かみさまの体温
マドンナリリーは癒したい 後編

 わたしはベッドの上に座り込んだまま、「おはよう」とにこやかに声をかけてきた長身痩躯をそろそろと見上げた。

「え……え……どうして……」
「コーヒー淹れたけど、君、朝食はどうする? 食べられるかい?」

 本当はお腹になにか入れたほうがいいのだろうけど、今はちょっと無理そうだ。とりあえず水分だけをいただこう。……って、いま気にしなきゃいけないところはそこじゃない。
 どうしてわたしは、オールマイトの家にいるのだろうか。

「あ……あの……わたし……」
「ねえ君、自分が今どんなかっこうしてるかわかってる?」
「え? かっこう?」

 言われて慌てて下を見た。
 えっ、まって! なんで服を着てないの?!
 かろうじてショーツだけは身につけているけれど、上半身は裸だ。あわてて毛布を胸元まで引き上げる。
 わたしの服はドコに?と周囲を見回し、枕の脇にきちんとたたまれた衣服が置いてあることに気がついた。わたしが昨日着ていた服だ。

「あの……オールマイトさん……これって……」
「え? もしかして君、ゆうべのこと覚えていないのかい?」
「……はい……」
「ひどいな」

 オールマイトが笑いながら近づいてくる。あんまりいい感じの笑い方じゃない。ベッドサイドまできたかみさまは、わたしの顎をくいと持ち上げた。

「あ……あの……オールマイトさん?」

 わたしを見つめて、片方の唇だけ歪めて笑うオールマイトは別人のようだ。

「夕べはかわいかったよ、梨香……」

 至近距離でささやかれ、涙が出そうになった。
 やっぱりイタシテしまったのだ……。ぜんぜん覚えてないけれど。

「おや、後悔しているって顔だね。でも今夜は帰さない、って最初に言ったのは君だぜ」

 その通りだ。そのセリフは覚えている。だからオールマイトは悪くない……きっと。

「あの……」
「ん? なんだい?」
「夕べは……前髪を引っ張ってしまって申し訳ありませんでした」
「は?」
「中年男性にとっては大切な頭髪だったのに」
「……中年男性……って君ね……確かに最近生え際の後退が気になるところだけどさ……それより君が気にするとこそこ? 私が君にしたこととか気にしないわけ?」
「……体はどこも痛くないですし……乱暴にされた感じではありませんよね……わたしは泥酔していたので……その……細かいことを覚えてはいませんが……無理矢理ではなかったのでしょう……」

 わたしはシーツの下で拳を握りしめた。泣きそうだけれど泣いてはいけない。
 目の前のこの人は、据え膳は美味しくいただくかもしれないが、嫌がる女をどうにかしてしまうような人ではないだろう。介抱してもらっているうちにそういうことになってしまった。おそらくはそういうことだ。
 けれど尊敬し憧れていたはずのひとと酔ったはずみでこういうことになってしまったことが、とても悲しい。
 しゅんとうなだれていると、オールマイトはちいさく笑った。

「安心しなさい。私は何もしていない」
「え?」
「あまりにも夕べの君が無防備だったから、ちょっと意地悪をしたくなっただけだよ。服は君が自分で脱いだんだ。私はそれを畳んだだけ」
「……よかった……」

 安心したら、ほろりと涙がこぼれ出た。
 いやだ。十九、二十歳のお嬢さんでもあるまいし、こんなことで泣くなんて。
 オールマイトも呆れているに違いない。そう情けなく思っていたら、大きな手が頭の上にぽんと置かれた。

「服を着たら、リビングにおいで」

 そう微笑んだ青い眼は、とてもやさしい色だった。

***

 瀟洒なデザインのダイニングテーブルで、美味しいコーヒーをいただいた。
 軽い酸味の後に続く深い苦みと味わいが、アルコールで疲れた身体を癒すように、体の中に沁みわたっていく。

「二日酔いのあとはイオン飲料のほうがいいんだろうけどね、あいにく切らしてるんだ。でもコーヒーとは別に、水も飲んでおいた方がいい。それと、なにかお腹にいれておいた方がいい。せめてフルーツだけでも摂りなさい」

