コミックス18巻の重大なネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください
突如テレビから流れてきた有名ヒーローの訃報に、手にしていた湯呑を取り落とした。布巾をと、慌てて立ち上がった拍子に着物の裾を踏み、倒れ、そのまましばらく動けなかった。
どうして。
昨日はあんなに元気そうな顔を見せてくれたのに。あの帯留を見て、あんなに嬉しそうにありがとうと言ってくれたのに。それなのに、なぜ。
これはきっと、悪い夢だ。
ああ、けれど、と絶望しながら、画面を見つめた。
流れ続ける『オールマイトの元相棒 サー・ナイトアイ 殉職』のテロップと、彼のヒーロー名を繰り返す、アナウンサーの無機質な声。
目の前から、すべての色彩が失われたような気がした。手足の先が冷え切っているのに、頭の芯だけが燃えるように熱い。体中から見えない血がじくじくと流れ出ているかのように、ひどく痛む。
それなのに、なぜか涙は出なかった。
***
わたしがあのひと……サー・ナイトアイと出会ったのは、六年ほど前の、底冷えのする寒い夜のことだった。
亡き父が経営していた小料理屋を、ゆずりうけたばかりの頃だ。小料理屋と言っても、カウンター席だけの、五人も入ればいっぱいになってしまう小さな店。
父の時代の常連さんがそのまま通ってくれていたので、経営はそれなりに順調だった。ただひとつの困りごとをのぞいては。
小料理屋は、お酒と料理を楽しんでもらう店だ。だが、若い女が一人でやっているというただそれだけで、あらぬ目的を持つ者がたまにいる。そういう客がちらほらと増え始めていたのが、当時の最大の悩みだった。
「申し訳ありません。うちはそういったお店ではないので……」
「なんだと!」
馴れ馴れしくわたしの手を取った酔客に拒絶の言葉を告げた途端、強烈な怒号を浴びせられた。どう対処すべきか考えを巡らせようとしたその上に、場末の酒場女のくせにと、侮辱的な言葉が降ってくる。
こうした手合いは、相手が女一人だと思うと、ますます高圧的になる。
いつもなら、父のころからの常連さんたちが間に入ってくれるのだが、悪いことに、他に客はいなかった。
本当に困ったことになったと、おろおろしていたその時、からりと入口の扉がひらいた。
「なにごとだ。怒声が外まで聞こえていたが」
入ってきたのは、限りなく白に近いアイスグレーのスーツの上に黒のロングコートを羽織った、背の高い男だった。
柳のように細い長身。金色のメッシュが入った緑色の頭髪に、金色の眉と瞳。
白くきめ細かい肌に端正な顔立ちをしたこの男性に、見覚えがあった。名は失念してしまったが、かつてナンバーワンヒーローの隣で気難しい顔をしていた、頭脳派のヒーロー。
そのヒーローがオールマイトから独立し、この街で事務所を開いたとのうわさを聞いたのは、少し前のことだ。
背の高いヒーローは続ける。
「いずれにせよ、女性に対して声を荒らげるのは感心しない。これ以上続ける気なら、私が相手になるが」
声と共に振り下ろされたのは、鞭の一振りのような、鋭い一瞥。
整った顔立ちをしているからだろうか。ヒーローのまなざしには、ぞっとするほどの迫力と圧がある。凍てつくようなその視線は、恥知らずの酔客を怯ませるのには十分にすぎた。
「な……なに、ちょっと戯れていただけですよ。女将、勘定はここに置いていくぞ」
カウンターにお金を叩きつけるようにして、酔客は店を出ていった。
「相手を怯えさせるような行為を、戯れとは言わない」
吐き捨てるようにそうつぶやいて、長身痩躯がこちらに向き直る。その時、思い出した。このひとの名を。サーだ。そう。たしか、サー・ナイトアイ。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。サー・ナイトアイさんですよね、お噂はかねがね……」
「いや。ヒーローとして当然のことをしたまでです。私のことはサーでよろしい。敬称もいらない」
「でも……」
「まあ、『サーさん』という呼び方は、たしかにユーモアがきいていますね。しかし、いかんせん語呂が悪い」
「…………ユーモア?」
