とろけるような甘い芳香を漂わせ、咲き誇るのは白い花。
一夜限りのその花は朝には萎み朽ちてゆく。
その花の名は、月下美人。
1話 「月下美人」
朝から続いていた曇天の空には、夕刻を迎えても変わらぬ陰鬱な鈍色がひろがっていた。
昨夜はわたしの誕生日。都心のホテルのバーで男と出会い、そして寝た。体にはまだその名残が残っている。
こんなことは初めてだった。快楽の後のけだるさが夕刻を過ぎても消えないなどと。
まったくあんな男性は初めてだった。
ごつごつした大きな手で優しく触れられるごとに、その部分が甘い熱を持って疼いた。わたしは寄せては返す波に揺られる小舟のように享楽の海を漂い、そして溺れた。
悦楽の中で果てた後に残った、どこまでも甘い余韻。恍惚としたけだるさの残る中、至福の時を与えてくれた男性の誘いを振り切って、そのまま別れた。
至極残念と思う気持ちとこれでよかったのだという安堵感が、今もわたしの中でせめぎ合う。二つの想いに揺られながら、わたしは校門を後にした。
「やあ」
道すがら唐突に声をかけられ、わたしはびくりと身体と硬直させた。聞き覚えのある低音に期待と不安が入り混じる。
振り返った先に立っていたのは、昨夜と同じ黒のシャドーストライプのスーツに身を包んだ長身痩躯の男。昨夜わたしの身体に、幾度も快楽の楔を打ち込んだマイトという男だ。
この時わたしはちょっとした既視感をおぼえた。
彼の着ているスーツは昨夜と同じものだ。男性が前日と同じスーツを着るのはそう珍しいことではない。
だがネクタイとシャツは替えるだろうし、実際マイトも昨夜とは違うタイとシャツを身につけている。にもかかわらず、この着こなしをどこかで見たような気がしたからだ。
しかし男性のコーディネートなど、よく考えたらどれも似たようなものかもしれない。
それより今問題にしなければいけないのは、どうやって彼が私の職場を調べたのかということだ。
あの後、あとをつけられたのか、それとも追跡系の個性の持ち主なのか。
彼の目的がわたし個人であるならまだしも、勤め先が勤め先だ。マイトがそれを悪用しようという輩であったら面倒なことになる、そう思った。
思っていたことが顔に出たのだろう、マイトが大げさにジェスチャーをくわえながら笑う。
「君は目力がすごいね。イングリット・バーグマンみたいだ」
「は? だれそれ?」
「昔の大女優だよ。観たことないかい? 『カサブランカ』とか『誰がために鐘が鳴る』とか」
「知らないわ」
「そりゃいけない、ぜひ見るべきだ。ところで我が家にはホームシアターがあるんだが、よかったら今度一度来てみないか」
「お断りよ」
「ン、冷たいね。もう一度会えたら、これからのことを考えてくれるって言ったじゃないか」
「わたしは偶然って言ったのよ。ストーカーみたいにあとをつけて、職場の近くで待ち伏せされたんじゃたまらないわ。あなた探偵か何か?」
「いや、違うけど」
「じゃあ単刀直入に聞くわね。あなたは何者で目的は何? 私なんて脅しても何も出ないわよ。事務方が知っている先生方や生徒の個人情報なんてたいしたものじゃないわ」
なにも守秘義務があるのはヒーローだけではない。たとえ事務職であっても、公務員には守秘義務が伴う。
そして国立雄英高校は特別な学校だ。教師たちは名の知れたヒーローが多く、その重要な秘密を知るために職員に近づこうとするヴィランがいないとも限らない。
「昨夜も言ったろう? 絵李、君をもっと知りたい」
「『もっとしたい』の間違いじゃなくて?」
「まるっきりその気がないわけじゃないけど、今はそれについてはあまり考えていないんだ。簡単に言うとね、私は君と恋がしたいんだよ」
「わたしは誰とも恋なんてしないわ。気に入った男とたまに寝られればそれでいいのよ。あなたそんな女と恋なんかできる?」
