0話 La Dolce Notte

 けぶるような霧雨が降る夜。
 煙状の雨に傘はあまり役に立たない。濡れてしまった上に、せっかく巻いた髪が湿気で膨張している気がして、わたしは心の中で舌打ちをする。
 日中、このホテルでオールマイトの誕生日イベントがあったせいだろうか。ホテルのバーは夜も遅いというのに、いつになく熱気にあふれていた。

 案内されたカウンター席の隣には、背の高い痩せたひとが腰掛けていた。
 長い手足と彫りの深い顔立ちが印象的な、壮年の男性。
 身につけているのは、しっとりとした光沢のある黒のシャドーストライプのベストとパンツ。共布で仕立てられた上着は無造作にスツールにかけられている。
 ねっとりと纏わりつくような湿気と熱気の中、彼の周りだけは清廉な空気が流れているような、そんな凛とした雰囲気のあるひとだった。

 腰掛ける時に目があった。
 落ち窪んだ眼窩の奥で強い輝きを放つ瞳の色は、ブルーキュラソーを思わせる透明感のある青。
 わたしは思わずブルーレディをオーダーしていた。

 彼が傾けているのはウイスキーだろうか。ロックグラスの中にはクラッシュドアイスと琥珀色の液体。彼はそれを本当に少しずつ喉の奥へと流し込む。
 大きな手と、琥珀色の液体を口元に運ぶたびに動く喉仏がとてもセクシーだ。

 隣から時折流れてくる、特徴のあるスパイシーなバニラの香り。
 妙に鋭い目力と、凛とした佇まいと、この香りが気になった。

「エゴイストですか?」
「え?」
「香り」
「ああ。君も? …いや違うな、君の方はもう少しまろやかだ」
「わたしのは同じブランドの別の香り」

 思い切って話しかけると、彼は少し驚いた顔をしながらも応じてくれた。
 鼻のいい人。
 わたしがつけているのはエゴイストと同メーカーのレ・ゼクスクルジフ ボワ・デ・ジル。
 エゴイストの元になった女性用の香水。
 似た香りがないと言われるエゴイストだが、これは原型であるだけに香調がよく似ている。だがその取扱いの少なさたるや、エゴイストの比ではない。国内では一桁の店舗でしか扱いがないのだから。

「ところであなたは何を飲んでいるの?」
「ブラントンのミスト。君はブルーレディだね」
「ええ、あなたの瞳を見たら、ブルーキュラソーが欲しくなって」
「それは光栄だ」
「お名前をうかがってもいい?」
「……マイトだ。君は?」
「絵李よ」
「今日はひとり?」
「ええ。もしよろしかったら話し相手になってもらえるとうれしいわ」
「よろこんで」
「実はね、わたし、今日が誕生日なの」
「それは奇遇だな、私もだ」
「あら、じゃあ二人でお祝いしましょうか」

 わたしたちは手にしていたグラスを自然に合わせた。互いがこの世に生まれてきたことを祝うために。

 マイトと名乗った男性は話題が豊富な楽しい人だった。
 人を飽きさせない術を心得ているというより、人となりそのものに魅力があるひと。

 少年のようなオーバーリアクションが可愛い。
 なのにオーダーを通すときの態度やグラスを口元に運ぶ仕草には、大人の色気がにじみ出ている。
 薄いクリスタルのロックグラスが彼の唇に触れるのを目の当たりにした時、ああ、その唇に触れてみたいと素直に思った。

「ねえ、わたしたち誕生日だから、お祝いに寝ない?」
「ハイ?」
「お互いがお互いの誕生日プレゼントっていうのはどう?」
「ンン……悪くない話だけど、会ったばかりなのにずいぶん大胆だね」

 突然の提案に、彼は少し躊躇しているようだった。
 ふふ、と笑って挑発するように彼を見上げる。
 しばしの逡巡ののち、彼は眼だけで笑んでから、バーテンダーに向かって軽く手をあげた。 

***

 素晴らしい一夜だった。

 空が明るくなり始めたのと同時にわたしは目覚めた。そうしてゆっくりと身体を起こす。
 一夜限りの相手と、共に朝を迎えたりしない。それがわたしのルールだ。

「帰るのかい?」

 横から落ち着いた低音に呼び掛けられる。

「ごめんなさい、起こしてしまったみたいね」
「いや、大丈夫だよ」

 彼も身体を起こし、わたしの髪を一筋すくってそこに口づけた。どこまでも甘く優しいひと。

「また会えないかな。絵李、私は君をもっと知りたい」
「だめよ、一夜限りの恋は一夜で終わるから美しいの」
「それはとても残念だ。君はもう私に興味はない?」

 本心を見透かされたようでどきりとした。
 いろんな男と寝てきたが、こんなひとははじめてだった。
 紳士的なのに情熱的で、優しいのに激しい。
 少年のようにはにかんだかと思えば、大人の男の余裕も垣間見せる。

