コミックス18巻の重大なネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください
目が覚めると、隣に、青ざめた顔をしたサーがいた。
「その……」
絞り出すような声、気まずそうな表情。
テレビドラマや映画で、こういう雰囲気のなか男性が言うセリフは、たいてい決まっている。
そして次に彼から出た言葉は、まったく、予想通りのものだった。
「本当に……面目ない……」
「謝らないでください」
謝罪の言葉は聞きたくなかった。自分がみじめになるだけだ。心の底で、こうなることも覚悟していた。だから、なんでもないというように、小さく笑った。
「合意の上の行為です。お互い大人なんですもの、今までどおり、ね」
すまなさそうに頭を下げるサーにそう告げながらも、わたしにはわかっていた。あの夜を忘れることなどできないだろうと。
一夜のあやまちと流してしまうには、あまりにも濃密で、あまりにも熱い夜だった。
そしてその後、サーはわたしの言葉通りの行動をとった。
ほとぼりが冷めるまで来店を控えるのかと思いきや、まったくそんなことはなく。今までどおり週に数回来店し、好きな料理や適量の酒を楽しんだ。わたしへの対応も、以前とかわることはない。
本当になにもなかったような彼の態度に、わたしが傷つかなかったと言えばうそになる。
***
いつも時間に正確なはずのサーが開店前に店を訪れたのは、そんなことがあってから一月ほどが経過した、蒸し暑い夕方のことだった。
「ごめんなさい。開店は六時からなんです」
「知っている。今日はおみやげを渡しに来たんです」
「まあ、ありがとうございます」
サーがお土産を買ってきてくれるのは、これが初めてではない。遠方に出向いた際にはいつも、その地の名産品や菓子類を持ってきてくれる。これは彼だけでなく、他の常連さんたちもしてくれていることだ。
ところが、サーがポケットから取り出したのは装身具だった。ラッピングはされていない。男性用のハンカチに無造作にくるまれた、銀色の帯留。
「真鍮……いえ、銀でしょうか?」
「ええ。アンティークです」
見事な細工だった。
源氏車をかたどったもので、車軸の部分には大きめの銀の玉。車軸は十二本あり、その一本一本が、丁寧なミル打ちで装飾されている。
中心の源氏車の周りを、一回り大きな円と放射状の柱が飾っていた。その左右にも台形の装飾が成され、そこにもまた、こまやかな彫り。
くるりと帯留を裏返す、と、金具の縁に、小さな刻印がある。五角形の中にNの文字が刻まれたロゴを、この源氏車のデザインを、どこかで見たことがあるような気がした。
「きれいですね」
「蚤の市で見つけたものです。あなたに似合うかと思って」
そう言って、サーは少年のように屈託なく笑った。
どうかえせばいいか、少し迷った。これは「あの夜」に対する、彼なりの謝罪なのだろうか。
だとしたら受け取れない。
「こんな高価なもの、いただけません」
「蚤の市の片隅で、黒く酸化した状態で売られていたものです。価格は菓子折りとさほど変わらない。磨きにだしたら綺麗になった、それだけです。あなたには、いつもよくしてもらっているから」
「よくしていただいているのは、こちらの方ですわ。ですから、このようなことをされては困ります」
「頼むから、受け取ってはくれないだろうか。女性向け、それも和装用の装身具を私が持っていても、仕方ないんだ」
サーらしくない、と思った。まず口数が多すぎる。それに、どこか必死なようすが気になった。
「他の女性にさしあげたらいかがです?」
「そんな相手はいない」
少し怒ったような顔で、サーは言った。
勝手なものだ。怒りたいのはこちらのほうなのに。
「私が個人的に親しくしている女性は、あなただけだ」
「……ひどいひと」
わたしの言葉に、サー・ナイトアイは軽く眉をさげ、困ったように微笑した。
ああ、本当にひどいひと。
