白の女王

 大きくため息をついてから、腕時計を見やった。時刻は正子を回ったところ。結局、今日もこんな時間になってしまった。

 事実上の引退を果たしたはずなのに、自分の生活はあまり変わらず……いや、より忙しくなっている気がする。梨香と昨年入籍し南の島で挙式もしたが、共に寝起きしたのは数えるほどで。
 「オールマイト」は相変わらず、クリスマスも正月もなく全国各地を飛び回っている。
 脅威が迫り来る現在の状況を鑑みればそれも当然と梨香は言ってくれるけれど、それでもおそらく、小さな不満や不安はあることだろう。

 とはいえ、なかなか時間が合わないのは、私の都合だけによるものではなかった。彼女もまた、ここ最近多忙を極めている。教師をしながらヒーローとしてのつとめも果たし、同時に化粧品ブランドのプロデュースをしつつミューズをも務めるというマルチな働きぶり。
 先日も彼女がプロデュースする新作コスメ発表があったばかりだ。それに伴い雑誌やテレビの取材が立て続けにきていたそうで、ここ最近の梨香はかなり疲れているようすだった。

「今日は帰れるけれど、かなり遅くなると思うから先に寝ていて」

 そう伝えた自分の判断は間違っていないと思う。
 話をする時間がなかなか持てないことは、とても寂しいことだけれど。

***

 音を立てぬよう細心の注意を払って鍵を開け、扉を開く。以前の家と違い、この部屋は狭い。ちょっとした音でも寝室に届いてしまうだろう。
 だからできるだけ静かにコートと上着を脱いで、ハンガーに掛けた。コートのポケットから小さな箱を取り出して、テーブルの上にそっと置く。
 ネクタイを緩めながら、黒字にHとWの金文字が箔押しされた箱を見つめた。その中身はダイヤモンドのペンダントだ。

 間に合ってほしかったけれど、やっぱり日付がかわってしまった。今日、いや、昨日はホワイトデーだったのに。
 本当は百合の花束にするつもりだったが、帰れるかどうかわからなかったので、生ものは避けた。ジュエリーであれば外商に一言頼んでおけば、私のもとに届けてもらえる。そう、これは百合の花のかわりだ。
 それに私の愛しい白百合以上に、このジュエリーにふさわしい女性はいまい。

 そんなことを言ったら、梨香はまた「ほめすぎですよ」と微笑むのだろう。目に浮かぶようだ。
 私は彼女のそういう偉そうなところがかけらもない、謙虚なところが好きなのだけれど。

 寝間着に着替え、ベッドルームへ向かう。小箱はもちろん手のひらの中。
 サンタクロースのように、プレゼントを枕元に置いておくのも一興だろう。昔、恋人はサンタクロースという歌があったが、この場合はダーリンはサンタクロースというべきだろうか。
 キングサイズより尚大きな特注サイズのベッドに、一人眠る君をみつめる。

 君に幸せを贈るべく、プレゼントと共に私が来たよ。
 そう心の中で呟いて、毛布を捲ったその時だった。

 私の首に絡みついてきた、細くしなやかな腕。

「梨香?」
「お帰りなさい」
「起きてたのかい?」

 ふふ、と梨香が目を細める。

「うまく気配を消せていた?」
「すばらしかったよ。すっかり騙されてしまった」

 形の良い額に唇を寄せて、続ける。

「いつも遅くてすまないね」
「いいえ、こんなご時世ですから」

 いつものせりふ、いつものやりとり、そしていつものぬくもり。

「それに、先週まではわたしも忙しかったですし」

 言いながら梨香がすっと身体をずらした。開けてもらった場所に、私は身体をすべらせる。

「そういえば、新しい広告見たよ」
「あ、ご覧になりましたか」
「ご覧になったか、じゃないよ。ああいうのはさ、ちゃんと言っておいてくれないと」

 ビルの大型ビジョンにでかでかと映し出されていた映像を思い出しながら、彼女の頬をつついた。
 童話の「雪の女王」をモチーフにしているのだろう。豪奢な白いドレスとマントを身にまとい錫杖を手にした梨香と、白い百合の花束を抱えた美しい少年が寄り添う、美しくも幻想的な映像だった。
 それは梨香がプロデュースしている化粧品の、美白ラインの広告だ。百合の香りをベースにした白いパッケージの新製品で、キャッチコピーは「白の女王」。

「あの子は男の子……なのかな? 黒髪の美しい子だったね。ちょっと中性的な感じの」
「そうですね。とてもきれいな子でした」
「ちょっとね、妬ける」
「十歳の子供ですよ」
「子供でもさ」

 ぷう、とふくれると、もう、と言いながら、今度は梨香が私の頬をつついた。

「わたしが好きなのは、あなただけですよ」
「……知ってる」

 私の頬をつついていた梨香の指を手に取って、そこに唇を落とした。ふ、と梨香がまた微笑む。

「ああ、そうだ。昨日はホワイトデーだったろう。君にプレゼントがあるんだ」

 枕元の小箱を手渡す。梨香の顔が輝いた。

「ありがとうございます。開けても?」
「もちろん」

 梨香が身体を起こして、小箱を開けた。そこには箱同様、黒字に金の文字を箔押ししたベルベッドのケースが収まっている。
 蓋をあけた梨香が、ほうとため息をついた。

「すてき……」
「ん。君に似合うんじゃないかと思ってね」

 言いながら、ネックレスをつまみあげ、梨香の首にまわす。
 百合の花をデザインしたペンダントヘッドは、45個のラウンドカットと1個のマーキースカットのダイヤモンドで彩られている。地金はプラチナ。ローズゴールドと迷ったけれど、あの広告を見た今となっては、こちらを選んでしてよかったと心から思う。
 白い肌に良く映える、プラチナとダイヤモンド。

「うん。白の女王にはやはりプラチナがふさわしい」
「もう、からかわないでくださいよ」
「からかってなんかいないさ」

 やわらかな頬に唇を落としてささやくと、梨香の胸元から、ふわりと甘い花の香りがたちのぼった。

「愛してるよ、梨香。これからもずっと、こうして同じ夜を過ごそうね」

 そう、愛しているさ。これからもずっと。
 数十分遅れの、結婚して初めて迎えたホワイトデーに、変わらぬ愛を誓うよ。
 私の白百合……いや、私の白の女王に。

2021.3.14

2021年 ホワイトデー

作中に出てきた百合の花モチーフのジュエリーはハリーウインストンのリリークラスターをイメージしております。

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