あらしの予感

「ほんま、すんません!」

 額をテーブルに擦り付けんばかりの勢いで、ファットガムが頭を下げた。まあまあ頭を上げてください、と言いながらへらりと次兄が笑う。

「そもそも、俺が変な登場の仕方をしたのが悪かったんですから」

 いや、と恐縮するファットに、いいのよ、と告げて、小夜は続けた。

あたる兄さんが悪いのよ。わたしも不審者かと思ったもの」
「いや、久しぶりだったし、ちょっとびっくりさせようと思って。そしたら俺のほうがびっくりしちゃった。妹の部屋から人気ヒーローが出てくるなんてさ」
「……手首極めんのはやりすぎでした。ほんま申し訳ない」

 大きな体をちいさく丸め、ファットガムがもう一度頭を下げる。

「いやいや。有名ヒーローに関節極められるなんて、普通に生きてたらなかなか出来ない体験ですよ。逆に嬉しくなっちゃいましたね。実は俺、前からファットガムさんのファンだったので」

 愛想のいい次兄を横目で見ながら、小夜がふっとため息をつく。この兄は優しいけれど、こういうところがある。愉快で快活な反面、とにかく軽い。

「また中兄さんは調子のいいことを……」
「いやほんとだって。ファットガムさん、以前、市立大学病院に運び込まれたことあるでしょう? 商店街の爆発物の事件で」

 ああ、とファットが眉をあげた。
 その事件に関しては小夜も知っている。五年ほど前におきた、江洲羽商店街に爆発物が仕掛けられた小さな事件。
 だがその事件が民間人の被害なくすんだのは、ファットがその身に爆発の衝撃を沈めたからだ。そしてファットは重症を負った。

「その時、俺、市立大学病院の研修医だったんです」
「ああ、ほんでこの姿でも俺ってわかったんですね。そうとは知らず、荒っぽい真似してもうて、ほんますんません」

 いやいや、と中が笑いながら手を振った。
 市立大学病院の臨床研修はローテーション式なんですが、と前置きをして彼は続ける。

「ちょうど外科を回ってるときでね。あなたのしたことも、怪我の具合もすべて存じ上げてます。体を張って街を守るなんてそうできることではありませんよ。俺はそれからあなたのファンで、ずっと応援してます! ああ、あとでサインいただいてもいいですか?」

 兄さん、と小夜が声を上げるのと、そらもちろん、とファットが応えたのが同時だった。

「よろしければ、あとで事務所からグッズもお送りしますわ」

 やった!と少年のように中が笑う。
 もう、と小夜が中を睨むと、ファットに「ええやないか」とたしなめられた。

「せやけど、お兄さんが話しやすい人でよかったです。お医者さんちゅう話やったんで、もっとこう、お堅そうな人かと思っとりました」
「あー、それよく言われますね。同時にふざけすぎとも言われますけど、小児科医としては親しみやすいのが一番かと思うので」
「小児科のお医者さんなんですか」
「そうよ。お調子者の小児科医。クリスマスの時期に、院長の許可もなくサンタの格好で小児科病棟を練り歩いて、ヒーローカードを配り歩いたりするのよね」

 お調子者は言い過ぎやろ、と再びファットにたしなめられた。そして彼は中に笑顔を向ける。

「そら子どもたち喜んだでしょ」
「そうですね。昨年はオールマイトのカードを配ったんですけど、今年はファットガムさんにさせてもらおうかな」
「オールマイトの次とは光栄やなぁ。なんなら俺、カードにサインさせてもらいますわ」
「ありがとうございます。子どもたち喜びますよ」

 なんとなく、このふたりは気が合いそうな予感はしていた。年も近いし、共に熱くて優しくてそして明るい。
 自分そっちのけでもりあがる男二人を前に、小夜は小さく微笑んだ。身内と恋人が仲良くなるのはいいことだ。

「あ、小夜」
「なに?」
「さっきのチキン、少なくて申し訳ないけどファットガムさんにお出しして。それから俺に飲み物のおかわりちょうだい。今度は冷たいコーヒーがいいな」
「……そんなの自分でやりなさいよ」

 図々しい言いぐさにカチンときて、小夜は冷たく言い捨てた。
 中の手元に先ほど小夜が淹れたアイスティーが三分の一ほど残っているのも、また気に入らない。

「おまえ、さっきから俺に冷たくない? 俺が勝手にキッチンいじったら、絶対怒るくせに」
「……そうだけど。せめてアイスティーを全部飲んでから言ってよ」
「だって俺いまコーヒーが飲みたいんだもん」