「そう、ユーモアはなにより大切です」
そうかしらと首をかしげたわたしに、サー・ナイトアイは少し得意げな顔をした。金色の縁の眼鏡のブリッジ部分を人差し指でクイとあげ、彼は続ける。
「ところで女将、あなたは店では、いつも和装を?」
「はい。父も作務衣と鉢巻きで店に出ていましたので、わたしも着物と割烹着で……」
「そのこだわりや、良し」
「……ありがとうございます」
「なるほど、確かに悪くはない」
サーはするりとコートを脱いで、わたしの真正面の席に腰掛けた。
「熱燗と、そうだな……糠漬けの盛り合わせと、牛すじの煮込みをいただこうか」
「はい」
おしぼりを手渡すと、ありがとう、といういらえが帰ってきた。先ほどまでの厳しい響きではなく、優しく温かい声だった。
「こちら、本日のお通しです」
小鉢に入れた白子の葱ぽん酢和えを、彼の目の前に置いた。サーはふむ、と口の中でつぶやき、優雅な仕草で箸をとった。
一口食べて、小さく「美味い」とつぶやいた彼。
自分にも他人にも厳しいと噂のあるヒーローのお眼鏡にかなったことにほっとしながら、注文の品をカウンターに置いた。
「おつぎしましょうか?」
「いや、手酌でいい」
大きな手が、ゆっくりと徳利を傾ける。繊細な長い指がとても綺麗。
煮込みに七味を振りかける単純な仕草や箸の上げ下ろしも流れるようで、いちいち絵になるひとだと思った。
「うん。仕事も丁寧だ。女将、若いのになかなかやりますね」
と、花が咲くように、ふわりとサーが笑った。
氷の視線からのこの笑顔はずるい。まるで、雪どけと共に姿を現す、雪割草のようではないか。
「ありがとうございます」
答えた声が、うわずった。
それに気づいたのか、酒杯を傾けながら、サーは目だけでひそかに笑んだ。
思えばこの時から、わたしは彼に特別な感情を抱いていたのかもしれない。
そしてそのまま、サー・ナイトアイはうちの店の常連になった。
人目を引く長身が大きく背をかがめて暖簾をくぐる姿を見るたびに、わたしの胸は躍ったものだ。
彼は相棒を連れて訪れることもあれば、一人でふらりと立ち寄ってくれることもある。そのおかげもあってか、変な手合いの出入りが途絶えた。
これは後から知ったことだが、サーがあの日うちの店に来たのは、偶然ではなかった。
父の時代からの常連さんのひとりが、うちの店の建物と、ナイトアイ事務所が入っているビルのオーナーだった。その常連――泉谷という名のかくしゃくとした老人だ――が、頼んだらしい。若い女が一人でやっている店だから、しばらく様子を気にして欲しいと。
「今日のおすすめは、なんだろうか」
お通しのウドのきんぴらを出したわたしに、サーが笑みながらたずねる。
頭脳派のヒーローは、意外にもよく笑う人だった。
整った顔立ちをした彼は、笑うと実年齢より若く見え、造作の美しさが際立つ。なにより、金の瞳にやわらかい光が宿るのだ。
わたしは、彼の笑顔を見るのが好きだった。
「モツがいい感じに煮えてますよ」
「モツ煮込みか。悪くない。それと吟醸酒を」
「ありがとうございます」
升にグラスをいれ、なみなみと日本酒を注いだ。
「お好きですよね」
「ん?」
「煮込み料理」
「ああ。ある程度自炊はしているけれど、独り者なのでね。煮込みまでは手が回らない」
「ヒーローはお忙しいですものね。時間がかかるような料理は、うちで食べていってください」
「ああ。ありがとう。あなたの料理はうまいから、つい足しげく通ってしまう」
あなたと呼ばれて、どきりとした。女将と呼ばれるよりずっといい。
「おや、サーは女将さん目当てで通ってるんじゃぁねぇのかい?」
と、常連の一人である泉谷が口をはさんだ。
かつてロックバンドを組んでいたという威勢のいい老人は、このあたり一帯の土地やビルを所有する大地主だ。このひとは、いいひとなのだが遠慮がない。
こうしたやりとりを目の当たりにするたびに、わたしははらはらしてしまう。だが当のサーは別段動じる風もなく、軽く金色の眉をあげた。
「なにを言ってるんです。様子を見てやってくれと私に言ったのは、泉谷さんでしょうに」
「そうだけどよ。だからって、こんなに足しげく通うたぁ思わねェじゃねぇか」
