祈り

2021年5月10日発売の本誌に掲載された311話を読み、その日のうちに書きました



 隣でなにかが動く気配がして、目が覚めた。
 早朝の薄闇の中、ゆっくりと梨央は目を開く。向けた視線の先に、裸の胸を晒して起き上がる長身痩躯の姿があった。みじろぎもせず、黎明の薄いあかりが差し込む室内を見つめ続ける、厳しくも透明な青い瞳。
 なんとなく声をかけることができなくて、少しの間、梨央は夫――オールマイト――の肉の薄い横顔を、ただ見つめた。

「ああ、起こしてしまったかい?」

 視線を感じたのか、オールマイトがこちらに振り返った。梨央を見つめるブルーアイズは、さきほどとはうって変わったように優しい。

「どうしたの?」

 昨夜の快楽が未だ残る身体を起こしながら、しずかにたずねる。オールマイトが微笑んだ。その左胸には、大きな放射状の傷。

「目が覚めてしまってね。そうだ。君も目覚めてしまったのなら、これから出かけないか?」
「これから?」
「ああ、これから」

 梨央は探るような視線をオールマイトに向け、彼はそれを真っ正面から受け止めた。数秒ののち梨央の口から漏れたのは、ちいさなため息。

「そうね。出かけましょうか。どこに?」
「ドライブなんてどうだい?」

 いいわね、と答えて、身体を起こした。
 先日、オールマイトはいきなり車を買った。家が買えそうな値段の、最新システムを備えたシザーズドアのスポーツカーを。
 あの車で遠出するのは初めてだ。飛ぶように、おそろしい速度で大地を駆ける車だと、オールマイトは言っていた。

「じゃ、決まり」

 そう言って、オールマイトはバスルームへと消える。
 梨央はそれを見送って、衣類をまとう。その身体にうっすらと残る、情熱と倦怠に心の中で苦笑しながら。
 もともと優しい人だけれど、昨夜の彼の愛し方は常よりも尚丹念で、そして丁寧だった。強弱をつけ、この身に幾度も繰り返し穿たれた、彼の楔。

 鎖骨の下にちいさな愛の名残を発見し、もう、と梨央は独りごちた。

***

 早朝の街はすいていた。ステアリングを握るオールマイトを見ることはめったにないので、なんだかとても新鮮だった。
 今日の彼は、黒の革ジャンに白いTシャツ、そしてブルージーンズといういでたち。額に乗せているのは、ティアドロップ型のサングラスだ。
 カーステレオから流れているのは、古い時代の歌謡曲。
 ハードボイルド小説の冒頭に出てきそうな歌い出しの、男が女の元を去って行く歌だ。
 これはなんという曲だったろう。ずいぶんと昔の曲だと記憶しているけれど。
 関西の伯母が若い頃好きだった歌手の持ち歌で、何度か聞かされたことがある。歌い手は綺麗な顔をしたひとだった。名はなんと言ったろう。
 曲の名も歌手のそれも思い出せない。
 なにせ、梨央が生まれるよりずっと前に流行った、古い曲だから。

「これ、なんていう曲だったかしら」
「……なんだったっけな。ずいぶんと古い曲だよね。私が子どもの頃流行った曲」

 やわらかく笑いながらオールマイトが歌い手の名を告げた。彼との年齢差を思い知らされるのはこんな時だ。そして同時に、オールマイトはこの曲の名を本当は知っているような、そんな気がした。特に根拠はないけれど。

「もう少し計画的に行動すべきだったかな」

 国道をしばらくいったあたりで、オールマイトがぽつりと呟いた。
 その言葉で、なんとなく彼がどこに向かっているのかわかってしまった。たしかにあそこに向かうには今からではやや遅く、そして同時にずいぶんと早い。

 この道の先には海がある。しばらく進むと、かつて電車とバスを乗り継いで出かけた小さな岬にでるはずだ。
 二人で初めて遠出した場所であり、初めて気持ちを伝え合った場所であり、そして二人が初めて結ばれた土地でもあった。
 そこは梨央とオールマイトにとって、大切な思い出がつまったところ。

「……夕陽に間に合えばいいんじゃない? もしあなたに、それだけの時間があれば、の話だけど」

 オールマイトの横顔がこわばり、やがてちいさなため息が落とされる。まいったな、という声と共に。

「お見通しだったのかい?」

 梨央はそれにはいらえず、ちいさく笑った。
 夕陽と朝陽、その両方が望めるベンチは、ふたりにとって大切な場所だ。

「幸い、今日いちにち時間はたっぷりあるよ。夕陽を見る前にどこに行こうか。ドライブがてら、このあたりの観光でもするかい?」

 そうねといらえた梨央に、オールマイトはまた、笑った。

***

 このあたりには、有名な牧場や果実狩りの出来る農園、花畑など楽しめそうなところがいくつかある。
 だが残念ながら、牧場は休み。
 車を走らせた先に、夏になると多くの人で賑わうであろう、だが今はひとのいない海岸があった。
 オールマイトが希望したので、車を止めて、砂浜に降りる。

