Peace gene〜平和の遺伝子〜

 紅と白と、異なる色の花をつけるその樹を、ただ見ていた。
 白は源氏の、赤は平氏の旗であったことから、源平咲きと呼ばれる梅だ。挿し木して人工的に作る場合もあるが、人の手を介さず源平に咲く木もまた存在する。
 梅や桃を紅に染める遺伝子の名はPeach(モモ)anthocyanin(赤い色素) coloration(発色) enhance(増やす)gene(遺伝子) の頭文字をとって、Peace geneという。Peace gene―平和の遺伝子―を持つ樹にそれを阻止する遺伝子がつくと花を色づかせることができなくなり、一部が白い花となる。
 一つの樹に存在する異なる遺伝子が、異なる色の花を咲かせる。それはやはり、生命の神秘だ。
 
 「平和」の遺伝子を持つ濃いピンク色の花に触れながら、あのひとはなんというかしら、と梨央は小さくひとりごちた。
 この身のうちに、新たな命が息づいている。それは自分でも、とても不思議な感覚だった。

***

「今日ね、お花の教室に行く前に、病院に行ってみたの」

 ネクタイを緩めながらソファーにどっかりと座った長身痩躯に、そう語りかけた。

「えっ? どこか悪いのかい?」
「いいえ。悪いところはないそうよ」
「じゃあ、どうして?」

 きょとんとした顔で、オールマイトが梨央を見つめる。
 こういう不意を突かれた時の顔は本当に可愛い。
 梨央は丁寧に淹れた緑茶の入った湯呑みをオールマイトの前に置いて、自分もその隣に腰を下ろした。

「七週目……二か月目の終わりに入ったところですって」
「ハ?」

 少し考え込んだ後、オールマイトは叫んだ。

「マジか!?」
「ええ」
「やった!」

 その言葉と共に、いきなり強く抱きしめられた。オールマイトの腕は長いから、梨央は簡単にその中に閉じ込められてしまう。

「で、男? それとも女?」
「まだわからないわよ。でも予定日は十月の終わりですって」
「でも……君は本当によかったのかい?」

 今まで何度も繰り返されたやりとりに、梨央は心の中でため息をつく。まったくほんとうに、相変わらずこのひとはわかっていない。

「経済的に苦労をさせない手はずは整えてあるけれど……若い君が……先がない私の子を……」
「そこまで」

 梨央はオールマイトの唇に指先をあて、制止する。

「だからこそ、わたしはあなたの子供を産みたいのよ」

 オールマイトは一瞬だけ複雑そうな顔をして、くしゃりと笑った。

「……ウン……ありがと……」

 優しすぎるオールマイトは、自身がいなくなった後のことをとても気にする。
 このひとはとても勝手だ。そんなに気になるのなら、無理をするのをやめてくれればいい。だが、それができるような人なら、とっくにそうしているだろう。だから言ってもしかたがない。しかたのないことを梨央は言わない。

「もしもこの子が成長する前にあなたがいなくなってしまったとしても、わたしは胸を張って言えるわよ。あなたのお父さんは、とても立派なひとでしたって」
「ウン」

 梨央を包んでいた腕に、そっと力が込められた。こんな時、梨央は少し不思議な気持になる。
 抱きしめられているはずなのに、ときおり自分がオールマイトを抱いているような気分になってしまうのはどうしてだろう。大きなはずのこの人が、時にとても小さく見える。まるで幼い子供のように。
 平和の象徴のこんな姿を、世間の人はきっと、誰も知らない。

***

 妊娠週数が進むと共に、病院内で開催されているプレママスクールへの参加を促される。梨央が出産する予定の病院は、立ち合い出産を奨励していた。よって父親になるひとも、一度はプレパパスクールに参加することを勧められる。
 オールマイトは当然のように、そこで立ち合い出産を希望した。
 梨央は嫌だな、と思った。男性は意外とデリケートだ。出産時の修羅場を目の当たりにしたことがきっかけで、妻を女性としてはみられなくなるケースもよくあるらしい。そのまま性生活ができなくなった夫婦も少なくないと聞く。
 けれど落ち窪んだ眼窩の奥の瞳をキラキラと輝かせ、楽しみだねと笑む姿を見ていると、とてもではないがやめてほしいとは言えなかった。

***

 幸いにも大きなトラブルもなく、予定日まであと数日となったある夜、梨央はずくずくとした鈍い痛みで目が覚めた。
 時計を見ると、時刻は三時十五分。はたしてこれは陣痛だろうか、と考えていると、痛みがすーっと消えていった。
 出産のための入院の支度は整えてある。今から動いても疲れるだけだろうと、目をとじてうとうとしていると、ふたたび痛みがやってきた。時刻は三時四十五分。
 やっぱりこれは陣痛だろうな、と思いながらも、痛みが引いた隙にまた眠る。いずれにせよ、病院に連絡するのは陣痛の感覚が十五分から十分程度になってからだ。休める内に休んでおかないと、体がもたない。
 病院へは自宅から梨央の足で歩いても十分ほどの距離だし、今ならまだオールマイトがいる。大丈夫。

