あの日の鐘の音

 小夜の住むマンションの脇に車を停め、ファットは小さく息を吐いた。見上げた空は橙色に染まっている。蒸し暑い、夏の夕暮れ。
 降りてきた小夜をピックアップして、彼女の実家へと向かう手はずになっている。

「こない暑いとかなわんで、まったく」

 そうひとりごちた視線の先には、清涼飲料水の自販機がひとつ。
 ごくり、と喉が鳴った。待ち合わせの時間まで十分ほどある。それだけあれば充分だ。

 車から降り、ファットは自販機へと向かった。コインを投入し、赤いパッケージの炭酸飲料のボタンを押す。と、その時、背後から声をかけられた。

「豊満!」

 私服の時でも、ファットガムをその名で呼ぶ者は限られる。振り返った先に立っていたのは、予想通り士傑時代の同級生だった。
 水中でも陸上と変わらず呼吸ができる個性の持ち主で、現在は海上保安庁の第五管区海上保安本部と連携し、主に海難救助を請け負っている女性ヒーロー。

「なんや、久しぶりやなぁ」

 あれ以来か、という言葉を飲み込み、にぱ、と笑うと、おそらくはそれを察したのだろう、相手もまた困ったようにほんの一瞬眉を下げ、そして笑った。

「私は基本、海におるから」
「……せやな。なん? 自分、この辺住んどるん?」
「ううん。動物園の帰り」

 この子と、と、彼女は自身が押していたベビーカーを指さした。そこにいたのは三歳くらいの男の子だった。遊び疲れてしまったのか、この暑さにもかかわらず、すやすやと眠っている。

「さよか。母子ともに元気そうでなによりやな」
「ありがと」
「しかし大きゅうなったなぁ」
「ふふ。似てきたでしょ」
「……せやなぁ」

 しみじみとファットはこたえた。たしかに似ている、父親に。
 男の子の父親も、ファットの士傑時代の同級生だ。

「……よう似とるわ……」

 あの日のことを、ファットは今でもはっきりと思い出すことができる。
 あれは新緑眩しい、五月吉日のことだった。
 欧風のチャペルが有名な、ホテルでの挙式。季節もよく、天候にも恵まれた。そのうえ同級生同士の結婚だ。盛り上がらないはずがない。
 もともと馬鹿騒ぎは好きな性質だ。披露宴ではもちろんのこと、挙式も楽しい雰囲気にしようと、意気揚々と参加した。

 ところが、いつまで待っても新郎が来ない。挙式の予定時刻を二時間過ぎても、連絡もとれず。

 士傑高校のヒーロー科を卒業したカップルだ。
 親族以外の参列者の大半はヒーローであり、皆が新郎の人となりを知っている。正義感が強く勇敢で優秀な、優しく気のいい男だ。その男がなんの連絡もなく、ここまで遅れるはずはなかった。式から逃げることもまずありえない。考えられる理由はひとつ。

 皆が想像しつつ、口に出せなかったことが現実のものとなったのは、挙式予定時刻の三時間後。もたらされたのは、訃報だった。

 結婚式に向かう途中、新郎は敵と遭遇。オフであるにもかかわらず、その正義感ゆえに敵と対戦した彼は、善戦ののち敗北。先ほど死亡が確定された。

 人気の高い式場だ。一日に何件もの挙式をこなさなくてはならない。だから他にやりようがなかっただろうことも、わかっている。
 けれど目前の女にとって、あれ以上残酷なことはなかっただろう。

 伴侶を失った女が式を挙げるはずだったチャペルで、別の挙式が始まった。
 華々しい祝いの鐘の音が、控え室に流れてくる。それに数秒遅れ、花婿を失った花嫁の身を切るような慟哭がかぶさった。
 あの日の哀しい鐘の音を、ファットは未だに忘れることができない。

 あの時すでに、彼女の腹の中には子どもがいた。それが今、ファットの前で眠る子どもだ。ふたりが前日に入籍をすませていたのは生まれてきた子どもにとっては幸いだったが、若くして未亡人となった彼女にとっては、果たしてどうだったのだろう。

