かみさまの体温
マドンナリリーは癒したい 前編

 鈍色の空から、小さな花びらのような雪片がひらりひらりと落ちてくる。
 この地域で十二月に雪が降るのは珍しい。

 会議室に集められているのは、ヒーロー科の教師ばかりだ。
 空調が効いているはずの室内であるにも関わらず、周囲の空気は冷たくぴんと張りつめていた。
 これは悪い夢に違いない、とわたしは口の中で呟いた。そしてその場にいるほとんどの者が、同様の感想を抱いているに違いないと思った。

 平和の象徴の二つ名を持つスーパーヒーローが、我が校の教師となることが決まった。それに伴い、本日の会議の席で本人から種々の事情と赴任に向けての挨拶がある。そう聞かされたのは今朝のことだ。
 だから期待に胸を膨らませていた。それなのに。

 今、わたしたちの目前で静かに笑んでいるのは、枯れ木のように痩せ細った、かの英雄とは全く異なる虚弱そうな男だった。
 それだけではない。骨格標本を思わせる男から語られた真実は、とてつもなく重たい、衝撃的なものだった。
 呼吸器半壊、胃袋全摘。減り続けていく活動時間。

 平和の象徴として立っていられる時間は残りわずかだが、その時間を後進の育成のために活かしたい、とオールマイトは言った。
 その声はたしかに、わたしたちヒーローを志した者たちがかみさまのように崇め続けた、英雄様のものだった。

 この件にはもちろん箝口令が敷かれ、ヒーロー科の教師陣だけが知る、門外不出の重要機密とされたのだ。

***

 晴れわたった青空のもと、薄紅色の桜の花びらがひらいた四月最初の土曜日のこと。
 満開になった桜の下で、グラウンドを走る運動部の生徒たちを嬉しそうに眺めている長身痩躯の姿があった。

 仕立てのよさそうな茶系のチョークストライプのスーツ。本来ならばそれは逞しい身体にぴたりと添うよう仕立てられたもののはずだ。
 けれど今の姿では、ぶかぶかと余っている首元が、すかすかになっている胸元が、やや落ちた肩のラインが、現実の無残さを無言のままにものがたる。
 満身創痍のかみさまは、それでもひとり抗い続ける……そう思ったら泣きたくなった。
 すると視線に気づいたのか、オールマイトが振り返った。

「やあ、マドンナリリー。今日はいい天気だね」
「そうですね。来週までこの桜が持ってくれるといいんですが」
「まったくだ」

 マドンナリリー。
 それがわたし……芳月梨香のヒーローネームだ。
 聖母の百合とは大仰な名だが、その花にまつわるおとぎ話のように生きたくてこの名を選んだ。

「いよいよ来週から新学期ですね」
「うん。とても楽しみだよ。私にとっては初めての生徒だ」

 痩せ細った英雄は、そこで小さく咳をした。
 本人はさり気なく拳を握りこみ隠そうとしたが、硬く握られた指の影に鮮やかな朱が散っていたのがちらりと見えた。

 おせっかいとは思いながら、わたしは密かに個性を発動させた。

 今微かに見えた血の色は鮮明だった。
 とすれば、吐血ではなく喀血だ。呼吸器に効く香りを出さなくては。

 わたしの個性は芳香だ。色々な効果のある香りを放つことができる。
 アロマテラピーのようなものだ。
 癒しの香りも出せるし、痛みを和らげる香りも、咳を鎮める香りも出せる。刺激臭で敵を攻撃することもある。
 ただしこの個性は種々の症状を和らげることはできるが、治癒するほどの力はない。攻撃に至ってもそれは然りで、異臭で足止めはできてもミッドナイトのように意識を奪うことはできない。
 どちらかといえば補助向けの、中途半端な能力だ。
 当然ヒーローとしての実力も、中途半端なものである。
 そんなわたしが化学教師として雄英に潜り込めたのは、まさに奇跡といっていい。

「オールマイトさんのヒーロー基礎学の授業が始まったら、見学させていただいていいですか?」
「ええ? やめてくれよ。教師としては君の方が先輩じゃないか」
「ヒーローとしてのオールマイトさんは、わたしたちにとって神様みたいなものなんですよ」
「それは嬉しいけど、ほめ過ぎだよ」