「セックスをスポーツみたいにとらえているってわけかい」
「有体に言えばそういう事になるわね。もしあなたと付き合ったとしても、他にいい男がいたら、わたしそのひとと寝るわよ」
「私と恋をしたら、他の男なんて目に入らなくなるさ」
「すごい自信ね」
呆れ声で応じたにもかかわらず、マイトは鷹揚に微笑んだままだ。得体のしれない男にこれ以上かかずらってはいられない。困ったものだと思った時に、男がまた言った。
「まあ今日のところはこれで失礼するよ」
「そうしてもらえるとありがたいわ」
家まであとをつけられてはたまらない。マイトのひょろ長い身体が見えなくなるまで見送ってから、わたしは大きくため息をついた。
曇天の空はいつしか星のない夜空へと変わっている。
昨夜の状態のまま別れられていたならば、彼とのことはいい思い出になっただろうに。本当に残念だ。
マイトが何を目的にしているのかわからないが、いずれにしろ厄介なことにはかわりない。それにもともとわたしは、男性との関係は一夜で終わらせる主義だった。
今朝はマイトと過ごした一夜の余韻が残っていたのと、オールマイトのオーラに引きずられて甘い予感に震えたりもしたけれど、実際に恋をするなどおそらく無理だ。
わたしは同じ男とは二度寝ない。
『あなたって月下美人みたいね』
そういったのは18禁ヒーローのミッドナイトだったか。
あちらは有名ヒーロー様で、わたしはただの事務職だ。しかし相手の性格が気さくであることと年齢が近いこともあって、時折飲みに行ったりする程度には仲がいい。わたしのほうが少し年下ではあるが。
酒席で恋愛談義になった時、意外にも純愛思考であったミッドナイトに、わたしは恋などしたくはないし同じ男と二度寝るつもりもないという話をした。
その時呆れたように告げられたのが月下美人という言葉だった。たしかに一晩しか咲かない花だ。言いえて妙ではあるがまるで演歌のようなたとえだと、互いに笑いあった覚えがある。
***
あの誕生日の夜から、いつしか十日が経過していた。
その間マイトに待ち伏せされること数回。相変わらず歯の浮くような言葉で誘いをかけてくる。
彼がどこまで本気なのかわからないが、本当にこれ以上続くようなら校長に相談した方がいいかもしれない。
正直な話、これ以上マイトには関わりたくない。いつかわたしは彼の誘いに乗ってしまうような気がする、それが何より怖かった。
ここ二日ほど姿を見せていないので、マイトはおそらく今日あたりまた姿を現すだろう……そう憂鬱に思いながら校門に向かって歩いていると、赤紫の紫陽花の植え込みの前で地面に這いつくばっている、ひときわ大きな身体が見えた。
「オールマイトさん、どうかなさいましたか?」
「ああ、月ヶ瀬さん」
地面に這いつくばったまま首だけを捻じ曲げて振り返った英雄様は、清涼飲料水のCMのように爽やかに笑う。
「いや、カフリンクスを落としてしまってね」
「どんなデザインですか?」
「ン、銀色の台座に丸い石が入ってるものなんだけど」
「石の種類を教えていただけます?」
「ブルームーンストーン」
珍しい、とわたしは心の中で呟いた。
ブルームーンストーンは乱掘で鉱山が閉鎖してしまったため、現在流通しているもののほとんどが、良く似てはいるが全く別の成分で構成されるペリステライトかラブラドライトだ。
だがこの人が所有しているということは、おそらく希少価値の高い本物だろう。
「わたしも一緒に探しますね」
「いや、しかし」
「いいんです。ブルームーンストーンを見てみたいですし」
もしかしたらオールマイトの大きな身体では入れないようなところに転がってしまったのではないかと、紫陽花の植え込みの中に顔を突っ込んでみる。
すると木の根元に、きらりと光る乳白色の半貴石が見えた。
「あっ、ありましたよ」
必死で手を伸ばし、小さな釦を拾い上げた。