 子どものような言いように呆れる小夜の上に振ってきたのは、少し掠れた優しい低音。

「俺もなんだかコーヒー飲みたなってきたわ。小夜、一緒にいれよか?」

 太志郎さん優しすぎ、と小夜は心の中で嘆息した。

 ファットにこう言われてしまったら、小夜も折れないわけにはいかない。しかたなく、太志郎さんは座ってて、と返して立ち上がる。

「インスタントじゃなくて、ちゃんと豆挽いて、時間をかけて丁寧に淹れてくれよな」
「今日はいったいどうしちゃったの?」

 おちゃらけてはいるが、次兄はおおらかで、出されたものは感謝していただくタイプの男だった。こうしてああしろこうしろとうるさく指図されるのは、初めてのこと。
 妹の恋人にマウントをとりたいのだろうか。明朗快活な次兄らしくない発想だけれど。

「久しぶりに会ったおにーちゃんに、それくらいの手間をかけてくれてもいいだろ。ねえファットガムさん」
「お……せや……せやで小夜」
「だから太志郎さんを巻き込まないで」

 兄にはふくれて見せたが、これ以上抵抗しても、ファットガムに気を使わせるだけだろう。
 しょうがないなぁ、と呟いて小夜はキッチンへと小さな一歩を踏み出した。

***

 キッチンから、機械的な粉砕音と共に芳しいコーヒーの香りが流れてきた。
 なんだかんだと口では言っていたものの、小夜は兄に弱いらしい。

「ファットガムさん」

 と、突然小夜の兄が口を開いた。先ほどのお軽い調子とはうってかわった、神妙な表情で。
 目前にいるファットにしか聞き取れないであろうちいさな声で、中は続ける。

「あの……失礼ですが、妹とはいつから?」
「今年の3月からです。昨年、小夜さんがうちの事務所の担当営業になりまして……で、俺から惚れてこないなことに」
「そうですか」

 と、中はここでいったん言葉を切った。
 だがきっと、彼が本当に聞きたかったのはこんなことではないだろう。それはファットにもなんとなくわかる。
 状況からして、ファットと小夜が共に朝を迎えたことは明らかだ。兄としては、いろいろ心配になることもあるだろう。

「ファットさん。あなたたしか、マッキーのファンですよね」

 いきなり話題の方向がかわり、動揺したファットは、おん、と小さく答えた。マッキーとは、前々からファットが好きだと公言している女優の愛称だ。

「兄の俺が言うのもなんですが、うちの妹、ちょっと似てますよね」
「ハイ……俺も初めて会うた時はそう思いました」
「まあ、似てるといっても素人のそれです。あなたが今まで相手にしてきた華やかな女性たちと比べると、垢抜けないし野暮ったい」
「や……そないなことは」

 と、続けようとしたファットを制して兄が続ける。

「ですがそれでも、俺たちにとっては大事な妹です。ですからその……ちょっとかわいいだけの素人の女の子が目新しくて、軽い気持ちで手を出したのなら、傷が深くなる前にきれいに別れてやってもらえませんか……。あなた以前、人気の女子アナとつきあってらっしゃいましたよね。こう言っちゃなんだが、小夜はその人とも似た雰囲気がある」

 げっ、とファットは声を漏らした。

 ファットが女子アナとつきあっていたのは、件の爆破事件の頃の話だ。
 その彼女が事件の当日、集中治療室の前で泣いていたことも聞かされている。見舞いにも何度もきてくれていた。
 小夜の兄は事件当時、市立大学病院の研修医だったという。そうした諸々を見られていたとしても、なんらおかしいことはない。けれど――。

(それにしたって失礼な話やな。俺がそないな男に見えるんかい)

 軽いいらだちを覚えながら、真っ正面から中を見据える。
 だが、反論の言葉を口にしかけたその瞬間、ファットは中の手が震えていることに気がついた。
 よく考えてみれば、初めて会った妹の彼氏――しかも初対面で関節を極めてくるような相手――に、こんな話をするのは、非常に勇気のいることだ。
 そして中が小夜に飲み物のおかわりを催促したのも、おそらくはこの話をするためだろう。
 これもひとえに、彼が小夜を案じるがゆえだ。であるなら、自分はこの漢気を真摯に受け止めなくてはなるまい。

