オーバーチュア

「わーたーしーがー!」

 聞き慣れた低音が響くと同時に、教室の扉が開かれた。続いて姿を現したのは、見慣れたヒーローコスチュームに身を包んだ、鍛え上げられた巨躯。

「普通にドアから来た!」

 高らかに笑うそのひとは、まったく普通のひとではない。ヒーローの卵である雄英生にとってだけでなく、人々の憧れの存在だった。そのひとの名はオールマイト。個性も本名も明らかにしていない、謎多き、ナンバーワンヒーロー。
 ご多分に漏れず、彩果もオールマイトに憧れ、雄英に入った。いや、憧れなどという中途半端な気持ちではない。それはふつふつと湧き上がる、熱い感情。必ずや自分はプロになり、かのひとと同じ場所に立ち、同じ景色を見る。そう心に誓い、彩果は雄英の門をくぐったのだった。
 と、その時、大柄なヒーローの姿が、大きくゆがんだ。次の瞬間彩果の頬を伝ったのは、熱い大粒の液体。それは次から次へとあふれ出て、彩果の頬をぬらし続ける。

「ヘイ。そこの少女。どうしたんだい?」

 その言葉が自分のことを指しているのだということは、わかっていた。だが、声がでない。だから彩果は無言のまま、ばたばたと涙を流し続けた。
 すると平和の象徴は、つかつかと彩果の前までやってきた。

「大丈夫かい? なにかあった?」
「違いますよ。そいつ、オールマイトの大ファンなんです」

 彩果のかわりに答えたのは、隣の席の生徒だった。

「え、私のファン? ええと、今発言した君。君とその少女の名前は?」
「俺は雨森宗冴です。泣いてるのは、姿月彩果」
「ありがとう雨森少年。なるほど、姿月少女は私に会えた感激のあまり、泣いてしまったというわけかい?」
「だと思います」

 あきれ声で告げたクラスメイトの言葉を受けて、うんうんと彩果はうなずいた。それを受け、オールマイトがまた、高らかに笑う。

「なるほど、熱烈なのは嬉しいが、これじゃ授業にならない。姿月少女、悪いけどその真珠みたいに綺麗な涙、今はとめてもらえるかい?」
「はい……」

 かろうじて声を絞り出し、彩果はミニタオルで涙を拭った。
 醜態をさらしてしまった。しかも、誰よりも尊敬し、憧れ続けた人の前で。会っただけで泣いてしまうなんて。これではヒーロー失格だ。おそらくオールマイトも同じように感じたに違いない。ヒーロー予備軍としての、自覚がないと。
 しかも今の様子は、全国ネットで放送されてしまうに違いない。それを思うと、ますます彩果は悲しくなった。

 ナンバーワンヒーローであるオールマイトが彩果のクラスに来訪したのには、理由がある。ゲストが自分の母校を訪ねて一日講師を務めるという、テレビ局の企画によるものだ。
 それを担任の口から聞かされたのが、つい五分ほど前のこと。けれど、ヒーローはいついかなる時も、冷静沈着でなければならない。そのための訓練も、多少ながら受けている。それなのに、憧憬を抱き続けた相手を前に、想いを抑えきれなかった。気づいたときにはもう、涙が目から溢れ出ていた。彩果はそんな自分が情けなかった。

「さて、有精卵諸君、授業を始めよう」

 大きく肩を落とした彩果をよそに、クラス中の視線が、オールマイトに注がれた。

***

 オールマイトの授業は、一限が座学、その次が実戦訓練だった。実戦といっても、オールマイトと戦うわけでは、むろんない。訓練の様子を見てもらい、講評をもらうというものだ。
 今日の授業はチーム戦だった。三人一組となり、敵とヒーローに分かれる。ヒーローは機密書類を守りつつ敵を捕らえること目的とし、敵はヒーローの書類を奪いつつ追っ手を出させぬよう相手を捕縛することを目的とする。
 彩果は敵チームに配置されたが、個性をいかしてヒーローから書類を奪い取ることができた。思っていたよりも、上手く動けたと思う。これで少しは、先ほどの醜態をカバーできただろうか。
 オールマイトの講評は、ゆっくりと続く。