思った通りだ、乳白色の石の中に見事な青色のシラーが入った、ロイヤルブルームーンストーン。同じ青系の石でも、サファイアやタンザナイトにみられる冷たく鋭い煌めきはない。
ムーンストーンは儚い月の光のような、淡いけれど人をひきつけてやまない美しさを持つ石だ。
「すごいですね、わたし本物のブルームーンストーンって初めて見ました」
「専門家でもないのに、これがロイヤルだと見抜いた女性も君が初めてだよ」
「オールマイトさんって本当におしゃれですよね」
「そう?」
ともすれば学生のようにも見られがちなネイビーのスーツですら、オールマイトの手にかかれば大人の男性の貫録あるスタイルに仕上がる。
今日の彼は濃紺のスーツに、限りなく白に近い水色のシャツと赤系のネクタイを合わせていた。アメリカ大統領が演説時に好んで着用すると言われる組み合わせだが、それがまたよく似合っている。
そして手元には儚い月の光のようなロイヤルブルームーンストーン。
「オールマイトさんの着こなし、さりげないこだわりが感じられて好きです。そのカフリンクスも本当に素敵」
「ありがとう」
オールマイトとは当たり障りのない会話を少しした後、別れた。やはり当代一流の男性は違う。会話の運び方すらスマートだ。
心地よく響く低音とそつのない会話に不思議な既視感をおぼえたが、それがなぜかはわからなかった。
***
「もういいかげんにしてくれない?」
陽がすっかり暮れた街を歩きながら、わたしは相手を刺激しないように、しかしある程度うんざりしていることがわかるような口調で告げる。
本当にこの人はいつまでわたしにつきまとうつもりなのか。
何よりわたしをうんざりさせているのは、迷惑がったふりをしながら、心のどこかでこの男が来てくれるのを待っている自分のあさましさだった。
自分へのいら立ちをぶつけるように、マイトを冷たく一瞥する。
だが、この時わたしは激しい既視感をおぼえた。一瞥どころか、彼を頭の天辺から足のつま先までまじまじと眺める。
既視感の理由がわかった瞬間、どうしてと疑問が口からついて出た。
「え? なんだい?」
周囲が騒がしかったおかげで、彼が聞き取れなかったのは幸いだ。やや意地の悪い顔でにやりと笑って、わたしは応える。
「いいわよ」
「ハイ?」
「食事にでも行きましょうか、って言ったの」
わたしの声に、目の前の大男がぶばっと派手に吐血した。
一瞬慌てたが、そういえばあの夜も事後に彼は吐血しなかったか。慣れた手つきで口元を拭いながら、うつるものじゃないから安心してねと笑っていた。
今回も同じように慣れた様子で口を拭き、満面の笑みをたたえながら携帯を取り出す。
その袖口で控えめに光るのは、乳白色の半貴石。
「すぐ予約するから! 待ってて! 和、洋、中何が好き? 辛いものとか苦手?」
一息でそう告げ、はしゃぎながら予約の電話を入れる姿はまるで少年のようだと思った。
***
彼が予約してくれたのは都会にある個室しかない高級四川料理屋だった。財界、政界、芸能界、そしてヒーロー業界のトップクラスが好んで使う店というのはきっとこういうものなのだろう。
落ち着いた店構えと洗練された雰囲気が心地よい。
高級四川は初めてだったので、料理はすべて彼のチョイスにお任せした。
頼んだ酒を互いに手に取りかちりと合わせる。彼の手には20年物の黄酒、わたしの手には桂花陳酒。
金木犀の香りがする甘い酒を一口飲んでから、わたしはゆっくりと口唇をひらいた。
「まさかあの夜の男性があなただったとは思いませんでしたよ、オールマイトさん」
彼が血……ではなく黄酒を思い切り噴き出した。
ああ図星であったのかとわたしは瞠目する。あたふたしながら吐き出した酒を懸命に拭く痩身に、追い打ちをかけるように続けた。
「スーツの着こなしでわかりました。男性は無頓着ですね、気を付けたほうがいいと思いますよ」
