約束〜forget-me-not〜前編

 バッハの無伴奏ソナタを弾き終え、わたしはヴァイオリンをケースにしまった。
 軽く肩をぐるりと動かしてから、ダイニングキッチンに移動する。広いばかりのこの家は、ひとりで暮らすには寂しすぎる。

 お気に入りの英国製のマグカップにカフェオレを満たして、窓の外を眺めた。
 かつて母が多くの花を咲かせていたイングリッシュガーデンは、今はもう見る影もない。
 薔薇のアーチも、デルフィニウムのボーダー花壇も、チューリップとムスカリのコーナーも、細いバンブーのスペースも、ハーブの小道も撤去してしまった。
 だって、わたしは園芸が苦手だから。

 現在の我が家の庭は、広いスペースに芝生とガーデンタイルを敷きつめただけのシンプルなものだ。かつての名残は片隅の小さな花壇一つ。
 そこに咲くのは、花冠の喉部が黄色で、その周りが深い青の小さな花だ。わたしが育てるのはこの花―藍微塵―だけ。
 今までもそしてこれからも、それはきっとかわらないだろう。

 わたしはこの花が咲くたびに彼のことを思い出す。
 あれから好きになった人はたくさんいた。好きになってくれた人もたくさんいた。
 それでも心から愛した人は彼だけだった。

 藍微塵の花と同じ色をした瞳をきらきらと輝かせながら、彼はいつも夢を語った。
 どんなに人に笑われようとも、どんなに馬鹿にされようとも、彼は常に正面を見据えて夢をかなえるために突き進んでいた。その決意は一度たりとも揺らいだことはなかった。

 彼は名を、俊典という。

***

 オールドローズで覆われたアーチが目印のイングリッシュガーデンとその奥にそびえる洋館、それがわたしの家だった。
 父は大手製薬会社の役員だが、それとは別に雄英高校からほど近い住宅地にかなりの土地を所有していた。我が家はこの近辺では有名な、代々続く地主だった。
 土地だけでなく、父は賃貸住宅もいくつか保持していた。その一つが雄英高校生専門のアパートだ。
 上下四室ずつしかないその小さなアパートは木造モルタルの二階建てで、我が家の敷地内に建っていた。つまり八人の学生がそこで生活をしていたというわけだ。
 各部屋には小さなキッチンがついていたが、料理上手で社交的な母の提案で、彼らは夕飯だけは我が家のリビングでとることになっていた。

 おかげで約五十平米の我が家のリビングはいつも賑やかだった。あの日もまた、それは変わらず。

 四月一日の夕食は、新しくアパートに入居した学生たちの自己紹介を兼ねる。
 音高に進むことを目指していたわたしは、当時中学二年生。今年の新入生はどんな人たちなのだろうと、密かに胸を躍らせていた。

 その夜の参加メンバーは母と家政婦の宮さんとわたしと、そして学生アパートの八人の高校生。
 その年に入居した一年生は三人だった。
 中でもひときわ目を引く背の高い少年が、まっすぐな瞳でこう宣言した。

「僕はヒーローになります」

 一瞬、場が静まり返り、そのあと笑いの渦が巻き起こった。

「おまえは普通科だろうがよ」

 真っ先にそう揶揄したのはヒーロー科に入学がきまっている生徒だ。

 わたしは驚いた。
 普通科からヒーロー科への転科など、並大抵のことではできないだろう。
 その逆は時々耳にする。他科へ転科して夢を諦める者、除籍処分になって退校していく者たちの悲しい話を。
 名高い雄英に入学した中でもトップクラスのヒーローにまで登りつめた者は、ごくわずかしかいない。それなのに。

「それでも俺は、ヒーローになるよ」

 揶揄した生徒に振り返って、彼は静かに答えた。

 中学生だったわたしは、これに少なからずの衝撃を受けた。
 今までも彼のような発言をした生徒は何人もいた。だが確固たる声で「なる」と言ったのは彼が初めてだったからだ。

 わたしは背の高い少年を凝視した。
 二メートル近い長身に、いかにも正統派のヒーロー然としたしっかりした体つき。
 顔立ちは彫りが深く、眉は濃かった。通った鼻筋に、きりりと引き結ばれた口元が凛々しい。
 そしてなによりわたしの心を掴んで離さなかったのは、鋭い輝きを有するブルーアイズだった。
 海のような、空のような、美しい花のような、そんな不思議な透明感のある青い瞳。

 この眼、何かに似ている、とわたしは思った。
 花冠の中央が黄色で、その周囲が深い青の小さな花が頭に浮かんだ。
 あの黄色は彼の髪、あの深い青は彼の瞳。

「僕は必ずヒーローになります。これから三年間、どうぞよろしくお願いします」

 もう一度、母と宮さんに向き直って彼は言った。
 そしてわたしはこの瞬間から、二つ年上の彼に夢中になってしまったのだった。

***

「俊典くん」
「呼び捨てでいいよ」
「でも……俊典くん、二つも先輩だし」
「それもそうか……でもちょっと堅苦しい感じがするね」
「じゃあトシくんとか? とっしーとか?」
「ああ、そう呼ぶ子もいるよね。どっちでもいいよ」

