柊木犀の咲く庭

 雑貨屋のバイトの帰りに、夕飯の食材と今日活けるための花を買った。
 微かに香る金木犀の香りが、秋の訪れを知らせてくる。オレンジ色をしたこの花は、とても儚い。芳しい香りと共に咲いたと思ったら、すぐに散ってしまう。
 枝を切ったそばから花がはらはらと落ちてしまうので、活け花にも向かない。けれど梨央は、この花の心地よい芳香が好きだった。
 白ワインにこの花を付け込んだ酒の名を、桂花陳酒という。甘くて薫り高いお酒だ。

 今度、彼に連れて行ってもらおうか、桂花陳酒が置いてある美味しい中華のお店に。
 今日は土曜、高校教師であるオールマイトは平日より少しばかり早く仕事が終わるはずだ。きっともう帰宅していることだろう。家についたらおねだりしてみようか。

 そうひとりごちながらリビングに続く扉を開けると、予想通り、長身痩躯がマレンコのソファでくつろいでいた。
 青い瞳が手にしていた新聞から梨央の方へと移動する。秋の空のように澄み切った、矢車菊色の瞳が。

「ただいま」
「梨央、話があるんだ」

 おかえりという言葉もなく、いきなりそう告げられた。
 まっすぐな視線を向けられて、梨央は少し戸惑った。

「大切なお話?」
「まあ、そうだね」

 肉が薄く彫りの深い面は、少し緊張しているように見えた。真剣な表情を目の当たりにして、梨央はひるんだ。いつも鷹揚なオールマイトのこんな様子は珍しい

 慌てて食材を冷蔵庫に入れ、買ってきた花を応急的にバケツの中に投げ活けた。
 そうして、梨央はオールマイトの隣に腰を下ろした。

「……なに?」
「君さ、花の仕事したくない?」

 唐突な発言に梨央は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに下を向いた。
 同時に唇から洩れたのは「したいわ」という小さな響き。それをオールマイトが聞き漏らすはずもなく。

「それなら話が早いね。前々から考えていたことなんだけど、それなら一度、君のご実家と話をしたらどうだろう」
「……話ってどんな?」
「君とわたしがいま、こうして暮らしていること。それから君が花の仕事をしたいということかな」
「そんなの無理よ!」

 梨央は声を荒らげた。古い体質の家なのだ。
 男性と共に暮らしているなんて話して、許してもらえるはずがない。ただでさえ梨央は宗家の勧める縁談を蹴ってしまった。
 流派への復帰話などを始めるその前に、オールマイトに対して責任がどうとかとせっつきだすに決まっている。

「無理じゃないさ」
「無理だってば……同棲を許してくれるような家ではないのよ」
「うん、だから私も同棲のままで済ませるつもりはないよ」
「え?」
「……結婚しないか?」

 梨央の思考が完全に止まった。
 一瞬にして静寂に包まれたリビングの中で、自分の心臓の鼓動だけがやけにうるさく聞こえる。
 そんな梨央の背中を軽くぽんぽんと叩いて、オールマイトは続けた。

「私もいろいろ考えたんだよ。前にも言ったように、私に残された時間はとても短い。今の状態で私がいなくなったら、君はどうなる?」
「……」
「アルバイトをしているとはいえ、生計をたてられるほどの収入もない。遺言書をしたためておけば、いくらか君に残してあげることはできるだろうけれど、そうすると、今度は君が好奇の目でみられることになるだろう。私と、いかなる関係にあったのかと」
「……」

 オールマイトがため息交じりにつづける。

「法的なことをきちんとしておけば、世間の目からは守られる」
「縁起でもないことを言わないで」
「私だって言いたくないさ。けれど、いつかその日は来るんだよ」
「やめて!」

 梨央は思わず声を荒らげて、そのまま耳をふさいだ。これ以上縁起でもない話を聞かされるのはたくさんだ。

「ごめん」

 梨央をオールマイトが抱きしめた。彼はとても腕が長い。標準サイズの梨央は、身体ごとすっぽりと包みこまれてしまう。
 オールマイトがくれる、そんな安心感が好きだった。

