約束〜forget-me-not〜中編

 その年の体育の日は気持ちいいくらいの秋晴れだった。

 しかし怖いくらい澄んだ青い空の下であるにもかかわらず、満員の観客席は水をうったような静けさだ。
 観客たちの視線の先で仁王立ちしているのは、紅い髪をした大柄な少年。
 上背だけならこの少年よりも俊兄の方が大きいかもしれない。けれどこの時、わたしにはこの生徒がとてつもなく大きく見えた。

 現在のそれと同様、観客席と闘技場の間にはかなりの距離があった。生徒の個性によっては、観客に被害が及ぶかもしれないからだ。
 紅い髪の少年から発される威圧感はその距離を飛び越え、確かに観客席まで届くほどのものだった。
 その姿はまるで伝説の勇者さながらで、彼が高校生のレベルをはるかに超越しているということがわたしにもわかるほどだった。

 その少年の足元で倒れているのは金色の髪の少年だった。
 ジャージの上半身部分は焼け落ち、もはや衣服としての機能を果たしてはいない。鍛え上げたその身体のいたるところにひどい熱傷を負いながらも、それでも少年―俊兄―は立ち上がった。

「もうたたないで……」
「姉ちゃん、あれ彼氏か?」

 弱々しい声を上げてギュッと目をつぶってしまったわたしに、隣にいたおじさんが話しかけてきた。小柄だが、筋肉質な中年男性だった。
 雄英体育祭には一般人よりも有名ヒーローやその事務所のスカウトマンが数多く集まる。
 もしかしたらこの人も、そういった類の人物かもしれなかった。

「見ててやれ」
「え?」
「つらいかもしれねえが、彼氏のことを好きなら最後までちゃんと見ててやれ。お姉ちゃんの彼氏の相手は、昨年の優勝者で、二十年に一度の逸材と噂されている男だ。入学した時から多くのプロヒーローから注目されている天才だぜ。なのに見ろ、どっから見ても優勢なはずの天才の方が冷や汗をかいてるじゃねえか。もしかしたらあんたの彼氏は、将来スゲエヒーローになるかもしれねえぞ」
「……そうでしょうか……」
「俺は長年この体育祭を見てきた。活躍した生徒の中には卒業後人気ヒーローになった者も、流れ星のように消えた者もいる。だが例年共通していることは、いっぱしのヒーローになるような連中は、この頃から得体のしれない何かを持ってるもんだ。お姉ちゃんの彼氏がまさにそれだあな。ただ問題があるとしたら、個性がなんだかよくわからねえってところだ。あの動きが素の身体能力ってわけじゃねえだろうが……」

 わたしは一つ恐ろしいことに気が付いた。そういえば俊兄の個性ってなんだろう。
 ここまでも、個性とはっきりわかるようなものは一度も使っていない。
 
 わたしの個性は音に関するものだ。
 オーケストラすべての楽器の奏でる音を聴き分ける耳を持ち、全ての音を音階や音名で表記することができる。かつて個性がなかった時代に「絶対音感」と呼ばれた物に近しい。
 ただかつての絶対音感の上限が4 kHzまでだったのに対し、わたしはもう少し上まで聴き分けることができる。それはむろん個性を発動させた時だけだ。
 その話をした時に、俊兄の個性はなんなのか聞いたことがある。
 けれど俊兄は微笑むだけで、なにも教えてはくれなかった。

 ―無個性?―
 恐ろしい想像が頭をもたげた。
 無個性のひと自体は、珍しくはあったが当時はまだ一定数いた。けれど彼らの中からヒーローの座に就いた者などいない。
 まさかとわたしは首を振った。俊兄が無個性だなんて、そんなことがあるはずがないと。