 オールマイトと取り留めのない話をしながら、廊下を歩いた。
 自分が少女のようにときめいていることに気がついて、心の中で苦笑する。
 もちろんこの胸の高鳴りは恋などという浮かれたものではない。
 年齢不詳ではあるが、オールマイトはおそらく四十歳を超えている。わたしと恋愛をするには年齢差がありすぎる。
 だがヒーローを志したことがある者で、オールマイトに憧憬を抱かぬ者はいない。これはそういった意味で、抱くときめきのひとつ。
 さきほどの「かみさま」という言葉が一番しっくりくるかもしれない。

 となりを歩くこの人は「オールマイト」という名の宗教だ。

「マドンナリリー」
「はい」
「ありがとう。ずいぶん呼吸が楽になったよ」

 職員室につくと同時に、オールマイトに礼を言われた。
 気づかれていたのか。
 少し恥ずかしさを覚えながらも、雲の上のひとにありがとうと言ってもらえたことに、天にも昇る気持ちになる。
 やっぱりオールマイトは憧れの存在。同じ職場にいられるなんて、こんなに幸せなことはない。
 その憧れの相手が、かみさまが、別人のように痩せ衰えてしまっていても。

 かみさまとわたし、それぞれが自分のデスクについた途端、二つ上の先輩が話しかけてきた。

「ヘイ! お疲れ!」

 ヒーローと教師と、そして人気パーソナリティという三足のわらじをはいているタフな先輩の名はプレゼント・マイク。
 オールマイト相手でも臆さず親しげに話しかけ、自身のラジオ番組のゲストへのオファーもさり気なくアピールしているつわものだ。
 よくもまあ、あんなにさらさらと言葉が出てくるものだなと、少し感心してしまう。

 人様の会話をいつまでも立ち聞き……正しくは座り聞きしているのもなんなので、先輩方にお茶でもひとつ入れるかと立ち上がった瞬間、自身の携帯がブブブと震えた。

 誰だろうと画面を覗く。表示されたのは見慣れた名前。
 わたしは軽く眉をさげた。

 仕事中はかけてくるなとあれほど言っておいたのに、彼はどうしてわからないのだろう。

「ヘイ、リリー。その顔は彼氏かい。お安くないね」
「……そんなんじゃないですけど……」

 さすがに「はぁいそうです。彼氏でぇす」とは言えずにお茶を濁した。
 その間も電話は大きなハエの羽音のように、不快な音を立てつづけている。

 無視を続けるか、いやいっそのこと電源を切ってしまおうかと悩んでいると、横から柔らかい低音にたしなめられた。

「出たほうがいい。切れてしまうよ」

 教師としては後輩だが、ヒーローとしては神とあがめる相手からのお許しだ。これを無視するわけにはいかない。
 年長者二人に軽く頭を下げ、出口に向かいながらホームボタンを押す。
 通話が繋がった途端に聞こえてきたのは、がさがさとした怒鳴り声。

『なにやってるんだ。すぐ出ろよ』
「ごめんなさい」

 反射的に謝ってしまい、そんな自分にいらだった。
 悪いのはいったいどちらなのだろう。
 始業時間中に私用電話に出られないということは、社会人としてはごく当然のことなのに。
 そして次に彼の口から出た言葉に、わたしは廊下に出ようとしていた足を止めてしまった。

「は? お金が必要? また?」

 職場であるにも関わらず、思わず大きな声が出た。
 しまったと思ったがもう遅い。
 そっと振り向くと、ヒーロー科の教師たちがこちらを見ていた。もちろんオールマイトもだ。

「いくらなの?……そう……で……どうして?」

 声のトーンを落としながら、わたしは職員室をあとにした。
 もう……最悪だ。

***

 地下の酒場は薄暗く、若者が多い場特有の雑然とした雰囲気に包まれていた。
 彼はめずらしく、わたしより先に店に来ていた。
 軽く手をあげ、存在をアピールする彼に小さく合図し、ため息をつく。