 本当だったら謝るのはわたしのほうなのだ、と梨央は思う。
 あの日、あの海をのぞむベンチで、彼は梨央に言ったのだ。「私に残された時間は、とても短い」と。それに対して「短い時間だからこそ、共にそれを過ごしたい」と答えたのは梨央だった。
 それなのに、彼の口から「死」という言葉が出ただけでこんなに動揺してしまうなんて。

 これはオールマイトに限った話ではないだろう。きっと、どのヒーローの妻も、夫も、それを心のどこかで覚悟して、愛する人を送り出しているのだ。
 華やかなヒーローは、死と背中合わせの危険な職業でもある。

「順番が狂ってしまったね。言いなおすよ。結婚してくれないかな。君と過ごすこれからの日々に、私はきちんと責任を持ちたいんだ」
「俊典さん……」
「何よりね、私は君が心配なんだ。君、本当に花が好きだろう」

 バケツに投げ活けされた、竜胆と風船唐綿をちらりと眺めながらオールマイトは続ける。

「花の仕事についていればきっと、それが君にとって心の慰めにも生き甲斐にもなるだろう。ずっと気になっていたんだ。君が一番やりたいことを続けるためにはどうしたらいいか。君は、花の仕事がしたいんだよね」
「……したいわ。だけど……」
「じゃあ二人で、君のご実家に話をしにいこう。」

 矢車菊色の瞳を少年のように輝かせて、オールマイトは笑った。

***

 その夜、いつものようにベッドサイドの明かりをつけたまま、オールマイトとつながった。
 夜の行為はいつも、ある程度の明かりがついた部屋でおこなう。
 かつてヴィランに拉致された過去がある梨央は、暗闇と狭いところがダメなのだ。

 明るいところで裸体をさらす恥ずかしさ。
 慣れてくれば平気になるかと思ったが、まったくそんなことはない。反対に次何をされるのかと予想するたび羞恥がつのり、それが情熱に火をつけ体の奥を熱くする。

 時には昼の月のように、時には夜の太陽のように、見えない部分まで優しく包み込んでくれるオールマイトは、ベッドの上ではまた違う顔を見せた。それは優しいばかりではない、激しい雄としての顔だった。
 無垢であった頃には思いもしなかった自分の中の女の部分を暴かれ煽られ流されて、翻弄される、閨での長くて短いこの時間。

 梨央は彼から与えられる愉悦に身を任せながら、このままずっとこのひととの暮らしが続けばいいと、そう思った。

***

 その翌週の日曜、梨央とオールマイトは松濤の街を歩いていた。
 松濤は渋谷から徒歩圏内にあるとは思えない閑静な住宅街だ。昔からある大きなお屋敷がずらりと並ぶ、都内有数の高級住宅地。

 あのあと梨央はすぐに父母に連絡を入れた。
 「会ってほしい人がいる」それだけ告げると、母は静かに「待っているわ」と答えた。おそらく訪問理由を察してくれたのだろう。
 厳しい父からは罵倒されることも覚悟していたが、意外にも返ってきたのは「わかった」という一言だけだった。

 オールマイトは珍しくも自分の体にぴったり合ったスーツを身につけていた。梨央は和装。桜色の江戸小紋に格が高めの名古屋帯を締め、白い台の草履を合わせた。
 場合によっては、このあと宗家にも挨拶に行かねばならないからだ。
 宗主である家元はとても厳しいひとだから、梨央の振る舞いひとつでオールマイトが嫌な思いをすることになるかもしれない。
 自分のせいで彼にそんな想いをさせるのは絶対に嫌だった。

「……思っていたより、ずっと立派なお屋敷だね」

 実家の門構えを見たオールマイトが小さく口笛を吹いた。

「ごめんなさい」
「君が経済的に恵まれた環境で育ったことは、別に謝るところじゃないだろ」

 梨央の背中を軽く叩いて、オールマイトが呼び鈴を押した。
 インターフォンから返ってきたのは若い女性の声だった。新しい家政婦さんだろうか。梨央の知らない声だった。
 この一年で、変わってしまった事もたくさんあるのだろう。