「ところでそのカッコ、どうしたん? スーツなんて珍しいやん。この暑いのに」

 過去に想い馳せていたファットの背を叩いて、海のヒーローが笑う。
 気丈な女だ。この女が泣いたのはあの日だけだった。葬儀では涙ひとつ見せず、立派に喪主をつとめきった。
 それがますます、痛々しかった。

「ちょお、ご挨拶にな」

 伴侶となるべき相手をなくした女に告げていいものかファットガムは一瞬迷い、結局話すことにした。いずれ知れてしまうことだ。その時によけいな気を回されていたと知る方が、彼女はよほど嫌だろう。

「俺な、ぼちぼち身ぃかためよ思とんねん」
「へー。どんな子? どこで知りあったん?」
「サポート会社の営業さんや」
「あんた、担当営業に手ぇ出したん?」
「言い方気ィつけてや」

 苦笑しながらいらえたファットに、笑みながらごめんと告げ、彼女は続ける。

「あんたんとこの担当って、湧水さん?」
「お。知っとった?」
「知ってるよ。うちの事務所の担当やもん。あー、湧水さんか。あんたガラ悪いくせに、昔っからああいう感じの子が好きだよね」
「ガラ悪いはよけいやろ」

 そうファットが呟いた瞬間、目が覚めたのか、子どもがぐずり始めた。

「ああ、すまんな。暑い中話し込んでしもて」
「そんなことないよ。呼び止めたのは私やん。今日は久しぶりに会えて嬉しかった。結婚の日が決まったら教えて、お祝い送るわ」
「おお、サンキューな」

 気をつけて帰り、あんたも元気でね、そんなありがちなやりとりをして、同級生と別れた。
 西の空を橙に染めている陽は、すでにビルの影に隠れるほど低い。東から伸びてきた藍色に駆逐され、やがて空は橙から藍、藍から墨色へと様相を変えることだろう。明けない夜はないけれど、暮れない昼もないのだから。

(……元気でね、か)

 ありがちな言葉ではあったが、式の当日伴侶を失った女の口から聞かされると、特別な重みがある。女にそこまでの意図はないとわかってはいても。

 ファットガムは車に戻り、自販機で買った飲料をひといきに飲み干した。
 話していたのはほんの数分のことであったのに、飲料はすっかりぬるくなっていて、べたべたした甘さだけが、いつまでも舌に残った。

***

「あああ……こない緊張するん何年ぶりやろか……」

 信号待ちの合間にナビのマップを再確認し、ファットが大きく息をついた。大丈夫よ、といらえると、そやろか、というこれまた不安そうな声。

「そうよ。だって反対される理由がないもの。ところで太志郎さん、うちの両親になんて言うか決めてるの?」
「シンプルに『小夜さんをください』ちゅうんがええんちゃう? や、もちろん小夜は物やないで、せやけどこの場合は、オーソドックスに行くのがええ思うんや」
「ありがとう。よろしくね」

 むしょうに嬉しくなって微笑むと、頑張るわ、とファットも笑った。

「あ、ナビには出てないんだけど、ここ左曲がった方が早いよ」

 ん、と呟いてファットがゆっくりとハンドルを切る。
 これはまだ本人に言ってはいないことだが、小夜はファットが運転しているときの横顔も好きだった。やせるとイケメンと言う人がいるけれど、丸い時の彼もなかなかだ。まるい目も、ちょんとつまんだような鼻も、大きな口も、ふっくらとしたほっぺも、全部がかっこよくて、すべてが愛しい。

「なん?」

 小夜の視線に気づいたのだろう。ファットが不思議な顔をした。視線は前に向いたままなのに、気配に気づくあたりはさすがだ。

「運転している時の太志郎さんもカッコいいなと思って」
「……せやから、いまそゆこと言うたらあかんて。チューしたくなってまうやん」
「どうぞ」
「や。さすがに、ご両親にお会いする寸前にそゆことする余裕ないわ」

 笑みながら、ファットはウインカーを出す。

「あー、もしかして、次曲がったらついてまう?」
「うん」
「車はどないしよ。パ―キング近くにある?」
「庭に停めればいいから大丈夫。っていうか、ついたよ。この生け垣がすでにうち。ほら、向こうに門が見えるでしょ。これをかざせば門があくから、そのまま入っちゃって」