 と、その時、わたしのうしろに背の高い二人連れがいることに気がついた。あきれ果てて声もない。今まで気配を消していたのか。
 その二人とはプレゼント・マイクと痩せ細ったオールマイトだ。

 二人はにやりと笑ってからわたしを追い抜き、彼の座るテーブルの隣の席に陣取った。

 マイクは優しいのだが、こういうところがどうもよくない。きっとあとをつけたのだ。
 わたしが金の無心をされていることを知って、心配したに違いない。この先輩は、わたしの性格や過去のことまで知り尽くしている。
 そのプレゼント・マイクはともかくとして、オールマイトまでなぜここに?

「早く座れよ」

 闖入者に困惑して立ち尽くしていたわたしに、彼がいらだった声を上げた。
 そういう声をだしちゃだめ。ほら、マイク先輩の目が吊り上がる。
 マイクには、ちがうと弁明したかった。
 この人は悪い人じゃない。自分より弱い―と思っている―相手にはとことん強気に出るだけだ。
 弱いものに厳しく、強い者には優しく。どこまでも心の弱い人なのだ。

「金は」

 向かい合わせに座ったわたしに、彼は不満そうな顔のまま言った。
 わたしは密かにため息をつく。

「どうしてそんなにお金が必要なの?」
「あぁ? 電話で言ったろうがよ。まずいところから借りちまったんだよ」

 彼はすっと眼をそらした。
 ああ、このひとはもうわたしの顔をまっすぐみることすらできない。

「六十万は多すぎるわよ」
「足りないぶんは、おまえが一晩頑張るたびに五万ずつ引いてくれるってよ」
「は?」

 信じられない思いで、わたしは彼を見おろした。彼はそっぽを向いたままだ。
 本当にだめなひと。このひとはとうとうわたしまで売ったのだ。

 わたしたちの会話が聞こえたのだろう。
 音もなく、マイクとオールマイトが立ち上がった。
 二人ともかろうじて笑っているが、その笑顔が超怖い。この二人に攻撃されたら、彼などひとたまりもないだろう。
 わたしはあわてて彼に応える。

「それはむり」
「おまえ……俺がどうなってもいいのかよ。たった六十万で俺がどこかに埋められちまってもいいのか」
「だった六十万っていうんなら、自分で返せばいいじゃない」
「おまえ……っ!」

 わたしは激高しかけた彼より先に、相手の襟をつかんだ。こうするしかないと思った。

「サヨナラ」

 この言葉と共に、今の今まで好きだった男の顔に、わたしは自分の拳を思い切りたたきこんだ。
 実はわたしはけっこう強い。
 プロヒーローとしては中途半端な個性しかないのだ。だから高校時代、体術のほうを極めに極めた。

 軽い脳震盪をおこしかけているだろう頭を、ぐいとつかんで上を向かせた。

「あなたとはもうおしまい。別れましょう」

 わたしはバッグから封筒を取り出して、彼の目の前にぽんと放った。
 中身は六十万、かんたんにぽんと出せる金額ではなかった。すくなくともわたしにとっては。
 それでも彼がひどい目にあうのは、やっぱりかわいそうだと思った。それだけだ。

「それは手切れ金がわりにあげるから。二度と連絡してこないで」

 じゃあねと、彼を見おろし、店を出た。
 薄暗い階段を上がった先に広がるのは週末の繁華街。土曜の夜はこれからなのに、ひとりだなんて悲しすぎる。
 春の風が冷たく感じ、わたしはトレンチコートの襟をかきあわせた。

 また一つ恋が終わった。
 ずいぶん前から、もう潮時なのかもしれないとは思っていた。
 お金のことも今回が初めてではない。彼にはいくら渡したのか、もう数えてもいなかった。
 関係も対等なものではなかった。
 彼が来たいときにうちにきて、抱きたいときにわたしを抱いて、そしてふらりと去っていく。
 最初はあんなひとではなかった。
 いつからだろう。いつから彼はわたしをあんな風に扱うようになったのだろう。
 きっかけすらも、思い出せない。

