高貴なる腐敗

塚内直正と貴腐ワイン



 ベランダの外に広がる桜並木を見下ろしながら、小さく息をついた。直正とはもう、つきあって八年になる。
 満開の桜を眺めながら、買ってきた焼き鳥を片手に、ひとりビールを開ける。それがここ数日の、わたしの夜。そんな暮らしが、どことなくわびしく感じられるようになったのはいつからだろう。川沿いに咲く薄桃色の花を心から美しいと、そして焼き鳥と缶ビールを心から美味しいと思えた日々は、確かにあったというのに。

 こんな気分になってしまうのは、おそらく、さきほど読み終えたばかりの恋愛小説のせいだ。「高貴なる腐敗」というタイトルの、長すぎた春を憂うる主人公が同世代の恋人をキープしながら不倫に走るという、実に陳腐な恋愛小説。
 その中で、七年もの長きに渡って交際してきた恋人との仲を「内側からゆっくりと腐っていく関係」と表現する場面があり、わたしは小さな衝撃を受けた。

 小説のカップルより一年ほど交際期間は長いけれど、わたしと直正は違う。腐敗してなどいないはず。そうひとりごち、同時に「はずだ」という言葉を使ってしまった自分に気づいて、また愕然とした。

 直正とわたしは二十代のなかばで出会った。それから八年。はじめは新酒のようにフレッシュで爽やかな関係だったわたしたちも、今ではすっかりなれ合いのようになってしまった。かつて毎日のようにあった連絡が三日に一度になり、ひどいときには週に一度だ。むろん逢瀬はもっと少ない。

 わかっている。直正はノンキャリでありながら三十代で警部にまで昇進した、現場の出世頭だ。それだけではなく、平和の象徴と名高いオールマイトと共に仕事をすることもあるという。捜査をしたり、場合によっては、同じ現場に立ったり。対等に会話をしているのを見たときは、心の底から驚いた。

 だが、できる男であるがゆえ、直正は多忙だった。ここ一、二年は特にひどい。休みすらもなかなかとれず、やっととれても、捜査本部が立ち上がるたびに潰れる。いきなり約束をキャンセルされる、なんてことはざらだ。労働基準法はどうした公務員、と叫びたくなるが、当の直正が納得してやっていることなので、わたしにはどうにもできない。

 そのせいか、最近の直正は、前もってデートの約束をしなくなった。彼の予定が空いた日の夜に連絡が来て、どちらかの家で会う。互いに大人なので、たいていそのまま泊まりとなる。

 まったく、これでは完全に都合のいい女ではないか。
 そう思うなら、急に言われても会えないとつっぱねればいい。だが、そうなると、直正とはなかなか会えない。だから惚れた弱みもあって、ついつい受け入れてしまう。そんな自分も、また情けなかった。

 今日もまさにそのパターン。三十分ほど前、いきなり「今から行っていいか?」と問われた。これはいつものことなのだが、今日は少々キツいなと思った。平日……しかも週のど真ん中の水曜の夜だ。休日は過去へと遠ざかり、次の休みはまだ遠い。

 だがここで「キツい」と思ってしまったわたしも、直正のことは言えないのだ。
 好きだという気持ちに偽りはないが、やはり、付き合い始めの頃とは違う。
 この変化をふたりの関係が落ち着いたと見るべきなのか、それとも別の意味にとるべきなのか、わたしにはわからない。好きだという気持ちも会いたいという想いも、確かにあるのだ。

 そんなことを考えながらも、結局わたしは「いいよ」と応えた。けれど自分の都合でだけ会いに来ようとする男を手厚く迎え入れることができるほど、懐が広くも、かわいい女にもなれなかった。

「いいけど、夕飯食べ終わっちゃってるから、なにもないよ」
「ああ、俺もさっき弁当食ったとこだから気にしなくていい」

 これがかわいい女であれば、彼のためにまめまめしく動き、なにがしかのおつまみを用意するのだろう。今は外資系のおしゃれな冷食もある。直正がいきなり来ることはわかっているのだから、そういうものを常備しておけばいい。わかってはいるが、わたしはそういう所帯じみた真似はしたくなかった。