「お手をどうぞ」

 と手を差し伸べられたので、素直にその手をとった。
 誰もいない砂浜を手をつないで歩くなんて、なんだか少女漫画みたい。そう伝えると、オールマイトは青い目をやや細めて、「君は私のお姫様だからね」と静かにささやく。
 耳元で、まるで、誘惑するみたいに。
 この状況でこういうことがさらりとできてしまう、このひとはずるい。本当に。

「私ね」

 と、オールマイトが海を見ながら告げる。

「犬を飼いたいんだ。君、犬苦手じゃなかったよね」
「ええ」
「大きな犬がいいんだ。人なつこい性格の」
「ゴールデンレトリバーなんかいいんじゃない? 性格の明るい子が多いみたいよ。それに毛足が長くて、金色で、すこしあなたに似てる」
「悪くないね。いつか飼おうよ。いろんなことが落ち着いたらさ」
「……そうね」

 いい天気だ、と梨央は思った。
 やわらかなひざしが海に反射して、きらきらと輝きを放っている。青い海と、白い波と、そして隣には金色の彼。そのどれもがやさしい太陽光を弾いて煌めく。
 それはあまりにも眩しく、そしてかなしいくらいに美しい風景だった。

 砂浜を出て、国道から県道に出た先をまっすぐに進んだ。窓の外に広がる海の青と空の青。梨央はかつて、オールマイトへの叶わぬ想い――と当時は考えていた――を、海に沈めてしまいたいと思ったことがある。青から朱、そして黒へと時刻と空の色に翻弄されて変化していく海に、自分の想いも溶かしてしまえたらと。

「梨央、そろそろお腹すかない?」
「実はわたしもそう思っていたところ」

 本当は食欲なんかなかったけれど、つとめて明るくそういらえた。けれど海沿いの街は寂れていた。小さな家がところどころにならぶばかりで。
 県道沿いにいくつかレストランを見つけたけれど、どこも休業中のようす。

「お弁当でも作ってくればよかったかな」
「いや、まって」

 と、ティアドロップ型のサングラスをかけたオールマイトが、遥か向こうの小さな建物を指さした。

「あれ、おそば屋さんじゃないかな」

 彼のいうとおり、それはおそば屋さんだった。といっても、梨央がそれを目視できたのは、そこから数百メートル進んでからだったけれど。

 年老いた夫婦がやっている、小さなお店だった。
 今日で最後なんですよ、と老婆は言い、そうなんですか、とオールマイトが答える。

「長年やってきたんですけどね。さすがにここいらが潮時のようで。きっとお客さんたちが最後だと思います。よかったらゆっくりしてってください」

 悲しそうに笑いながらそう告げた老人の作ったそばは手打ちで、とても美味しかった。食欲がなかったはずなのに、するりとお腹に入ってしまう。

 おいしいおそばとそば湯をいただき、梨央とオールマイトは老夫婦に別れを告げた。
 ご老人、どうかお元気で。お客さんも。
 そんなやりとりを見ているのがすこし悲しくなって、梨央は静かに目を伏せた。

 県道はまだまだ続く。道沿いに広がるのは見事な花畑。このあたりは菜の花の産地としても有名だった。鮮やかな黄色と緑のコントラストが美しい。
 華道家という職業がらか、梨央は花を見ると心が浮き立つ。切り花の美しさと、野に咲く花と、そして庭園にしつらえられた花はそれぞれまったく別物だ。どれも美しく、どれも好きだ。

 黒いスポーツカーはすいている道をどこまでも進んでいった。高級車であるが故か、二度ほど柄の悪い連中の車に囲まれたこともあったが、運転者の腕と車の性能で難なく振り切ることができた。
 もちろん、たとえ個性が使えぬ今となっても、あの程度の連中に遅れを取る彼ではないのだろうけれど。

 やがて陽が傾きかけた頃、オールマイトの運転する車は、再び国道に出る。かつて梨央はこの通りを、バスに乗って通った。
 やがてオールマイトはスポーツカーを止めた。ここから先は徒歩だ。
 小さな林を抜けた先に遊歩道があり、灯台と海を見ながらしばらく歩くと目的の岬にたどり着くはず。

 岬の突端につくと、かつてと同じように岩場が広がっていた。そこにたったひとつしつらえられているのは、白いベンチだ。

 沈み始めた夕陽が、海を朱色に染めている。灰色の岩場と朱に染まった海、そして白い波。
 ああ、と梨央は心の中で息を吐く。あの時とほとんどかわらない景色のはずなのに、今はまったく違って見える。
 こんなに荒涼とした景色だっただろうか。
 オールマイトの家から出るつもりだったあの日、梨央はそう思った。けれど今は、この景色はむしろ、幸福の象徴のように見える。
 この地そのものは、あの日とまったく変わらないというのに。

