1話 新月

 そこに連れて来られたとき、もうこのまま、自由になることはかなわないのだと悟った。
 息が詰まるような狭い部屋にまとめて押し込められ、日を追うごとに、ひとり、ひとりと数を減らしていく少女たち。
 あまり働かなくなった思考の片隅に浮かぶのは、自分はどうやったら死ねるのだろうかと、そんなことばかりで。
 小さな窓からさえざえとした月が見える。その銀色の輝きを眺めていたら、一筋、涙がこぼれた。

 次の瞬間、地鳴りのような音と共に、室内が大きく揺れた。
 続いて響く轟音、巻き起こる爆風、もうもうたる粉塵。
 その向こうで、高らかに鳴り渡る笑い声。
 自らを閉じ込めていたコンクリートの壁が外側から破壊されたのだと気づくまで、数秒かかった。
 粉塵の中から現れた救世主は、お腹に響く力強い声でこう言った。

―もう大丈夫、私が来た―

***

 湿った潮風が梨央の髪をなぶっていく。海沿いの街は風が強い。
 あれから何年経っただろうと、梨央は静かに目を閉じた。

 「女子中高生連続誘拐事件」という陳腐な名で現在もたまに人の口にのぼるこの犯罪は、その名通り、ヴィラン組織によって拉致された少女たちが、性的搾取の対象として売買されていたという事件である。
 そのヴィランの巣窟にたった一人で潜入、殲滅し、同時に少女たちを残らず救出したのが、ナンバーワンヒーローであるオールマイトだった。
 警察の捜査の甲斐あって、この時保護された少女たち同様、売られた少女たちも全員家に戻ることができたが、当の被害者たちには深く大きな傷を残した。

 事件後、梨央はヴィランに拉致された少女の一人として好奇の目にさらされた。
 父方の実家が華道の大家であったこと、都内でも有数のお嬢様学校に通っていたことなどが悪く影響し、マスコミの格好の餌食にされたのだ。
 不幸中の幸いにも、ヴィランたちは生娘であるほうが高く売れると判断し、拉致した少女たちには手を出さなかったのだが、周囲は下卑た想像をした。
 学校でもまた近隣でも、梨央がこの女子中高生連続誘拐事件の被害者であることを知らぬ者はいない。そんな中、耳をふさぎたくなるような噂が、まことしやかに流された。
 この国は、被害者に対する配慮に欠ける。

 結局のところ、時間の経過を待つしかなかった。
 梨央は噂と人目を避けるため、関西にある母方の親類の家から高校や大学に通い、卒業後は海沿いのこの街に移り住んだ。
 都内ほどの便利さはないが、程よく都会で不便がない街。ヒルズもガーデンプレイスもないけれど、アウトレットモール等は充実している、そんな街だ。

 梨央はこの街が好きだった。
 注文のミニブーケを作りながら、梨央はこれを受け取る女性に思いを馳せる。
 ガーベラとかすみ草の小さなブーケ。きっと可愛いタイプの女性なのだろう。注文主は若い男性だった。
 過去にとらわれ男性と付き合ったことがない梨央は、それを少しうらやましく思う。

 できあがったブーケを花用の冷蔵庫に入れ、軽く店内を見回した。
 華道の大家である宗家の力添えでできた、小さな花屋だ。土地も建物も、家元の持ち物。梨央の住居は二階にあり、一階部分を店として使用している。
 店舗そのものは花用の冷蔵庫と花桶と鉢植えが数個置ける程度の広さしかないが、店舗の奥には六畳ほどの座敷があって、そこでは不定期に……おもにクリスマスや母の日等のイベントに合わせて華道教室を開催している。
 収入はけっして多くはないが、女一人食べていくにはそれで充分だった。

「え?」

 なんとなく店の外を眺めていた梨央が、思わずそう声を上げた。
 とんでもなく背の高い男が、通りをふらふらと歩いている。
 あれでは倒れてしまうんじゃないだろうかと案じた刹那、予想通り、男が通りにどうと倒れた。

「大丈夫ですか?」

 反射的に店から飛び出して叫んだ。それに返ってきたうめき声は、掠れた低いものだった。
 意識はある、よかった、と思いつつ、男の様子を観察する。
 夏の終わりとはいえ、まだまだ暑い。なのにスーツをきっちり着込んでいるせいだろうか、男はひどく汗をかいており、顔が紅潮していた。
 梨央は躊躇なく男の肉付きの悪い首筋に触れた。やや熱い。軽く発熱しているようだ。

