Black Velvet〜運命の女〜

 肌にまとわりつくような、煙雨の降る夜だった。

 ミストサウナの中にいるかのような湿気にむせ、一つ小さな咳を落とした。口元に添えた手のひらには、少量の血液。
 さりげなくそれを拭ってから、バーの中に足を踏み入れた。

 一年前の今日、私はここで一人の女と出会った。
 我が国の女性には珍しい強いまなざしと、気品と色香という相反しがちな二つの要素を同時に併せ持った、ミステリアスな美女だった。
 この女を自分のものにしてみたい、一目見た瞬間、そう思った。

 忘れがたい魅惑の女を思い出しながらシャドーストライプの上着を脱ぎ、スツールの背にふわりとかける。

「ブラントンをミストで」

 本当のウイスキー好きに嘆かれそうなオーダーだったが、バーテンダーは黙ってうなずいてくれた。
 ブラントン。本来ならばストレートで楽しみたい酒だ。だが、胃のない今の私には、ミストがギリギリの選択だ。

 少しして、目の前に琥珀色の酒が入ったロックグラスが置かれた。
 大量の細かい氷によって冷やされ、グラスの表面に生じた水滴がまるで白い霧のように見えるから、ミスト。
 クラッシュドアイスの上から酒を注いでステアしただけの、シンプルなカクテルだ。だがそれだけに、作り手の力量と注いだ酒そのものの質が、大きく味を支配する。
 一口飲んで、心の中で、うまいと小さく呟いた。ここのバーテンダーは腕がいい。
 
 ゆっくりと酒を楽しみながら、一年前に会った女に再び思いを馳せる。
 彼女は悪女のように私を誘い、少女のようにおののきながら私を受け入れ、娼婦のように乱れ、そして淑女のように静かに去った。連絡先の一つも残さずに。
 後も先もなく、ただただ目の前の女に溺れた。なめらかな漆黒の天鵞絨のような、そんな夜。
 Femme fatale――運命の女――。そんな女がいるとしたら、彼女はまさにそれだろう。

 と、その時、店内の空気が変わった。
 悪い意味の変化ではない。男の欲と、女からの羨望が混じった視線が、いっせいに入口の方向に注がれる。
 私も例にもれず、彼らと同じように、そちらの方向に目をむけた。
 ただそこにいるだけで、人の関心をひいてしまう人間というものが、世の中にはいるものだ。

 入ってきたのは、一人の女だった。
 均整のとれた体を包む、黒いドレスの生地は上等。せりあがった胸元で、四本の細いプラチナの帯に包まれた、ゴールデンパールが揺れている。
 遥か昔の大女優を彷彿とさせる強いまなざしを持った、硬質の美貌。ゆるく巻かれた長めの髪が、その怜悧な美貌に女性らしい温かみを添えている。

 一年前にここで出会い、一夜を共にした運命の女が、そこにいた。

 あの夜と同じように、彼女がまっすぐ私のところに歩み寄る。

 彼女がスツールに腰掛けた瞬間、ふわりと繊細な甘い香りが漂った。白檀とバニラと、そしてオリエンタルな花がベースの「森の島」という名の香水だ。
 ああ本当に、一年前と同じだ。一つだけ違うのは、彼女の薬指に、胸元で揺れているのと同じ見事なゴールドパールがおさまっていること。それだけ。

「ブラック・ベルベットを」

 落ち着いた声で、彼女がオーダーを通した。
 脳裏に鮮やかに蘇る。漆黒の天鵞絨……ブラック・ベルベットのような、揺れるつややかな髪としなやかな肌。

「ブラック・ベルベットか。君には似合いすぎるカクテルだ」
「あなたはミストね。あの時と同じ」
「君はもう、私の瞳と同じ色の、ブルーレディは欲しくないのかい?」
「ばかね」

 彼女がふふ、と小さく笑った。
 
 ことり、と彼女の前に背の高いグラスが置かれた。
 ブラック・ベルベット。黒ビール――たいていギネスだ――とシャンパンを同量で割ったカクテルだ。

「誕生日おめでとう」
「ありがとう。あなたも、お誕生日おめでとう」
「同じ日に生まれた我々に、幸あらんことを祝って」

 やや早口に告げて、グラスを合わせた。
 ありきたりの会話をつづけながら、思考を走らせる。

 これから、どうやって彼女を部屋に誘おうか。
 一年前に泊まったのと同じ部屋をとってあると、ストレートに告げればいいだろうか。
 それがいい。彼女はまわりくどい表現を嫌う。ここは率直にいくのが一番だ。

「話があるんだけど」
「なに?」
「実は、部屋を一つとってある」

 すると、彼女は予想通り目を見開いた。次に私に向けられたのは、非難めいたまなざしだ。私に被虐趣味はないけれど、往年のハリウッド女優ばりに目力のある彼女にそんな目をされると、なんだか少しぞくりとする。

「どうしてそんなことを?」
「誕生日だから。それだけじゃだめかい?」

 すると彼女は、私をすくいあげるように見上げた。
 品位を保ちながら、こういう挑発するようなしぐさができる女性はあまりいない。この一瞥、それだけで、彼女は称賛に値する。

「いいえ。悪くない提案だと思うわ」
「じゃあ、行こうか」

 スツールにかけた上着を手に、私は立ち上がる。彼女は私の腕に、しなやかな腕をからませた。

「ねえ」

 部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女が軽く眉をあげた。

「この部屋……」
「そう。ごくごく普通のダブルだけどね、君と私が初めて結ばれた部屋」
「……乙女みたいなこと言わないでよ」
「せっかくの誕生日だ。たまにはこうして空気を変えてみるのもいいだろ? 家以外の場所で、のんびりするのも悪くない」
「そうね」

 眼を細めて、彼女が私の瞳を覗きこむ。ね、と小さく催促されて、私はそっと身をかがめる。
 彼女の唇に、一年前のあの夜には許してはもらえなかった、口づけを落とした。

 あの濃密な一夜の後、雄英で彼女と再会した事から始まる数か月は、実に密度の濃いものだった。甘い夜のあとに訪れた、甘い生活。

 甘い唇を堪能しながら彼女の髪を一房すくうと、ふわりと漂う、白檀とバニラとイランイランの甘やかな香り。
 私の運命の女は、トワレではなくパルファンを愛用している。
 黄金色の液体を耳のうしろにほんの一滴。それは彼女の、毎朝の習慣。


「よかった。私の妻はしっかりものだから、無駄遣いしないでと叱られるかと思ってヒヤヒヤしたよ」
「だって、わたしの夫は欧州車が買えてしまいそうなゴールドパールをポンと買ってしまうようなひとだから、しっかりせざるを得ないでしょう?」
「まあね。でも、やっぱり似合ってるよ。そのパール」
「ありがとう。一生大事にするわ。ジュエリーも、そしてあなたも」
「珍しく、嬉しいことを言ってくれるね」
「だって、ほら、今日はわたしたち」
「「誕生日だから」」

 互いの口から同時にこぼれた同じ言葉に、ふたりで顔を見合わせて、ふふっとわらった。
 こんなとき、夫婦になったんだなと、しみじみ思う。

 しっとりと肌にまとわりつくような、煙雨の降る夜。
 いつもとはまた違う雰囲気の中で過ごす、我々の誕生日に、乾杯。

2017.5.31

2017オールマイト誕

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