***

 両親への挨拶は滞りなく済んだ。
 さすがにオールマイトはこういうこともそつなくこなす。
 彼は名刺を出し、雄英で教師をしていることを伝え、挨拶が遅れたことをまず詫びた。
 そのうえでオールマイトの口から出たのは、テレビドラマやCMなどでよく聞く「お嬢さんを私に下さい」というものだった。
 それに対して両親は少し気取った面持ちで「不束な娘ではございますが」と答えていた。つまりはOKということだ。

 正直、拍子抜けした気分だった。
 これがオールマイトでなくても、堅い職業の相手であれば、その人間性など考慮せずうちの両親は歓迎したのではないかとなんとなく思った。

 両親は愛情のない人たちではなかったが、あの拉致事件以来、両親は梨央について一線を引いているような気がしていた。
 親類からも腫物をさわるような扱いをうけながら、誘拐された娘よと常にさげすまれてきた。何もなかったのだと言えば言うほど、それは嘘のように響き、ますます梨央は傷ついていった。

「失礼いたします」
 
 ふいに襖の向こうから若い女性の声が響いた。先ほどインターフォンに出たのと同じ声だ。
 父が返答をすると、音もなく襖が開けられた。若い家政婦はよくしつけられているようだった。このような堅苦しい家での勤めはきっと楽ではないだろうに。

「宗主がおいでになりました」
「こちらにお通しするように」

 いま……なんて?

 やり取りをきいた瞬間、がくがくと手が震えだした。
 宗主とは、つまり家元のことだ。梨央は昔から気難しい伯父が苦手だった。
 事件の以前からそうだ。
 全てに応じて厳しい父をより厳格にしたような宗家の当主。
 なによりも梨央は宗主の目が怖かった。すべてを見透かしているような、厳しい瞳が。

 だいたいどうして、わざわざ家元がこちらに顔を出したのか。本来であれば、梨央があちらに出向くのが筋であろうに。
 それなのに、なぜ。

 不安でいっぱいになりながらも、ぐるぐると思考を走らせる。だが梨央に答えが見つかるはずもなく。
 そのとき、オールマイトが梨央の背をぽんぽんと叩いた。
 それだけで、少し気持ちが落ち着いた。このひとはどうしてこう人の心を掴むのがうまいのか。

 両親に気取られないよう、ゆっくり腹式呼吸をすること三回。四回目に息を吸い込んだその時、すっと襖がひらかれて、家元が姿を現した。
 老体が身につけているのは、江戸鼠の、一つ紋つきのお召し羽織と同色の長着だった。もうかなりの高齢であろうに、相変わらず立ち姿が潔く美しい。
 小柄でありながらそれをあまり感じさせないのは、その内面に一本芯が通っているためだろうか。

 オールマイトがまず宗主に挨拶をし、頭を下げた。宗家も礼にかなった挨拶を返した。
 その上で、老人は静かに、だが有無を言わさぬ声で告げた。

「では皆は下がりなさい。私はこの方と二人で話がしたい」

 なにをと梨央は狼狽えた。オールマイトにいったい何を言うつもりなのか。

「え? ではわたしもここでお話をききます」
「下がりなさい。私はこちらと二人で話がしたいのだ」
「でも!」
「梨央」

 焦る梨央にオールマイトが微笑んだ。

「私は大丈夫だ。私が宗主とお話をしている間、君はご両親とゆっくりしているといい」
「でも」

 矢車菊色をした瞳を笑みの形に細めて、彼はもう一度、大丈夫だよ、と言った。世の中で最も安心できる「大丈夫」である。梨央に抗えるはずもない。

 不安な気持ちのまま客間を後にした梨央のうしろで、襖がそっと閉じられた。

***

 オールマイトは老人と向き合って座っていた。
 老人は黙したまま口を開かなかった。
 オールマイトは、こういった沈黙や気まずい雰囲気はあまり得意ではない。なにか話の糸口をと、窓の外に広がる立派な庭を眺めた。
 さすが華道大家の親戚筋だけのことはある。
 整えられた日本庭園はとても美しい。

 その中で、小さな白い花をたくさんつけた樹木がオールマイトの目を引いた。五、六メートルほどもある、庭樹としてはかなり立派な樹だ。

 いい香りのする金木犀という樹によく似ている。
 名はなんといったか、前に梨央に教えてもらった気がする。
 銀木犀……だっただろうか。だいだい色の花が金木犀、白いものが銀木犀、後もう一つは忘れてしまったが、きっとこれは銀木犀だ……うん、そうに違いない。

