慕い往きては美し夢みつ

 大きくため息をついてから、時計を見やった。時刻は十一時を回ったところ。

 事実上の引退を果たしたはずのオールマイトだが、その生活は変わらず多忙だった。昨年に入籍し、南の島で挙式もしたが、共に寝起きしたのは数えるほどで。

 オールマイトはクリスマスもお正月もなく、全国各地を飛び回る。
 前線で戦うことだけがヒーロー活動ではない。警察と連携しつつ調査にあたることも、また、世を救うために大切なこと。

 自らもまたヒーローだ。だから、彼の気持ちや行動については理解している。しているが、あの細い身体に鞭打って、今日は東京明日は大阪と忙しく飛び回っている姿を見ていると、やはり心配になる。

「それに今日はバレンタインですよ。あなた、覚えてないでしょう?」

 キャビネット上に鎮座するオールマイトのぬいぐるみの頭を指先で軽くつついて、ひとりごちた。

 テーブルの上には、小さな箱がひとつ。もちろん中身はチョコレート。
 手作りしようか迷ったけれど、結婚して初めてのバレンタインは市販品にした。
 わたしの夫は舌が肥えている。もちろん、もらったものに文句を言うような下品なひとではないけれど、せっかく渡すなら、やはり喜んでもらいたい。

 オールマイトのぬいぐるみをもう一撫でし、紅茶でも入れようかとキッチンへ向かったその時、チャイムが鳴った。

「ただいま」

 こちらで解錠する前に鍵を開けて入ってきたのは、待ち続けていた長身痩躯。

「お帰りなさい」
「ただいま」

 少し疲れた表情で、俊典さんはそれでも笑う。

「お疲れでしょう、お風呂にします?」
「ン、そうする。さすがにちょっと、疲れたよ」

 以前の彼なら、たいていにおいて「大丈夫だよ」と笑ったものだ。だが最近、オールマイトは普通に「疲れた」という単語を口にするようになってきている。
 小さなことだけれど、本音を晒してくれているようで、少し嬉しい。

 バスルームへと消えた彼を見送って、お茶とオイルの準備をした。
 疲れているなら、やはりアロマだ。
 今日はいつものホホバオイルではなく、アーモンドオイルを使ってみよう。
 チョコレートは、それからでいい。

***

 バスローブを羽織っただけでお風呂から出てきたオールマイトを、マッサージ用のベッドへといざなった。
 引退しても忙しいオールマイトの身体は、かつてとはまた違った部位が凝り固まっている。
 放出する香りはリラックス効果の高いもの。ストレスの多い彼によく使用するのは、ラベンダーとカモミールだ。今日はそこに、リンデンのアロマもプラスする。
 リンデン。甘くて薫り高い、菩提樹の香。

 お風呂から出てきたばかりのオールマイトは、うっすらとソープの香りがした。
 白いバスローブからにょっきりと伸びた長い手足は、丸太のような逞しさを誇ったかつてとは違い、枯れ枝のように細い。かつてこの世界を守りそして支え続けていた、尊く貴く長い四肢。

「あれ? この香りは初めてだな。なんだろう? 甘い芳香だね」

 相変わらず鼻のいい人だと思う。

「リンデンです。リラックス効果があるんですが、呼吸器にも効くんですよ」
「ヘエ、そりゃありがたいな」

 明るい声でいらえたオールマイトの身体に触れた。広くて、ひどく硬い背中。
 ゆっくりと香りを放出しながら、オイルを伸ばしていく。年齢相応、いや、それ以上に乾燥し疲れ切っている肌は、あっという間にオイルを吸収してしまう。

「寝ちゃってもいいですからね」

 と伝えると、オールマイトが小さな声で、うん、と答えた。

***

「はい、終わりました」

 蒸しタオルでオイルを拭き取って、そう声をかけた。帰ってきたのは眠たげな声。

「んん……」
「どうします? このまま寝ちゃいますか?」
「うん……いや……ちょっと甘い物がほしいな」

 このひとはこういうところがやさしい、と心の中でつぶやいた。覚えていてくれたのだ、今日がバレンタインだと。

「チョコレートがありますよ。ちょっといいやつ」
「それはありがたいな」
「ノンカフェインの紅茶と一緒にいただきましょうか」
「ありがと」

 バスローブを羽織って、マッサージ用のベッドを折りたたんでくれる――職員寮はさして広くないので出しっぱなしにはできないのだ――彼をあとに、お茶の準備をした。
 電気ケトルのお湯はすぐに沸く。わたしがお茶を淹れ終えるのと、オールマイトがテーブルにつくのが、ほぼ同時だった。

