、あなたの名前が知りたいのという簡単な一言を口にすることができなかった。

 つまらない意地だった。
 なまえは素直でなさすぎたのだ。
 オールマイトの周囲には常に群がる女たちがいて、その一人にされてしまうことが怖かった。

 そう、いつのまにかなまえは疑心暗鬼に陥っていた。
 自分は彼に遊ばれている。
 彼にふさわしい女ではないから、名前すらおしえてもらえない。
 彼につりあう女になるためには、どうしたらいいのか。
 そんなことばかりを考えるようになっていた。

 振り返ってみると、オールマイトが群がる女性たちを相手にしたことなど、ただの一度もなかったように思う。

 疑うことは簡単なのに、信じることはあんなにも難しかった。
 疑って、失って、そしてこんなにも後悔するくらいなら、信じて騙されればよかった。
 何より、彼は誰かを騙すようなひとではなかった。

***

 あの夜、湿気の多い六月の夜。東京湾を臨むフレンチレストランの個室で、オールマイトとなまえは向かい合って座った。
 東京湾に浮かぶクルージング船の明かりを見下ろし、なまえは心の中でため息をつく。
 筋肉質の体をメゾン・ド・クチュールのスーツで包んだ彼は、どこから見ても素敵だった。

「話があるの」
「偶然だね。私もだ」

 なまえの声に、愉快そうに彼が顔を綻ばせる。

「……私から話してもいいかしら……」
「ンン、とにかく食事を終えてからにしようよ」

 いったい何かな、と、いたずらっぽく笑ってオールマイトはワインリストを目で追った。

 食事をしながら、あたりさわりのない話をした。

 今にして思えば、あの日の彼はなんとなくおかしかった。どこか不自然で落ち着かないようすで。
 常に人目を忍んで会っていたのに、個室とはいえ当時流行っていたあのレストランを、どうして彼が指定したのか。
 それは今でも謎のままだ。

 やがてなまえがそろそろと口を開いた。

「ハリウッドで演技の勉強をしようと思うの」
「え?」
「だからしばらく日本には帰らない……オーディションを受けて、受かったらそのままあちらを拠点としようと思う」

 心のどこかで、彼が行かないでくれと言ってくれるのを待っていたような気がする。
 心のどこかで、成功の連絡を入れるまで彼が待っていてくれるのではないかと期待していた気がする。
 でもそれは、まったく子供っぽい考えだった。

「もう決めたことなのかい?」
「……ええ……」
「これはお別れ、ということなのかな」
「そうね……」
「わかった」

 ゆっくりと目を閉じ、静かにオールマイトが答えた。

 胸が張り裂けそうだった。
 足元から、すべてが崩れ落ちていくような錯覚。自分の口から言葉をすべてかき集めて、窓の外に広がる海に捨ててしまえたら。
 だがそんなことが不可能であることを知っていて、なまえはオールマイトに別れを告げたのだった。

「あなたの話は?」
「いや……君のした提案と似たようなものだよ」

 落ち着いた低音で気にすることはないと続け、オールマイトは肩をすくめた。

 店を出た後、元気でと、オールマイトが右手を差し出した。
 初めて会った時と同じように、初めて会った時とは違う芝居がかったしぐさで二人は手を重ね、そして別れた。

 オールマイトは最後まで、笑顔のままだった。

***

 その後幸いにもなまえはあちらで成功し、今に至る。拠点はハリウッドのままだ。日本での活動はごくまれにしかしない。
 なぜなら日本で本格的な芸能活動などしたならば、オールマイトに再会してしまうであろうから。

 会いたい、けれど会えない。彼の住む街から早く立ち去りたい、けれどやっぱり、その街を歩きたい。

「ここでおろしてちょうだい。少し歩きたいの」

 とうとう我慢できずに、なまえは告げた。
 危険ですとマネージャーが反対したが、静かに首を振って答える。

「大丈夫よ、この街にはオールマイトがいるもの」

 犯罪件数の多い大都会の中で、それが異様に少ない街、六本木。なぜなら、この街には平和の象徴の事務所があるから。ここは、彼が護る街。
 反対するスタッフを振り切り、なまえはバスを後にした。
 外は爽やかな秋晴れ、巻いた髪をゆらす風が心地よかった。

 うしろからボディガードがついてくる気配を感じたが、それは仕方がないことだ。クライアントを守るのが彼らの仕事。完全にひとりになれないことは、承知している。

 そんなどうでもいいことを考えていたせいだろう、段差によろけたなまえは、前から歩いてきた長身痩躯の男性と危うくぶつかりそうになる。
 刹那、男性は貧弱そうな身体に似合わぬ身のこなしで、なまえを支えてくれた。まるで木の葉が風に舞うような自然な動きで。
 そして次に放たれた声に、一瞬、周囲のすべてが音をなくし、止まってしまったような気がした。

「失礼」

 オールマイトとよく似た、低い、低い声。

 身長の高いなまえは、ハイヒールをはくと185センチを超える。なのに男性と目を合わせるために、上を仰ぎ見なくてはならなかった。
 ひどく痩せていはいるが、彼と同じくらいの身長、彼と同じ髪の色、彼と同じ瞳の色。

 なまえが「女優、みょうじなまえ」だと気付いたのか、男性は少し驚いたようすで、それでも優しくふわりと笑った。

 オールマイト……と心の中でその名を呼んだ。
 まったく違う人のはずなのに、この不思議なほどの既視感はなぜ?

 呆然と男性を見つめたままのなまえに、その人は抑えのきいた深みのある声で、お気をつけてと言ってまた歩き出した。
 ありがとうと呟いてなまえもマノロの踵を鳴らして歩き出す。男性とは反対の方向に。

 オールマイト、平和の象徴。
 別れてずいぶん経つというのに、今でも忘れられない人。
 彼以上に愛せる男性になど、巡り合えるはずなどなかった。

 あなたは今でも頂点に立ち続けているのね。
 その精悍な顔に、笑みを浮かべて。

***

 ビルの谷間の小さな公園のベンチに座って、オールマイトは軽く息を吐いた。

「まいったな。日本に戻ってきていたのか」

 自嘲気味にそうつぶやいて、オールマイトは懐かしむように空を仰いだ。

 あれから、何年経つだろう?とオールマイトは心の中で独りごちる。
 なまえ。君は、あの頃と変わらず美しい。いや、世界の舞台で洗練されたぶん、今のほうが美しいのかもしれないな。
 彼女のことを、忘れたことなどなかった。

 オールマイトは、いまでもあの夜のことを夢に見ることがある。
 夢の中でも、自分は彼女を引き止められない。ぴたりと顔に張り付いた、笑顔の仮面を外すことができないままで。

「まったく、未練がましい話だ」

 それは平和の象徴と謳われた英雄のものとは思えないほど、小さく消え入りそうな声だった。

 オールマイトにはできなかった。
 彼女の夢を妨げるようなことも。
 去りゆく彼女に追いすがることも。

 あの夜言えなかった「行かないでくれ」という一言は、スーツのポケットから最後まで出すことができなかったダイヤの指輪と共に、都会を臨む海の底に沈んだままだ。
 
 たぶん、自分はそう長くは生きられないだろう。
 だからきっと、あの時別れたことは正解だった。 
 オールマイトに後悔はない。ないけれど。

 それでも、自分は今でもなまえを愛している。
 その気持ちはきっと、これからもずっと続くのだろう。


 紫苑の花言葉。それは……。
 あなたを、きみを、忘れない。

2015.2.22
2015.8.12 改稿
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