2話 月の剣

 秋の空は高く、空気までもが澄んでいるかのような、すがすがしい夕方だった。
 少し冷たくなった秋の風を肌で感じながら、梨央は空に合わせていた視線を、今朝入荷したばかりの矢車菊の上にそっと移した。

 急にこの花が見たくなって、仕入れ先に無理を言って入荷した。
 本来ならば春の、しかも市場にはあまり出回らない野に咲く花だ。この時期には、ほとんど扱いのない花でもある。
 だが華道の家元である宗家のおかげで、梨央の元にはたいていの品が手に入る。ありがたい話だ。

 この花の色は、あの人の瞳の色と似ている……と梨央は思う。
 矢車菊、英名コーンフラワー。トウモロコシ畑や麦畑の脇に自生することもある、強く美しい花。
 深く済んだ青の花弁と同じ色の瞳を持つ人の姿を、もう五日も見ていない。それを寂しく思いながら、梨央はほうとため息をついた。

 男性が花屋になど、そうそう来てくれるはずもないのだ。来てくれたとて、その内容は購入した観葉植物の育て方についてや、液状肥料を買いに来る程度のもので。
 一度食事に行ったのも、純粋なお礼にすぎなかったのだ。
 わかっている。わかってはいても、梨央は切ない気持ちになる。

 己の中にある気持ちがなんなのか、梨央はいまだに整理がつかない。
 たまに会い、一度食事をしただけの相手に恋だなんてありえないとも思う。だが会いたいという、その気持ちだけは確実で。
 うちが花屋ではなくもしもコーヒーショップだったら、もう少し頻繁に来てもらえただろうかと思いかけ、その妄想のばかばかしさにまたため息をついた。

 秋の陽はつるべ落とし、あっと言う間に日が沈む。ナイフのように鋭く輝く三日月を西の空に認め、梨央は店じまいの準備を始めた。
 シャッターを半分閉めて、今日もあの人は来なかったと、梨央が軽く首を振る。会いたかったなあと独りごちながら花桶を冷蔵庫に片付けていると、背後から男の声がした。

「ごめん、もう閉める?」
「いいえ、大丈夫ですよ。いらっしゃいませ」

 待ち望んでいた相手ではなかったことを心から残念に思いながら、それを匂わせぬよう笑顔で応対した。
 声をかけてきたのは、足しげく店を訪れてくれる常連客だった。
 植物が好きな人なのか、男性としては珍しく、日参しては切り花を買ったり、鉢を買ったりしてくれる。いいお客さんだと思っていた。今日、この時までは。

「鉢に元気がないから、いつものあれを頼めないかな」

 ややしおれかけた百日草の鉢を手に、常連客が探るような目つきで言った。

 梨央の個性は植物を活性化するものだ。植物を大きく成長させて戦ったり、株を極端に増やしたりできるほどの力はない。液状肥料一本分程度の栄養を与えることができるというだけの、実に些細な能力だった。
 だがこの能力は、花屋という仕事にはそれなりに役に立っている。

「ねえ、最近よく来てるあのデカい男なに? 」
「え?」

 百日草に手を当てる梨央に、常連客が問うた。
 八木のことだろうか。
 なにと言われても、ただのお客さんの一人だとしか答えられない。しかも「よく来る」と言われるほど、八木の来店は頻繁ではない。
 それに、この客と八木がバッティングしたことがあっただろうか? 
 不審に思ったその時だった。

「あの男が来ると、どうして君はあんなに嬉しそうにしてるんだい。ひどいじゃないか。僕の方がずっと店に貢献してるのに」

 破綻した声と共に、男が梨央の手首を掴んだ。勢いが強く、思わず鉢を取り落した。
 個性を使うことに集中しすぎて、油断していた。
 まずいと思った時にはもう、引きずられるように奥の座敷へ連れ込まれていた。