「ゴメン。熱射病とかじゃないから。少し休めば症状は治まるんだ」

 どうみても大丈夫には見えないその状態で、男は笑った。
 長めの金色の前髪が、陽光に照らされきらりと輝く。初めて会った男のはずなのに、その笑顔はひどく懐かしい感じがした。
 しかしいくら大丈夫だと言われても、店の前に放置するわけにはいかない。
 梨央は救急車を呼ぶか否か少しの間逡巡し、本人にとってはよくある発作なのかもしれないと、男の言葉を信じることにした。
 少し休ませて様子をみよう。
 ぐったりした男を支え、なんとか立たせる。すまないね、とかなんとか言っていたようだが、それには答えず、奥の座敷で横にならせた。
 男はひどく痩せてはいたが、身長があるためか、想像したよりずっとその身体は重かった。

「ありがとう。助かったよ」

 しばらく横になっていると、本当によくなった様子で男が口をひらいた。落ち窪んだ眼窩の奥で光る瞳の色は、サファイアブルー。矢車菊みたいな色だと、梨央は思った。

「私は胃袋がなくてね。今日はスポンサーと一緒のランチだったから、無理してたくさん食べちゃったんだよねえ」

 そうしたら久しぶりにダンピングの症状出ちゃったよと、こけた頬を緩ませて男はまた笑う。
 なぜだろう、この人の笑顔は本当に懐かしい感じがする。初めて会った人のはずなのに。
 それが、最初の印象だった。

***

 次の日、男が店舗を訪れた。
 改めて見ると本当に大きなひとだ。
 二メートルを軽く超える長身に長い手足。落ち窪んだ眼窩にこけた頬、シャープな顎は、どこか死神を連想させる。
 しかし梨央は、やはり懐かしくて魅力的な人だと心の中でつぶやく。
 男性が苦手な自分にしては珍しいことだ。こんなに大きな人なのに、どうしてか怖くない。むしろ安心感すらおぼえて。

「昨日はありがとう」

 男は笑んで、少し恥ずかしそうに続けた。

「唐突で悪いんだけど、花束を一つ作ってくれないかな」
「どの花で作りましょう? 華やかな感じですか? それとも可愛い感じにしますか?」
「ウーム、そうだな」

 真剣に考え込む男性を見ていて思った。
 これからデートなのだろうか、この様子だと本当に好きな相手なのだろうなと。
 驚くべきことに、その瞬間、心の奥がちくりと痛んだ。

「君が一番好きな花はどれ?」
「一番……ですか?」
「そう、一番」

 男はニコニコして、人差し指を一本たてた。
 身体の大きな大人の男性なのに、そんな茶目っ気のあるしぐさが可愛い。
 きゅんと胸がしめつけられるような甘い感じに、梨央は少し戸惑いをおぼえた。

「それをメインにして、君がもらったら嬉しいと思うような花束を作ってくれないか。予算はこれで足りるかな」

 と、差し出されたのは二枚の一万円札。
 さすがに多すぎるのではと思ったが、とりあえず一万円分の花をまとめてみて、本人に判断してもらうことにした。

「わたしが一番好きなのは八重咲きのトルコ桔梗ですけど、それでもよろしいですか?」
「トルコ桔梗ってどれだい?」

 冷蔵庫の中に鎮座する、薔薇のように重なり合うフリル状の花弁を持った淡い色の花々を指すと、男は満足そうにうなずいた。
 八重のトルコ桔梗の中から、フリルのラインが紫で地の色は白いもの、全体が淡い紫、ピンクの三種類を選び、かすみ草や薄いピンクのミニバラ、グリーン等と合わせてみた。
 トルコ桔梗は一本にいくつもの花を咲かせるので、数本でも結構なボリュームだ。一万円の花束となると尚更で、かなり大きいものになる。

「一万円でもこのボリュームになりますけど」
「……二万円だとその倍の大きさになっちゃうね」

 それじゃあ一万円でと男は苦笑する。
 この笑顔をどこかで見たことがある、と梨央はまた思った。
 梨央はアレンジや花束を作るときは、いつも受け取る女性の気持ちになって、心を込めて作成するようにしていた。
 自分がもらって嬉しいものを自分が作る。自己満足かもしれないが、それが結局自分の心を満たすのだ。

 できた花束を男に渡して、お代を受け取った。
 それにしても今回は我ながらうまくできた、会心の出来。本当に自分が欲しいくらいだ。
 この人に花をもらえる女性は幸せだろうなとぼんやり考えていたら、その花束が目の前にさしだされた。

「これは、この間のお礼」

 どうぞと続く低音に、思わず花束を受け取ってしまった。
 奇妙な気分だ。自分で作った物を他人からもらうなんて。
 でも不思議なことに、この時の梨央の心のうちでは、不快感より嬉しい気持ちの方が勝っていた。

「良かったら、今夜、食事でもどうかな」

 男が言った。今までの梨央なら、応じるはずもなかった誘いだ。
 だが目前の男の邪気のない笑みに吸い込まれるように、梨央は自然とうなずいていた。

***

 八木俊典と名乗るその男が連れていってくれたのは、隣町にある高級日本料理屋だった。
 かつての豪農の屋敷を改装したと思しきその店舗は、田園の中にぽつりと建っていた。整えられた日本庭園を眺めながら、地元の野菜と天然魚を楽しんでほしいというのがコンセプトらしい。
 梨央たちが通されたのは、屋敷の離れにある茶室だった。趣のある日本庭園にしつらえられた池が、茶室からはよく見える。定期的に聞こえる鹿威しの音に、心が洗われるようだ。