「こちらの木々はみごとですね。特にあの金木犀とよく似た、ぎ……」
「柊木犀ですな……」

 銀木犀じゃなかったのか……と内心で冷や汗をかくオールマイトの前で、家元はいきなり両手をついた。

「当家の梨央を助けてくださりありがとうございました」
「は?」

 オールマイトもこの展開は予想していなかった。
 梨央は家元の決めた結婚相手を蹴って、オールマイトとの暮らしを選んだのだ。
 それに対して責められることはあったとしても、礼を言われるとは思わなかった。

「あなたにお会いするのはこれで二度目ですな。たしか最初にお会いしたのは十年ほども昔のことですが」

 オールマイトは記憶を総動員し、やがてハタと思い浮かんだ。
 例の拉致事件のすぐ後のことだ。被害者たちの家族が、まとめてオールマイトの事務所に礼を言いに来たことがあった。
 かなり昔のことだし、それはオールマイトにとってはよくあることだった。
 個人的に話をしたわけではなかったし、老人は大勢の中のひとりであった。なのでそれらは記憶の彼方に消えていたが、思い起こせば確かにあの時、この老人はあの中にいた。
 しかし今の姿の自分がなぜオールマイトだとわかったのだろう。
 物事の本質を見抜くことができる個性の持ち主なのだろうか。
 オールマイトは答えに窮した。

「え……あ……や……」

 オールマイトは嘘やごまかしがあまりうまくない。
 冷や汗をだらだらかきながら呻いていると、嗄れた声が追いかけてきた。

「活動時とお姿が違うことにはなにか御事情がおありなのでしょう。もちろん他言は致しません。それよりも姪を助けて下ったことに対して、まずはきちんと礼を言いたかったのです」
「……いや……それが私の仕事ですから」
「あなたのような方に選んでもらって、あの子は幸せでしょう。ご存知のとおりあの子はひどい目にあいましたから」
「梨央に選んでもらえて、幸せなのは私の方です」

 家元は一瞬はっとした顔をして、やがて小さなため息をついた。

「なるほど。あの子は、配偶者を選ぶ目だけは確かだったようだ」
「他にもたくさん確かな部分はありますよ。私がどれだけ彼女に支えられていることか」
「……本人のせいではないのだろうが、あの子はなぜか悪い男を惹きつける。だからあの子には厳しくしましたし、弟たち―あの子の両親にもそうするよう釘を刺してきました。少しの隙すら見せぬように苦言を続けることで、もう二度と、あの子があんな思いをすることがないように」
「けれど、あなた方のそうした姿勢が、逆に彼女を深く傷つけてきたと思います」

 オールマイトはきっぱりとそう告げた。ずっと思っていたことだ。
 それに対して返ってきたのは諦めたような静かな笑みだ。

 ああ、わかっていたのか。このひとは。
 善意のつもりの押し付けは害悪でしかない。この場合のように、デリケートな問題であればなおさらに。
 この間違った善意のおかげで、梨央はどれだけ傷ついてきたことだろう。
 わかっていて、それでも隙があったからだと言わずにはいられなかったのか。

 用心深さゆえに梨央を傷つけ続けたこの老人を責めるのはたやすい。けれど事がそう簡単な話でもないことも、オールマイトにはわかっていた。

「あの子には私が選んだ男の庇護の元で、ゆったり暮らさせたかった。我々はそれが本人の幸せだと思っていました。けれどそれは、前時代的な考えであったようです。実際にあれは自分の力で、自分のよさを認めてくれる相手を見つけた。あなたのような」
「何度も言いますが、助けられているのは私の方ですよ」

 オールマイトはまっすぐに家元を見つめた。
 マッスルフォームになれば、片手でひねりつぶせそうな小柄な老人だ。けれど背筋をぴんと伸ばしているその姿は、なぜか大樹のような安定感があった。
 頭を下げてオールマイトが続ける。