「離してください」

 梨央は必死に抵抗したが、その両手をつかまれた。男の力は存外強く、梨央の両手は簡単に頭上で一つにまとめられてしまった。その上からのしかかられては、もう身動きが取れない。
 最悪だ。シャッターを半分閉めてしまっているため、店の中は覗き込みでもしない限り、外からは見えない。
 エプロンの紐が引きちぎられ弾けた瞬間、忘れようとしていた記憶が梨央の脳裏によみがえった。
 あの時と同じだ。学校帰りの夕方、無理やり車に押し込められたあの時と。

「離して! いや! 誰か……」

 助けてくれる誰かなどいやしないと、梨央の心のどこかで声がした。
 あの時と同じなのだ。誰も助けてくれないのだと。
 だが、その瞬間、はるか上から聞き覚えのある低音が降ってきた。

「お取込み中、失礼」

 腹の奥に響くような安心感のある低い声の主は、ずっと梨央が待ち焦がれていた相手のものだ。
 その相手がにこにこ微笑みながら、問いかけてくる。

「梨央さん。念のためにきくけど、その人彼氏?」

 うまく声を出せなかったので、梨央は黙ったまま首を横に振る。ふーん、と八木が答え、そして続けた。

「じゃあ、やっつけちゃっていいね」

 落ち着いた低音と、梨央の上にのしかかっていた男が気を失ったのが、ほぼ同時だった。
 梨央には全く目視することができなかったが、見える者が見れば、すさまじい速さで男の首筋に手刀が叩きつけられたのを確認しただろう。旋風のような動きだった。

「大丈夫?」

 片手で梨央から男の身体を引きはがしながら、八木が笑んだ。

***

 八木はすぐに警察を呼び、そのまま警察署まで付き添ってくれた。
 意外にも、八木は警察に顔がきくようだった。塚内と名乗る警部が采配をふり、対処にあたってくれた。
 梨央には、警察で嫌な思いをした過去がある。
 例の事件の後、担当の刑事にしつこく言われたのだ。
 君に落ち度があったから、君に隙があったからヴィランにさらわれたのだと。

 梨央にとってはありがたいことに、塚内は八木と共にその場に同席はしたが、事情聴取には女性警察官を当ててくれた。同じ女性ならば、梨央も力を抜いて話をすることができる。

 気づいていなかったが、常連客はストーカー化していたらしい。梨央の行動を細かく監視し、今夜もシャッターを閉めはじめる時間を見計らって来店し、事に及ぼうとしたと、女性警察官が話してくれた。

 時刻は九時を回り、聴取ももう終わりかと思われたころ、室内にもう一人警察官が入ってきた。見覚えのある顔に梨央が硬直した。何年経とうが忘れない。あの事件を担当した、刑事の一人だ。
 警察官は幹部候補生であるキャリアを除けば、基本的に地方公務員だ。
 東京を離れれば、あの事件に関わった刑事には二度と会うことはないと思っていたのに。

 向こうも梨央のことを覚えていたようで、一瞬驚いた顔をしてから近寄ってきた。
 事情聴取をしていた女性警察官を押しのけ、机越しに梨央の前に立ち、刑事は上から屈みこむようにして言った。

「あんた……隙があるから狙われると、あれだけ助言してもわからなかったのか。例の事件の時もそうだったろうに」

 転瞬、周囲の景色が色を失った。
 モノクロームの光景の中、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
 手が震える。答えようにも声が出ない。
 色を失った周囲の景色がぐるぐると回り始め、上下の別がわからなくなる。
 全身から冷たい汗が噴き出してくきた。
 この瞬間、梨央は自らの周りの空気がなくなってしまったかのような錯覚を覚えていた。色彩のない水中にいるような感覚だった。

―息ができない―

 だが次の瞬間、たん、という小気味よい音と共に、梨央の右手の横に大きな手が置かれた。
 うつろだった梨央の視線が、机上の大きな手を辿って腕に、肩に、そしてその上へと流れていく。
 八木が梨央をかばうように真後ろに立ち、警察官と対峙するような形で笑んでいる。だが、その目は笑っていない。