「次、姿月少女」
「はい」
「ヒーロー名……カメレオン・ガールか……」

 彩果の個性は「隠蔽擬態」。ヒーロー名の通り、カメレオンのように、自身の色を周囲の色彩に同化させ、消えたように見せるものだ。

「姿を消すタイミングが、とてもよかった。あれは相手もたまらないだろう。その調子で個性を上手く使っていこう」
「ありがとうございます」
「ただ、姿月少女。ひとつ気になったんだが」
「はい」
「君のヒーロー名。カメレオンっていうのは微妙だな」
「カメレオンはダメですか。わたしは可愛いと思ったんですが」
「まあ、受け取り方はそれぞれだからね。ただ、爬虫類が好きな人もいるけれど、いいイメージを抱かない層も、少なからず存在する。それに、姿月少女はどちらかというと華やかな雰囲気がある。せっかくだから、それを活かした方がいい」

 彩果は天にも昇る心地になった。華やかとは、彩りが豊かで美しいさま。オールマイトが自分をそんなふうに見てくれたなんて、夢のようだ。

「容姿に関してあれこれ言うのは一般的にはタブーだが、プロヒーローは自己プロデュースも大切だ。せっかくの美点を活かさない手はないだろう? だから君は、もう少し華やかなイメージの名前にしたほうがいいかもしれない」

 ヒーロー名について、実は担任にも同じことを言われていた。他に名前が思いつくなら、変えた方がいいかもしれないと。
 オールマイトは少し考え、そして笑った。

「イーリスっていうのはどうだい? 虹の女神のことだよ」
「虹の……女神」

 女神だなんて、自分には過ぎた名ではないだろうか、と、彩果は思った。それが顔に出たのだろう。オールマイトが優しく諭すように続ける。

「なに、名前は大きな方がいい。それに負けないように、頑張れるだろ」

 大きな名前。
 そういえば目の前のこのひとも、自身に全能という名をつけている。この偉大なひとも、そうしたことで、己にプレッシャーをかけたのだろうか。

「それに、虹は七色と言われているけれどね、無限であるという説もあるんだ。周りの色彩に合わせて自分の色を自在に変えられる、姿月少女の個性にぴったりだ。君の華やかな容姿にもね」
「無限に姿を変えられる……」
「悪くないだろ?」
「ありがとうございます。わたし、これからイーリスと名乗ります」
 うん、とオールマイトがまた微笑んだ。

***

 柔らかな秋の陽光がカーテンの隙間から降り注ぐ、午前七時。目覚まし時計の電子音が、一人の部屋に鳴り響く。腕を伸ばしてスイッチをオフにし、彩果は大きく目をみひらいた。自分が涙を流していることに気がついたからだ。

 夢を、見ていた。

 オールマイトと出会って、泣いてしまったこと。
 イーリスという新たな名前を、憧れの人からつけてもらったこと。

 ありがたいことに、あの番組は、彩果が泣いた場面がカットされていた。テレビ的には面白い映像であったらしいが、泣いたシーンをカットするようオールマイトが指示を出したと、後に担任から聞かされた。

 あれは、高校一年の冬のこと。幸せだった頃の、幸せだった記憶だ。
 小さいけれど庭のある戸建て。南側に花壇を作り、季節の花を育てていたのは母だ。花壇の隣には白い乗用車。それは主に、釣りを趣味としていた父が使用していた。
 あの家で暮らしていた幸せな時代に、憧れの人に名前をつけてもらったという、幸福な思い出。

 時代だなんておおげさな、と彩果は涙を拭いながらため息をついた。ほんの一年半ほど前のことでしかないのに。
 けれどやっぱり彩果にとって、それは、遥か遠い昔の出来事のように思われてならないのだった。

 彩果は起き上がり、カーテンを開けた。木漏れ日がきらきらと輝いている。白い雲がいくつか浮かぶ空はどこまでも青く、そして高かった。
 彩果の好きな、晴天の朝。

 大きく息をついて、彩果は室内を見回した。
 ベッドとサイドボードと、小さなテーブルがひとつ置かれただけの部屋。壁際には作り付けのクローゼット。南側に小さなベランダ。コンロがひとつしかない狭いキッチン。バスとトイレが一緒になったユニットバス。
 未だ慣れない、八畳一間のワンルーム。それが今の彩果の家だ。

「おはよう」

 サイドボード上の写真に、彩果は声をかけた。そこに映っているのは、彩果の両親だ。彼らは、彩果が高三になってすぐ、交通事故で他界した。
 事故の後すぐ、校長に後見人になってもらい、彩果は学生専用のアパートに引っ越した。家族で暮らしていたあの家で、一人暮らすのはつらすぎた。
 不幸中の幸いで、両親はそれなりのお金を残してくれていた。また校長の計らいで、すぐに学費免除の許可が降りた。しばらくの間、生活に困ることはないだろう。
 それでもやはり、一人の暮らしは、ひどく堪える。ただの一人暮らしとは違う。彩果には、もう、誰もいない。彩果は齢十八にして、天涯孤独の身の上になってしまった。