「お酒と料理がまずかったなら、来ませんよ。でも、美味しいですからね」
「よく言うぜ。アンタ前に言ってたじゃないか。ここの女将は美人だってよ」
「ええ、確かに言いました。けれど、だから通ってるってわけじゃありません。こうした店は、やはり料理が美味くなくては」
笑いながら泉谷に答え、サーは静かにグラスを置いた。鋭い眼光で敵を睨み付けている時とは全く違う、優しい表情。
「サーは、笑うと印象が柔らかくなりますよね」
「そうですか?」
「ええ。大切な方の前では、いつもそんな表情を見せるのでしょうね。うらやましいわ」
「そんな相手、いませんよ」
特定の人はいないのだろうか。どうしよう、少し期待してしまう。
同時に、美人だと言われたくらいでこんなことを口走る自分を、すこし浅ましいと思った。
「じゃあ、二人、くっついちまえばいいじゃねぇか。美男美女でお似合いだ。女将はいくつになったっけ?」
「二十九です」
「たしかサーは三十八歳だっけか? 九歳差か。やや離れてるが、男が上ならそう珍しくもない年齢差だぁな」
「いいえ、だめです」
先ほどまでとはうって変わった、強い口調だった。びくり、と身を強張らせたわたしに微笑みかけて、サーはまた、続ける。
「ああ、失礼。……あなたが嫌なわけではないんです。ただ私は、特定の相手を作らない主義なので」
作業台上においた手が、自分の意思に反して小刻みに震えてしまう。カウンターがあってよかった。なければきっと、サーはこの手の震えに気づいただろう。同時に、わたしの気持ちにも。
「そうなんですか?」
声が裏返ったりしないよう、細心の注意をはらってたずねた。
「サーは素敵でいらっしゃるから、おモテになるでしょうに。もったいないですね」
「素敵かどうかはわからないし、実際のところ、たいしてモテませんよ。それに、ヒーローは危険な職業ですから」
いらえたサーに、どう反応していいかわからなかった。
オールマイトの相棒であったこのひとが見てきた世界がどれほど過酷か、わたしには想像すらできないからだ。
すると、泉谷が渋面を作った。
「じゃあ、サーはこれからずっと、ひとりでいるつもりかい? 好いた女がいても」
「……むろんです。好きであればこそ、安易につきあうことはできない。きっと、悲しい思いをさせる」
「その男ぶりだ。派手に楽しくやってるのかと思いきや、地味を通り越して、ずいぶん寂しいもんだなぁ」
「職業ヒーローのプライベートなんて、案外、そんなものです」
そうしてサーは金色の目を伏せて、いつものように酒を飲んだ。
彼は冷酒を頼んだ時は常に、なみなみ注がれた酒をグラスの上から一センチのところまで飲んでから、軽くおしぼりで底を拭く。それからグラスをカウンターの上に置いて、升の角に荒塩をひとつまみのせ、升の中にこぼれた酒を、木の香りを楽しみながらゆっくりと飲む。彼が形の良い唇をつけるのは、升の角ではなく、平たい縁。グラスの酒を飲むのは、升を干したその後だ。
角ではなく、平らな縁から酒を飲むのは意外にも難しいのだが、サー・ナイトアイはいつも器用にやってのける。彼がぶざまに酒をこぼしたことなど、ただの一度もない。
この所作が美しいひとは、これから先も、誰のものにもならないと言う。
けれどわたしは、彼の心を深くとらえて離さない人物がいることを知っている。恋慕ではないかもしれないが、その人物はサー・ナイトアイの中に、唯一無二の存在として君臨し続けている。
おそらくこれから先も、いや、きっと永遠に。
「どうかされましたか?」
サーがいぶかしげな顔をする。わたしは、なんでもないような顔をして、嘘をつく。
「明日のお通しを何にしようかと、考えていたんです」
「仕事熱心ですね」
ふふ、と笑んで、話題を変えた。
「それにしても、サーは所作が綺麗ですね。動きに無駄がないというか」
「いや、私などまだまだですよ。比べてオールマイトは素晴らしかった……彼は全ての所作が美しい」
まただ、と思った。
サー・ナイトアイの心をとらえて離さない、ただ一人の人。それが、オールマイトだ。