 門のセンサーに向けて、小夜は実家のカードキーをかざした。数秒おいて、門扉が開く。

「車ね、ガレージの前に停めちゃえばいいから」
「しかし広いねんな。住んどる家とは別に、専用のガレージハウスまであるんか……」

 ファットガムがぽつりと呟いた。
 確かに実家は狭くはない。庭を含めた敷地は五百坪以上。
 門を入ってすぐ右手に、車が四台収納できるガレージハウスがある。正面には両親の住まいであり、小夜が生まれ育った屋敷が、その隣――門から見て左手奥――には、長兄家族が住まう二階建ての住宅が建っている。数寄屋造りの平屋である親の家と並んでも違和感のない、和の素材と現代的なテイストを織り交ぜた和風モダンの建物だ。
 庭の広さも充分にある。次兄が中学時代に小さなコースを勝手に作り、そこでポケットバイクを乗り回し――そして怒られ――ていたのは、いい思い出だ。

 ガレージの前に車を停め、ふたりで車から降りた。30メートルほど歩くと玄関だ。インターフォンを押すと母が出た。
 わたし、と言うと、玄関の電子鍵がかちゃりと開いた。

「ただいま」
「おかえりなさい」
「本日はお時間を頂きありがとうございます。初めまして、豊満言います」

 出迎えた母に、ファットガムが頭を下げる。母は間近で見るファットガムの大きさに驚いたようすだったが、すぐににこやかに微笑んでくれた。

「はじめまして、小夜の母です。まあ、あがってくださいな」
「お邪魔します」

 緊張した様子のふたりに挟まれて、廊下を進んだ。慣れたはずの実家なのに、なんだか自分まで緊張してきた。

「どうぞ」

 促されて通されたのは客間だ。そこに父が待っていた。

 ファットはありきたりだが実に常識的な挨拶をして、父に手土産を渡した。小夜が選んだ、両親の好物だ。
 が、受け取った時、ほんの一瞬、父が難しい顔をした。
 なんだろう。以前彼のことを話した時には、とにかく連れてきなさい、と言っただけだったのに。

 母がお茶を運んできて着座すると、父が早速口を開いた。会話によけいな装飾をあまり交えず、単刀直入に話すところは、昔からあまり変わっていない。

「豊満くん。君はヒーローをされているそうだね」
「はぁ。大阪を中心に活動させてもろとります」
「幸いというべきか、私には警察やヒーロー公安委員会の上層部に友人がいてね。失礼ながら、君についていろいろ話を聞かせてもらった」
「……それは本当に失礼じゃない?」

 事前に情報を仕入れておきたい気持ちはわかる。けれどそれを当の本人の前で言うのはどうかと思った。怒りに腰を浮かせかけたところを、まあ聞きなさい、とたしなめられた。
 しぶしぶ座り治した小夜の上に、父の言葉が降りてくる。

「みなが口を揃えてこう言ったよ。『ファットガムという男は、上からの信頼厚く下からは慕われる、大変誠実な人間である』と。また個人的にも君のヒーローとしての活躍を調べさせてもらい、感銘を受けた」

 君は実にすばらしい、と、父は言った。だが褒められているはずのファットガムの顔は、なぜか梅雨空のように曇ったままだ。

「若くして独立し従業員を雇い、また大阪、いや関西で有数のヒーローとして活躍する。その大きな体を盾にして人々を守る姿には、感服するし尊敬もする。一市民、そして一人の医者として、君にはとても感謝している。それをふまえて言わせてもらう」

 そして次に父の口から出た言葉に、小夜は凍りついた。
 どうして、と言いかけて、小夜はそれをとどめた。ファットがぎゅっと拳を握りしめたことに気がついたからだった。



「豊満くん、君に小夜はやれん」

 予想していた言葉に、ファットガムは拳を強く握りしめた。
 お嬢さんを僕にください、というお決まりのセリフを告げるより先に父親が長々と話し始めた時点で、こう言われることは目に見えていた。
 小夜の父は静かに続ける。