「正直、少し」
「なら、このまま別れるのはもったいなくないかい?」

 ウインクしながら彼が笑む。このひとの振る舞いはどこまでもスマートだ。いけない、本気で恋をしてしまいそうになる。

「じゃあそうね、またどこか別の場所で、偶然会えたら考えさせて」
「なるほど。面白いね」

 わたしの髪からそっと手をはなし、肩をすくめて彼は微笑んだ。少し名残惜しそうに。

***

 帰宅後シャワーを浴びながら、ふっとため息をつく。
 昨夜の彼の残り香を落としてしまうのが、もったいない気がしたから。

 今日はこれから出勤だ。

 昨夜は本当に最高の誕生日だった。
 最高の男と最高の一夜を過ごせた。
 彼もそう思っていてくれたら嬉しいのだけれど。

 彼からはローズを含んだ白檀とバニラの芳香がひろがり、わたしからはイランイランを含んだ白檀とバニラの香りが放たれる。それがひとつになって混じりあい、まるでお互いがお互いのドルチェになったような、とろけるような甘い夜。
 あんな経験はきっともう二度とできないだろう。

 別れ際、彼からの提案を断ったことを、わたしは早くも後悔しはじめていた。
 あんな人はきっとどこにもいない。

 だめ、とわたしは首を振る。
 一夜限りの恋をするような女に本気になるような男はいないのだから。

 シャワーから出て髪を乾かし、ハーフアップにしてメイクを始める。
 気を配るのはベースだけ。ポイントメイクはあまりしない。眉を書き足し、まつげにはロングタイプのマスカラ。アイラインもアイシャドウもせず、チークとルージュは薄めの色で。
 最後に黒縁の眼鏡をかければ、わたしのメイクはほぼ完成だ。

 最後の仕上げは、耳の後ろに一滴のボワ・デ・ジル。
 パルファムだから、これで充分。

 ゆうべホテルのバーにいた巻き髪の女はもうどこにもいない。
 ここにいるのは暗いグレーのスーツを身につけた、地味な女。

***

 昨夜あれほど降り続いた煙雨はやみ、どんよりとした曇り空が広がる。
 曇天の下、わたしは職場である国立雄英高校の門をくぐった。

 アジサイの花の前に、ひときわ大きな男性が立っているのが見える。
 堂々たる偉丈夫という言葉を体現するような大柄な体躯。彼はその見事な肉体を、高級そうな黒のシャドーストライプのスーツで包んでいた。

 四月から我が高の教職に就いた、ナンバーワンヒーロー、オールマイトだ。
 同じ職場とはいえ、一介の事務員でしかないわたしが彼と接点を持ったことなどない。
 わたしは彼を知っているが、当然のように、彼はわたしを知らない。

「おはようございます」

 一応挨拶をとすれ違いざまに声をかけた瞬間、オールマイトの表情がさっと変わったような気がした。

「待ってくれ」
「はい?」

 振り返ると、オールマイトがわたしを凝視していた。
 まるで恋する少年みたいな顔で。

「君、うちの学校の人? 名前は?」
「はい、事務員です。月ヶ瀬絵李といいます」
「そう」

 心から嬉しそうにオールマイトが微笑んだ。

「ご挨拶が遅れてしまったけど、これからよろしくね」

 大きな手がわたしに向かって差し出される。
 何故だかわたしは、この大きな手に見覚えがあるような気がした。
 ためらいながらもそれに自分の手を重ねた時、背にはしったのはとろけるような感覚で。
 それは不思議なほどに甘美な既視感。

 オールマイトからふわりと漂うスパイシーなバニラは、エゴイストの香りだ。
 彼からはローズを含んだ白檀とバニラ、わたしからはイランイランを含んだ白檀とバニラがほんのり香る。
 お互いがお互いのドルチェになったような、そんな甘い夜を思い出させる切ない香り。

 目の前の英雄と昨夜の彼の姿が、なぜか重なってみえる。
 ふと、あのドルチェのような甘い夜がまた訪れるような気がした。
 それは、震えるほど熱くて甘い、恋の予感。

2015.4.5

2015.オールマイト生誕祭企画に提出したお話

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月とうさぎ