 みんなそうだ。
 わたしは相手を癒したいだけなのに。優しくしたいだけなのに。そうすればするほど、男のひとはわたしをぞんざいに扱うようになってゆく。
 男のひとって、みんなそんなものなのだろうか。

 その時、泣きそうになるのを必死でがまんしていたわたしの頭上で、聞き覚えのある笑い声が響き渡った。
 この無駄によく通る明るい声は、プレゼント・マイクだ。

「……マイク先輩。やめてくださいよ。シリアスにひたろうとしてたのに」
「だっておまえ……あんな……ククク……」
「もう! そこは笑っていいところじゃないです。それからあとをつけたりするのもやめてくださいよ! 訴えますよ!!」
「まあいいじゃねーか。さっきのは面白かったよ。スッキリしたぜ」
「面白かったって、ひどくないですか?」
「ひどくねーよ。だいたいおまえは男を甘やかしすぎるンだよ」
「そんなことないです。わたしは普通にしてるだけです」
「おまえは人が良すぎンだ」
「まあまあ、マイクくんもマドンナリリーも落ち着いて。せっかくだから三人で飲みに行かないか? この先にね、美味しい料理をだす店があるんだよ」

 かみさまの一言で、わたしたちは静かになった。

***

 オールマイトの連れて行ってくれたお店は、無国籍料理を出す落ち着いた雰囲気のダイニングバーだった。

「わあ、なんかこう……独特の雰囲気がありますね」
「そうだね、インテリアも無国籍な感じで、いろんな国のアンティーク品を使っているそうだよ」
「へえ、時代を経たものばかりだからでしょうか。国籍のない感じなのに、不思議と統一感がありますね、素敵です」

 だがその素敵なお店の素敵な席についたとたんに、プレゼント・マイクのお説教がまた始まった。

「だいたいさー、おまえはいい女なのに、昔から男を見る目がないんだよ」
「そんなことないですよ」
「昔から?」

 わたしたちの会話にオールマイトが割って入った。
 先輩がにやにやしながら説明を続ける。
 ほんとうに、かみさまの前でわたしの過去を暴くような真似はしないでほしい。恥ずかしいったらありゃしない。

「こいつ高校も雄英で、俺や相澤の二個下にいたんすよ。結構可愛かったから、おれら三年のアイドルみたいになってたんすけど」
「へえ、そうなのかい」
「なのにこいつはいつもろくでもねえ男ばっかりとつき合って……最初の男はあれだよな。おれらとタメの野郎で、ミス雄英とおまえをふたまたかけてたんだよな」
「……ソウデス……でもそれ、十年以上も前の話じゃないですか」
「じゃあ最近の話をするけど、さっきの男の前の野郎は、おまえの家に転がり込んできたフリーターだよな」
「はい」
「で、連絡しないで早退したら、おまえのベッドで別の女とヤってたんだろ」
「……デスネ……」
「その前はあれだろ。親が不治の病で治療費が必要だって、とんでもねえ金額だまし取られて」
「騙されてません。本当に病気のお父さんがいたんです」
「だとしても、そいつ、おまえが金を渡したとたんばっくれやがったじゃねえか」
「……ソウデスケドネ……」
「その前の男はー」
「もうやめてください」

 眼の端でオールマイトが肩をすくめているのがうつった。
 かみさまの前で悲しい歴史の数々を暴かれて、涙が出そうだ。

「まったく、聖母さまみたいにお優しいのはけっこうだけどな、男は甘やかすとどんどんつけあがるんだよ」
「そんなに甘やかしたことはないです」
「うそつけ。おまえさっきの男にだって金渡しちまってたじゃねーか」
「だって……あのお金がないと彼がかわいそうなことに……」
「おまえはお人よしすぎんだよ」
「それ、さっきも言いました。でも、わたし今回彼のこと殴りましたから、それでいいんです」
「いや、よくない」

 マイクとわたしのやりとりに、静かだが強い意思を含んだ声が割って入った。

「あれを許すとね、彼はまた同じことを繰り返すよ。女性にたかる常習者ですめばいいが、エスカレートしてヴィラン化してしまうかもしれない。だからね、これは回収しておいた」