このひとは、わたしの気持ちに気づいている。気づいていて尚、こんな真似をしてくるなんて。
「わたし、あなたが嫌いです」
「嫌いでけっこう。だからどうか、これを受け取ってはもらえないだろうか」
まっすぐわたしを見据えて、サーが言った。
金色の瞳に映る、自分の姿。こんなにも腹立たしいのに、サーの瞳の中にいるわたしは、泣きそうな顔をしている。これでは、すべて見透かされても当然だ。
「じゃあ、そういうことで」
サーはわたしの手に帯留を押し付けて、そのまま大股で去って行った。手の中に残されたのは、繊細な細工の美しい帯留。
「ひどいひと……」
さきほど彼にぶつけたのと同じ言葉を、もう一度呟いた。けれどそれでも本当は、サーがわたしのために帯留を選んでくれたことが嬉しかった。
価格は問題ではなかった。これを求める時、彼はわたしを想っただろう。ほんのわずかの時間でも、あのひとの心を満たせたことが、こんなにも嬉しい。
わたしはまだ、あの優しいけれど冷たいひとが好きなのだ。悲しいくらいに。
***
「どうぞ、鯵の南蛮漬けです」
「おいおい、女将。サーはそれ頼んでねえだろ」
泉谷がからかうような声をあげた。目ざとい、と、内心で呆れながら、静かに応える。
「いいんです。これは先日いただいたもののお礼ですから」
「お、サー。やるじゃねぇか。なにをプレゼントしたんだよ」
「帯留ですよ。東京に行ったときに、蚤の市でみつけたものです」
「おいおい、蚤の市たぁ、高給取りのヒーローにしちゃあ、やることがしょぼいじゃないか。綺麗なおねーちゃんを落としたかったら、ブランド物のアクセサリーくらい持ってこねぇと」
「いいんですよ。そんな目的で買ってきたわけではありませんから」
「そうです。サーには下心なんてないんですから」
わざと不愛想にいらえたわたしを見て、サーが目を細めて笑う。
「ところで、あなたはあの帯留をつけた姿を、いつ私に見せてくれるのだろうか?」
「つけたとしても見せませんよ。わたしとサーはそんな仲ではありませんから」
「おや、その言い方はかわいくない。ユーモアのかけらもないな」
「かわいいだなんて思っていただかなくて結構ですし、ユーモラスである必要性も感じません」
いらえながら、そっと自分の腹部に手を当てる。
白い割烹着の下に隠されたそこには、銀の帯留。
好いた男からもらった装身具を毎日身につけておきながら、わたしはそれを誰にも気取らせない。
こちらの気持ちを知って装飾品を贈り、つけているところを見せろと言う。そんな男のずるさに対する、それはささやかな復讐だった。
***
観劇帰りの夕方、店の前に立ち尽くす長身を見つけた。
夕暮れの中にたたずむ、限りなく白に近いアイスグレーのスーツの男性。わたしがそのひとを、見間違えるはずもなく。
「サー?」
わたしの声に、長身痩躯が振り返る。
「どうされました?」
「いや、夕飯をと思って寄ってみたんですが、よく考えたら、今日は定休日でしたね」
「せっかくいらしてくださったのに、申し訳ありません」
「いや、失念していたこちらのミスだ。気にしないでください」
そう言いながら、サーはいかにも残念といったようすで肩を落とした。もともとなで肩気味の人だ。そうすると、細い身体が、ますますさみしげに見えてしまう。
「あの……」
「ん?」
「本当はいけないんですけど、こっそりお店やりましょうか?」
「え? いや……でも」
「今回だけですよ。他の方には内緒にしてくださいね。シャッターを開けちゃうと灯りが漏れちゃうんで、こちらから入ってください」
どきどきしながら、彼を裏口へと導いた。
「いや……でもこれは……まずいでしょう」
「はい?」
「無防備なのにもほどがある」
「そうですか?」
「シャッターのしまった店内で、男と二人きり。もう少し警戒して欲しいものです」
「だって、サーはヒーローじゃありませんか」