「女子アナの彼女とは、あのあとすぐ別れとります。ほんで俺は、遊びで女とつきあえるほど、器用な男やあらへんのですわ。俺、小夜さんとは半端な気持ちやのうて、ちゃんと本気でつきおうとります」

 と、ここで一旦言葉を切って、ファットは声を張り上げた。

「小夜」
「なぁに?」

 温め直されたチキンと淹れたてのアイスコーヒーをトレイにのせて、小夜がリビングに顔を出した。
 先ほどの水玉グラスではなく、ステンレスのタンブラーグラスに変えてあるところが、小夜らしい。

「夕べのこと、お兄さんに話してもええ?」
「え? あ……うん……」

 はにかむような笑顔にうんと返して、ファットは再び中に向き直る。

「お兄さん、俺、夕べ妹さんにプロポーズしまして、承諾ももらっとり……」

 ファットはぎょっとして目の前の男を凝視した。ます、という結びの言葉を言い終える前に、中の目から大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。

「あ、すみません、なんか感極まっちゃって……そうか……よかったなぁ小夜……ファットガムさんも……ありがとう……うう……」

 ぐす、と鼻をすすり上げるアラサー男を前に、ファットはなんとも言えない気分になった。お調子者で無駄に明るいところといい、変に熱いところといい、涙もろいところといい、なにやらどこかで見たような。
 いずれにせよ、どうにも嫌いになれないタイプだ。

「ごめんね、太志郎さん。中兄さんは、こういうちょっとアレなところがあるの」
「いや、熱い人は嫌いやないで。俺自身も涙もろいやん。せやからお兄さん、もう敬語はやめたってください。俺、あなたの義弟になるんやし」

 中は、うん、とうなずいて、運ばれてきたばかりのアイスコーヒーを一気に飲み干した。一息置いて、小夜に渡されたティッシュで洟をかみ、彼は自らの妹に視線を転じた。

「そういうことなら、早いとこ親父に話したほうがいい」
「え?」
「親父な、今、おまえの縁談を画策してる」
「なにそれ……」
「今日はそれを話そうと思って来たんだよ。おまえの知らないところで話が進んでるのがまずいと思って」
「話が進んどる?」

 聞き流せない言葉に、ファットは思わず口を挟んだ。
 小夜は今年で25歳だ。プロポーズしておいてなんだが、まだ結婚を焦るような年齢でもない。しかも本人の知らないところで親が話を進めるだなんて、時代錯誤も甚だしい。

「そうなんだ。すでに先方に話が通っていてね」
「ひどいじゃない。明治大正の世でもあるまいし……兄さんたち、知ってて止めてくれなかったの?」
「もちろん俺と母さんは止めたさ。けど親父と兄貴のタッグに俺たちが勝てるわけないだろ」
まさる兄さんがパパについたの? わたしの気持ちも聞かずに?」
「ああ。兄貴と親父にとって、おまえはどこまでも初心で奥手な女の子なんだよ。決まった相手なんかいないと踏んでる。たぶん二人とも、おまえが断わるはずないと思ってるんじゃないかな」
「そんな一方的な話、断るに決まってるじゃない。そもそも相手って誰なの?」

 う、と、中が口ごもる。
 その時、彼の視線がほんの一瞬ファットガムに向けられ、そしてすぐに宙に浮いた。その事実と理由に、現役ヒーローたるファットガムが気づかぬはずもなく。

 ひどく嫌な予感がした。
 とっさに浮かんできたのは、中央突堤で夕陽を見ながら思い出を語っていた小夜の、はにかんだような笑顔。

「ええです、お義兄さん。俺のことは気にせず言うたってください」
「……いや、ホント、そのひとと小夜が何かあったってワケじゃないからね。三年前、市立大学病院にERセンターが出来たろう? 相手はそこに勤める優秀な救命医なんだけど、長兄の友人でね。それもあって、俺も小夜もよく知っているっていうだけなんだ。断らないっていうのは、そういう……」
「救命医って、もしかして也久さん?」
「そう、也久さん」

 中がそういらえた時、小夜の顔がほんの一瞬上気したように見えて、ファットガムはひどく不快な気分になった。それだけではない。なりひささん、と呼んだ時の小夜の声のやわらかさと、浮かべた微妙な表情が気に入らなかった。それは戸惑うような、懐かしむような、少し嬉しそうな、そんな顔。

 とはいえ、それを指摘するのはあまりにも大人げない話だ。だから精一杯、笑顔を作った。職業柄、感情を隠して笑うのはお手の物だ。
 十一年前、士傑高校で講演をしたオールマイトも言っていた。――いいかい? ピンチの時こそ笑うんだ――と。
 もっとも、今がピンチかどうかは知らないが。

「ほお。上のお兄さんのご友人」

 できるだけ穏やかな声でそう告げた……そのつもりだった。
 だがそのとたん、めきめきめきっという鈍い音が場に響いた。遅れて拳に伝わったのは、濡れた感触。

(なんやねん!)