わたしの想い人は、口を開けばかの平和の象徴のことばかり。けれどサーとオールマイトの関係が、現在どうなっているのか、たずねたりしてはいけない。
それを知らなかった頃――彼がここに通い始めたばかりの話だ――わたしは一度、失敗している。
『今も、オールマイトとはよくお会いになるんですか?』
『いや……会えないんだ……おそらくもう二度とね』
サーはその時下を向いていたので、どんな表情をしていたのかはわからない。けれど、その声に含まれた悲しい響きから、複雑な事情があるのだろうと悟った。
以来、オールマイトの話題は、サーが楽しげに語るに任せ、相槌を打つだけにしている。
「たとえるならば、オールマイトは人々を照らし、そして育む太陽だ」
サー・ナイトアイのオールマイト賛辞は、延々と続く。
たしかにオールマイトはすごいひとだ。それは認める。ヒーロー界の帝王、随一であり、唯一の存在。平和の象徴、正義の象徴。その存在は、犯罪の抑止力となる。
けれど、サー・ナイトアイ。
わたしは、いや、この街のひとは皆知っている。あなたが事務所を開いてくれたおかげで、この街からも犯罪が減った。
オールマイトのような派手さはないけれど、サー・ナイトアイもまた、この街にとってなくてはならないひとになっている。それを、どうしても伝えたかった。
「オールマイトが輝ける太陽であるとしたら、あなたは暗い夜空を優しく照らす月ですね」
さっと、サーの顔が真紅に染まった。そのままふいと横と向いてしまった頭脳派のヒーローは、片手で顔を覆うようにしながら、眼鏡のブリッジ部分をツイと押す。
ほんの一瞬のことだったが、初めて見る表情だった。この冷静なひとも照れることがあるのだと思うと、なんだか嬉しい。
「……月は、私ではなくあなたでしょう」
憮然としたまま、サーが言う。
「あなたは、月のようにたおやかで美しい」
今度は、わたしが赤面する番だった。
こんな仕事をしていると、客に容姿をほめられることは少なくない。女であることを売りにするつもりはないので、いつもは適当にいなしているが、今はそうする余裕がなかった。
「なんだ、バカバカしい。だからくっついちまえって言ってるんだよ、俺は」
泉谷が、わたしたちを交互に長め、呆れたように呟いた。
それに対してサー・ナイトアイは、金色の目を細めて、静かに微笑んだのだった。月あかりのように、はかなく。
***
その日のサーは、はじめから様子がおかしかった。
常のように冷酒を頼み、常のように美しい所作でそれを干す。だが、杯を傾けるペースが、やけに早かった。そのうえ好きであるはずの煮込みにも、お通しの切り干し大根にも、ほとんど手をつけていない。
今夜のサーは、お酒の味を楽しむためというよりも、酔うために飲んでいる。そんな気がした。
「少し、ペースが早いんじゃありません?」
干した酒が五合を超えた時点で、見かねて声をかけた。もともと、そんなにたくさん飲むような人ではないのだ。
だいじょうぶ、とのいらえが帰ってきたが、やはり酔っているのだろう。声にいつもの張りがない。
「和らぎ水をおつけしましょうか?」
「いや……。頼むからこのまま、もう少しだけ飲ませてくれ」
別人のような弱々しい言いように、少し怯んだ。どうしたのだろう、今夜は。
仕方なく注文通り、升の中のコップに、なみなみと吟醸酒を注いだ。
「……ありがとう」
眼の縁を赤く染めながら、サーがわたしを見つめた。黄金色の瞳は、やはりどこか悲しげで。
気を利かせたのか、常連さんたちがひとりふたりと席を立っていく。気づけば、店の中はサーとわたしだけになっていた。
サーはしばらく黙ったまま杯を傾けていたが、いきなり、どっとカウンターにつっぷした。どうしたのかと様子を見ると、すやすやと寝息を立てている。
なんのことはない、酔いつぶれて眠ってしまった、ただそれだけのようだった。
小さくため息をついてから、店の外へと出て、そっとのれんをおろした。
少し早いけれど、今日は店じまいしよう。サーはきっと、こんな無防備な姿を人にみられたくないだろうから。
そう内心でひとりごち、すぐに違うと思い直した。違う。彼の無防備な姿を、他の人に見せたくないのはわたしだ。
