このハロウィンの夜のように

 つるべが井戸の底へと落ちるように、あっという間に日が落ちた。
 秋分もとうにすぎ、空気の冷たさが肌にしみいるように感じられるそんな夕刻、わたしは物思いにふけりながら、ライトがついた東京タワーを見つめている。

 彼、――俊典――から目の玉が飛び出そうな価格の指輪をプレゼントされたのは、先月の半ばのことだ。
 指輪の石はわたしと彼の誕生石でもあるパール。大きなゴールドパールの周りを、流れるようなプラチナの帯と小粒のダイヤモンドが囲む豪華なものだった。
 
 その時にさり気なくされたプロポーズ。
 けれど、わたしは未だにはっきりした返答ができずにいる。
 鷹揚な俊典らしく、返事は急がないと言ってくれたが、そういつまでも待たせるわけにはいかない。
 そろそろしびれを切らしてもいいころだ、そう思っていた矢先、俊典から連絡があった。
 明日、君の家に行ってもいいだろうかと。
 珍しく、なにかを含むような声だった。きっと結婚についての話になるのだろう。

 何と応えたらいいのだろうか。

 わたしの恋人の八木俊典は高校教師だが、同時に伝説的なヒーローのオールマイトでもある。
 オールマイトは稀代の英雄。その妻になるような女性は、どこから見ても非の打ちどころのない完璧な女性でなければならない。
 わたしのような、成田で夫になるはずの相手に去られた過去がある女はふさわしくない。世間はそう思うだろうし、誰よりもわたし自身がそう思っている。
 それでも俊典と別れることができないのだから、本当に恋慕というものはどうしようもない。

 ライトアップされた東京タワーを見つめ大きくため息を落としたその瞬間、インターフォンがなった。
 きっと俊典だろう。そう思いながらモニターを覗くと、予想通りの人物が笑んでいた。
 いま開けるわ、と告げてエントランスの扉を開ける。

 エントランスからうちの玄関までは二分ほどだろう。
 そう思い夕飯にと用意した吸い物を温めながら待ったが、五分経っても十分経っても、彼は来ない。
 どうしたんだろう。と心配になった時。やっと二度目のチャイムが鳴った。

「はい」

 俊典だとわかってはいたが、来訪者の姿をモニターで確認した。こうしてから開けないと、防犯がどうのと彼はうるさい。
 けれどモニターはまっくらだった。カメラ部分が何かで覆われているようす。

「私が来た!」
「……あなたの本名は?」
「八木俊典だよ」

 ごくごく小さないらえに、チェーンをはずさず扉を開けた。
 ところが、私の恋人である八木氏はチェーンの隙間からでは見えないところに隠れてしまって、なかなか姿を見せてくれない。

「ねえ、顔を確認させてくれないと開けられないけど」
「ん。大丈夫。私だから開けて」
「あのね、扉を開ける時は訪問者が誰であるかを確認しないとだめ、ってしつこくわたしに念を押したのはあなたよ」
「そうだけど。私は例外だろ。開けてくれよ、絵李」
「じゃあ、顔を見せてよ」
「それはイヤダ」

 いい歳をして、子供のようにだだをこねる彼に呆れる。
 何故、そんなに頑なに顔を見せたがらないのかがわからない。
 というより、ここまで顔を見せるのを拒まれると、声だけよく似たヴィランなんじゃないかという気までしてくる。

 顔を見せて、いやだ、という馬鹿馬鹿しい問答を繰り返した後、扉の向こうの八木氏は大仰にため息をついた。

「わかった。君は本当に私かどうかお疑いのようだから、私たちしか知らないことを言うよ」
「どうぞ」
「私が君と初めて寝たのは、雨がそぼ降る誕生日の夜のことだ」
「ちょ……やめてよ……」
「あの夜の君はかわいかった。私の愛撫に君は何度も反応し、この腕の中で……」
「わかった! わかったから入って!」

 叫びながら、乱暴に扉をあけた。
 玄関先で夜の事情を赤裸々に語られてはたまらない。このひとは時折セクハラおやじみたいになるから、本当に困ってしまう。

「トリック・オア・トリート!」

 嬉しげな声は、やっぱり間違いようがない、わたしの恋人のものだった。

 すっかり忘れていたが、今日はハロウィンだった。
 目の前に立っているのは、背ばかり高い痩せたフランケンシュタイン。かぶるタイプのマスクの口元と頭部からは、ご丁寧にも血が流れている。
 俊典がすぐに上がってこられなかったのも、この仮装の準備のためだろう。
 おそらくは非常階段あたりで着替えたのだろうが、誰にも見られなかったかと心配になる。
 いくらハロウィンとはいえ、こんな大男がフランケンの衣装に着替えていたら、不審者にしか見えないだろう。
 通報されて、天下のオールマイトが警察に連行されるなんてことがあったら、目も当てられない。

「……呆れた……」
「冷たいね。もう少し驚くとか……逆にハッピーハロウィンって返してくれるとか……そういうのないの?」
「ありません」
「ンン、君は相変わらずクールだよね」

 塩対応を全く意に介さぬようすで、俊典はマスクをかぶったままわたしの額にキスを落とした。
 本当に、ヒーローという職業のひとたちは、呆れるほどにメンタルが強い。

***

「まさか仮装してくるとは思わなかったわ」

 吟醸酒を飲みながら、そうつぶやいた。
 先ほどまでテーブル上に並んでいたのは、ハロウィンとはまったく無縁の和食たち。
 ハロウィンを楽しむつもりだと最初からわかっていたらもう少しそれっぽいメニューにしたのに、と言いかけ慌ててそれを飲み込んだ。
 女子力の高い女であれば、誰に言われるまでもなく、ハロウィンっぽいメニューを考え、可愛い衣装で彼をお迎えするだろう。けれどそれは、少々わたしらしくない。