「む、やべえぜ」

 背の低いおじさんの声にわたしは我に返り、同時にぞっとした。 
 巨大な火柱が立ち上がったのだ。今までの炎とは比べ物にならない大きさだった。
 闘技場の半分ほどを覆う炎は、まるで竜の咆哮のように轟々と音をたてて燃えさかる。
 観客席まで熱が伝わるほどの猛火だ。闘技場に立つ俊兄はどれだけ熱いことだろう。
 闘技場の床を蹴り一息に相手に詰め寄ろうとする俊兄の身体を、巨大な悪魔の舌のような炎がべろりと舐めた。
 肉と髪が妬ける嫌なにおいが、観客席にまでただよってきた。

 俊兄の膝ががくりと落ちた。それでも彼の眼は相手を見据えて離さない。
 まだ戦う気なのかと愕然とした。
 もう勝負はついているのに。どうあがいてもその相手に勝てるはずなどないのに。俊兄はボロボロなのに、相手はほとんど無傷ではないか。

 戦う気満々の俊兄だったが、そこで審判の先生が両手をいったんクロスさせ、次に両手を大きく振った。レフェリーストップの合図だ。
 この動作と同時に紅い髪の少年は俊兄に背を向け、俊兄はがくりと頭を垂れてから、そのままゆっくりとその場に倒れこんだ。

***

 その日の夕食、俊兄は我が家のリビングには姿を現さなかった。

 試合終了とほぼ同時に倒れた俊兄は、そのままタンカで運ばれていった。
 リカバリーガールが治療にあたったとのことだが、あれだけの熱傷を負ったのだ。多分平気ではないだろう。食事ができないほどひどいのだろうか。

「俊典くんから、食欲がないから夕飯はいらないと申し出があったわ」
「怪我はどうなの?」
「さっきリカバリーガールから連絡をいただいたけれど、一日安静にしていれば大丈夫だそうよ。ただ……身体だけじゃなくて、精神状態の方が心配だわね……なつめ、おにぎりを作ったから、俊典くんの部屋に持っていってあげてちょうだい。それなら食べたくなった時にいつでも食べられるだろうから」
「うん」

 わたしは母の言いつけどおり俊兄の部屋に向かった。
 俊兄は思っていたよりも元気そうではあったが、少し疲れたような顔をしていた。
 焼けてしまったのだろう。長めだった前髪が半分くらいの長さになってしまっていた。いたるところにできたヤケドの痕が痛々しく、見ているこちらがつらくなるほどだった。

「俊兄……これ、お母さんから」
「ああ、ありがとう」

 漬物とおにぎりの乗った皿を受け取りながら、またも俊兄は笑った。
 頭をかきながら申し訳なさそうに言った。

「なつめちゃん、ごめん。せっかく応援してくれたのに見事に負けてしまった」
「でも俊兄は頑張ったよ」

 この時、笑っていた俊兄の顔が大きく歪んだ。

「……どんなに頑張ったとしても……負けてしまえば終わりだよ……」

 力のない言いように、わたしは少なからずの衝撃を受けた。
 こんなに打ちのめされている彼を見たのは初めてだった。
 どんなに人に笑われても、どんなに無理だと言われようとも諦めずに前を向いていた人だった。それなのに。

 そのまま俊兄はくるりとわたしに背を向けて、上を見上げた。広い肩が大きく震えていた。
 泣いているのだと気がついた時、わたしはますます動揺した。
 今のわたしなら、そのままそっとその場を離れただろう。もしくは、そっと後ろから彼を抱きしめたことだろう。
 でも当時のわたしは、まだ子供だった。

「終わりじゃないよ!」
「終わりだよ。一回戦負けではおそらくヒーロー科には上がれない。俺はもうヒーローにはなれない」
「そんなのわかんないじゃない! ほかにもヒーローの資格所得方法はあるじゃない。そんな事言うの、俊兄らしくない」
「君が俺の何を知ってるっていうんだ」

 破綻した声に、次の言葉を一度飲み込んだ。俊兄は意外に秘密主義者だ、個性も教えてくれなければ、家族構成すら語らない。
 知らないことはきっと山ほどあっただろう。それでも、わたしなりに二年半、彼のことを見てきたのだ。