 とん、と目前に置かれたのは、カットされたルビーのグレープフルーツだ。
 グレープフルーツは二日酔いにいいときく。
 爽やかな香りに誘われて綺麗な赤い果肉を口腔内に放り込むと、かすかな酸味と香気が口の中いっぱいに広がった。

 柑橘系の果実は目の前の人に良く似合う、とふと思った。

 グレープフルーツの爽やかさを楽しみながら、室内をさりげなく見回した。
 ヒーロー界を代表するセレブであるオールマイトの家のリビングは広い。シンプルなスタイルの寝室とは大きく異なる雰囲気だ。
 象嵌細工が施された艶やかな鏡面加工のテーブルと、揃いのチェア。マホガニーのローマンカウチ。なだらかな曲線を描くリビングボード。
 置かれている家具は高級そうではあるけれど、瀟洒で繊細なイタリアンクラシック。どちらかといえば女性が好みそうなものばかり。
 オールマイトは重厚感のある家具を好みそうなイメージだったので、それが少し意外だった。

「どうかした?」

 あまりにわたしがきょろきょろとしていたので気になったのだろう、オールマイトが訪ねてきた。
 まさか家具の女子力の高さについて言及するわけにもいかない。
 どうしようかと思案して、わたしはさきほどから密かに胸の奥に引っかかっていた質問をすることにした。

「あの……オールマイトさん。先ほどわたしが自分で服を脱いだとおっしゃっていましたが……あの……下着も脱いだのでしょうか……オールマイトさんの前で……」
「あー……苦しい!って叫びながら自分で脱いでたよ」

 あああ……やっぱり……そうじゃないかとは思っていたのだ。
 見たよ、とは言われていないが、きっとばっちり見られただろう。
 巨乳ではないけれど貧乳でもないきわめて普通の胸元だけど、これから同僚になるひとに見られてしまったと思うと死にたい気分だ。
 泣き叫びたい気持ちを抑えて、オールマイトから目を逸らした。その先にはいくつものグラスが鎮座するキャビネットがある。
 ふと、その台の上にオールマイトのグッズと共に飾られている、一枚の写真に気がついた。

 美しい装飾を施された写真盾の中で笑んでいるのは、スーツ姿のオールマイトと白いワンピースを着た女性だ。
 綺麗なひと。
 マッスルフォームのオールマイトと並んでいるせいもあるのかもしれないが、そのひとはとても華奢に見えた。
 このリビングが似合いそうなひとだな、と思った。と同時に、この部屋のインテリアは写真の女性の趣味なのではないか、と直感した。

 オールマイトにもそういう相手がいたんだ。しかも相手が思いのほか若い。わたしと変わらないような年齢ではないだろうか。
 わたしの視線に気づいたのか、オールマイトが静かに笑んだ。

「君、どこ見てるの?」
「……す……すみません。あ……あの写真のひと……綺麗なひとですね」
「……ありがとう」

 ほんのわずかの躊躇のあと、オールマイトは静かに応えた。その声に悲しそうな響きが滲んでいることに気づき、わたしは少し動揺していた。いけないことを聞いただろうか。

 するとオールマイトがいきなりぽんと手を打った。

「君。このあと少し時間あるかい?」
「え……はい……暇です」
「悪いけど、少し付き合ってもらえないかな。」
「はい?」
「どうしようか迷っていたんだけど、君が一緒に来てくれると助かるよ」
「……はい」

 昨夜散々迷惑をかけたであろうかみさまのお願いを、平凡なヒーローのわたしに断れようはずもなかった。

***

 外は春らしい麗かな陽気だった。
 オールマイトに連れて来られたのは、巨大な結婚式場を有する高級ホテルだ。

 ここはたしか、立派な庭園に続くチャペルで有名だったはず。庭園には大きな池と橋、そして七福神のそれぞれが祀られている社がある。
 庭園のそこかしこに植えられた桜が今日は見事に満開で、それを楽しみにきた人々で園内はにぎわっていた。

 オールマイトはなぜか、少し緊張しているようだった。
 ホテル側の入り口を抜け、見事な桜の下を無言で歩いた。小さな橋を渡り、池のほとりを経て庚申塔の前に出る。
 長身痩躯はやっとそこで立ち止まった。