 そしていよいよ陣痛が十五分間隔になった。もう横になってなどいられない。
 時刻は六時半をまわったところ。
 そろそろ準備をはじめよう、と梨央は隣に眠るオールマイトを起こさないよう、ベッドから降りた……つもりだった。

「どうした? もしかして陣痛が来たのかい?」

 気配で目覚めたのか、目を擦りながらオールマイトが心配そうに尋ねてきた。ええ、と応えると、我が国の誇る英雄は大変だ!と叫んで、文字通りベッドから飛び降りた。

「び……病院に電話しないと。荷物は大丈夫かい? あっ待って、その前に何か飲もうか。水分補給しないと。いや、なにか食べたほうがいいのかな。とにかく、落ち着かないと。ね、落ちつこう、梨央」

 落ち着かなくてはいけないのはわたしではなくあなたのほうよ、と、心の中で突っ込んで梨央は苦笑した。
 痩せてはいるが、オールマイトの体重は身長があるぶんそれなりに重い。あんな大男が朝からバタバタ騒いだら、下の住民にとってはさぞかし迷惑な事だろう。
 オールマイトはいつもそうだ。自分は平気で大怪我をしてくるくせに、梨央の些細な体調不良に大騒ぎする。
 わたしの旦那様は心配性だと、梨央はかるく肩をすくめた。

***

 梨央はいささか閉口していた。自宅に引き続き、陣痛室に入ってからもずっと慌て続けのオールマイトに。

「梨央? 痛いの? 苦しいの? 大丈夫?」
「大丈夫よ。それにお産は苦しいものだから。心配しないで」

 このやりとりをさきほどから幾度繰り返したことだろう。なぜサポートするためについてきたひとを自分が気遣っているのかと、梨央は心の中でため息をつく。

  そうするうちに、陣痛の感覚は十分から七分に、七分から五分おきにとどんどん短くなっていく。
 陣痛室にはもう一人妊婦さんがいて、「痛い!ばか、あんたのせいよ」と叫んでは、ご主人に当たり散らしている。
 まったくもってうらやましい。あんなふうに叫びたい。
 けれど梨央は叫べない。叫んだりしたら最後、オールマイトは真っ青になって看護師さんを呼びに行くだろう。
 お隣のご主人は我慢強い人で、つねられても叩かれても黙って奥さんに従っている。腰が痛いといえば揉み、背中をさすり、水が飲みたいといえば差し出して。
 比べてオールマイトはうろうろおろおろしているだけで、あまり役に立っていない。プレパパ教室で教わっていた陣痛時のマッサージも、すっかり忘れてしまったようだ。
 
 自分も少しは甘えてみたくなり、梨央はオールマイトを見上げた。

「どうしたの? 梨央…大丈夫かい?」
「ええ。平気だけど、少し喉が渇いたわ」
「ウン! まってて、スポーツドリンクでいいかな?」
「ええ、ありがとう」

 オールマイトがやっと役に立つ時が来た。
 ペットボトルにストローをさして口元まで運んでくれる、大きな手。この大きな手はわたしを安心させてくれる、と梨央は思った。
 大勢の人を救い続けているこの大きな手が、今は自分だけに向けられている。幸福感に笑みがこぼれる。
 ふふっ、と口の中だけで笑って、梨央はストローに口をつけた。

 だが、梨央がイオン飲料の心地よい冷たさを感じながら最初の一口を飲み込んだ瞬間、オールマイトの端末が鳴った。この音は出動要請だ。
 トップレベルのヒーローは病院内でも使える端末を持たされている。

 端末メッセージを確認したオールマイトが、申し訳なさそうに梨央をしずかに見下ろした。
 
 結婚式といい、今といい、まったくタイミングのいいことだ。梨央はイオン飲料を飲み干してから、オールマイトを見上げる。
 ご主人様に叱られている大型犬のように、しゅんとしおれた姿がいとしい。
 梨央は小さく微笑んだ

「行ってらっしゃい」
「……でも……」
「初産だから、そんなに早く生まれないと思うの。それに、わたしは病院にいるんだもの、なにかあっても大丈夫。でも現場には、あなたの救けを待ってる人がきっといる」
「……うん……」
「そのかわり、ちゃんとわたしのところに帰ってきてね」
「ああ。約束する」

 オールマイトは小さく答え、謝罪の言葉のかわりのように、梨央の髪に唇をおとした。

 最初の痛みが来てから、何時間たっただろうか。初めは三十分間隔だった弱い痛み。それが時間の経過と共に、十分おき、七分おき、と短くなっていき、痛みもどんどん増してゆく。

 梨央の体内を痛みがはしる。骨盤を無理やりにひらかされるような感覚。己の体の内側を見えないなにかがつかんでいる。その手によって、全身をめりめりと引き裂かれていくような、そんな痛み。
 目の前がちかちかして、苦しい。腰に力をいれたい。けれどできない。してはいけない。子宮口がひらききる前にいきんだりしたら、いろいろと支障が出るときいている。
 ひたすら呼吸法でいきみを逃すが、逃しきれるものでもなかった。脂汗が、じわりじわりとにじみ出る。
 痛みの間隔が一分弱になったあたりで、助産師さんが様子を見に来た。