「被害者に非があるなんて言いぐさは、言語道断だと思うがね。殊に、君のような職業の人間が言っていいことじゃない」

 その言葉に、ほうっと、梨央は息を吐き出した。
 ぐるぐる回り続けていた周囲の景色が、色彩を伴い日常へと戻っていく。

 抑制された声だったが、誰が見ても八木が怒っていることは明白だった。
 若い女と侮って上から物を言う男の中には、大人の男性が間に入った途端、おとなしくなる者がいる。
 この警察官もその種類の人間だったのだろう。八木を梨央の身内と勘違いしたのか、すぐに謝罪の言葉をのべ、そそくさと室内から退却していった。
 塚内警部も慌てたように謝罪してくれ、先ほどの刑事には後でそれなりの処置をするからと、そう言ってくれた。

 梨央は大丈夫ですと答えたが、手の震えは止まらない。誰にも気づかれないよう、ぎゅっと手に力を入れ、机の下に隠した。早く震えが止まってほしいと願いながら。

 帰りのタクシーの中、八木も梨央も無言のままだった。
 実際、今夜はひどいことばかりがおきた。
 起きてしまったことだけでなく、八木にかつての事件を知られてしまったことも、梨央にとってはショックだった。

 絶対に知られたくないと思っていた。あの場ではかばってくれたが、やはり八木も、先ほどの刑事と同じように思っただろうか。
 事件当時マスコミからも一族からも、同様なことを言われ続けた。
 お前が悪いから、お前に落ち度があったから、あのような目に合ったのだと。

 梨央は心の中で、かつて何度も繰り返した、己への呪詛の言葉を繰り返す。
 わたしに非があるからつけいれられるのだろうか。わたしが悪いから……わたしに隙があるから。

 何がいけないというのだろう、普通に生活しているつもりなのに、二度も似たような目に合うなんて。
 じわりと涙がにじみ出て、慌てて唇をかみしめた。

 その時、八木が梨央の背をぽんと叩いた。
 視線すら合わさず、言葉もなく、背中を軽く叩かれた。それだけ。
 だがこの時、梨央はなぜか自分が少しだけ許されたような気がした。

 店の前でタクシーを降り、今日の礼を言おうとしたとき、ずっと黙っていた八木が静かに口を開いた。

「君のせいじゃないよ」
「え……」
「今回のことも、事件のことも、君に落ち度なんかない。君は、悪くない」
「ありが……」

 そのあとはもう言葉にならなかった。嗚咽が漏れそうになり、慌てて口元を抑える。涙があとからあとからあふれ出てきてとまらない。

 誰も言ってくれなかった。でも本当は、誰かに言ってほしかった。
 お前のせいではないのだと。

 声も出さずに、梨央は泣いた。
 泣くときは、声を殺すのが常だった。さんざん親や一族に心配や迷惑をかけた娘が泣くことなど、許されないような気がしたからだ。
 誰に許しを乞う相手が誰であるのか、わからないままに。

 その時、八木がためらうようにしながら、すっと一歩を踏み出した。身長が二メートルを超える、八木の歩は大きい。一気に半径五十センチ程度にまで、二人の距離が縮まった。

 やがて、八木の両手が、すっと梨央の背後へと回った。しかしその手は逡巡するように空中をさまよい、そのままの位置で強く握りしめられた。
 少しののち、握りしめられた右手が軽く開かれ、ふわりと梨央の頭髪の上に置かれた。
 急に頭に感じた重みに、梨央の身体がびくりと硬直する。

 梨央はひとに触れられることに慣れてはいない。
 けれど優しく頭を撫でられているのだと気付いた時、梨央はほっと息を吐いた。
 自分の胸の中に、あたたかい何かが生じたような、そんな気がした。

 寄り添うことを躊躇する大きな影がひとつ。
 声を殺しながら涙を流し続ける小さな影がひとつ。
 近くにいながら遠い二人を、西の空に沈みかけた剣のような月が見守っていた。

2015.4.3
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月とうさぎ