「ヒーローという職業は過酷だ。この夏、オールマイトが神野で見せた姿は、君たちも記憶に新しいだろう。彼ほどの人物ですら、身を削らねば続けられない仕事だ。その身に敵や衝撃を沈める戦闘スタイルの君も、似たような道を歩むのではないかね? いくら個性で衝撃を吸着できるとはいえ、体にはそれなりのダメージが残るだろう。かのオールマイトでさえああいうことになった。象徴を失った我が国は、これからますます混乱する。そんな中、君が無事でいられるとどうして言える?」

 答えられなかった。
 ファットガムの個性は、プロの、それも第一線でやっていくには厳しいものだ。個性だけの話をすれば、はっきり言って強くはない。

 ゆえに、かけだしの頃は苦労した。
 もちろん、脂肪吸着という個性のみにかまけてきたわけではない。ファットガムはいくつかの近接格闘術を身につけている。二メートルを超える上背だ。この巨体を素早く動かすための筋力もある。
 打撃技メインで戦っていた時代も確かにあった。けれどその方法では守り切れなかったものがあり、救けられなかった者もいる。

 ヒーローと対峙した敵は何でもしてくる。犠牲者が出ようが出まいがお構いなし。それこそ躊躇なくこちらの命を狙ってくる者もいる。だがヒーローはそうはいかない。まず被害者を出してはならないし、敵も殺さず捕らえることが第一となる。

 そのためにはどうしたらいいか。若いファットガムは考え、そしてひとつの答えを見いだした。
 敵退治で重要なのは、いかに早く相手から戦意を奪うかだ。それには個性をどれだけうまく使うかが肝要となる。もっとも手っ取り早いのは、この体に敵の攻撃ごと沈め、相手の動きを止めることだ。
 そのための脂肪は、多ければ多いほどいい。直接攻撃タイプの敵を沈めるのにも、脂肪は使える。相手の攻撃をため込めるだけため込んで、放出すれば強力なカウンターとなる。敵にどれほど攻撃力があろうとも、相手の体力が尽きるまで凌ぎきれればこちらの勝ちだ。

 はっきり言ってしまえば、ここまで体を大きくしてしまうと日常生活を送るには不便だ。
 狭いところには入れない、出入りできる場所は限られる、どこに行っても自分と知れる。
 だがそんなことよりも、より確実に市民を守れる道をファットは選んだ。
 それが割られぬ盾と折れない矛を兼ね備えた、今の戦闘スタイルだ。

「君の歩んできた道は、決して楽なものではなかったはずだ。おそらく君は、ヒーローとしての矜持と覚悟に支えられてここまで来たのだろう。だから娘のために生き方を変えろとは言わない。だが非道を承知で言うが、君の元に大事な娘を嫁がせるわけにはいかない。君に何かあったら小夜はどうなる」
「……以後の生活に心配のない程度の蓄えと、備えはしとるつもりです」
「金銭の問題ではないんだ。そんなものは私たちでもなんとかしてやれる。私が言っているのはそこじゃない。心の拠り所の話だ。我々がずっと元気で小夜のそばにいてやれるならいいだろう。だが我々は老いるし、小夜よりも早く死ぬ」

 瞬間、あの日の鐘の音が耳の奥で鳴り響いた。
 新婦の慟哭と、鳴り渡る鐘声。
 あれはある人にとっては祝福の音であったが、新婦にとってはまさに葬送の鐘だった。

「まだある。君は立派なヒーローだ。大阪を守る最強の盾だ。だがたとえば災害時、君はどこにいる? 君は小夜を置いて、見知らぬ市民を助けにいくのだろう? そういったことすべてを踏まえて、小夜を泣かさないと、君は私に約束できるか」

 ファットはただただ口唇を噛んだ。小夜の父が言ったことは、ファット自身も充分わかっていたことだ。
 むろん死ぬつもりなどない。だがこういう仕事をしている以上、そういう覚悟は常にしている。
 そしてそのうえで、ファットは小夜に側にいて欲しいと願った。