「ばっかみたいねぇ……」

 このまま終わりに向かうのは嫌なくせに、無条件に男に尽くすような女にもなりたくない。わたしのこういうところ、自分でも面倒くさいとひそかに思う。これはきっと、つまらない意地。けれどそのつまらない意地が、アラサー女の精神を、大きく支えることもある。
 空になったビールの缶を片付けつつ、また大きなため息をついた瞬間、インターフォンが鳴った。

「はい」
「あー、俺」

 直正の声だ。
 扉を開けると、彼はその手に土産をぶら下げていた。

「ワイン?」
「そう、しかも貴腐ワインだ」

 手渡された銘柄を見て驚いた。なかなか飲めない、希少なワインだったからだ。

「これ、すごくお高いやつじゃない。どうしたの?」
「オールマイトにもらったんだよ。『いただきもので悪いけど』って」

 ああ、とうなずきながら、かのヒーローの姿を思い浮かべた。
 完全無欠なるスーパーヒーローにも、苦手なものがある。それがお酒だ。あんなに筋骨隆々なのにまったくお酒がのめないなんて、なんだかかわいい。そんなかわいいオールマイトは、たまにこうして直正にいいお酒をくれる。なんでもいろいろなところからいただくそうで、飲めない自分が持っていてもしかたないからと、お裾分けしてくれるのだ。
 前回はお高いブランデーで、そのまえは蔵出しの希少な日本酒だった。

「それで、こっちはつまみ」

 渡されたのは、コンビニの袋だ。

「ブルーチーズとクラッカー。俺は塩気のあるつまみが欲しい派だからさ。あと貴腐ワインは甘い物も合うっていうから、アプリコットのタルトも買ってきた。こっちは君が食べるといい」
「ありがとう」

 飲酒時は甘いものをあまりとらない直正が、わたしのためにわざわざスイーツを選んでくれた。そう思うと無性にうれしい。たかだかコンビニのスイーツでこんなにも幸せになれてしまうんだから、わたしは本当に、簡単で安い女なのかもしれない。

「貴腐ワインってはじめて」
「そうか。実は俺もだ。だから君と飲みたくてさ、こんな時間なのに来てしまった。悪いな」
「え?」
「なに? そんなに驚くようなことかい?」

 いいえ、と応えて下を向いた。ゆるんだ顔を見られたくなかったから。
 わたしはかわいげのない女だけれど、初めて口にするおいしいものを、一緒に、と思ってもらえることがどういうことかわからないほど、青くはない。

「ま。飲もうよ」
「そうね」

 うなずいて、奥へと直正を促した。
 わたしがブルーチーズをカットして皿にのせていると、直正がキャビネットから二客のワイングラスを取り出して、テーブルに並べてくれた。わざわざ、ああしてこうしてと言う必要はない。勝手知ったる長い付き合いゆえの、あうんの呼吸。
 長すぎる春も、なれあいの関係も、こうしてみるとそうそう悪くはなかったりして。

 コルクを抜いた直正が、薄いクリスタルのワイングラスに、液体を注いだ。とろりとした琥珀色の、粘性の高いワインが、クリスタルのグラスの内側をゆっくりと流れてゆく。

「乾杯」

 かちりと互いのグラス同士を合わせてから、自分のそれを口元へと運ぶ。と、ふわりと立ち上ってきたのは、穏やかな樽香と花々やアプリコット、そしてはちみつに似た香り。

「びっくりするほど甘いのね……でもすごくおいしい」
「うん、うまいな。甘いだけじゃなく酸味もちゃんとあって、バランスがいい」

 貴腐ワインはその名の通り、腐敗したかのように見える、カビの生えたブドウから作られる。だがそのカビこそが、甘さと深みをたたえた絶妙においしいワインを生む。良い貴腐ワインには若い酒にはない深みがあり、古い酒のような澱もない。