「このへんでいいか……」

 嘆息と共に吐き出されたのは、いつものように落ちついた、いつもと違う、ひどくかすれた声だった。
 かみさまのこんなにも弱々しい声を聞いたのは、初めてだった。

 オールマイトはそのまま何も言わず、視線を白いチャペルに向けている。
 余計なことを話しかけてはいけないような気がして、わたしも黙したままチャペルの入り口方向を眺めた。

 無言のままで待つこと数分。やがて、しずしずと焦げ茶色の重厚な扉がひらかれた。
 そこから出てきたのは、たった今式を挙げたばかりと思しき男女だ。新郎新婦であろう二人はライスシャワーを浴びながら階段を昇り、二階と三階部分にあるテラスへあがっていく。

 オールマイトがしずかに拳を握りしめたのがわかった。
 思わず見上げたその先には、いつもの笑顔。けれど晴れわたった空と同じ色の瞳は、とても悲しそうに見えた。
 その理由に気づいてしまったわたしは、ちいさく息を飲んだ。

 ライスシャワーを受けて幸せそうに微笑む、女性の顔に見覚えがある。
 先ほどオールマイトの家で見た写真の女性にそっくりだ。

 ふと、なにかを探すように泳いでいた花嫁の視線が、こちらの方向でぴたりと止まった。

「……あの……オールマイトさん」
「ごめん、ちょっと協力して」

 次の瞬間、肩をぐいと引き寄せられた。
 痩せたオールマイトはそれでも充分背が高く、わたしは彼の腕のなかにすっぽり入ってしまう。
 こちらをみていた花嫁が目を見開き、ほんの一瞬悲しそうな顔をしてから、しずかに笑んだ。

 これらはきっと、ほんの数秒のことであったろう。けれどわたしには、とても長い時間のように感じた。
 わたしの肩を抱いて悲しそうに笑う英雄と、こちらを眺めて切ない笑顔を見せた花嫁。そしてまったくの部外者であるわたし。

「すまなかったね」

 オールマイトはわたしからそっと身体を離しながらつぶやいた。

「あの……今の女性って……」
「うん。彼女は私の妻だった人」
「えええええ!!?? ご結婚されてたんですか!?」
「ん、まあね。歩きながら話そうか。そろそろ君もお腹が空いてきたんじゃないかな? 酔いもすっかり醒めたろう?」

 その言葉とほぼ同時に、わたしのお腹がぐううと鳴った。

 歩きながら、オールマイトはぽつりぽつりと話し始めた。もともと私的なことを多く話す人ではない。それだけに、紡がれた言葉が重く感じた。

「結婚生活は三年しか持たなかった」
「……どうして?」
「ン? 君は嫌じゃない? こんな姿になってもヒーローの座にしがみつく夫なんてさ」

 長い腕を広げながらそう言われ、どう答えていいかわからず、わたしは黙り込んだ。
 衰えきった姿を初めて見せられた時、たしかにわたしたちも愕然としたのだ。
 あの逞しかった身体が衰えゆく様子を目の当たりにしてきた女性は、さぞかしつらかったことだろう。

「それでも彼女は懸命に私を支えてくれようとしたよ。でも無理をさせていたんだな……彼女の心は壊れてしまった」

 それもまた、わかるような気がした。
 ナンバーワンヒーローの妻でいることは、そう簡単なことではないだろう。同業者であるだけに、それは痛いほど理解できる。

「だから別れたんだ。あれ以上一緒にいても、彼女を苦しめるだけだったからね。情けない話だよ。私は一番大切なひとの心すら守ることができなかった」

 オールマイトが未だに別れた妻を愛しているということは、あのリビングを見ればあきらかだ。あの女性的な家具に囲まれた部屋は、おそらくこの人の趣味ではない。

 だからといって、わざわざ結婚式を見に来るなんて、少し未練がましいな……と密かに思った。

「ン? なにか言いたそうだね」
「……いいえ……式の日付や会場とか……よくわかったなあ……と思いまして」

 さすがにストレートには口に出せず、できる限り湾曲してそうたずねた。するとオールマイトは苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。