「知らないこともあるけど、知ってることもたくさんある。わたしはいつも俊兄が頑張ってたことを知ってる。ずっと見てた。俊兄が好きだから!」
「なつめちゃん?」

 俊兄が驚いた顔で振り返った。
 言ってしまったとわたしは思った。どうしていいかわからない。でも口から出てしまった言葉をもう変更することはできない。それだけは痛いほどわかっていた。
 開き直ってわたしは続けた。

「わたしはずっと俊兄を見てきたよ……ずっとそんな俊兄が好きだったんだもん……」

 沈黙が場を流れた。
 どこかから枯葉を焼くような匂いが漂ってくる。この周辺は大きな庭と樹を有するお屋敷が多い。その焼却炉から流れてきているのだろうか。

「……どうして今なんだよ……」

 俊兄から帰ってきた言葉は、ため息交じりの悲しい言葉だった。
 言われてみればその通りだ。
 余計なことを考えたくなかっただろうに、いらぬことを言ってしまった。
 今の俊兄の言葉は拒絶に等しい。そう思ったわたしは、その場を逃げ出した。

 うしろからわたしの名を呼ぶ声が聞こえたが、彼は追ってはこなかった。

 それからわたしは徹底して俊兄を避けた。
 夕飯の時間は音高受験を言い訳にして、高校生たちの食事が終わるまで自室練習を続けた。それだけだ。だがたったそれだけのことで、わたしと彼の時間が重なることはなくなってしまった。
 互いの関係性の希薄さに驚いた。近しい関係だと思っていたのに、どちらかが避けようと思えばこんなに簡単に会うことすらできなくなるなんて。

 わたしの行動の不自然さに気づいたのが母だった。
 見るに見かねたのだろう、ある日の午前中、母がわたしの前に大きなお弁当箱を差し出した。

「なつめ。あなた開校記念日でお休みでしょう。それを届けていらっしゃい」
「届けるって?」
「俊典くんによ」
「は? なんで??」
「なんだか知らないけど、それ持って仲直りしていらっしゃいな」
「……別に喧嘩したわけじゃないもん……」
「じゃあなおさらね。行ってらっしゃい。俊典くんにはお昼休みにお弁当を届けるって伝えてあるから」
「いやだ……行かない」
「きっと俊典くん困るわね、お昼ごはんがなくて」
「……」
「たくさん食べる子だからつらいでしょうね。律儀な子だから、学食なんか行かないで門のところでずっと待ってるだろうしね」
「……おせっかいおばさんめ!」
「あなたもあと三十年もしたらこうなるのよ」

 三十年だなんて、そんな先のこと考えられない。そうぶつぶつ言いながらもわたしは身支度を始めた。母に勝てたことなどなかった。あのひとは、常に一枚も二枚も上手であった。
 そしてこの日からずいぶん月日が流れたが、わたしは未だに、母の境地には至れていない。

***

 当時の雄英高校のセキュリティは、今ほど厳しくはなかった。そういう時代であったのだ。
 守衛さんに事情を話したら、弁当を渡したらすぐ帰るようにと言われて中に入れてもらえた。
 もちろん、身分証明書は掲示させられたし、来校者の欄に名前も書かされたが。

 門のところで俊兄を待っていると、男子生徒にやたらと声をかけられた。
 どこの世界にも、年下の女の子に声をかけたがる男というのはいるものだ。それはかの名門校であっても変わることなく。

「ねね、誰を待ってるの? お兄さんが探してきてあげようか」
「大丈夫です。ここで待っていれば来てくれるとのことなので……」
「そういわないでさー」
「大丈夫です」

 あっと言う間に囲まれて、どうしようか困惑していたその時に、背後から張りのある低い声が響いた。俊兄とはまた違う、低くて素敵な声だった。

「おい、嫌がっているだろう。やめろ」

 わたしに声をかけていた少年たちは、冗談だよと言い訳するように笑いながら、蜘蛛の子を散らすように去っていった。

「ありが……」

 礼を言おうと振り返ったわたしは、そのままの形で硬直した。
 目の前に立っていたのは、見上げるほどの大きな少年。情熱的な紅い髪の下で強い光を放つのは、アクアマリンの色をした瞳だ。
 この凛々しくもあり美々しくもある少年を、わたしがどれほど恨んだことか。