「はい。大好きなあなたへ」

 ややかしこまってチョコレートを渡すと、ありがとう、とまた一言。

「では早速。一緒に食べよう」

 と、大きな手が器用に動いてリボンをほどいてゆく。
 青い缶の中には、色も形もさまざまな、小さなボンボンショコラが九つ。

「美味しそうだねぇ。いただきます」

 ぽん、とオールマイトが白いショコラを口に放り込んだ。

「む。ホワイトチョコかと思ったら、中にパッションフルーツのガナッシュが入ってる」
「じゃあ、わたしはこっちのを」

 ハートの形のショコラは、口の中でなめらかに溶けてゆく。こちらはプレーンなミルクチョコレートのガナッシュだった。

「ミルクチョコでした」
「ん。こっちのはね、カカオ多めのビターなプラリネだ」

 二個目のショコラを食べ終えたオールマイトが、唇を舐めつつ笑った。
 幸せな気分になりながら紅茶をすすっていると、はい、と口元にショコラが差し出された。
 長い指につままれた、艶のある赤。

 だが口を開けたとたん、ショコラとともに彼の指が侵入してきた。ショコラだけをうまく受け止めきれず、ごつごつとして節くれ立った太い指も一緒に舐める。

「いいね」

 青い目が、ゆっくりと細められた。三日月のかたちに。
 彼はそのまま、指を戻す気配がない。仕方がないので口をあけたまま、舌を動かしてショコラを味わう。彼の指とともに。

「たまらないね。ブロウジョブされてるような気分になってきたよ」

 低いささやきに、頬がかっと熱くなった。なぜって、同じことを連想していたからだ。

「おや? 君もかい?」

 見透かしたように、オールマイトが微笑む。青い瞳に宿っているのは、甘くてせつない行為をわたしに与える時とおなじもの。
 色香を含んだ問いには答えず、チョコレートを口の中で溶かし続けた。まろやかで柔らかいミルクチョコレートの中から出てきたのは、甘酸っぱいカシス。

「答えないなんて、悪い子だね」

 先ほどよりも強い色香を含んだ低音に、ぞくりと震えた。このあと何が起こるのか知っているわたしの身体は、脳で考えるより先に、反応してしまう。
 それを目前のこのひとが見逃してくれるはずもなく。
 わたしの口から指を引き抜いたオールマイトの口角が、ゆっくりとあがる。

「私にも、ちょうだい」

 言われるままにヘーゼルナッツのプラリネのつまむと、違うよ、と、また低くささやかれた。返答するよりはやく顎にかけられた長い指が、わたしを上向かせる。
 そのまま重ねられた唇と、からまる舌先。

「……ン……っ」

 口腔内をなめらかに動き回る、厚くて大きくて熱い、オールマイトの舌。どこでスイッチが入ったのだろう、今日の彼は疲れているはずなのに。

 と、ショコラとは違う甘い香りが、かすかに漂った。痺れ始めた脳の奥に語りかけるこの香りは、先ほどわたしが出したアロマだ。甘くて、薫り高い、菩提樹の。
 そうだ。失念していたけれど、リンデンには強壮効果がある。

「あまずっぱくて美味しいね。まるで梨香、君みたいだ」

 ふ、と、息をついた。
 身体の奥と連動するかのように、潤んでいくわたしの瞳。

「君のそういうところ、ほんとうにたまらないよ」

 わたしの頬を撫でながら、オールマイトがささやき続ける。低くて甘いこの声は、わたしに素敵な時間をくれる。

「もうひとつ、どうだい?」

 彼が黄色のチョコレートをわたしの口の中に放り込む。口腔内に広がる柑橘系の酸味と甘み。

「おいしい?」

 こくりとうなずき、目をとじる。
 ふたたび合わせられた唇。忍び込んでくる、厚くて大きくて熱い、オールマイトの舌先。

 閉じたまぶたの向こうが、ふっと暗くなった。室内の電気が消えたのだろう。
 オールマイトの身体からかすかに香る、ラベンダーとカモミールと、そしてリンデン。
 甘くて香り高い、菩提樹。
 そこにじわじわと浸食してきた甘い香りは、わたしからにじみ出るイランイランだ。

「梨香」と、彼が、わたしの名を呼ぶ。
「俊典さん」と、わたしも、彼の名を呼ぶ。

 菩提樹のような大きな身体に包まれながら、わたしは今宵も、慕い美し夢を見る。

2021.2.14
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