 ばさり、とオールマイトが大金の入った封筒をわたしの前に突き出した。
 いつの間に。

「……でも、このお金がないと彼が……」
「自業自得だね。それにたぶん、大丈夫だと思うよ。彼の身につけている物をみたかい? ブランド尽くしだった」
「え……」
「まず、時計。あれは一番安いラインの製品でも三十万はするメーカーのものだ。しかも彼がしていたのは、価格も人気も高いラインだ。百万近くするんじゃないかな。六十万が必要なら、彼はあれをまず売るべきだ」
「靴もハイブランドの人気ブーツだ。あれも一足十万近くする。服もカジュアルだったけど、それなりのブランドに見えたぜ」
「そんな……いつもお金がないって言ってたのに……」

 おしゃれ人間の二人とは違い、わたしは高級品やブランドファッションにはうとい。だからまったく気がつかなかった。彼のしている時計がそんなに高いなんて、夢にも思っていなかったのだ。
 オールマイトが「一番安くて三十万」と言ったメーカーの時計を、彼はいくつも持っていた。

「もうお説教はおしまい。ここから先は無礼講だから。たくさん食べておおいに飲んでくれ」

 しゅんとしてしまったわたしを励ましてくれようと思ったのか、オールマイトがにっこり笑った。

***

 翌朝、目覚めたとたん、ひどい頭痛に襲われた。
 これは完全に二日酔い。
 自分でもびっくりするほど、吐く息がお酒臭い。

 それにしても、ここはいったいどこだろう。まったく見覚えのない部屋だ。
 完全な寝室といった体の、ベッドと小さなサイドテーブルと間接照明しかない部屋。

 でもきっとここはラブホテルではない。それより高級感がある。
 でもきっとここは高級ホテルでもない。だってほんの少しだけ生活感がある。
 でもきっとここは一般家庭ではない。普通の家の寝室にしては広すぎる。

 もしもここが誰かの家の寝室であるとするのなら、その誰かさんはたいへんなセレブだ。

「セレブ……」

 嫌な汗が背中を伝った。
 セレブ中のセレブと、わたしは昨夜一緒に飲んでいたのではなかったか。

 わたしは大慌てで、アルコールのせいで断片的にしか残っていない記憶のかけらをかき集めはじめた。

 昨夜はたしか、わたしとプレゼント・マイクとオールマイトの三人で飲んでいたはず。

 どれだけ飲んだか覚えていないけれど、酔った勢いで二人にからみ「男なんてみんな死んじまえー」と叫んだ……ような気がする。
 途中でマイクは「明日朝一でラジオの収録があるんでー」と先に帰った……ような気もする。 
 で、素面のオールマイトとわたしが残された……気がする。

 そうそう「私も明日は予定があるんだよ……」と言いながら、オールマイトは無理矢理わたしをタクシーに押し込もうとしたんだ。
 ひとりになりたくなかったわたしは、オールマイトの前髪をひっつかんだ……そうだ「そんなに強く引っ張ったら抜けちゃう! ハゲちゃうからヤメテ!」って騒ぐオールマイトの前髪をひっつかんで、車内に引きずり込んだんだ。
 タクシーから降りようとするオールマイトにしがみついて「いやだ。今夜は帰さない」と大泣きして……それから……それから……どうしたんだっけ???

 自分のしたことを思い出すたび、顔から血の気が引いていく。

 わたしはもう一度室内を見渡した。
 寝室にしては広すぎる部屋。
 特注としか思えない馬鹿でかいベッド。
 ベッドが特注なら、もちろん寝具も特注だろう。
 壁にかけられた大きな絵は、ニューヨークアートの大家のものだ。
 わたしは芸術にあかるくはないが、あれはおそらく本物だ。

 ここ……記憶の流れからしても、置いてあるものの感じからしても……もしかして……と、青ざめきったその時に、扉が開いた。

「おはよう」

 爽やかにわたしに微笑みかけたのは、黄金色の頭髪をした、ヒーロー界のかみさまだった。

2016.4.20
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月とうさぎ