「……ここは、変わらないんだな」

 そうね、とこたえるかわりに、梨央は彼を見上げて微笑んだ。
 いまなにか一言でも口にしたら、心の中に築いた堤防が決壊してしまうのがわかっていたから。

 オールマイトもそれ以上はなにも言わず、梨央に向かってかがみ込んだ。
 近づいてくる、落ち窪んだ眼下、肉の落ちた頬、とがった顎、そしてコーンフラワーブルーの……サファイアのきらめきを有する瞳。
 梨央はそっと目をとじる。そこに落ちてきたのは、やはり慣れた、乾いた唇。
 額に、まぶたに、頬に、顎に、いくつも落とされる口づけは常と同じように優しい。

 海を望む岩場は寂しい場所のはずだ。けれどそれより今日見続けた街並みのほうが、ずっと悲しい風景だった。
 それは廃墟と化した街。真の荒廃が、そこにはあった。

 あの街並みを見た時、オールマイトは果たして何を想ったのだろうか。彼が命を削って守り続けたこの世界の変貌を。
 昨年の夏、オールマイトの引退を皮切りに、すこしずつ事態が変わっていった。

 大きな事件がいくつも起きた。
 時代の逆行と言う人もいる。個性黎明期の混乱と同じ時代がまた来るのだと。
 敵がはびこる時代の訪れだ。
 もう普通には暮らせない。各地には避難所が設けられ、人々はそこに移り始めている。

 そんな時期にオールマイトが、車を買った。
 理由はひとつしかない。
 オールマイトは平和の象徴だ。世界中の誰もが「もうあなたは象徴ではない」と言ったとしても、彼の心はかわらない。
 彼は未だに背負っている。世界を、いや、世界を背負おうとしている誰かの重荷を。
 戦えなくても抗い続ける。守れなくても守ろうとする。
 それがオールマイトというひとだから。

 口づけがやんだ気配を感じ、梨央はゆっくりとまぶたを開いた。
 目の前にあるのは、悲しそうな瞳。

 そんな顔をしなくてもいいのに。梨央は心の中で呟いて、彼の頬を両手で包んだ。冷たくて肉の薄い、オールマイトの頬を。

「大丈夫よ」

 しずかに告げて、もう一度目をとじる。

 ふたたび口唇が降りてきた。今度は梨央のくちびるに。
 歯列を割って侵入してきた厚い舌。それは梨央のどこをどうすればいいのか、すべてを知り尽くした相手との長く熱い口づけだった。

「わたしは大丈夫」

 もう一度、オールマイトの目を見て梨央は言った。

 現在、世の中は混沌を極めている。
 その理由のひとつが、現ナンバーワンヒーロー、エンデヴァーの息子が敵のひとりであったことだろう。そこで明かされた、ヒーローたちの家庭の闇。

 だが、と梨央はまた思う。
 良き家庭人ではなかった現ナンバーワンヒーローを、かつて被虐待児であった現ナンバーツーヒーローを、世界を守るためにその身を削り戦ってきた人間を……断罪しようとする人々の中に、罪を犯したことのない者が果たしてどれだけいるのだろうか。

 世界は残酷で、民衆は卑怯で愚かだ。そしてその愚かな民衆の中には自分自身も含まれていると、梨央は思う。
 愚かでない人間などいない。ただ自分が愚かで罪深いとわかっている人間と、そうでない人間との違いがあるだけだ。

 けれどそれでも、ヒーローと呼ばれる人たちは立ちあがる。
 たとえ求められなくても、自らが救け続けた人たちから理不尽な非難を浴びたとしても、愚かで卑怯な民衆のために彼らは戦い、そして抗う。
 たとえ世が混沌とした闇に覆われたとしても。たとえ自分が最後の一人になったとしても。

 その理由を問うたなら、きっと彼らはこう言うだろう。
「なぜって? 私達はヒーローだからさ」

 そう……目の前のこの人は、沈まぬ太陽、この世を照らす、希望の光。
 だから――。

「いつ、発つの?」

 オールマイトの顔が、大きく歪んだ。

「……今夜だ」
「それはちょっと、急ね」
「怒った?」
「もちろん怒ってるわよ」

 微笑みながら、梨央は続ける。視線の先のオールマイトは、ひどく悲しそうな顔をしている。

「心の底から怒っているわ。だからね、ちゃんと帰ってきてくれないと許さない」

 オールマイトは目を見開いて、そしてぱたぱたと涙を流した。

「今日は楽しかった。わたしのために一日時間を作ってくれたんでしょう?」

 ありがとう、と告げると、強くかたく抱きしめられた。細いけれども力強い腕の中で、梨央はささやく。

「待ってるから」
「うん」
「帰って来るのよ」
「うん」

 太陽は沈み、そしてまた昇る。それと同じように、あなたはまた、帰ってきてくれる。神野の時と同じように。

 祈りにも似た言葉を内心で呟きながら、梨央は目をとじる。
 やがて降りて来るであろう、太陽からの口づけを待つために。

2021.5.10
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月とうさぎ