普段弱みを見せないクールなヒーローが見せた、別の顔。今はそれを、ひとりじめしたかった。
のれんをさげ、看板の灯りを消してから、バックヤードに置いていたストールを、眠っている愛しい男の背にかけた。
「……オールマイト……なぜ……」
薄く形の良い唇から漏れた、平和の象徴の名。
ああ、ほら、また、オールマイト。
わかっていた。サー・ナイトアイの中には、オールマイトしかいないと。普段冷静なこのひとを、ここまで荒れさせてしまうのは、平和の象徴ただ一人だと。
サーとオールマイトとの間に、何があったのかはわからない。けれど、サーが苦しみ続けていることだけはわかる。
泣きたい気持ちになりながら、厨房の火を落とし、全ての片づけを済ませて、彼の隣に腰掛けた。
通った鼻筋に、くっきりとした涼やかな目元。形の良い唇と、きめの細かい肌。整った造作の、彼の顔。
けれどその表情は、常とは少し違っている。初めて目の当たりにした、無防備な寝顔。困ったことだ。それが、こんなにも愛おしく思えてしまうなんて。
しばらくそのまま寝顔を楽しみ、そして大きくため息をついた。
いつまでもこのままではいられないことも、わかっている。カウンターにつっぷしたまま、朝を迎えさせるわけにはいかない。彼の翌日の仕事に支障が出てしまう。
「起きてください」
もう少しこの寝顔を見ていたいと思いながら、声をかけた。
「は!」
わたしの声に、サーが慌てて立ち上がった。が、酔いのせいだろう。長い脚がたたらを踏んで、数歩よろけた。
「あぶない!」
わたしが慌てて伸ばした手は、互いにとってマイナスに働いた。
身長が二メートルあるサーは、痩せてはいるがそれなりに体重がある。彼の重みを支えきれず、わたしも大きく体勢を崩した。
倒れ込む寸前で、サーがわたしと床の間に入り込んだ。続いて、どん、という派手な音と、軽い衝撃。自然、彼はわたしの身体をそのまま受け止めることになる。
「……ごめんなさい。わたし、余計なことを」
「いや、こちらこそ申し訳ない。お怪我は?」
「わたしは大丈夫です。サーこそ」
「私はそれなりに鍛えていますから」
サーはちいさく笑った。しかし、笑うとやわらかな光をたたえるはずの黄金色の瞳は、未だ暗い陰に包まれている。
たまらない、と思った。
このひとの苦悩を、このひとの哀しみを、どうにかできないものだろうか。せめて、この一夜だけでも。
床の上で抱き合うような形で倒れ込んでいる、恋人同士でもない男女。そんな不自然な状況にあって、未だ自分の上からどかないわたしに、サーは困惑しているようすだった。
「あの……?」
言葉を紡ごうとした彼の唇に、人差し指でそっと触れた。
――もう、なにもいわないで。
金色の瞳が、大きく揺らいだ。この時、彼の中でなにかが破綻したのがわかった。虹彩の奥に灯ったのは、柔らかなひかりと、欲という名の小さな炎。
しばらく見つめあったのちに、形の良い大きな手が、わたしの頬に当てられた。わたしも、彼の首に手をまわした。
そのままゆっくりと、あわせられた唇。
意外にも、サーのキスは巧みだった。触れたり離れたりを繰り返したのち、また、深く唇を重ねる。歯列を割って侵入してきた舌はやわらかく、わたしの口蓋や舌を弄ぶ。
重なった唇から、吐息がもれた。
「みらい、といいます」
「はい?」
「佐々木未来、私の名です」
「……未来さん」
はい、と軽くうなずき、彼はもう一度、わたしに口づけた。
そこから先は、もう、お決まりの通りだ。
服の上からは薄く細いようにしか見えなかった彼の体は、筋肉の鎧で覆われていた。ことに、六つに割れた腹直筋と、盛り上がった腸腰筋が美しかった。
サーは特定の相手を作らないと言っていたが、それなりに女性経験はあるようだった。
行為の最中、わたしは何度も彼の名を呼び、彼もまた、わたしの名を呼んだ。幾度も、幾度も。
わたしに触れる、長く繊細な指先と、身長に比例した彼の雄。それらは女の体を知り尽くしており、彼は丁寧にわたしの身体をひらき、確実にそして幾度も、快楽の果てへと導いた。
わたしたちはそのまま、一夜を過ごした。
それは出会ったあの冬の日から五年ちかくの月日が経過した、春の夜のことだった。
2018.4.20