 長身の彼は爽やかに笑んだ。
 雄英高生向けのアパートの住民内訳は、女生徒が三人で男子生徒が五人。うち五人がヒーロー科の学生で、二人が経営科。そして彼一人だけが普通の生徒だった。
 「トシ」「とっしー」「俊典」この三つは同じアパートの生徒たちの呼びかただ。
 わたしは彼らとは違う、わたしだけの呼び方をしたかった。

「じゃあ俊兄って呼んでもいいですか?」
「ン、かまわないよ。じゃあ俺は君をなつめちゃんって呼ぶよ」
「はい」
「敬語も使わなくていいよ。仲良くしよう」

 そう屈託なく笑いながら大きな右手を差し出された時、わたしがどれだけ嬉しかったかわかるだろうか。
 以来、時間が許す限り、わたしは俊兄の後をついて回った。

***

 それから夏が来て、秋が訪れ、寒い冬が過ぎ、また春が来た。
 ヒーローになるとの宣言もむなしく、彼は普通科のまま二年生になった。
 俊兄と出会ってからの一年は、わたしにとって本当にあっという間だった。

「俊兄! 英語の宿題でわからないところがあるんだけど、教えて」
「俊兄! 調理実習でカップケーキを焼いたんだけど、食べて」

 俊兄、俊兄、俊兄。あまりにもあからさまなこの行動。
 いつしかアパート内でわたしの気持ちに気づいていないのは、当の俊典本人だけになっていた。

 十代後半の男の子が興味を持った女の子を見る時の目は、大人の男が女を見るそれと大差ない。
 わたしが俊兄に恋心を抱いているのが面白くなかったのだろう。一部のヒーロー科の学生は、時折、俊兄を馬鹿にするような発言をした。

「あいつは図体だけだからな」
「体格に恵まれてるだけで、たいしたことはない」
「パワー系だって噂もあるけど、しょせん普通科だし」
「ヒーロー科の受験に落ちたんだろ」

 それを耳にするたびにわたしは悔しくて仕方がなかったが、俊兄はそれを黙って聞き流していた。言い返すでも、卑屈になるわけでもなく。本当に自然に。

「別にヒーロー科だからって偉くないのに」

 我が家のリビングで俊兄とふたりになった時、わたしは一度、そう漏らしてしまったことがある。独り言のようなものだが、俊兄はそれを聞き逃さなかった。

「ん、でも、彼らには際立った個性と長所があるからね。そこはちゃんと認めていかないと」
「でも……悔しいよ」
「なつめちゃんが悔しがることじゃないよ」

 俊兄はこんなとき、いつも静かに微笑んでいた。悔しくないはずはなかっただろうに。
 思えば、彼はこの頃から、自分の負の感情をあまり表には出さない少年だった。

「それより、どこがわからないんだい?」
「ここ、この問題」
「ああ、ここはね、Xの値を最初に求めればいいんだよ」

 数学のテキストを広げて問題個所を指差すと、俊兄は小さく微笑んだ。
 さすが雄英高生、中学生の数学なんて屁でもないに違いない。
 低いが柔らかい声で俊兄は解き方を教え始めた。
 同級生の男の子たちとは違う、大人の男のひとのような声だった。

「おい、ちゃんと聞いてるか?」
「……ごめんなさい」

 俊兄の声に聴きほれていたのを見透かされ、わたしは小さく舌を出した。
 こいつ、と額を軽く小突かれる。
 次はちゃんと聞けよ、と笑んで、俊兄は説明を続けてくれた。

 大人になった今、当時の自分を思い出すと恥ずかしさに顔を覆いたくなる。
 全身であなたが好きだと表現していたあの頃。あの臆面のなさと一途さ。
 若さゆえというよりも、幼さゆえのまっすぐな想い。

 一通りの説明を終えると、俊兄は立ち上がった。
 彼の日課をこなすために。

「さて、じゃあ行ってくるか」
「今日も走るの?」
「身体づくりは何より大切」

 そうウインクされて、わたしはまた頬を染めた。
 朝と夜のロードワーク。それを彼は一日たりとも欠かしたことはない。
 彼は、ほんとうに誰よりも努力していた。

***

 暮れなずむ街路を歩いていたわたしの上に、どこからか金木犀の香りが漂ってきていた。美しい夕暮れの秋の日のことだ。

 音大ほどではないが、音高の受験はそれなりに厳しい。
 「1 日休めば自分にわかる。2 日休めば師匠にわかる。3 日休めば聴き手にわかる」と言われるように、日々の練習は欠かせず、またいい先生につくことも大切とされる。
 この頃のわたしは、俊兄にまとわりつく以外の時間のほとんどを練習に費やしていたといっていい。殊にこの夏休みは、自分でも驚くくらいヴァイオリンと向き合った。