「これは私からのお願いです。梨央に花の仕事をすることを許してやってはもらえないでしょうか」
「あの子の花に関する才能は、一族の中でも一二を争うほど秀でております。あとは本人次第でしょう。この件については貴方からではなく、本人の口から語らせるのが筋です」

 確かにそうだとオールマイトは思った。
 だがおそらくこの老人は許可をくれるに違いない、そんな確信めいたものも同時に感じた。このひとは厳格で気難しいが、きちんと筋を通しさえすれば話のできない相手ではない。

「ところでオールマイトさん。あなたは柊木犀の花言葉を知っているだろうか?」
「いえ、不勉強なもので……」
「そうですか」

 老人はもう一度静かに笑った。
 問われたオールマイトが庭の樹に視線を移した。
 柊木犀は金木犀が終わった後に咲く花だ。
 金木犀よりずっと地味で、銀木犀よりもとっつきにくい、この樹の花言葉とはなんだろう。

「柊木犀は銀木犀によく似ていますが、葉の形が違います。一説には柊と銀木犀を掛け合わせてできたとも言われ、葉が柊のようにギザギザしていることから、魔除けにも防犯にもなると言われていますな」

 小柄な老人は真正面からオールマイトの目を見すえてから、軽く頭を下げた。

「オールマイトさん、梨央のことをどうぞよろしくお願いします」
「この命ある限り、私は梨央のことを全力で守ります」

***

「なんだか拍子抜けしちゃった……」

 夕暮れの街を歩きながら、梨央がぽつりとつぶやいた。

「どうしてだい?」
「もう少し違うリアクションを想像してた」
「おいおい、反対されればいいとか思っていたんじゃないだろうね」

 いやね、と笑いながら梨央がオールマイトの腕を叩く。

「でもよかったじゃないか」
「ええ」
「で、どんな仕事ができそうなんだい?」
「さしあたっては、来年開校するカルチャースクールの講師からさせてもらえることになるみたい……ほら、ショッピングモールの中にあるでしょう」
「ああ、あそこか。よかったな、家元が許可をくれて」
「ええ、本当に」

 心底安心したように、梨央が笑う。その時、ふわりと甘いいい香りがした。いつもの奇跡という名の香水ではなく、甘いけれどもお香のような落ち着いた香りだ。

「そうだ、梨央。君は柊木犀の花言葉を知っているかい?」
「え? なぜ?」
「君の家の庭に、柊木犀が植えられていたからさ」
「……あれがよく柊木犀だってわかったわね。柊木犀の花言葉はね、『用心深い』と『保護』よ」
「……そうか……」

 教えられた花言葉をかみしめるように、あの老人はまるで柊木犀そのものだとオールマイトは思った。

 きっとあの老人は彼なりの思いやりと用心深さを持って梨央を保護してきたのだろう。方向性の正誤はまた別として。
 触れると痛い鋸のような葉を持つ、あの柊木犀の樹のように。

「柊木犀はね、金木犀ほどではないけれど、それでも甘い香りがするのよ。ほんのりと」
「へえ」

 金木犀の甘い香りを思い出しながら、オールマイトは微笑んだ。

「美味しい中華でも食べて帰ろうか。桂花陳酒でも傾けながら」
「本当? 嬉しい。実はね、前から桂花陳酒が飲みたいなぁって思っていたの。だから今日も金木犀のにおい袋を帯の中に入れてきたのよ」

 嬉しそうに笑みながら、梨央がオールマイトにしがみつく。自分よりはるかに小さい愛しい女を見おろしながら、オールマイトはふと思う。

 これから梨央と迎えるであろう生活が甘いものになるように。
 たくさん辛い思いをしてきたであろう梨央が、少しでも安らかに過ごせるように。
 おそらくそれは、これからの自分の行動しだいなのであろうけれど、それでも願わずにはいられない。
 オールマイトはふっと小さく笑んでから、そっと梨央を抱き寄せた。

2015.10.20

このお話は11巻の内容が本誌で描かれる半年以上も前に書かれたものです。
また、このお話以降、オールマイトの置かれている状況が原作とは大きく異なったものになっております。
原作に添うよう書き直すことも考えましたが、そのままでというお声をいくつかいただいたので、今のところはそのままにしています。

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月とうさぎ