「あー、実は案内が送られてきたんだよね」
「はあ? 非常識じゃないですか。それ」
「そうだね。だから私も迷ったよ。どうしたらいいんだろうかと」

 温かい日差しが降り注く、駅へと向かう坂道。この道の街路樹はソメイヨシノ。満開の桜はとても綺麗だ。
 だがその綺麗なはずの桜が、今日はとても悲しげに見えた。

「彼女はさらってほしかったんじゃないですか。映画のラストシーンみたいに」
「へえ、君、若いのにずいぶん古い作品を知ってるんだね」
「まあ、映画は嫌いじゃないんで……でもきっとそうですよ。オールマイトさんに連れだしてほしい気持ちがあるから、場所や時間まで知らせてきたのではないでしょうか」
「うん、そうだったのかもしれないね」

 わたしがあげたのは、とても古い映画のタイトルだ。
 別の男と結婚してしまう恋人を、主人公の男が式場まで奪いに行く。結婚式を抜け出したふたりは手に手をとって教会を後にし、物語は終わる。
 元妻とやらも、心のどこかでそれを望んでいたのではないだろうか。でなければわざわざ案内など送ってはこない。
 基本的に女は、一度別れた男のことなどそう気にかけたりしない。気にかけるのは、大きな未練があるときだけだ。

「でもね、それはできないことだよ」
「どうしてですか?」
「私がヒーローであり続ける限り、同じことの繰り返しになるからだ」

 静かだが確固たる意思を含んだ声だった。

「だから君がいてくれて良かったよ。彼女の中に私に対する未練みたいなものがあるなら、きちんと切ってやらないといけないから」

 ああ、このひとは私人としても誰かを救おうとするのだ。
 愛しているからこそ、相手の未練そのものを絶ち切ってやりたい。そう言うことはおそらくたやすい。だがそれを実行できる人間が、実際どれだけいるだろう。
 でもこの優しくて強いひとは、ずっとこうして生きてきたのだ。

「私は彼女に花嫁衣装を着せてやることができなかった。彼女の隣にいた男は、私がしてやれなかったことを、これからも彼女にたくさん与えることができるのだろうな」

 そう言ってオールマイトはいつものように笑ったが、その笑顔がとても悲しく見え、わたしは曖昧に笑みながら空を見上げた。広がる蒼天の手前に見えるのは、やはり桜。風に揺られ、薄紅色の花びらがはらはらと落ちる。
 強くて優しいひとのかわりに、桜の花が泣いている。そんな気がした。

 わたしは思い切って口をひらいた。

「オールマイトさん、昨夜のお詫びと言ってはなんですが、食事のあと、よかったらうちに来ませんか?」
「ハイ?」
「あ…変な意味じゃなくて、わたし、趣味と実益を兼ねてアロマとマッサージの個人サロンをやってるんです。よろしければ施術させてください。お疲れでしょう」

 このひとはきっと、一人になっても泣けないだろう。
 涙を流せぬこのひとを、自らの個性を使って癒したい……わたしはこのとき、そう心の底から思ってしまったのだ。

***

「いいところに住んでるね」
「……ガチセレブに言われると嫌味に感じます」
「いや、ほんとだって」

 わたしの部屋は普通の2DKだ。玄関を開けてすぐ右にある五畳の部屋が、施術室。
 インテリアはマッサージベッドと幾重にもかけられたバティックだけ。
 それでも遮光カーテンを閉め足元の間接照明を点灯すると、日常からかけ離れた癒しの空間らしくなるのだから不思議なものだ。

「へえ、けっこう雰囲気あるじゃないか」
「ありがとうございます」

 体の大きい顧客が来てもいいようにと、大きなマッサージベッドを特注しておいてよかった。
 下着一枚になった英雄様は、腰にタオルをかけた状態でベッドにねそべり、わたしの施術を待っている。
 大きく背骨が浮いた薄い背中が、とても痛々しい。

「苦手な系統の香りはありますか?」
「いや、特にないよ。君に任せる」
「わかりました」

 無香料のマッサージオイルを掌の上に乗せ、体温であたためた。
 今日の香りのブレンドは何がいいだろう。
 リラックス効果はまずラベンダー。それから心を落ち着かせるフランキンセンス、これは呼吸器にもいいはずだ。もっとたすなら憂鬱感を抑えると言われるゼラニウム、そんなところか。
 わたしは精油を使わなくても、同じ効果の香りを出せる。