「スーツなんてどれも似たようなものだろ?」
「オールマイトさんが着ていたのは濃紺のスーツに薄水色のシャツ、赤系のネクタイ……今のあなたと同じですよね。そして極めつけはそのカフリンクスです。カフリンクスそのものが珍しいのに、ロイヤルブルームーンストーンなんてそうそう手に入れられるものじゃありません。肉付きは違うから別人みたいに見えますが、あなたとオールマイトさんは声も似てるし身長も同じくらい、髪と瞳の色も同じ。誕生日も同じ。そんな偶然ありませんよ」
「短時間でよく見ているものだな。女性は怖い」
諦めたように嘆息して、オールマイトが肩をすくめた。はっきり認めはしなかったが否定もしない。それが何を表すのかわからないほどわたしは子供ではなかった。
なぜ体つきが変化するのか、筋肉量を自由にコントロールできる個性なのかもしれない、と思ったがそれはもちろん口にはださない。
「ところで聞いてもよろしいですか?」
「もう敬語はやめて。疲れちゃう」
「……どうしてわたしにちょっかいを出すの?」
「言っただろ。絵李、君と恋がしたいんだ」
「あなたほどの男性だったら女性には不自由しないでしょうに。どうしてわたしなの?」
「可愛かったから」
「は?」
「あの夜の君がね、とても可愛かったんだ」
可愛い? わたしのどこが?
こんな、誰とでも寝るような女になってしまったわたしが?
狼狽して、わたしは煙草に火をつけた。それとほぼ同時に目前に灰皿が差し出される。本当にこの人はそつがない。
細めのシガレットに火をつけて軽く吸い込むと、少し心が落ち着いたような気がした。肺に煙が届き、ニコチンが脳に行き渡った時のくらりとする感覚。これが欲しくてわたしは喫煙をやめられない。
煙草はわたしの精神安定剤の一つでもある。あの日から手放すことができなくなった。
シガレットが半分ほどの長さになったころだろうか、オールマイトが小さな咳と共に吐血した。
はっとして思わず煙草をもみ消した。
そういえばあの夜もそうだった、彼が一度吐血したのもわたしが煙草を吸っていた時だ。同時に脳裏に浮かんだのは、肉付きの悪い薄い胸元に刻まれていた、無残な傷跡。
もう一つ気がついたことがあり、オールマイトの手元に視線を向けた。彼のグラスの酒は、先ほどから殆ど減っていない。出会ったバーでも、ごく少量を舐めるように飲んでいただけだった。バーを出て部屋に向かった時、グラスの中身が半分以上残っていたような気がする。
おそらくさほど飲めないのだろう。
「君は優しい人だね。思った通りだ」
「何言ってるの? 呼吸器が悪いのなら言ってちょうだい。胸の大きな傷が原因なの?」
優しげに微笑むだけで彼は答えを返さない。だがこの際の無言は肯定のあかしだ。
あまりのことにわたしは凍りついた。常にトップであり続けることの重圧は大変なものだろう。誰よりも強くあることもまた同様に。
その上で衰えを表に出すことなく戦い続けるオールマイトの心情を想うと、身体が震えた。
「そう悲観したものでもないよ」
静かに微笑むその彫りの深い顔が泣いているようにも見え、心の奥がきゅうと痛んだ。
わたしの中で警報が鳴る。オールマイトはあまりにも危険だ。特効薬にもなれば劇薬にもなる。
今までは不審者かもしれない、ともすれば職場に迷惑をかけるかもしれないという思いが、自分にとっての歯止めにもなっていた。
だが彼がオールマイトであったなら、その点で心配することは何もない。
あとは自分の心持ちひとつ。それが困る。
恋なんてしない。恋なんてしない。もう恋なんてしない。
この時、バニラを含んだ白檀がふわりと香った。
甘く切ないウッディノートは彼の香りなのか、それとも自分の香水なのか。わからないまま、わたしはそっとため息をついた。
2015.5.20
- 2 -