 俺たちの前には常に荒野が広がっとる、とファットは思う。

 ヒーローが華やかなのは見た目だけだ。その実は、常に危険と背中合わせ。いつどこで命を落とすかわからない。
 それだけでなく重圧も課される。
 戦闘の場で、災害現場で、人々は希望と期待を持ってヒーローを迎える。上がる歓声、助けを呼ぶ声。己が倒れたら、背後の人々に危険が迫る。だから絶対に、ヒーローは市民の前で折れてはいけない。
 救けて当然、出来なければ罪。
 それが若くして高収入を得、ちやほやされることの代償だ。

 それでもかまわないとファットは思い続けてきた。だからこそ目指したのは、決して割られぬ盾であり、決して折られぬ矛だった。
 この身が崩れ落ちようとも、それで目の前の誰かを救えるならそれでいい。ヒーローというのは、そう思える人間でなければ務まらない職業でもある。

 けれど、ヒーローの家族にとって、ヒーローとはなんだろう。
 一番側にいて欲しいとき、そのひとはいない。自分を置いて他の誰かを救けに出て行く。
 頭では理解し覚悟していたとしても、実際にそれが自分の身に降りかかったとき、果たして人は、それに心から納得できるものだろうか。

 ファットを立派だと言いながら娘を案じ結婚を反対する小夜の父が非道であるのなら、小夜を泣かせる可能性があることを知りながら側にいてくれと願った自分もまた、非道なのだ。
 だが、それでも――。

「……それでも俺は、ヒーローをやめる気はあらへんし、小夜さんにも側にいて欲しい思とります」
「それはあまりに自分本位な考えではないかね。その結婚で小夜のメリットはいったいなんだ? 小夜は君とではなく私が選んだ相手と結婚させる。相手は優秀な医師だ。人となりも申し分ない」
「いい加減にしてよ!」

 小夜が激昂したようすで立ち上がった。こんなに怒った小夜を見たのは始めてだった。

「メリットってなに? 太志郎さんのそばにいられるだけで、わたしは充分幸せよ。太志郎さんがいいの。太志郎さんじゃないとだめなの! わたしは小さな子どもじゃない。自立した大人よ。パパがどんなに反対したって、わたし太志郎さんと結婚するから!」
「豊満くん、私からはそういうことだ。すまないが、これ以上話すことはない」

 小夜ではなく、まずはファットガムに向き直って小夜の父は言った。そうして彼は、次に自分の娘を一瞥し、冷たく告げる。

「小夜。自立した大人というのは、文字通り自分の力で暮らしていける人間のことを言う。今のおまえに、それができているのか?」

 小夜がきゅっとくちびるを引き結んだ。
 彼女はたしかに恵まれている。外商カードを持っていたり、親の用意した一等地のマンションに住んでいたり。それは一般的なOLの収入だけで、できることでは決してない。
 だがそれについては、本人もきちんと自覚している。それどころか、むしろ負い目に感じているきらいすらあった。今、それを指摘されるのは小夜にとっては酷な話だ。

 だからファットは、あえて静かに口を開いた。

「お父さんの言わはることも、一理あると思とります。俺の仕事はたしかに危険だらけで、お父さんが心配されはるんももっともや。せやけど俺は、小夜との結婚を諦めるつもりはありません。せやから今夜は出直そ思います」
「太志郎さん……!」
「ええんや小夜。お父さん、本日はお忙しい中、お時間をとってくださりありがとうございました。また折を見て伺います。お許しをいただけるまで、何度でも」

 そうしてファットと小夜は、湧水家の母屋を後にした。

***

「……ごめんなさい」
「ええて」

 小夜が悪いわけではない。謝罪する小夜にそういらえ、ファットは自身の車へと視線を転じた。
 するとガレージの前、ファットの車の隣に、先ほどはなかった白のクーペが止まっていることに気がついた。四つの輪を組み合わせたエンブレムの欧州車だ。その前で、二人の男が談笑している。

 その時、小夜が微かにみじろぎをした。ほんの一瞬のことではあったが、ファットはそれを見逃さなかった。

 ひとりは長兄だろう。とすれば、もうひとりはおそらくその友人。小夜の反応からすると、例の『也久さん』であることはまず間違いない。

 ファットはそのまま歩を進めた。身長二メートル半の一歩は大きい。あっという間に、自分の車に――つまりは二人の男のそばに――たどりついた。
 男たちはどちらもすらりとしていて、見栄えが良い。一人はすっきりした顔立ちでメガネが似合う、いかにもといったエリート風。そしてもうひとりは――。