 わたしを助けてくれたのは、先日の体育祭の優勝者であり、俊兄を完膚なきまでに叩きのめした、あの炎の個性の生徒だった。

「うちの連中がすまなかったな、お嬢さん」
「……いえ、ありがとうございます」

 個人的な恨みはどうあれ、助けてもらった事にはかわりない。
 炎の個性の学生は、闘技場での姿とは別人のようだった。纏っている雰囲気はやや怖いものの、態度はあくまでも紳士的で柔らかだ。

「ところで、我が校に何の用だ? 見たところ中学生のようだが、学校見学にも見えない」
「……忘れ物を届けに……」
「む、誰かの身内か」
「体育祭で、あなたがフルボッコにした相手の隣人です」
「俊か!」

 「とし」などと親しげに呼ぶ相手をあそこまでひどい目にあわせたのかと、わたしは少しいらだった。それが顔に出たのだろう。炎の個性の学生がにやりと笑った。

「何か言いたげだな、お嬢さん」
「……体育祭で、あんな状態だった俊兄にあそこまでやることはなかったんじゃないですか」

 そうなのだ。実際このひとは、あの後の試合では相手に手加減をしていたように見えた。決勝ですらそうだった。圧倒的な力の差があったのは、なにも俊兄相手のことだけではなかったのだ。
 それなのにこのひとは、俊兄のことだけを、あんなに。

「他の相手ならそうした。だがあいつの目は死んでいなかった。全力で向かってきた相手に、俺も全力で答えた、それだけのことだ。そうしなければ失礼だろう。それに、ああしなければやられていたのはきっと俺だ」
「あんなに実力の差があったのに?」
「他の連中とあいつとは違う。俺にはわかる。おそらくあいつは、これからも俺の前に立ちはだかってくるだろう。だから俺はあいつを完膚なきまでに叩きのめした。これからもそうする」

 アクアマリンの瞳の中にオレンジ色の光のようなものが見えた気がして、ぞっとした。まるで氷の中でゆらめく炎のような、冷たいけれど熱い炎。

「頂点に立つものは、常にひとりだ」

 今ならわかる。きっとあの少年は、他人にも自分にも厳しいひとであったのだと。
 現在の彼のヒーローネームが、彼そのものを表わしているではないか。その名は英語で「努力」を意味する。
 エンデヴァーもまた、当時は血の滲むような努力を続けて頂点を目指している一人であった。

 だがこの頃のわたしにはまだそれがわからず、ただ怖いだけのひとのように見えた。

「なにしてるんだ!」

 再び後ろから声をかけられた、この声は俊兄だ。心臓がびくんと跳ね上がる。
 ところが俊兄はわたしのほうを見ようともせず、炎の学生とわたしの間にずいと身体を滑り込ませた。
 彫りの深い横顔に怒りの表情が浮かんでいるのを確認し、わたしは少し驚いた。俊兄の怒った顔を見るのは初めてだった。

「なつめちゃんに何をした?!」
「別に何も」
「嘘をつけ、こんなに怯えているじゃないか」

 俊兄は誤解をしているようだった。たしかにわたしはこの人の迫力に圧されていたが、危害を加えられていたわけではなかった。
 紅い髪の学生も人が悪いとわたしは思った。わざと俊兄を挑発するような顔をして、怒りをあおっているように見えたからだ。

「違うの、俊兄。しつこく声をかけられて困っていたら、この人が助けてくれたの」
「え?」
「助けてもらったの」
「……ほんと?」

 わたしがうなずくと、俊兄は紅い髪の少年に向かって気まずそうな顔をして頭を下げた。

「その……すまなかった」
「いや、かまわんさ。それにしてもおまえがそんな顔をするとは思わなかった。いいものが見られた」

 紅い髪の少年に肩をポンポンと叩かれて、俊兄は真っ赤になった。
 それを確認した紅髪の少年は、片方の口唇だけをくいと上げてニヒルに笑い、それからくるりと背を向けて歩き出した。

