バスルーム

 急なにわか雨にやられて、慌てて自宅マンションのエントランスに駆け込んだ。まったく、珍しく定時にあがれたと思えばこれだ。春の盛りとはいえ夕方以降は存外冷える。風邪をひきませんように、と口の中で呟いて、ちょうど来た高層階用エレベーターに飛び乗った。

***

「柊依、おかえり!」

 キーをかざして玄関扉を開けたとたん、満面の笑顔に出迎えられ、驚いた。

「帰ってたの?」

 うん、と答えた長身痩躯が屈託なく笑みながら、タオルを一つ差し出した。

「ありがとう」

 解錠音がしたと同時にタオルを用意し、玄関まで来てくれたのか。そのすばやさはさすがだし、優しい気持ちも嬉しいけれど、家にいるときくらいくつろいでいて欲しい気もする。

「今日は事件が少なくてね。だからそう疲れてはいないんだ」

 わたしの心中を読んだかのように、俊典がつぶやく。そんなこと言って、要請があればまたすぐに飛び出していくくせに。浮かんだ言葉を飲み込んで、わたしも彼に笑みを返した。

「お風呂もね、入れてあるんだ」

 そわそわと手を動かしながら、俊典がまた微笑んだ。わたしはもう一度、ありがとう、と告げて、軽く背伸びをする。俊典がこの合図を見逃すはずもなく、わたしに向かってかがみ込む。続けて乾いた唇がわたしのそれに重ねられ、わたしたちはただいまとおかえりのキスを交わすのだ。いつものように。
 唇が離れ、俊典ににこりと微笑みを投げ、わたしはバスルームへと向かった。いや、向かおうとした。
 それを阻んだのは、低いけれども柔らかい、落ち着いた声。

「待って、柊依。一緒に行こうよ」

 どうして、と問う間もなく、俊典が背後から正方形の箱を取り出した。大きな男の大きな手にあるものだから一見すると小さく感じるが、よく見るとけっこうな大きさの箱だ。こんな大きなものをよく隠していたなと思ったが、彼の身体は横幅はないが上背はある。箱を背に隠すのは、そう難しいことではないのかもしれない。
 何が入っているのかとのぞき込もうとしたけれど、まだナイショ、との言葉と共に肉の薄い身体に阻まれた。阻むと言っても、身体に触れるわけではない。彼がこちらの動きを先に読み、体をずらす、それだけ。だが、ただそれだけのことなのに、わたしは動きが封じられてしまった。まったく、達人というのはこれだから。
 しかたない、とうなずくと、俊典は鼻歌まじりにバスルームへと向かった。わたしもまた、それにならう。
 浴室につくなり、彼は浴槽と正方形の箱のフタを、ぱかりと開けた。

「あ」
「綺麗だろ?」

 箱の中身は花だった。赤、白、そして濃淡さまざまなピンク色の、とてもとても綺麗な薔薇だ。大きな箱にきっちりと詰められている薔薇の数は、たいそうなものだ。箱のふちに100と印字されているから、おそらくそれが花数だろう。

「いただいたんだ。お風呂用の薔薇だからこのまま入れても大丈夫だって」
「花の部分だけなのね。贅沢」
「そうなんだ」

 困ったことだ。得意げに胸を張る中年男性が、どうしようもなくかわいく見える。そして彼は、お湯の張られたバスタブに、ゆっくりと薔薇を落とし始めた。

「わたしも手伝おうか?」
「いや、君は濡れた服を脱いでおいで。そのままでは風邪をひく」
「……あなた、わたしが服を脱いだあと、どうするつもり?」

 薔薇を湯船に浮かべていた手が、ぴたりと止まる。そして彼はくるりとこちらを振り返り、人差し指を顎に当て、長い首をかしげた。

「私も一緒に入りたいな。ダメ?」

 あざとい、と思いながらも笑ってしまった。自分のかわいさを自覚しているのかいないのか。まあ、おそらく自覚はしているのだろうが、こんなふうに甘えてこられると、悪い気はしないし、言うことを聞いてあげてもいいかな、という気持ちにもなる。

「……たまにはいいわね」
「ありがとう」
「電気は消してもらいたいけど」
「オーケー」

 わたしの額にキスを落として、俊典が満面の笑みをうかべた。

***

 ローズの香がただよう浴室の中で、キャンドルのあかりに照らされた、俊典の彫りの深い顔を見上げた。

「なんだい?」
「ハンサムだなあと思って」

 あえて古い言い方をした。イケメン、という言葉より、古き時代のこの言葉の方が、俊典にはふさわしいような気がしたから。

「ありがとう」

 特に謙遜することもなく――なぜって彼は自分が魅力的であることを充分すぎるほど知っているから――俊典がうなずく。わたしは軽く息を吐き、目線を落とした。
 転じた視点の先にあるのは、四年前に敵に付けられた大きな傷跡を有する、薄いが広い胸。痛々しいケロイド状のそれに人差しゆびでそっと触れると、俊典が軽く、眉をあげた。

「……そこはね、弱いんだ」
「知ってる」

 つ……と放射状に広がる傷をなぞる。と、くぐもった吐息があがった。皮膚が敏感になっているこの部分は、強い力で刺激されると痛みを感じるようだが、ひそやかにそっと触れると快楽への道筋にかわることを、わたしはすでに知っている。
 ほのくらいバスルームで、キャンドルの炎があやしくゆらめく。
 電気を消すよう頼んだのは、ムードやロマンを重視したためでなく、皓々とした灯りの下で裸体を晒すのが照れくさいという、ただそれだけの理由だった。けれど今、この薄闇が、揺れる炎が、互いの情欲をかき立てている。
 キャンドルの密やかなあかりの下で、百輪の薔薇がひっそりと咲く。湯に浸かりながら軽く身動きすると、小さなさざなみと共に、人工的な香りとは異なる生花特有の青い香りが、ふわりと立ちのぼった。

「まったく、君は本当に悪い子だ」

 俊典が、わたしの手をとり、指先をかりりと噛んだ。

「そう?」

 わたしは俊典の空いている方の手を取り、長い指を口元へと運ぶ。わたしのそれと比べると、太くてごつごつしていて節くれ立った俊典の人差しゆび。だがこの手には小さな傷がたくさんある。この傷も胸の大きな傷も、このひとが命を削って人々を救い続けてきた証。
 複雑な気持ちを抑えながら、長い指にキスをして指先を口の中に含んだ。湯に浮かべられた花のすきまから、彼の男性自身がゆっくりと立ち上がっていくのが見える。

「本当に悪い子だ。こんなに、いけないことをするなんて」

 軽く息をついて、俊典がささやく。そうして彼は、わたしの鎖骨に乾いた唇を落とし、強く吸った。

「これも、いけないことなの?」
「いや」

 軽く目を細め、俊典がわたしの頬に手を添えた。
 かさねられた唇に、飲み込まれた吐息。
 ほのくらいバスルームの中を、百輪の薔薇の香りが濃厚にひろがっていった。

2023.4.21

原作一話より一年くらい前のお話なので本当はもっと前に収録すべきですが今はここに置いときます。
Twitterのアンケートにより生まれたお話。テーマは大人しっとり+えっち

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