遥かなるsterling silver

 わたしは年に一度、家の中の整理を行う。必要な物とそうでないものをわけ、いらない物は捨てるかもしくはリサイクルに出す。
 この家は無駄に広いうえに歴史ある物が多いため、物を整理するのも一苦労だ。

 そんな中、わたしは懐かしい小物入れを手に取った。
 きめの細かい白磁に、見事な金彩が施され淡い色で薔薇の花が描かれている、小さな円形の小物入れ。繊細な装飾のヒンジは14金でできている。
 これは高校に入った時に母からもらった、リモージュ焼きのアンティークだ。なんとも言えない気品ある美しさに、当時の私は目も心も奪われたものだった。

「懐かしい……」

 思わずそう独りごちてしまったが、昨年まではこれを見て切ない思いに駆られこそすれ、懐かしいとは思わなかった。
 この美しく繊細な容器には、わたしのもっとも美しい思い出と未練とを象徴する小さなプレートが入っている。

 ずいぶん長いこと、この蓋を開けられなかった。この容器を見つけるたびに中のものを捨てようと思い、けれど懐かしい思い出だからと自分に言いきかせまた同じ場所へと仕舞い込む。それが毎年のことになっていた。

 だが今のわたしはこの中身と対面することができる。
 蝶番が馬鹿になっていたらどうしようと一瞬躊躇したが、思い切って金のヒンジに爪を引っ掻け跳ね上げた。
 簡単に蓋はあき、約二十年ぶりに中身との対面を果たした。

 ベルベットの布地の中で眠っていたのは、なんの変哲もないシンプルな楕円形のペンダントヘッドだ。銀でできているため、経年変化で硫化し黒ずんでしまっている。

 あのひとはこれを覚えているだろうか。

***

 わたしはどうしようもなく切ない気持ちで、自室の窓から通りを眺めていた。
 ここを通って雄英に通っていた俊兄も、来週には東京へ行ってしまう。
 東京のヒーロー事務所に就職した俊兄は、こことはまた違う都会で新たなる一歩を踏み出すのだ。
 ヒーローになるのを夢見て努力を重ねていた大好きな人の門出を、祝いたい気持ちはある。だがそれ以上に、遠くはなれたところに行ってしまう悲しさや寂しさに、当時のわたしは押しつぶされそうになっていた。

「……考えちゃだめ……悲しくなるばっかりだから」

 わたしはそう呟いて、お気に入りの陶器でできた小物入れを見つめた。
 フランス製のアンティークで、色とりどりの薔薇が繊細なタッチで描かれている。
 いつかここに大切なものを入れるんだ……俊兄からもらった指輪をいれることができたらいいなと、わたしは密かに夢をみていた。

「おーい」

 と、窓の外から明るい声が響いてきた。
 慌ててそちらに目をやると、背の高い恋人がこちらに向かって手を振っている姿が見えた。ジャージ姿でいるところみると、ロードワークから帰ってきたところなのだろう。
 就職が決まっても、彼は相変わらずだ。
 自分を甘やかすことはせず、日々トレーニングにいそしんでいる。

「おかりなさい!」
「ああ。なつめちゃん、ただいま」
「今、そっちに行くね」
「え? いや……あとでも……」

 彼の言葉を最後まで聞かず、わたしは部屋を飛び出した。

「おかえり」
「ただいま」

 さきほどと同じやりとり、さきほどと同じ屈託のない笑顔。
 けれどこの笑顔もあと一週間で見納めとなるのだ。それがやっぱり悲しかった。

「あのさ、せっかく降りてきてくれたのに悪いんだけど、15分くらいしたら俺の部屋に来てくれる?」
「今じゃだめ?」
「ン、このままだと汗臭いだろうから……」

 確かに俊兄は汗だくで、シャワーを浴びたいのだろうと察しがついた。けれどあと一週間しか一緒にいられないのだ。一緒にいる時間を少しでも増やしたいと思ってはいけないだろうか。

「じゃあ、お部屋で俊兄がお風呂から出てくるのを待っててもイイ?」
「エ……いや……それは……」

 案の条、俊兄は躊躇していた。

 俊兄はお堅いから、お風呂上りの姿をさらしたりしないし、夕飯後にわたしを自分の部屋に上げたりもしない。
 わたしはもう高2になる。付き合って一年以上たつのに、二人の関係はキスどまり。処女ではない子もぼちぼちいるのに、どうして俊兄はあんなにお堅いのだろう。わたしは俊兄ならいいと思っているのに。
 わたしに魅力がないのだろうか……とも思うが、そうではないこともよくわかっている。だって抱き合ってキスしているときに、硬くて大きいものが体に当たるのがわかるから。
 その屹立は何よりも正直に、俊兄の中に生じた欲を語っているのに。

 でも俊兄はこう見えて頑固だ。
 普段は温和で優しいけれど、ひとたび否やと唱えた瞬間、二度とそれを翻したりはしない。強固な意志と強靭な精神力。
 もう少し不真面目でもいいのにと思うが、そんな俊兄を好きになってしまったのだから、仕方がない。

「ね……なんにもしないから、お部屋で待たせて?」
「何もしないって……それは俺が言うべきセリフだよね?」

 そうだけどサ、とほっぺたを膨らませたその時、わたしは俊兄の首から見慣れないものがぶら下がっていることに気がついた。

 楕円形のプレートだ。わたしは嫌な気分でそのプレートを凝視した。もしかして、ペンダントヘッドの裏に名前でも彫ってあるのではないだろうか。
 今はあまり見なくなったが、当時は恋人同士で揃いのペンダントを持ち、そこに相手の名前を刻むのが流行っていた。

