一 プールサイド・バー

 海外リゾートでよく見られる、プール内にカウンターの一部が張り出しているプールサイドバーの一角で、果衣菜はひとり静かに、フローズンマルガリータを口元へと運ぶ。
 小高い丘の上に立つホテルからの景観は見事だった。全室オーシャンビューを誇る客室からはもちろん、プールからの眺めもまた格別だ。
 この半円形のカウンターにもたれて、どれだけの時間、海を見つめていただろうか。 

 沈んでいく太陽が、エメラルドやコバルトに輝いていた海を、徐々にオレンジ色へと染めてゆく。南国の雄大なサンセット。

 高級ホテルとはいえ、夏の沖縄だ。
 家族連れやカップルだらけの中、ひとり飲む酒はやはりさみしい。かといって、客室に戻ったところで、することなど見つからず。
 一人旅という選択をした自分に、何度目かの後悔をしかけた、そんな時だった。

 果衣菜の席から一つ椅子をあけたプールサイド側の席に、ひとりの男が腰を下ろした。やせぎすで異常に背の高い、死神めいた風貌の男だった。
 極彩色のアロハに、ベージュのクロップドパンツを身に着けている。リゾートではよく見かける組み合わせだけれど、どこかこなれた感じをうけた。なぜだか、目が離せない。

 男は視線に気がついたのか、こちらに向かって会釈した。初対面の相手をじろじろと見てしまった己の不躾さをやや恥じながら、軽く頭を下げていらえる。
 やがて、グラスの縁にフルーツが飾られた色鮮やかなトロピカルドリンクが、男の元に運ばれてきた。甘い物が好きな男性は意外と多いものだが、こういったバーでああいう甘ったるい飲みものを頼む男性は珍しい。

「なんだい? なにか言いたげだね」

 男が声をかけてきた。想像していたよりずっと、低くて落ち着きのある声だった。

「ごめんなさい。男のひとがトロピカルドリンクを頼むのって珍しいなと思って」

 ああ、と男は微笑した。
 どこかでみたことがあるような笑顔だった。どこで見たのだろう。誰かに似ているのだろうか。思い出せないけれど。

「私はお酒が飲めないんだ」
「下戸なのにバーに?」
「海に沈む夕日を見ながら、プールサイドのバーで一杯。こんなのリゾート地でないと楽しめないだろ。せっかく来たからには楽しまないと」
「お一人で?」
「うん。こっちには仕事で来たんだけど、幸いすぐに解決してね。せっかく沖縄くんだりまで来たんだ、一泊していこうかなと」

 こういうところで声をかけてきたわりには、紳士的なひとだと思った。
 あちらは服を着ているが、こちらは水着。半裸の女を目の前にした時、大抵の男は女の体をさりげなく眺めるものだ。
 だが、男はそうではなかった。

「見たところ、君はひとりみたいだけど」
「……まあ……そうですね」
「女性の一人旅は珍しいよね。特にこういうリゾートでは」
「一緒に来るはずだった彼氏とついこないだ別れたんです。でも、だからってキャンセルするのはしゃくでしょう? だから一人で来たんです」
「君みたいな人を振るなんて、見る目がない男だね」

 男がぽつりと言った。
 果衣菜は思う。会ったばかりなのに、このひとがわたしの何を知っているというのだろうと。

「そんなことない。別に普通。彼は普通の人だった」
「へえ」
 
 男が、意外そうに眼を見開いた。
 うかつだった。会ったばかりの相手に、男と別れたばかりなどと余計なことを。
 この女は狙えるなどと思われても困るのに。ひとり寂しい思いをしていたのは事実だが、ワンナイトラブアフェアーを楽しむ気分にはとてもなれない。
 旅先で知り合った男とのトラブルなんて、まっぴらだ。

「なに? 失恋したばかりの女はつけこみやすいとでも思いました?」
「いや」

 男は興味深そうな表情で続ける。

「人ってさ、そういう時、別れた相手を悪く言うことが多いよね。ろくな男じゃなかったとか」
「ああ、それね」

 フローズンマルガリータを一口飲んで答える。溶けかけたシャーベット状のお酒は、口あたりがよくておいしい。

「恋人とか夫婦って、破れ鍋に綴じ蓋っていうか、鏡を見てるようなものっていうか、同じレベルの相手であることが多いと思うんです。別れた男の悪口を声高に話すなんて、自分がどれだけくだらない女なのかを吹聴して回っているようなものでしょう?」
「へえ、そんなものかい」
「まあ、付き合っていたのが本当にろくでもない男だったってパターンもあるでしょうけど、でも、その男を選んでしまったのは自分。恨み言は、見る目がなかった自分の腹の中に収めて、消化するしかないですよね」
「君、カッコいいね。思ってたよりずっと」
「それはどうも……」