 だがそれは、言っても仕方がないことだ。だから彩果は、できるだけそのことを考えないようにしてきたつもりだ。自分よりつらい思いをしているひとはたくさんいる。自分より幼くして、敵に親を殺された子も少なくない。だから自分は大丈夫だ。悲しい思いをする人を一人でも減らせるよう、一日も早く立派なヒーローにならなくては。
 雄英で学ぶことのすべては、きっと明日への糧となる。
 そう自分に言い聞かせながら、彩果は雄英の制服に袖を通した。

***

「ああ、姿月。このあと校長室に行くように」
「校長室、ですか?」
「そうだ」

 帰りのホームルームの終わり際、彩果は担任にそう声をかけられた。
 校長室に呼ばれるような覚えはないが、いったいなんだろう。級友も同じことを感じたようで、担任が退室すると同時に、わらわらと彩果の近くに集まってきた。

「校長からじきじきの呼び出しかよ。おまえ、なにしたんだ?」

 たずねてきたのは、蟻の個性を持つ男子、蟻野守形だった。昆虫は小さな身体に多くの能力を秘めている。個性出現前の時代には、人間と昆虫が同じ大きさであったなら瞬く間に世界は昆虫に支配されてしまうだろう、と言われていたほどだ。蟻の個性を持つ彼もまた、鉄をもかみ砕く強い顎と自分の体重の数倍の重さを軽々と持ち上げる力の持ち主である。その驚異的な膂力は、主に戦闘で発揮される。

「なんだろう……身に覚えがないんだよね」
「インターン先でなにかしたとか?」

 おどけて笑ったのは、発火の個性を持つ女子だ。炎系の個性を持つ者は存外多いが、彼女……火口ほむらは手をたたくことで火の玉を発生させ、それを自由に扱うことができる。こちらも戦闘向けの能力だ。

「ええ、それこそ覚えがないよ。わたし今日日直だから、早く済ませて行ってくるわ」
「日直は気にするな。俺がやっておく」
「え。でも」
「いいから行って来い。次にかわってくれればいいから」

 そう言ってくれたのは、勉強だけでなく実技でも他から一歩抜きん出ている男子――雨森だった。彼の個性は戦闘には不向きだ。だが、たぐいまれなる身体能力で、雨森は常に好成績をたたき出している。彩果とはそう仲がいいというわけではなかったが、努力家なうえに面倒見がいいので、クラス内では人気があった。

「雨森もそう言ってるし、言葉に甘えちゃえば?」

 ちらり、と雨森をみると、彼は、そうしろ、とばかりにうなずいた。
 この好意をむげにする方はない。ありがとうと、ちいさく告げて、彩果は校長室へと向かった。


「失礼します」

 校長室には、部屋の主だけでなく、背の高い男性がいた。彩果は大きく目を見開いた。
 見上げるような長身、細いけれどしなやかで均整のとれた体躯、長い手足。男性は整った面差しをしていた。涼やかな目元には、キラリと輝くハーフリムの眼鏡。きっちりと七三に分けられた頭髪は緑色だが、前髪に金色のメッシュが三筋入っている。

「名前は」

 目元と同じ、涼やかかつ、鋭い声。思わず彩果は背筋を伸ばした。

「名前は、と聞いている」
「姿月彩果、ヒーロー名はイーリスです」
「うむ。ハッキリしていて、悪くない」

 黒いスーツに身を包んだ男性は、静かに言った。淡々としているが、確固たる意思を含んだ声音だった。
 彩果は、目前の人物を知っている。いや、ヒーロー科の生徒で、彼を知らない人間はいない。
 すらりとした体躯と長い手足を仕立てのいいスーツで包んだこのひとは、かのナンバーワンヒーローが、唯一、相棒と認めた職業ヒーロー。その名も、サー・ナイトアイ。

 だがしかし、どうしてそのナイトアイが、雄英の校長室にいるのだろうか。

「意味不明って顔だね。まあ、そこに座りなさい」

 愉快そうな校長に会釈し、彩果は促されるままソファに腰をおろした。

「実はね、オールマイトの事務所にいるヒーローのひとりが、退職するそうなんだよ」
「待ってください。オールマイトの相棒は、サー・ナイトアイひとりじゃなかったんですか?」