「ヒーローだって男です。私は健康で、それなりの欲を持った男であり、あなたは若くて美しい女性だ。なにが起こるかわからない」
憮然とした調子に、思わずため息が漏れる。なにを言っているのだろう、このひとは。
「……あのね、サー」
「なんです?」
「すでにわたしたち、一度いたしてしまっているじゃないですか」
「…………」
「だから、それについては、今さらって感じじゃありません?」
「……それを言われると、返す言葉もない」
「あ、謝らないでくださいね」
ぴしゃりと告げたわたしの声に、広く大きいはずの背中が小さく丸まる。
「それに、わたしがこんなふうにするのは、サーだけですから」
「……その言い方は、ずるい」
「ずるいのはお互い様です」
身に覚えがあるであろう男は、一瞬、気まずそうな表情をした。けれど彼は、すぐになにもなかったような顔にもどり、そのまま中指で、眼鏡のブリッジをもちあげた。
わたしもなにも気づかないふうで、彼にそっと微笑みかける。
「お酒はなににいたしましょうか」
「ああ、今日はお酒はけっこう。明日は早朝から、ハードな仕事が入っているので」
ストイックなこのひとは、ときおりこういうことを言う。酒を飲まないなら定食屋に行けと泉谷に揶揄されてもどこ吹く風で、サーはさらりと告げるのだ。
――どこの店より、ここの料理が一番おいしいんですよ。
そんな一言で、幸せになれてしまうわたしは、やはり単純な女なのだと思う。
「お酒なしだと、ご飯ものがいいですよね。土鍋で秋刀魚ご飯でも炊きましょうか」
「……いいですね。自分では作れない料理だ」
「すぐ準備しますね」
エアコンをつけ、お気に入りの小紋の上から割烹着をつける。サーがぽそりと呟いた。
「今日もお着物なんですね。お休みの日は洋装でいると聞いていましたが」
「お友達と観劇に出かけたので、ちょっとオシャレしてみたんです」
「なるほど。でも嬉しいな。使ってくれていたのか」
「はい?」
「帯留」
「せっかくの観劇ですから、たまにはと思いまして……」
見られてしまった気恥ずかしさに、ぽつりと答える。
するとサーは、目を細めた。嬉しそうに、眩しそうに。
「ありがとう」
ふかぶかと頭を下げられ、なんだか不思議な気持ちになった。お礼を言うのはこちらのほうだろうに。
こちらこそです、と答えながらごぼうをささがきにし、水にさらした。人参もごぼう同様ささがきに。しめじは根元を切って、小房に分けた。
サーは、黙ったままわたしが調理をするようすを見つめている。見られていると思うと、なんだか緊張してしまう。
軽く息をついてから、頭を落としワタの処理をした秋刀魚を、三枚に下ろした。面倒なようだけれど、ここで丁寧に小骨を取ることを忘れてはいけない。
秋刀魚に塩を振り、網で両面を軽く焼く。それを研いだお米や切った野菜の上に置き、だし汁と合わせた調味料を定量注いだ。その上から梅干と千切りにしたしょうがを乗せて、蓋をして、火にかける。
「すごいな、動きにぜんぜん無駄がない」
「ありがとうございます。おかずはどうしましょうか。あまり凝った物はできませんけど」
「だし巻卵はできますか?」
「できますよ。ひじきでもお入れしましょうか? お好きですよね」
「お願いします」
ごはんが炊けるのを待ちながら、水で戻したひじきとだし汁を入れた卵を焼き、水菜のサラダと切り干し大根と、豆腐となめこの赤だし味噌汁を用意する。
小料理屋のメニューというより、一般家庭の食事みたい。
「せっかくだから、あなたも一緒に召しあがりませんか? たまにはいいでしょう?」
「え……でも」
躊躇しているわたしに、サー・ナイトアイはふたたび、ぜひ一緒に、と畳み掛けてきた。彼に恋をしているわたしが、それに抗いきれるはずもなく。
「……そうですね。じゃあ、これも他の皆さんには内緒で」
自分のぶんの料理を盛り、サーの隣に座って、いただきますと手を合わせた。