 そこで男は八木と名乗り、果衣菜も「桂月」と名字を名乗った。
 八木は果衣菜をカッコいいと褒めてくれたが、彼も会話がうまかった。時折入れてくるアメリカンジョークはいただけないが、知識が豊富で、まったくこちらを飽きさせない。
 飲んでいたフローズンマルガリータ、その酒言葉が「元気を出して」だということも、八木に教えてもらって、はじめて知ったことだった。

「じゃあ、わたし、自分をこのお酒で励ましてたってことなんですね」
「もう一杯飲むかい? 君が元気になれるように」
「……くしゅっ……」

 返答のかわりに、小さなくしゃみを落とした。
 気づけば、海をオレンジ色に染めていた太陽はすっかり落ちてしまっている。プールサイドのそこここに、南国風の灯りがともされはじめた。
 いつのまに、と思った途端、急に冷気が襲ってきた。水着一枚でシャーベット状の酒を飲みつづけていたせいかもしれない。

「ああ、すまない。冷えてしまったね」
「大丈夫です」

 果衣菜は驚いていた。
 自分の体が冷えているのも気づかぬくらい、時間が過ぎるのも忘れるくらい、八木との会話を楽しんでいたことに気づいたからだ。初対面の相手にこんなに心を許すのは、初めてのことだった。
 もう少し話していたい、そう思ったその時、八木が言った。

「よかったら、夕飯でも奢らせてくれないか?」
「なに? これってやっぱりナンパだったんですか?」

 嬉しかったのに、わざとつれない声で答えた。嫌なやり方だと自分でも思ったが、失恋したばかりの女だと軽くみられるのも、やっぱり困る。

「そうとってもらってもいいけど、ただ純粋に、君ともう少し話したいと思っただけだよ」
「本当にそれだけ?」
「それだけさ」
「じゃあ、このホテルのダイニングでなら構いませんよ」

 果衣菜の個性は増強系。個性を使えば腕力が常人の五倍ほどになる。目の前の痩せた男がもし悪い気を起こしても、一撃で撃退できる自身があった。

 いらえた言葉に八木が満面の笑みを浮かべる。
 それはやっぱり、どこかで見たことがあるような笑顔だった。

***

 果衣菜は、那覇から羽田に向かう飛行機の中にいた。

 昨夜、八木はプールでの言葉を違えることなく、メインダイニングで食事をし、そのまま紳士的に去って行った。
 良く笑う、面白い人だった。
 八木はいま、どこにいるのだろうか。いつの間にか、別れた彼のことなどどうでもよくなっている。今、果衣菜の心を占めているのは、大きな大きな後悔だ。

 八木とは、きっと、もう二度と会うことはないだろう。
 リゾートでの出会いは幻と、連絡先はおろか、職業や住んでいる街の名すら聞かなかった。名刺の一枚くらい、もらっておけばよかった。
 心の中に、じわじわと喪失感がひろがっていく。なにを失ったというのだろう、何一つ得てはいなかったのに。
 果衣菜は自嘲しながら、窓の外を眺める。楕円の小さな枠の外にひろがるは、青い空と白い雲。
 運命の女神は後ろ髪がない。なんだかんだと理由をつけて、チャンスをつかまなかったのは自分だ。悔やんだところで仕方ない。

 キャビンアテンダントから新聞とコーヒーを受け取って、本日何度目かのため息をついく。
 あと数時間もすれば、東京だ。
 東京に帰ったら、いつもの日々がまたはじまる。店に出て、たまに来る有名人に胸をときめかせる、平和な日々。

 果衣菜の家は、麻布十番商店街の老舗和菓子屋。麻布という土地柄もあり、有名人の顧客も多い。
 事務所が近い、オールマイトもその一人だ。
 スーパーヒーローは意外にも甘い物や可愛いものが好きなようで、月に数回店を訪れ、花や動物を模した練り切りを少しずつ買っていく。
 小さな練り切りを嬉しそうに持ち帰る大きな背中は、とても可愛い。

「へえ、オールマイトも沖縄にきてたんだ」

 新聞をひろげ、果衣菜は思わずひとりごちた。
 オールマイトが、沖縄に潜伏していた凶悪なヴィランをとらえたらしい。ヒーローというのは大変だ。要請があれば、全国どこにでも飛んでいかなくてはいけないのか。

 今度オールマイトが来たら、うさぎの練り切りでも一つおまけしてあげようか。
 わたしも同じ日に沖縄にいたんですよ、と話したら、どんな顔をするだろう。
 
 嬉しそうに笑うであろう英雄の顔と、昨夜の痩せた男の笑顔が、なぜか脳裏でかさなった。

2016.8.6

15万打企画「五日連続更新」で書いたお話

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月とうさぎ