 あんな中でよくもまあ男の子にかまけられたものだと自分でも呆れるが、それは相手が向上心にあふれていたからかもしれない。
 俊兄の努力する姿を見ているだけで、自分もまた頑張ろうという気持ちになれたのだから。

 ヴァイオリンのレッスンの帰り道、電柱に大きな身体を預けて立ち尽くしている姿を見つけた。
 この近隣ではあまりに有名すぎる、そのジャージは雄英高校のものだ。
 夕日に照らされきらめく金色の髪と、ボロボロと表現する以外にはないその姿とのミスマッチはどうだろう。

「俊兄?」

 天を仰いで呆けていたように見えた大きな身体が一瞬びくりとし、そしてゆっくり彼はわたしの方に目を向けた。

「ああ、なつめちゃんか。なに? ヴァイオリン教室の帰りかい?」
「……それ、どうしたの?」

 驚愕を隠せないわたしの声に、彼はばつの悪そうな顔をして頭をかいた。
 ジャージがところどころ破けていて、頬にはあざができている。顔も体も文字通りぼろぼろだ。

「ああ、大丈夫。喧嘩とかじゃないから」
「でも……」
「特訓しているんだ」
「どうして俊兄はそんなに頑張るの?」
「……夢をかなえるため、かな」
「だって……俊兄、普通科じゃない!」

 言ってしまってはっとした。それは言ってはいけないことだった。
 けれど俊兄は怒らなかった。彼は少し困ったような顔をしてから小さく笑った。

 まるで朝の星のように、まるで夜の太陽のように。

 この時の俊兄の笑顔を、わたしは一生忘れないだろう。
 本当に強いひとは笑顔のままで泣くことがある。
 わたしはそれをこの時はじめて知ったのだった。

「それでも俺はヒーローになるよ。そうすることが俺の義務だから」

 静かな、けれど確固たる自信にあふれた声だった。
 根拠のない自信。そして義務という言葉。
 今であれば、それは彼の精一杯の虚勢だったのかもしれないと思い至ることができる。けれど当時のわたしには理解できない心情だった。

 どれだけ人に笑われても彼はヒーローを目指すのだ。
 何があっても夢は捨てないと、一人寂しく笑うのだ。

 どうしてそんなにまでと思った瞬間、ほろほろと涙がこぼれた。

 いきなり泣き出したわたしにきっと俊兄は困っただろう。
 それでも彼は優しく頭を撫でてくれた。本当に泣きたいのは、きっと彼のほうだっただろうに。

「ごめん、心配させたかい?」
「ごめんなさい……俊兄」
「いや……ありがとう。俺は大丈夫だから」

 無骨で大きな手が、わたしの頭をがしがしと撫でた。

「約束するよ。卒業までに必ずヒーロー科に編入してみせる」
「じゃあわたしも必ず音高に合格する」
「そうか、お互い頑張ろうな」

 夕日に照らされ煌めく金色の髪。まっすぐにわたしを見つめる藍微塵色の瞳。

「なあ、なつめちゃん。もしそうなったらさ」
「はい?」

 少し照れたように俊兄は眼を逸らした。
 身に覚えがある感覚にどきりとした。
 男の子に呼び出されて告白された時と、よく似た雰囲気だったからだ。
 わたしは期待と不安に胸を高鳴らせ、俊兄の言葉を待った。

「……いや、なんでもない」

 その時になったらな、と俊兄は笑んだ。
 少し残念に思いながら、わたしもはいとうなずいた。
 そして互いの間に生じた雰囲気を吹き飛ばすように、わざとはしゃいだ声を出した。

「もうすぐ体育祭だね。頑張ってね」
「うん。ここで活躍できたら、ヒーロー科への編入が近くなる」

 現在は春に行われている雄英高校の体育祭だが、当時は体育の日に合わせて行われていた。
 今、その様子はカットされることなく、全国ネットで中継される。しかし当時は地元のテレビ局が決勝トーナメントのダイジェストを流すだけだった。
 昨年の俊兄は予選落ちしてしまったため、見ることすらできなかった。
 もちろん、他のアパートの生徒たちも同様だ。決勝に残るということはそれだけ厳しいものだ。

 昨年の優勝者は俊兄と同じ学年の生徒だという。主席で入学したその生徒は、一年生ながら圧倒的な実力で昨年の主役の座を手中に収めた。
 今年もその生徒が最有力であろうとささやかれているらしい。

「見に来いよ」
「え?」
「今年はいいところまで行けるかもしれない。君に見に来てほしいんだ」

 沈みゆく太陽を背に俊兄が笑んだ。それは金木犀香る晴天の秋の日のこと。

 そしてこの年の体育祭が、彼の人生を大きく変えるターニングポイントの一つとなる。


2015.9.29
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月とうさぎ