自分が作ったカウンターの上の料理を、しげしげと眺めた。お魚の入った炊き込みご飯と、卵焼きと、サラダと切り干し、それから、赤だしのお味噌汁。
本当に、ふつうの家庭の食事のようだ。
もしもサーがヒーローではなく普通のサラリーマンであったなら、こんな未来を夢見ることもできただろうか。
平凡だけれど、優しくあたたかい暮らしを、あなたと。
「いや、ごちそうさまでした」
「いいえ。またいらしてくださいね」
店の裏口で、サーを見送った。
こうして並ぶと、彼の背の高さを思い知らされる。
背が高くて、手足が長くて、顔が小さくて、細く見えるややなで肩の身体は、しっかり鍛えられていて。
やっぱりこのひとが好きだなと、しみじみ思った。
「どうしました?」
と、けげんそうな顔でサーが尋ねる。なんでもないです、と答えると、彼が、ふいに背をかがめた。
続けて差し出された大きな手のひらが、わたしの頬をそっと撫でる。
あの夜と同じ、優しい手。
サーは何も告げず、わたしも何も言わなかった。
なにかひとことでも口にしてしまったら、すべてが崩れ落ちてしまいそうな、そんな気がした。
どれくらいそうしていただろう。しばらくのあいだ、無言でわたしたちは見つめあっていたが、やがて、サーが微笑しながら囁いた。
「……今夜あなたに、逢えて良かった……」
「サー?」
「おやすみなさい。今日はありがとう」
サー・ナイトアイは、くるりと背を向けて夜の闇の中へととけていく。
そして翌日、サーは帰らぬ人となった。
***
「いらっしゃいませ」
扉の開く音に顔をあげ、自分の目を疑った。
軽く身をかがめて店の中に入ってきたのが、オールマイトだったからだ。
サーより一回り大きな長身の背後には、ナイトアイ事務所所属のヒーローである、センチピーダーとバブルガールが立っている。
「ナイトアイが、こちらをよく利用されていたとか」
モニター越しで聞くよりずっと落ち着いた、オールマイトの声。
「今日は彼の初七日にあたります。ナイトアイを偲ぶ意味もあって、こちらに寄らせていただきました」
「ありがとうございます」
ナンバーワンヒーローは、サーの言っていたとおり、物腰の柔らかい、所作の美しいひとだった。
けれどわたしは、あの夜の悲しげな彼の声が忘れられない。
オールマイト。あなたは知っているでしょうか。
わたしの愛しいあのひとは、あなたのことばかり話していました。できることなら、サーが亡くなってからではなく、生きている時に来てほしかった。ここで、サーと杯を酌み交わしてほしかった。きっと彼は、喜んだことでしょうに。
けれど余計なことは言うまい。わたしたちは、等しく彼を失っている。
そしてなにより、わたしはサーの知人にすぎない。オールマイトに物申せるような立場ではない。
だから注文された飲み物と料理を供しながら、あたりさわりのない会話をした。
「そうだ。これを女将さんに。サーからです」
しばしの時間が過ぎた後、センチピーダーが鞄の中から薄い箱を取り出した。
「わたしに?」
「サーの遺書のなかにありました」
「遺書?」
「慣習として、遺書を用意しているヒーローは多いんです」
「……みなさん、お書きになるんですか?」
「大抵のヒーローは用意しているんじゃないかな。私も書いていましたよ。覚悟のあらわれみたいなものです」
さり気なく会話に加わったオールマイトの言に驚いた。ヒーローとは、そこまで過酷な職であったのか。普通に結婚しているひともいるというのに。
危険の多い仕事ですから、というサーの声が、脳裏によみがえる。
「目録にあなたの名前が記されていました。どうぞお納めください」
手渡されたそれは、だがどうみても、遺書のようには見えない。
「……手紙のようには、見えませんわね」
「遺品である場合もありますよ。よろしければ、あけてみたらいかがですか? もしも中に手紙が入っていたら、それはおひとりになったときに、ゆっくり読めばいいんじゃないかな」
オールマイトの言葉に、小さくうなずいて、箱をあけた。