 手のひらに意識を集中させて、広いけれども薄い背中にマッサージオイルを塗ってゆく。かさかさとした皮膚の質感。女性とはまた違う、男性特有の乾燥した、かたい肌の感触。
 凝り固まった筋肉をほぐそうと、手を動かして驚いた。がちがちだ。どこにも指が入っていかない。

 このひとは、普段どれだけ心身ともに消耗しているのだろう。
 いろいろな人の体をマッサージしてきたけれど、ここまでかたく緊張しきった身体に触れたことはなかった。

「自宅でサロンって悪くないけど、相手によっては危険じゃないかい? 君は強いけど、ほら、若くて綺麗な女性だし」
「無用なトラブルを避けるため、女性専用にしています。その方がお客様も安心するみたいですし」
「え、私、男だよ」
「わかってますよ。でもオールマイトさんのことは信頼していますから、特別です」
「……なるほどね」

 会話をしながらマッサージを続けた。
 ごつごつごした骨の隆起を感じるたびに、泣きたくなった。この背はかつて、分厚い筋肉の鎧で覆われていたはずなのにと。
 背だけではない、薄い肩、細い腕、細い脚。
 この人の体には必要最低限の筋肉しかついていない。骨格が立派であるだけに、触れるとますますそれが際立つ。
 こんな身体でどうしてと、また涙が出そうになった。
 だがそう思うこと自体が、このひとにとっては失礼にあたる。これほどの覚悟を背負って生きている人に、同情なんかしてはいけない。

「びっくりしたろう?」

 オールマイトが自嘲気味に笑った。涙の一歩手前で、わたしは答える。

「はい……それでもわたしは……オールマイトさんを尊敬しています」
「……ありがとう」

 施術を進めるうちに、かさついた肌に上質のオイルが馴染み、少しずつ滑らかになっていく。がちがちだった薄い背の緊張が、少しずつほぐれていく。
 かみさまと思っていた人の体温は、想像よりもあたたかだった。

 違う。かみさまなんかじゃない。

 この体に触れていると、泣きたいくらいによくわかる。わたしの手のひらの中で、癒されていく生の肌。
 このひとは、体温を持った、肉体を持った、まったくふつうの男のひとだ。

 困ったことになった、とわたしは思った。
 昨日失恋したばかりなのに。
 ああどうしよう。わたし、このひとを癒したい。

「お疲れ様でした」

 施術を終えて声をかけると、オールマイトはありがとう、と、満面の笑みを浮かべた。

「さっきまでとは比べ物にならないくらい肩が軽いよ。すごいね、君。」
「またお疲れになったらいらしてください。うちは学校からも近いですから」
「ありがとう。でも迷惑じゃないかい?」

 オールマイトは小首を傾げる。
 困ったことだ。こんな大男がめちゃめちゃかわいく見えるなんて。

「いいえ。次はお客様として来ていただくつもりですから問題ありませんよ」
「そうじゃなくて、他の女性客が嫌がったりしないかなってことさ」
「大丈夫ですよ。ダブルブッキングしないようにすれば済むことです」

 フーム……と少し考え込んだ後、オールマイトは微笑んだ。

「じゃあ、またお願いしようかな」

 ああもう。
 ずっと年上の男性の屈託のない笑顔。それがこんなにかわいく見えてしまうのだからわたしは本当にどうかしている。
 でもこの感情は恋ではない。たぶんそうだと思いたい。
 だってこのひとは、普通の男すらも御しきれなかったわたしの手におえるような人じゃない。

 ただわたしは癒したいだけ。
 マドンナリリー、聖母様の象徴である百合を、ヒーローネームにしたわたしだもの。
 オールマイトがすべての人を救けようとするように、つらそうな人をみるとただひたすらに癒したくなる、それがわたしのスタイルだもの。

「マドンナリリー、これからよろしく頼むよ」

 ヒーローネームで呼ばれて、胸のどこかがちくりと痛んだ。
 生まれた気持ちは恋ではないのに、この低い声に「梨香」と呼んでもらえることはもうないのだと気がついて、わたしはすこし寂しくなった。

2016.4.25
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月とうさぎ