 そう内心で悪態をつき、視線を下へと転じる寸前に、青い顔をしてこちらを見つめる小夜と目が合った。気づけば、中も同じような顔でこちらを見ている。彼らの視線は自分の手元に注がれていた。

(なんや、こうして見るとやっぱり兄妹なんやなぁ。似とらんようでどっか似とるわ)

 そう思いながら、彼らの視線を追うように下を向いて、ぎょっとした。
 己の手の中に、見るも無惨な形にひしゃげたステンレスのグラスがあった。濡れた感触の正体は、破損したグラスから溢れ出たアイスコーヒーだ。

(アー……やってもうた……)

 人より秀でた己の力を恨めしく思いながら、ファットガムは内心で大きな大きなため息をついた。

***

「うん。わかった。とりあえず週末そっちに帰るね」

 そう告げて、通話を切った。

 兄が帰ってすぐ、怒りにまかせて実家に電話をかけた。もちろん、ファットガムの目の前でだ。
 まったくとんでもない話だ。本人の意思を確認せず縁談を進めるなんてありえない。

 ところが家に母はいたが、元凶である父は留守。
 母は父が勝手に進めた縁談について謝罪してくれたが、これについては母を責めてもしかたない。次兄の言うように、父と長兄で話を進めてしまったのだろう。父は娘の小夜には優しいけれど、母に対してはやや横暴な部分がたしかにある。

「太志郎さん。なんか……ごめんね」

 さりげないふうを装って自身の端末に視線を落としている恋人に、小夜が頭を下げる。すると彼は逆に申し訳なさそうに、眉を下げた。

「謝ることはないで。それより、お義母さんはどないやった?」

 母にはすべてを伝えた。
 今、つきあっている相手がいるということ。相手は人気ヒーローのファットガムだということ。そして、すでに彼からプロポーズもされているということを。

「うん。近いうちに家に連れてきてねって」
「反対されてへん感じ?」
「驚いてたけど、反対してる感じはなかったよ。むしろおめでとうって」
「はー。よかったァ……」

 ファットが胸をなで下ろすようなしぐさをした。

「しかし、ほんま今日はすまんかったな。お義兄さんの関節極めてもうたり、大事なグラス壊してもうたり、俺のほうこそやらかしっぱなしやないか……ほんま、ごめんなさい」

 謝らなくてはいけないのはこちらのほうだ。
 兄が変な登場の仕方をしたことも、そのうえで語ったことも、彼にとっては不快なことだらけだったに違いない。

「ううん。悪いのはこっち。太志郎さんの前であんな話をするなんて、不愉快になって当然だと思う。でもね、わたし太志郎さん以外と結婚するつもりはないから。ほんとよ」
「ああ、わかっとるで。せやけど……ちゃうねん」

 ファットは申し訳なさそうに、大きな体を小さく丸める。

「……俺がステンレスのグラス握り潰してもうたんは、君の縁談にキレたからやないねん。や、嫌は嫌なんやけども、ちょおニュアンスちゃうねん」

 そこでファットは、明後日の方向を見つめながら大きな右手で自分の顔を覆った。

「……ですゥ……」
「はい?」
「やきもちですぅ……。その……見合い相手っちゅうん、小夜が昔好いとったひとやろ? ほんで相手の名前聞ぃたときの君が、なんや嬉しそうに見えたもんやから……ちょっとこう……イラッとしてもうて……気ィついたらグラスがあないなことに……」

 それはいつもの元気なファットガムからは想像もできない、消え入りそうな声だった。

 小夜は呆けたようにファットを見つめた。大きな手で覆われた精悍なはずの面が、朱に染まっている。
 それだけではなく、普段あんなにも大きいひとが、今は嘘みたいに小さくみえる。これは今の彼がローファットであるせいばかりではないだろう。痩せても、ファットの身長は二メートルを超える。