中身は薄いブック型のケースだった。手紙らしきものは入っていない。
「保証書……いえ、証明書でしょうか?」
「どうやらニキモトのもののようだね。……ほら、ケースの中央に刻印が」
オールマイトのさしたロゴを目視した瞬間、全身の毛が逆立った。
このロゴに見覚えがある。毎日身につけているものの裏に、小さく刻まれているものだ。
五角形の中に、Nの刻印。
「ニキモトのブランドロゴは、ローマ字でそのままNIKIMOTOではありませんでした?」
「最近のものはそうだね。これは創立期から百年目まで使用されていた、古いロゴだ。アンティークのニキモト製品には、たいていこのロゴが刻まれている」
震える手で、証明書を開いた。
そこに記されていたのは、型番号と、銀、帯留、の文字。
「銀の帯留? でもニキモトって、真珠で有名なブランドですよね。それにニキモトは、エンゲージリングのダイヤモンドにしか保証書を出さないってききますけど」
バブルガールの言葉に、ちいさくうなずく。
この時、オールマイトの顔色が、さっと変わった。
「銀の帯留に、ニキモトが証明書?」
「はい」
「その帯留、いまどこにある?」
「今、つけてますけど」
「悪いけど、ちょっと見せてもらえないかな」
「はい。お待ちくださいね」
くるりとうしろを向いて、帯が落ちないよう細心の注意を払いながら帯締めをゆるめ、帯留をはずす。もう一度帯締めを締め直し、はずした銀細工をオールマイトの前に置いた。
ごくり、と、オールマイトが息を飲んだのがわかった。
「……これは……源氏車じゃないか……」
「源氏車? まさか」
源氏車と聞いて、思わず笑ってしまった。あまりにも、突拍子のない話だ。
『ニキモトの源氏車』といえば、我が国のジュエリー史に燦然と輝く名品のひとつ。日本の伝統的な文様の一つである、源氏車をモチーフに作られた逸品だ。二十世紀初頭、欧州で開かれた万博に向け制作されたものと言われる。
和装雑誌に載っているのを、わたしもみたことがある。
そんな品が、まさか。
けれど、言われてみれば、この帯留と源氏車は確かに似ている。前々から既視感はあった。
しかし源氏車は銀ではない。細部にミル打ち加工が成されたプラチナの土台に、パールやルビー、ダイヤモンドなどの宝石が、これでもかとカリブル留めされた、たいへん豪華な宝飾品だ。
「デザインはよく似ているようですけど、こちらはすべて銀でできていますし、ニキモトの源氏車とは違うのではないでしょうか。文様としての源氏車をモチーフにした製品は、山ほどありますし」
「その通りなんだけどね、ニキモトの源氏車には幻の姉妹品があるんだ。源氏車とほぼ同じデザインでありながらすべてが銀で作られたその品は、ニキモトの創始者である仁木元幸造が趣味で作らせたものと言われている」
「……お詳しいんですね」
「ナイトアイが相棒だった頃に、ニキモトのイベントにゲストとして呼ばれたことがあってね。源氏車はその時のメイン展示物だったんだ。そこで銀の源氏車の存在を、ニキモトの現会長から教えてもらった」
オールマイトは静かに続ける。
「銀の源氏車が幻と呼ばれているのは、長年行方が知れなかったためだ。だが、近年、『ある収集家からニキモトに源氏車の姉妹品が持ち込まれた』といううわさが出回った。収集家はニキモトに鑑定のみを依頼し、売却せず手元に置いたらしいが……」
「じゃあ、これは……」
「源氏車の姉妹品だよ。そしておそらく、ニキモトに鑑定を依頼したのはナイトアイだ」
どうして、と叫びだしたい気持ちになった。
わざわざメーカーに持ち込んで、証明書を出させるくらいだ。サーは初めから、この帯留の価値を知っていたに違いない。それなのに、なぜ。
「そんなにすごいものなんですか?」
バブルガールの問いに、オールマイトが答える。