「この組み合わせ、すごくいいな」

 ブルーチーズとワインを交互に口に運び、その美味なるマリアージュに喜びを隠せない直正をみていて、ひそかに思う。わたしと直正の関係も、このお酒のようになったらいいなと。
 長く一緒にいると、倦怠とか、なれ合いとか、そういうものに浸食されてしまうことがある。あの小説にあったように、ふたりの関係性がゆっくりと腐っていくような錯覚をおぼえていたのは確かだ。けれど――だからこそ、長く一緒にいるからこそ、生まれる甘さがあるのかもしれない。
 カビのはえたブドウから生まれる、この美味なるワインのように。

 恋愛中は、どうしても華やかさやときめきを追い求めがちだ。だが美味しいお酒を一緒に飲みたいとか、綺麗な景色を一緒に見たいとか、そんな小さな日常にこそ、潜んでいる幸福がある。
 だからこのまま内側からじわじわ終わりに向かうのが嫌なら、そのままひとつの樽にいれて、熟成させてしまえばいい。

「なんだい? 微妙な顔をして」

 このひとに隠し事をするのは難しい。だからもう、言ってしまえばいい。直正のことだから、わたしたちの関係が転換期にさしかかっていることはとうに気づいているはずだ。

「直正、ひとつ提案があるんだけど」
「ん、なに?」

 甘く香り高いワインを一口飲んで、口をひらいた。

「わたしたち結婚しない? あなたさえよければ、だけど」

 そう、会えないのが寂しいのなら、共に暮らしてしまえばいいのだ。

「なんだ」

 直正がグラスを置いて、ちいさく息をついた。まっすぐにこちらを見つめてくる、黒い瞳にどきりとした。彼は意外と目力が強いから、こうしてまじまじと見つめられると、射すくめられたみたいな気分になってしまう。
 静かな声で、直正が続ける。

「それは今日、俺から言おうと思っていたんだが……」
「そうなの?」
「ああ。帰宅して一人の部屋に帰って天井を眺めているとさ、君に会いたいなあって無性に思うんだよ。最近頓に忙しくなって、連絡さえもなかなかできないから、なおさらそれを強く感じる。夜中に帰って、話ができなくてもさ、隣で君が寝ていてくれるだけで、がんばれそうな気がするんだ」
「気が合うわねぇ、わたしたち」
「まったくだ。伊達に八年も一緒にいるわけじゃないな」
「これからは八年どころじゃなくなるわよ」
「そうだな、共に白髪が生えるまで。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 生真面目に頭をぺこりと下げた直正に、「こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」と微笑みかけた。

「でも、直正。プロポーズって、もっとロマンチックなシチュエーションでしたりされたりするものだと思ってたわ」
「君ねえ……自分から言い出しといて何言ってる」
「それもそうね。ただ、あなたプロポーズしようと思ってたんでしょう? それなのに、こうやっていきなり家に来てっていうのは、どうなの?」
「まあ、似たようなことをオールマイトにも言われたよ。だから、このワインを渡された」
「オールマイトも知ってるの?」
「ああ。今夜プロポーズする、って言ったら、せめてコレ持ってけって。彼はね、あれでけっこうロマンチストだからさ」
「まあ……あのひとは夜景の綺麗なレストランでのプロポーズとか、やりそうよね」
「そうだね、でもさ」

 と、直正がグラスのワインを干して、ゆっくりと続ける。

「一番好きな女に、結婚しようって告げる事実以上にロマンチックなことはないと思ったんだ。だから、シチュエーションにはあまりこだわらなかった」

 大切なのは事実だから、とまっすぐにわたしを見つめながら、直正は言う。実直な彼らしい、ストレートな愛の言葉だった。
 もう少し洗練されてもいいとは思うけれど、キザな言葉をさらりと言えるような男が好きかと言われれば、おそらくわたしは否である。だからありがとう、と素直に告げて、もう一度グラスをかかげた。

「それじゃ、これからのわたしたちの人生に、もう一度乾杯」

 乾杯、と小さく返して、直正がグラスを合わせてくれる。甘い言葉はないけれど、彼は誰より誠実だ。

「一緒に幸せになろう」

 嬉しそうに目を細めた直正を見つめて、大きく、うなずいた。

初出:2022.5.3

プロヒーロー夢本「Cheers!」より再録

月とうさぎ