 もともと、オールマイトは相棒を作らないことで有名である。彼の戦闘についていけるヒーローなど、ほぼ皆無であったし、当のオールマイト自身がそれを必要としなかったからだ。
 だから二年ほど前、サー・ナイトアイがオールマイトの相棒になった時は、かなり大きなニュースになった。
 以来、サー・ナイトアイは相棒としてオールマイトを補佐し続けている。オールマイトは単独で戦うことが多いので、戦闘メインの相棒ではなく、作戦の立案などを主とするブレーンとしてだ。
 オールマイトは、圧倒的な攻撃力をもって敵を制してきた。作戦など必要ないようにも思われる。だが、ナイトアイとコンビを組むことによって、オールマイトの事件解決における効率は、確かに上がった。

「表向きはたしかにそうだ。だが、所属事務所がある種の個性を有する相棒の存在を公にしないことがある、という話を、君は聞いたことがないか?」

 サーの言葉に、はっとした。
 作戦を立案するには、前もっての下調べが必須だ。それには潜入や情報収集に特化したヒーローが必要だった。
 個性時代における潜入捜査は二通り。敵の構成員となり内部深くに潜入する場合と、個性を利用し――例えば姿を消したり、容姿を変えたり、優れた視覚や聴覚を利用したりして、敵の情報を得る場合だ。
 後者のやり方をメインとするヒーローは、その存在を世間に明らかにしないことがある。顔や名前が売れていない方が、いろいろと動きやすいからだ。
 彩果もそれは知っていたし、自分がプロになったときもそのような形で採用されるのだろうと、漠然と考えてはいた。

「うちに今いる、捜査に特化したヒーローもそうだ」

 彩果の心臓が跳ね上がった。
 つまり今オールマイト事務所では、そのヒーローの後釜になる相棒を探しているということだ。潜入捜査。「隠蔽擬態」の個性を持つ自分は、まさにうってつけだ。

「悟ったって顔だね。あたりだよ。だから、私が君をオールマイトに推薦したというわけさ」

 目の前にいるはずの校長先生の声が、遠く聞こえる。
 オールマイトの相棒、これは夢ではないだろうか。
 呆然としている彩果に、サーが静かに続けた。

「今日一日、実戦訓練の様子をみさせてもらった。また、映像に残されている記録も、成績も、君に関することはすべて確認させてもらった」
「はい」
「なかなかにして悪くない。とりあえず、インターンとして通ってもらいたい。幸い今週末は三連休だ。どうだ、イーリス。来れるか」
「はい」

 彩果は、よろしくお願いします、と、頭を下げた。

***

 オールマイトの事務所は、六本木でもっとも背の高いタワーの最上階にある。
 広いエントランスには、入り口が二つ。一つは美術館やレストラン階に向かう一般客向けのもの。そしてもう一つは、このタワーに入っている企業の、従業員むけのものだ。彩果はサーから渡されていた通行証をオフィス専用入り口の機械に通し、エレベーターに乗って最上階へと向かった。

 卒業してすぐにオールマイトの相棒になれるのかと甘い夢をみたが、ことはそう簡単にはいかないようだ。いや、簡単どころか、正式な相棒になるには、かなり厳しい条件があった。
 まずは卒業までの半年間、連休および長期休暇のたびに、インターンに来ること。もちろん、その場合の交通費と滞在費は、給与と共に支給される。
 また、卒業後もすぐに正採用にはならないとのことだった。三ヶ月の研修期間を経て、そこでようやく採用になるとサーは言った。ダメだと判断されたら、その場で仮契約が切られる。つまりこれは、九ヶ月に渡る採用試験のようなものだ。
 普通の企業であれば、ブラックだと誹りを受けてもおかしくない内容だ。しかし相手はオールマイトの事務所。中堅どころのプロヒーローですら、希望しても入所、いや、チャンスすら与えられないと聞いている。それなのに、一介の高校生が挑戦する機会を与えられたのだ。条件が厳しいなどと、甘えたことを言えようはずがない。

 級友の大半が、すでに内定が決まっている。彩果も、職場体験でお世話になった事務所から内定をもらっていた。それを辞退し、ここに来たのだ。
 彩果には、もう後がない。
 いずれにせよ、彩果はオールマイトと同じ景色を見たいと願い、ヒーローを目指したのだ。それがかなわないなら、プロになっても意味がない。
 もう、一年半前のような醜態はさらさない。なんとしても、この事務所に入りたい。
 彩果は硬く拳を握りしめた。

 エレベーターが最上階にたどり着き、扉が開いた。そこはすでに事務所の入り口。
そこにももうひとつ、セキュリティが設けられていた。彩果が機械に通行証をかざすと、音もなく、事務所の扉がひらいた。

「やあ、いらっしゃい」

 明るい声でそう言って、オールマイトが破顔した。

2019.7.5
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月とうさぎ