「轟! ありがとうな」

 轟と呼ばれたその少年は、かけられた声に後ろを向いたまま右手を軽く上げて答えた。

 炎の個性の少年を見送ったあと、わたしたちの間には少し気まずい雰囲気が流れた。
 なにか言おうとしている。そう察したわたしはお弁当を手渡して逃げようとしたが、その手首を大きな手で掴まれた。

「なつめちゃん、待って。この間の返事を……」
「返事なんていらない」
「なんで?」
「聞きたくないから」
「言わせてくれよ。俺は……」
「聞かないもん。知らないもん。わああああああああ」

 耳をふさいで目を閉じて、俊兄の声が聞こえないよう幼児のように大声でわめいた。
 今から思うと、よくもまあそんな恥ずかしい真似ができたと思う。彼も困ったことだろう。だからこのあと彼が取った行動を、今のわたしは非難することができない。

 大口を開けてわめき続けていた声がとまった。
 否、正しくは口をふさがれた。
 わたしの口をふさいでいたのは、ごつごつとした大きな手ではなくもっと柔らかい別のなにかだ。

 あまりのショックに腰から崩れ落ちそうになったところを、力強い手で支えられ、ぐいと引っ張り上げられた。
 自分が大きな身体にすっぽり包まれた状態で口づけられているのだと気づくまで、少しかかった。

 ついばむでもなく、舌が侵入してくるでもなく、唇をふさぐだけの稚拙なキスだった。それでもわたしにとって、それは初めての行為であったことにはかわりなく。
 やさしく唇が離され、藍微塵色の瞳と見つめあうことしばし。
 わたしよりも我に返るのがコンマ数秒早かった俊兄が、両手で顔を覆いながら叫んだ。

「あああ、何してんだ俺〜〜」

 大きな手で顔を覆って、俊兄はへなへなとその場に座り込んでしまった。

 ちょ……待って待って……それずるい、それはわたしがするはずでしょう?!
 それに、そんな大きな身体でオンナノコみたいな仕草はやめて!!

 わたしは半分パニックをおこしながらも心の中でそう突っ込んだ。
 まわりの雄英生たちも、唖然としたままわたしたちを見守っている。それはそうだろう、校門の真ん前で中学生とキスするような生徒など、今までいなかったに違いない。

「と……俊兄……ちょっと……これはひどくない?」

 やっとのことで座り込んでいる大柄な少年に声をかけた。するとはっと気付いたように、俊兄が勢いよく立ち上がった。
 彼は両手で自分の頬をパン!と叩いてから、優しく言った。

「このあいだはごめん。ちゃんと答えてやれなくて」
「……」
「俺から言うべきだった。ずっと言おうとは思ってたんだ。俺も君が好きだ。よければ付き合ってくれないか?」
「ヨロシクオネガイシマス」

 即答だった。もうすこし間をおいて、せめて考えるようなふりくらいしてもよかったと今なら思う。だが、この時のわたしにそんな真似ができるはずもなかった。

 そしてこの日から、わたしと俊兄は付き合うようになったのだ。

***

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。
 俊兄は三年に上がるときにヒーロー科への編入を認められ、そのまま卒業し東京の
ヒーロー事務所に就職した。
 わたしも無事地元の音高に進み、国立の藝術大学を目指して努力を続けていた。

「高校を出たら必ず東京に行くから、わたしのことを忘れないで」
「忘れるわけなんかないじゃないか、離れてもずっと一緒だよ」

 アパートを引き払ったその日、俊兄はそう優しげに笑った。
 俊兄が18歳、わたしが16歳の暖かい春の日のことだった。
 庭先では藍微塵の花が、春の風を受けて寂しげに揺れていた。


2015.10.02
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月とうさぎ