 胃袋がないせいだろう、八木自身は大した量は食べず、吟醸酒をちびりちびりと舐めるように飲んでいた。
 仕事の関係でこの街を見に来たんだ、と彼は言う。
 現在は六本木に住んでいるが、来年度から通う新しい職場から近いこの街に、近々越してくるらしい。

「私も実家は東京です。渋谷区ですけど」
「渋谷のどこ?」
「松濤です」
「超高級住宅地じゃないか」

 ヒュウ、と口笛を鳴らして八木が肩をすくめる。
 いちいちアメリカンな反応をするが、なぜか嫌味なくよく似合っていると思った。同時に、想像していた以上にリラックスしている自分に、また驚いた。

 茶室は、完全個室でそのうえ狭い。
 梨央は、あの事件以来男性が怖い。閉所と暗闇恐怖症でもある。
 それなのにこの狭い部屋で男性と二人でいて、怖さを感じないのはなぜだろう。

 ―八木さんは恩人でもある初恋の人に、よく似ている―

 それが梨央の導き出した答えだった。
 目の前の男、八木はオールマイトに似ていたのだ。低い声も、高い身長も、瞳の輝きも、髪の色も、笑い方すらも。違うのは筋肉のつき方くらいで、よく見ると顔立ちも似ている気がする。
 オールマイトが痩せたら、きっとこんな感じだろう。柔らかくおおらかな雰囲気なのに、眼光は鋭くて。

 この日の食事はとても楽しかった。
 また逢えたらいいのにと思ってしまうほどに。

***

 すっかり日が短くなった、と梨央が独りごちる。
 つるべ落としのように一気に太陽が落ち、夏の終わりを実感した。来るべく夜のおとずれを、小さく息をつきながら待つ。

 開店と閉店の時間帯が、力のない梨央にとって、実は一番つらい労働時間だ。
 水と花の入った花桶は重い。
 うんうんと声を上げて花桶と格闘していたその時、手元が急に軽くなった。
 大きな手が、桶をつかんでいるのに気づき振り向く。そこに立っていたのは黒を基調にしたピンストライプのスーツを着た、長身痩躯の男だった。

「八木さん」
「一週間ぶり、かな?」

 梨央が両手でやっと持ち上がる花桶を片手で軽々と冷蔵庫に運び、ここでいいかい、と、八木が笑う。
 ありがとうございますと答え、しみじみと八木を眺めた。
 痩せてはいるが、二メートルを超える長身を支えるための骨格はしっかりしている。そのせいだろうか、スーツが似合う。
 惜しむらくはシャツの襟サイズが合っておらず、首まわりがぶかぶかしていることだが、そこはこの際目をつぶるべきだろう。

「初心者にも簡単に育てられるもので、何かお勧めがあるかい?」

 新居が決まったのでそこに観葉植物を置きたいんだ、と八木は言った。部屋はそれなりの広さがあるので、大き目の鉢でもかまわないと。

 初心者ならパキラかアイビーが妥当だろうと思いつつ、あえて違うものを梨央は勧めた。
 これから秋にかけてうまく花径が伸びてくれれば、来年の春には持ち主とよく似た花が咲くだろう。

「お水は表面が乾いたらたっぷり与えてくださいね。秋になって気温が低くなってきたらまた育て方が変わってきますけど、それはまたおいおい。それから、こちらは転居祝いとして、わたしから贈らせてください」
「いいのかい?」
「はい。そのかわり、またご贔屓にしてくださいね」

 これは手管だろうかと梨央は思った。
 さり気なく、八木とまた会えるように仕向けている。
 誰に教わったわけでもないのに、こんなことができるものなのだ。女というのは恐ろしい。

 オールマイトは初恋の人だ。あの救出劇の瞬間から、忘れられない人となった。
 だからその人によく似た雰囲気の八木に惹かれているのか、それとも八木本人に惹かれているのか、それは梨央にもわからない。
 助けてくれたオールマイト以外で恐怖を感じない、初めての男のひと……ただそれだけなのかもしれない。
 それでも、ただこの人にまた会いたいと、そう思わずにはいられなかった。

 新月は見えないものだが、上空には確実に存在している。梨央の気持ちも、それとまた似て。
 観葉植物を片手に帰路についた八木の後姿を見送りながら、すっかり夜風が冷たくなったと梨央は感じた。
 もう、秋なのだ。
 秋と、新しい何かが始まる予感。それをこの日、梨央は確かに自覚した。

2015.3.27
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月とうさぎ