「よければ君もどうかと思ったんだけどね」
「仮装なんてものは、かわいい女の子がするものよ」
「……私は女の子じゃなくておじさんだけど?」
「あなたはかわいいキャラでもあるでしょ。わたしはそうじゃないから」
「私から見れば、君も充分かわいいよ」

 かわいげのない発言の多いアラサー女にこんな風に言ってくれるのは、後にも先にもきっとこのひとだけだろう。

「まあ、確かに、君は女の子っていうより、自立した大人の女性って感じだな。でもね、大人の女性にはオトナならではの魅力があるよ」

 俊典がふいにわたしに口づけた。予期せぬところに与えられた粘膜の感触。甘いなにかがわたしの内部にふつふつとわきあがる。

「ほら、その反応。オトナならではだよね。いい表情だ」

 ばか、と小さく呟くと、俊典は満足そうに笑った。

「そうそう、プレゼントがあるんだ。仮装の代わりに着てくれよ」

 差し出されたのはオレンジ色の小さな紙袋だった。中に入っていたのは薄い箱と、小さなかぼちゃのキャンドルが四つ。

「なにこれ」
「ン。君に似合いそうだと思って」

 箱の中身は、総レースのビスチェだった。けれど、カップもなければトップを隠す布もない。
 肩ひもはなく、ネック部分からつるすタイプだ。ネック部分と胸の谷間の上とアンダ部分が繊細な黒いレースのモチーフで覆われている。
 いわゆるナイト用のセクシーランジェリー。

 これを身につけたら、たしかにとってもえっちに見えることだろう。まあ、わたしも大人だし、こういうものを身に着けて夜を楽しむのもやぶさかではない。
 そう思ったその時だった。

 箱の隣りにころりと転がるかぼちゃのキャンドルが目に付いた。よく見ると、それぞれに「you」「me?」「will」「marry」と英単語が刻まれている。

 頭の中でそれらの単語を並び替え、やられた、と思った。
 下着はダミーで、本命はこっちだ。

「Will you marry me?」

 少しおどけるように、俊典が言った。

「まだ決心がつかない?」
「……オールマイトの伴侶になれる自信がないわ」
「私はいたって普通の男だけどね」

 バカ言わないで。
 右腕一本で天候を変えてしまう男のどこが普通なの。

「私は、これからの人生を君と一緒に過ごしたいと願うだけの平凡な男だよ」

 それもわかっている。
 けれどやっぱりそうじゃない。

 応えあぐねて、じっとキャンドルを見つめた。オレンジ色をしたかぼちゃの形の小さなろうそく。四つ集めても、すべてがわたしの手のひらに収まってしまうほど小さい。
 よくもまあこんな都合のいい小道具を見つけてきたなと、彼の女子力の高さに感心すると同時にかすかな違和感を覚えた。
 この文字、市販のものにしては大きさがバラバラだし、形もいびつだ。

 まさかとは思うが、これ、もしかして、俊典が自分で彫ったのだろうか?

「ねえ、これ、まさかあなたが?」
「ウン。私が彫った!」

 得意げな笑みを返され、噴き出してしまった。

 もう。本当にこのひとはもう。
 このごつごつとした大きな手で、こんな小さいろうそくに小さな文字をちまちまと彫ったのか。そう思うとおかしくてたまらない。

「そんなに笑わなくてもいいじゃないか」

 俊典が憮然とした声でつぶやく。
 それでもわたしは笑うことをとめられなかった。笑い声と共に、涙がぼろぼろ溢れてくる。

「え? 絵李? もしかして泣いてる?」

 だって仕方がないじゃない。
 我が国のヒーロー史に残るような英雄が、こんなことをするなんて。
 夫になるはずだった男と親友だった女に裏切られた過去がある、そんな女のために。

 つき合う前から何度も伝えてきた。
 わたしはあなたにふさわしくないと。
 それでもこのひとは、俊典は、オールマイトは、そのたびに同じ言葉を返してくれた。
 それを決めるのは君でも世間でもない、私だ、と。

「絵李?」

 おろおろする声に、わたしは泣くのも笑うのもやめて涙をぬぐった。
 わたしの大事な英雄様に、こんな声を出させてはいけない。
 顔をあげると、心配そうにこちらを覗き込んでくる青い瞳とぶつかった。
 だから大丈夫と言うかわりに、ゆっくりと口角をあげていらえる。

「これから、幸せになりましょうね」

 俊典は一瞬きょとんとしてから、君らしい答えだ、と笑った。
 「してください」でも「します」でもなく「共にそうあろう」と告げたわたしに。

 頬にのこる涙を、長い舌がぺろりと舐める。

「……あのさ、絵李」
「なに?」
「今日はハロウィンだろ。君はまだお菓子をくれないけど、それって、今から大人のイタズラしてもいいってことかい?」
「お菓子があったらしないの?」
「いや……する……しますけれども」

 軽やかな笑い声とともに、大胆な手がわたしの衣服に手をかけた。

「ねえ、ここ寝室じゃないわよ」
「あとで移動すればいいだろ」
 
 あっという間にニットと下着をはぎ取られ、露わにされた裸の胸元。
 そこに繊細なレースの下着をあてて、俊典が満足そうに眼を細める。

「ほら。思った通り、よく似合う」

 低い声を流し込まれながら耳朶を甘噛みされて、体がはねた。
 俊典の口角がゆっくりとあがる。

 きっとわたしたちは、これからもこんな夜を共に過ごしてゆくのだろう。
 このハロウィンの夜のような、幸せで甘い夜を。

2016.10.31

2016ハロウィン

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月とうさぎ