五月雨、匂ふ

 夜の中に、雨の匂いが潜んでいる。
 正しくは、雨が降り始める直前の匂いだ。大地と草の香りが入り混じった独特の匂いが、海沿いの街特有の潮の香りに、ひっそりと混じりこんでいる。

 きっともうすぐ雨が降る。長年の想いを清算するかのように。
 香水をつけない女に未来はない。それはかつて、古き時代のファッション界のカリスマが放った言葉。
 その言葉を借りるなら、きっとわたしに未来はない。彩果は静かにそう思う。

 彩果の個性は「擬態」。
 周囲に合わせて体の色を変化させることができる彩果の職業は、潜入捜査に特化したヒーローだ。高校卒業と当時にオールマイトの相棒になり、そのまま、今に至る。
 潜伏しての捜査が活動のメインであるため、香りのつくものは一切使えないし、使わない。化粧品、石鹸、シャンプーの類も、すべて無香料。

 しかし、人工的な香りを一切身につけないかわりに、彩果の鼻は、普通のひとより敏感だった。
 たとえば、花の香り、果物の香り。珈琲の香り、野菜の匂い。そして今のような、雨が降る寸前の空気の匂い。それらを、ほかの人より早く感じ取ることができる。だからといって、それが役にたつわけでもない。

 小さくため息をついたその時、バニラとシナモンの混じった、甘苦い香りが鼻腔をくすぐった。この濃い香りを、上質な絹をさらりとまとうように漂わせることができるのは、彩果の知るなかではただひとり。

「待たせてすまない」

 そう、背後からかけられた声。
 この少し掠れた低音は、彩果の雇い主であり、恋人でもある長身痩躯のもの。

「いいえ。わたしもいま来たところ」

 微笑みながら、振り向いた。
 そうか、と、しずかにいらえたその顔を、そっと見上げる。
 やや緊張した、かたい表情。肉付きの悪いその顔が、わずかに陰っているような気がした。
 大きな悲しみと微かな諦めが、彩果の内部を満たしてゆく。

 きっと彼は、これから別れ話をするつもりなのだろう。
 このところずっと、オールマイトは様子がおかしかった。もちろん、プライベートで、の話だ。

 こちらから話しかけても、上の空。なにごとかを真剣に考えているかと思えば、彩果じっとを見つめ、口を開きかけてやめる。そんなことの繰り返し。
 その上、三か月ほど前から、出張と称して地方にでかけてしまうことが増えた。我々スタッフにすら、行先を告げずに。

 だが、ある一定地域で、彼の事件解決報告が急増している。たぶん、行先はそちら方面なのだろう。
 調べずとも、こうしてすぐにわかってしまうことなのに、行先を告げぬ理由がわからなかった。
 そんな、ややぎくしゃくしたものを感じていたところに、今日の誘いだ。

 高校時代からオールマイト一筋で、他の男性になど興味がなかった彩果だ。二十代の後半に差しかかってはいるものの、つきあった男性は彼ひとり。
 それでも今の状況がどういうものか想像できないほど、幼くはないつもりだった。

 オールマイトと彩果が男女の仲になって、ずいぶん経つ。長すぎた春だ。そろそろ潮時なのかもしれない。

***

「いや。この時間になっても混んでいるもんだなぁ」

 オールマイトが微笑みかける。その笑顔が、やはりぎこちない。

「人気スポットだから」

 と、彼に、みじかく答える。カップルが多い華やかな商業施設を最後の場所に選んだオールマイトを、心の中で少し恨んだ。

 脳内で走馬灯のようによみがえる、オールマイトと過ごした日々。初めてオールマイトに食事に誘われた時、彩果がどれだけ舞い上がったか。
 けれど、それはすでに、遠い昔のことになってしまった。
 雨の匂いが、いっそう濃くなっていくような気がする。

「なあ、あれに乗らないか」

 と、オールマイトがそびえ立つ巨大な観覧車を指差した。
 都会を見おろす巨大な観覧車は、特にカップルからの人気が高い。大観覧車が一周するのに要する時間は、約十六分。別れ話をするのに、その十六分は長いだろうか、短いだろうか。

 いずれにせよ、その間に涙をとめねばならないのだろう。最後の最後で、英雄様は酷なことをする。
 それでも、恨みごとは言いたくなかった。ややぎこちなく笑う彼に、彩果は静かにうなずいた。

「こっちに乗ろうよ。君、今日はパンツだし、大丈夫だろ?」

 オールマイトは普通のゴンドラではなく、壁や床が強化ガラスで作られた透明のゴンドラの列に並んだ。
 シースルーのゴンドラから見下ろす東京の夜景は、さぞかし素敵なことだろう。
 ロマンチストなオールマイトらしい選択ではあるけれど、別れ話をするにはいささか悪趣味なのではないかと、また先ほどと同じような、恨みがましいことを思った。

 透明のゴンドラは、六十四台のうち四台しかない。列はそれなりに混んでいた。
 長い待ち時間、オールマイトはほとんど話をしなかった。彩果もまた、黙ったまま、順番が来るのをただ待った。

 ああ、また、雨の匂いがする。
 いっそのこと、土砂降りになればいいのに。観覧車の運行が休止になってしまうくらいに。
 そうすれば、あの透明なゴンドラには乗らなくてすむ。聞きたくない言葉も、聞かなくてすむ。
 けれど時間は、すべての人の上に公平に流れゆく。