「俊兄、なにそれ」

 手を伸ばそうとした瞬間、俊兄ははっとして、屈めていた背をぐぅんと伸ばしてペンダントをシャツの下に入れてしまった。俊兄は二メートルを超える長身だ。そうされてしまうと一般的な身長のわたしでは手が届かない。

「なんで隠すの?」
「……なんででも……」
「……浮気相手からもらったものなんだ……」
「違うよ」
「じゃあほんきなんだ」
「本気ってきかれればそうだけど……」
「なにそれ……ひどい」
「いや、そうじゃないんだ」
「バカバカ、大嫌い!」

 そこから先はいつも通りだった。
 もう本当に恥ずかしい。甘やかされたお嬢様。それがこの頃のわたしだ。
 わたしは耳をふさいでわあわあ泣き叫びながら、家に駆け戻ったのだった。

「もうばかばか! 俊兄なんて大嫌い!!」

 ワアワア泣きながら部屋でぬいぐるみを投げてストレス発散していると、いきなり扉ががちゃりと開いた。

「ちょっと、ノックくらいしてよ!」

 扉の向こうで立っていたのは、母と俊兄だ。俊兄は気まずそうに肩をすくめ、それから母に向きなおった。

「おばさん、ありがとうございます。ちゃんと扉は開けておきますから」

 丁寧な一例を受け満足そうに笑んだ母は、俊兄の背中をポンと叩いて去って行った。

 くそ、おせっかいおばさんめ。
 「俊兄が来た」って教えてくれれば部屋に鍵をかけておいたものを、直接ここに連れてくるとはなんたることか。ばか。
 ママなんかお腹が痛くなって、明日の観劇に行けなくなっちゃえばいいんだ。
 わたしは心の中で幼い悪態をつきながら、上目づかいに俊兄を睨み付けた。
 だが未来のヒーローはそんなものには怯まない。俊兄は母との約束通り扉を数センチだけ開けたままにし、わたしのテリトリーにその大きな足を踏み入れた。

「なつめちゃん。話、ちゃんと聞いてくれよ」
「聞きたくないもん、俊兄のばか……」

 今の状態でわあわあわめいても、キスで黙らせられてしまうことは目に見えている。だからわたしは下を向いた。泣いていたため、下を向くと鼻水が垂れてくる。
 それを必死に啜りあげていると、頭をくしゃりと撫でられた。

「これ、ホワイトデーのお返し」

 はい、と、差し出されたのはお菓子の箱と小さな包みだ。
 嬉しい気持ちと、さっきのペンダントはなんなの?という黒い気持ちが入り混じって返事ができない。

 俊兄はプレゼントを受け取りたがらないわたしに業を煮やしたのか、自身の手で小さな包みを開け始めた。

「ほら、見て」

 次に目の前に差し出されたのは、先ほど見かけたのとよく似た形のペンダントだった。
 そこに彫られた、TOSHINORIの文字。

「これとお揃い」

 そう言って俊兄は自分の首から下げたペンダントを見せた。彼のほうにはわたしの名前がローマ字で彫られている。

「うう……なんでさっき……それ見せてくれなかったのよう……」
「照れ臭かったし、これを渡す時にこうして一緒に見たかったんだよ」

 涙と鼻水でぐずぐずになっているわたしにティッシュの箱を渡してくれながら、俊兄は笑った。

「これで、離れててもずっと一緒だ」

 わたしはぼろぼろ泣きながら、俊兄の大きな身体にしがみついた。

***

「どうしたんだい?」
「物置を整理していたら懐かしいものが出てきたの」

 オールマイトの家のリビングでくつろぎながらわたしは答える。
 最近、互いの家での逢瀬が増えた。外で会うのも楽しいが、こうして互いの家に行き来するのもまた悪くない。

「懐かしいもの?」
「ええ、これ」

 銀のペンダントヘッドを見せると、オールマイトは驚いた顔をした。まあそうだろう、これは二十年以上も続くわたしの未練。もしかしたら怖がられてしまうかもしれない。
 けれどオールマイトは屈託のない笑顔を返してくれた。昔のように。

「へえ、確かに懐かしいね。まだ持っていてくれたんだ」
「なんとなく捨てられなくて、小物入れに入れておいたの」
「ありがとう。それにしても君のは綺麗だな」

 オールマイトの言葉通り、彼の本名が刻まれた楕円形のプレートはかつてのままの輝きを有していた。銀は硫化すると黒くなるが、専用のクリーナーやクロスでお手入れすると簡単に輝きが戻ってくる。

 そしてわたしは、オールマイトの言葉にある意味が含まれていることに気がついた。

「君のは、って言った?」
「うん」

 オールマイトが満面の笑みでわたしを抱き寄せ、軽く額に口づけた。

「私もね、実はまだ持っているんだよ」

 立ち上がった長身が、コレクションケースの引き出しを開いた。
 出てきたのは、黒ずんだ楕円形のプレートだ。もちろんそこにはわたしの名前が刻まれている。

「君と同じで、なんとなく捨てられなかった」
「ねえあなた」
「なんだい?」
「銀はね、お手入れすればまた輝きを取り戻すの」
「私たちのようにかい」
「……ほんと、わたしたちは遠回りしたわね」
「そうだな。そのぶんをこれから取り戻さないと」

 今夜は丁寧にお手入れしてあげるよ、そうウインクして彼はわたしにまた口づけた。

 春の夜に見る夢は儚いと、誰かが言った。
 儚かった若き日の恋の思い出を懐かしみながら、春の夜、同じ相手と夢のような現実の恋をする。
 経年劣化した銀を磨くように、互いの気持ちを確かめ合いながら。
 それはきっと、これ以上ない贅沢だ。

 金よりもプラチナよりも価値のある、スターリングシルバーがここにある。

2016.3.14
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月とうさぎ