「銀の貴金属としての価値は、そう高くない。だが源氏車の姉妹品ともなれば、話は別だ。この鑑定書と共にオークションにでも出せば、相当な値がつくだろうね。すくなくとも、ニキモトは欲しがるはずだ。本家の源氏車と並べて展示すれば、いい宣伝になる」
「……サーは、どうしてこれをわたしに? わたしたちは本当に、そんな関係ではなかったのです……」
「あなたに、身に着けていてほしかったのではないかな。きっと」
――嫌いでけっこう。だからどうか、これを受け取ってくれないだろうか――
あの時の、静かだけれど意志のこもった声が耳によみがえる。あの時、サーはどんな気持ちで、わたしにこの高価な帯留を渡したのだろう。
「ナイトアイにとって、あなたは特別なひとだったのだと思いますよ。彼は意味もなく女性に贈り物をするような人間ではなかった。ナイトアイがあなたと深い関係にならなかったのは、きっと……」
「きっと?」
「いや……やめておきましょう。憶測で話していいようなことじゃない。」
オールマイトはここで言葉を切ったが、わたしはある可能性に気がついた。
「……サーは、自身の死を予知していたのでしょうか」
「詳しくは話せないが、ナイトアイの個性は他者の未来を見るものだ。だから自分のことを見ることはできなかったんじゃないかな」
「誰かほかのひとの未来を通して、己の死……たとえば葬儀の場面などを見たということは考えられないでしょうか」
「……可能性としてはあるかもしれないね。でもそれは、ナイトアイ本人にしかわからないことだよ」
もしそうであったとしたら、己の脳に直接入り込んでくる自身の死の情報は、彼にどれだけの影を落としただろう。人に聞かされるのとは、その重さが違う。しかもそれが、一度や二度ではなかったとしたら。
もちろん、これはあくまでも、わたしの推測にすぎない。
でもそうであれば納得がいく。サーがどうしてあんなにも頑なに、自分の気持ちを封印しようとしていたか。
そうだ。本当は知っていた。サーがわたしに、好意以上の感情を抱いていたことを。そうでなければ、わたしだって、自分から誘うような真似はしない。
事後に縋らなかったのは、怖かったからだ。困らせるような真似をして、彼が去っていくのがなによりも怖かった。
だからつかず離れず、一定の距離をおいて、蜘蛛の糸のような細いつながりを続けていくつもりだった。
でも……でも、サー・ナイトアイ。
ほんとうは、ずっと言いたかった。あなたが好きだと。
ほんとうは、もう一度呼びたかった。佐々木未来という、あなたの名前を。
その手にもう一度触れ、その長い腕の中で、眠りたかった。
言えばよかった。泣けばよかった。あなたが欲しいと叫べばよかった。
たとえたまゆらであろうともあなたと共に過ごす時間をもちたいと、細い身体にしがみついて、伝えればよかった。
どんなに後悔しても、もう遅い。この声は、この叫びは、もう、彼には届かない。
ぼろぼろと、涙があふれた。
わたしはこの日、サーを亡くして初めて泣いた。それは彼がわたしを置いて逝ってしまってから七日目の、初秋の夜のことだった。
***
すっかり日が落ちるのが早くなった。そのはずだ、単衣の時期もすでに過ぎた。
もう、暦はすでに秋。袷の季節。
今日のわたしのコーディネートは、アイスグレーの無地の紬に、幾何学模様の名古屋帯。淡い青の帯揚げと、朱の三分紐、そして、月あかりを編んだように繊細な、源氏車の銀の帯留。
この帯留は、あのひとがわたしに残してくれた、ただひとつの証。
――どうです? あとから種明かしされるのも、ユーモアが効いていていいでしょう?――
そんな声が聞こえたような気がして、ちいさく笑んだ。
一つ息をついてから、のれんをかかげ、空を見上げる。
今夜は新月。晴れているのに、月のない夜。この空は、わたしのこれからの人生のよう。
きっとわたしは月のない夜をさまようように、暗闇の中をひとり、生きていくのでしょう。
サー・ナイトアイ……あなたはわたしを優しく照らす、月のようなひとでした。
2018.4.22