***

 どうぞと促され、観覧車に乗った。続いて乗り込んだオールマイトが、硬い表情のまま、彩果の正面に腰掛けた。いままでの彼なら、隣に座って、同じ方向で同じものを見てくれたのに。
 彩果は唇をかみしめてから、周囲を見やった。床も壁も透明なゴンドラから眺める、東京の街。
 不思議な気分だ。都会の夜空に、ぽっかり浮かんでいるかのよう。新旧両方の電波塔が見える。そして左手の方向には、我々のオフィスがある六本木のビルの群。

 だめだ、と目をそらした。
 あの街のあかりを見ていたら、思い出してしまう。オールマイトと過ごした、夢のような日々を。

 下降する彩果の気持ちとは逆に、ゴンドラは静かに上昇を続けてゆく。それでもまだ、オールマイトはなにも言わない。どうすればいいのかわからず、彩果もただ押し黙る。
 せめてなにか言ってくれればいいのに。黙ったままでいるなんて、ずるい。

 と、その時、目前のガラスに、ぽつり、と水滴がおちた。
 雨だ。

 ぱらぱらと強化ガラスに打ちつける雨粒が、観覧車のイルミネーションを弾いて、きらりと輝く。
 雨に濡れた観覧車と都会の街並みは、普段とはまた違った美しさがあるはずだった。でも今は、それがちっとも綺麗に見えない。
 雨と共にこの恋も流れていってしまうのだろうなと、悲しいことをひとり思った。

 観覧車が三分の二ほどの高さまで進んだ時、それまで無言を通していたオールマイトが、口をひらいた。
「実は、今年度中に事務所をたたもうかと思っているんだ」
「え?」
「母校の教師になることにした」
「雄英の……」
 以前から、そういう話があるということはきいていた。
「住居も、あちらに?」
「そういうことになるね」
 そこでオールマイトが、言葉を切った。だから別れようと、そのままさらりと言われてしまうと思っていたのに。
 ふと、彼の様子がおかしいことに気がついた。どうしたのだろう。そわそわと身体をうごかして、きょろきょろと周囲を見渡して、やけに落ち着かない。

 すごい人のはずなのに、オールマイトはこういうところがとてもかわいい。この愛嬌が、オールマイト、いや、八木俊典の魅力的のひとつだ。
 最後にこのひとのかわいいところが見られてよかったと、負け惜しみではなく、そう思った。

 気もそぞろといった様子だったオールマイトが、やがて「うん」と、うなずいて、彩果を見つめた。
 晴れわたった空と同じ色をした瞳に、彩果の姿が映っている。

「君に大事な話がある」
「はい」

 観覧車が一番上まで来たところで、オールマイトが白いリボンがかかった水色の小さな箱を取り出した。

 リボンに印字されたロゴに、見覚えがある。憧れていたブランドの、憧れの――。
 でも、まさか、そんな、ありえない。

「私についてきてほしい」

 あけてみて、と促され、震える指でリボンをほどいた。箱の中には、ロビンズエッグブルーの四角いケースが収まっている。
 オールマイトがケースを取りだし、ふたを開けてにこりと笑った。まるでブライダル専門誌のコマーシャルのような、その光景。

「結婚してくれ」

 今、自分の身に起きていることが信じられずに、透明のゴンドラ越しの景色を見おろした。さきほどぱらついていた雨が、いつのまにかやんでいる。
 夜空に浮かび上がる摩天楼の灯りが、宝石のようだ。眼下に浮かぶ宝石と、目前で輝くダイヤモンドのリングでは、はたしてどちらがきれいだろうか。
 目の前の景色が、じわりと滲んだ。
 箱をかざしているオールマイトの大きな手の上に、黙って自分のそれを重ねた。

「わたしでよければ……よろこんで」
「ありがとう」

 オールマイトがするりと隣に移動してきた。こんなに大きなひとなのに、ゴンドラをほとんどゆらさず移動してくるなんて。やっぱりさすがだ。
 そして彼は彩果の左手の薬指に、ゆっくりとリングをはめ、にこりと笑った。

「よかった、サイズもぴったりみたいだね」

 感極まってうんうんとうなずくことしかできない彩果の頬に、オールマイトが手を当てる。抗いきれず目を閉じると、優しい口づけがおりてきた。

 唇が離れかけたところで、人が見るわ、と漏らすと、かまわないさ、とまた唇を塞がれる。
 透明のゴンドラだから周囲から丸見えなのに、恥ずかしいという気持ちより、幸福感が勝ってしまう。困ったことだ。

 頭の奥で、「香水をつけない女に未来はない」というファッション界のカリスマの言葉がよみがえる。
 けれど今、オールマイトが掲示してくれたのは、香水をつけない自分と彼との、確かな未来。

 五月雨のように降り注ぐ甘い口づけを受けながら、小さく笑んだ。
 鼻腔をくすぐるのはオールマイトがつけている男性用のトワレの香りと、ほんのわずかな五月雨のなごり。
 夜の中に、雨の残香が甘く微かに潜んでいた。

2017.10.8 初出(pixivサンプル・夢本)
2020.9.13 サイト掲載

こちらは2017.10.8発行の夢本「Sillage〜残香〜」に収録しているお話です。本は一人称ネームレスで書きましたが、サイト掲載にあたって三人称に直しました。
本の為に書き下ろした話のWeb再録は基本的にしていませんが、こちらはサンプルとして一話まるまる支部に掲載しているのでサイトにも収録することにいたしました。ご了承ください。

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月とうさぎ