「先日はどうも。豊満いいます。小夜さんとおつきあいさせてもらっとります」

 ファットはそう言って頭を下げた。こんな偶然があるものだろうか。

 もうひとりは、花火大会の日にファットの傷を治療してくれた医師だった。

 なるほど顔は似ていないし、とても今年三十五歳になるようにも見えない。次兄のあたるのほうがよほど上に見えるだろう。けれど男のやわらかな雰囲気は、どこか小夜と共通しているような気がする。

「……あのあと、大丈夫でした?」
「おかげさんで、すっかり良うなりましたわ」

 ホラ、と腕を掲げると、童顔の医師がやわらかく笑った。

「太志郎さん、也久さんと知り合いだったの?」

(は?)

 驚いたような小夜の声に、ファットはあんぐりと口をあけた。

「ああ。先日ちょっとね」

 唖然としているファットより早く返事をしたのは、童顔の医師だ。彼がふたたびふわりと笑むと、その傍らにいたエリート然とした男が、片方の口角をあげた。

「どうも、お噂はかねがね。小夜の兄のまさるです」

 自分が大きな勘違いをしたことに気がついて、ファットは内心で大きく息をつきつつ、豊満です、と頭を下げる。
 すると、突然、小夜がファットの腕をとり、自分のそれをからませた。

「也久さん、父が勝手に話を進めてるみたいなんですけど、わたし也久さんとは結婚できません。このひととつきあっていて、結婚しようと思ってるんです」

 凜として、媚の欠片もなかった。告げた声も、相手をみすえる瞳もすべて。
 それを受けた也久が静かに両の口角を上げた。どこか達観したような、そんな笑みだった。

 ファットは視線を交互に走らせた。
 年齢より遥かに若く見える優しげな男と、いかにもお嬢さん然としたやわらかな小夜。ふたりはやはり雰囲気が似ている。体格差もそれほどなく、実年齢は離れているが見た目にはそれを感じさせない。むしろ釣り合いが取れているように思われる。

 オフでありながら、負傷したヒーローのために飛び出してきた、そんな男だ。この男ならきっと、小夜を泣かすようなことはしないだろう。
 そんな確信めいたものをファットは感じ、同時に、そう感じてしまった自分自身に驚いた。
 嫉妬とはまた違う、それは奇妙な感情だった。

(あかん……らしゅうないで。気ィ弱なっとるやん)

「……小夜、帰るで。ほな失礼します」

 小夜の兄とその友人に軽く頭を下げ、ファットはイエローメタリックの車に乗り込んだ。小夜が助手席に座すのを待って、エンジンをかける。
 同時にカーオーディオから流れてきたのは、勢いのある管弦楽曲だった。ファットガムの選曲リストにクラシック音楽は入っていない。ラジオだ。
 わざわざ変更するのも面倒な気がして、ファットはそのまま車を発進させた。

 所有者とよく似た大きな車は、夜の街をひた走る。
 ラジオから流れるクラシック音楽には、ところどころフランスの国歌とよく似た旋律が混じっていた。勇ましい雰囲気なのは悪くない。

 しかし曲がクライマックスにさしかかったところで、ファットガムはびくりとした。曲の中で大砲がとどろいたからではない。原因はその次にあった。
 管楽器とともに鳴り響いたのは、鐘のおと。

 勇ましい音楽にかぶせられた鐘の音は、おそらく祝いのそれなのだろうが、今のファットにはそうは聞こえなかった。
 胸の奥に苦いなにかが広がっていく。
 ファットガムはラジオを乱暴に切り、車を路肩に停車させた。

「どうしたの?」
「なんでもあらへん」

 大きく息をついてから、小夜に向かって微笑みかけた。
 オーディオを切った車内は静かなはずだ。けれどファットの耳の奥で、鳴り続けている音がある。

 暗く弱く、長く低く。
 鳴り響くのは、あの日の鐘の音。

2021.9.14
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月とうさぎ