「子宮口全開ですね。分娩室に移動しましょう」

 陣痛室から歩いて分娩室へ向かった。その距離はたった数メートル。数歩の距離だ。だがその数歩が、とても遠い。
 この時オールマイトがいてくれたら、抱いて運んでもらえたかなと、甘えたことをぼんやり思った。
 やっとのことで分娩室にたどり着き、台の上によじ登り、両足を足置きにかけた時、聞き覚えのある声が響いた。

「私が来た!」

 その姿でそのセリフはまずいんじゃないの、と、この一瞬だけ痛みがまぎれた。続く看護師さんとドクターの声。

「八木さんのご主人、間に合いました」
「支度して入ってもらって」

 オールマイトはトップヒーローであっただけに支度が早い。一分もかけずに入室して、流れるような動作で梨央の頭側についた。

「ご主人、汗を拭いてあげてください」

 看護師さんの指示で、オールマイトが梨央の額ににじんだ汗を拭く。
 乾いた布のやわらかさを感じながら、きっと心配性の彼は、いま青白い顔をしているに違いない、とひそかに思った。

「はい、八木さん。もう我慢しないでいいですよ。こちらの声掛けに合わせていきんでくださいね」

 ここまでくると、もう痛みは感じなかった。
 助産師さんとドクターの声に合わせ、息を吸い、吐き、いきむ、その繰り返し。
 声掛けに合わせて必死で呼吸していたせいか、目の前がすっと暗くなった。暗転していく意識の向こう側に、小さな光がぽつりとともる。
 全身がめくれ上がるような感覚と共に、光は少しずつ近づいてくる。

「はい、もう赤ちゃん見えてきましたよ。力を抜いて、ハッ、ハッ、と短く息を吐いてください」

 前後左右もわからない暗黒の中で、小さな光をたよりに指示されるがままに息を吐いた。小さかった光は近づくにつれ、だんだん大きくなってゆく。
 闇を引き裂き訪れた、紅と白色の混じった眩い光。それが目の前に来た瞬間、産声があがった。

 おめでとうございます!と呼びかけたのは助産師さんの声だろうか。

 ああ、うまれたのか、と梨央はほっと息をつく。天井のライトが眩しい。
 暗闇ではなく、こんなに明るい光の中にいたのか。痛みにとらわれ、いままで全く気づかなかった。
 元気な赤ちゃんですよ、と梨央の体に処置をしながらドクターが語りかける。ああよかった、とまた息を吐き、オールマイトの方を見上げてぎょっとした。
 我が国が誇るナンバーワンヒーローが、涙でぐちゃぐちゃになって洟をすすりあげている。

「ありがとう……梨央……」
「ありがとうと言いたいのは、わたしのほうよ」

 あなたはわたしを愛してくれ、幸せな母親にしてくれた。
 梨央はそっと微笑んでから、眼を閉じる。

***

 完全個室の窓から見える外の景色はもう真っ暗だ。
 時計の針は八時を指している。最初の陣痛から計算すると約十七時間。分娩室のベッドで二時間ほど休息してからこちらにうつったので、出産にかかった時間は約十五時間というところだろうか。
 それでも初産にしては早い方らしい。

「大丈夫かい」

 オールマイトはベッドサイドに腰掛けて、梨央の手指に口づけた。

「大丈夫よ。少し疲れたけれど」
「君に似たかわいい子だったね。さっき確認してきたけど、足の小指の関節もひとつしかなかったよ……よかった……ほんとうに……」

 足の関節?と梨央は不思議に思った。
 足の小指の関節といえば、個性の発現と関係が深いと言われている部位だ。足の小指の関節がひとつだと、梨央たちと同じ新しい世代のタイプ。二つあるひとは旧世代。旧世代タイプの人は、個性が発現しない場合が多いときく。

 妊娠前も妊娠中も、オールマイトは生まれてくる子の個性について気に病んでいた。
 はじめは自らの強すぎる個性が遺伝することを恐れているのかと思ったが、おそらくそうではないだろう。
 梨央には、前から『そうではないか』と考えていることがある。その推測が真実であれば、どうして『俊典』が『オールマイト』になり得たのかの説明がつかないが、それでもなんとなく、そんな気がする。
 けれどそれは口に出さない。聞いてはいけないことだろうから。

「素敵な人生を送ってほしいわね」
「そうだね」

 ふと、梨央の脳裏に、あの日見た二色の梅の花がぽかりと浮かんだ。
 二つの遺伝子を持つ梅が二色の花を咲かせるように、「平和の象徴」の遺伝子を持つこの子もまた、いつか花を咲かせるだろう。
 際立った個性なんか、なくてもいい。オールマイト……俊典の優しさと、決して折れない心の強さを、受け継いだ子になってほしい。

 たがいの指を絡ませながら満足そうに笑むオールマイトを見つめて、梨央は静かに思うのだった。

2016.5.19

三万打アンケートでリクエストいただいた「赤ちゃんが生まれる話」です

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月とうさぎ