「そない呆れた顔で見んといてぇ……」

 蚊の鳴くような声が聞こえて、小夜は我に返った

「あ、違う。違うの。ちょっとびっくりしただけ。太志郎さんがやきもち妬いてくれるなんて思ってもみなかったから……。昔のことは気にしないって言ってくれてたし……」

――14の時の初恋相手にやきもち妬くほど、君の太志郎さんは青ないで。
 あの中央突堤で、確かに彼は、そう言っていた。

「もう小夜と関わることない相手や思たからやぁ。それが縁談の相手や言われたら、話は別やん……君も嬉しそやったし」

 初恋の相手の名を聞いたとき、気持ちが浮き立ってしまったのは事実だった。けれどそれは初恋の人が縁談の相手だったからではなく、ただの懐かしさからだ。当時の淡い気持ちを思い出して、くすぐったくなっただけの話。

「ただ懐かしく思っただけよ。わたしが好きなのは太志郎さんだけだし」
「ウン、わかっとるよ。小夜が俺に惚れてくれとんのは充分わかっとる。悪いのはつまらん嫉妬した俺や。せやから笑って聞き流したろ思たんやけど、気づいたらグラスぺっちゃんこになっとったわ……脅かそうっちゅう気持ちは一切なかった……ほんまやで。やけど……ああいうことされたら怖いやろ……ほんま……恥ずかしぃ……」

 とうとう両手で顔を覆ってしまった大男がどうしようもなく愛しくて、小夜は金色の頭髪に手を差し入れた。

「太志郎さん、こっち見て」
「いややぁ……小夜かて嫌やろぉ。こないちっさい男」
「威嚇しようとしてやったなら嫌だけど、意識しないでやっちゃったならしょうがないよ。太志郎さんの筋力はふつうのひとと違うし。もちろん、されたのがグラスじゃなくてわたし自身だったらこんなこと言えないけど」
「俺が小夜に手ぇあげるわけないやろ!」

 顔を上げたファットの目を見つめながら、うん、と小夜はうなずいた。
 あなたが弱者に暴力を振るえるような人じゃないことは、よく知っている。次兄の関節を極めたときも充分に手加減をしてくれていた。ファットが本気で極めていたなら、中は痛いなどという声も出せなかったに違いない。

「ただ……そうね……びっくりはしたけど、わたしはちょっと嬉しいよ。やきもち妬いてもらえて」
「そうなん?」
「うん。だって今まで、わたしばっかりがやきもち妬いてる感じだったから」

 いやな思いさせてごめんね、と額に唇を落とす。

「とりあえず、週末帰って、直接父と話してくるから」
「おん……せやけど小夜ひとりで大丈夫か? 中さんも言うとったけど、上のお義兄さんも後押ししとるっちゅう話やったやん」
「うーん。大兄さんは基本的に優しいから、わたしが嫌だって言えば、わかってくれると思うの」

 そうか、と告げた彼に、うん、と応えてもう一度、その頬にキスをする。

「ほんまは俺も一緒に行きたいとこやけど、昨日今日休んでもうたしなぁ」
「大丈夫よ。とりあえずはわたしから先に話しておいて、そのあとふたりで挨拶に行けばいいじゃない」
「せやなぁ。いつがええか? 来週はどないやろ? 俺の誕生日とその翌日、休みとっとるで」
「そのあたりはね、父が厳しいと思う」
「そか。その後は俺がキツいな。お盆休みは観光客も増えよるし、そもそも夏は繁華街での犯罪が増えんねん。しばらく休みはとれへんやろな」
「うん」
「ちゅうても、そんなん言うとったら夏が終わってまうな。……どっかで早あがりして夜にお伺いするか。お盆明けの週に調整とるわ。そんでええ?」

 うんと応えた小夜に微笑みかけたファットの表情は、いつもと同じ明るいもので。
 小夜はこの幸せを離したくないと、心の底から強く思った。

***

 国中を揺るがす事件が起きたのは、それから数日してのこと。

 後に神野の悪夢と呼ばれるその事件は、横浜の街を半壊させ、同時に平和の象徴と呼ばれたヒーローを引退へと追いこんだ。

――失われた平和の象徴。これから世の中はどうなってしまうのか。

 マスコミはそう叫びながら民衆の不安をいたずらに煽り、民衆は民意という名の矛をかざしながら自らの不安を払拭してくれる誰かを求める。
 鋭く長いその矛先は、小夜の愛するひとを含めた、プロヒーローたちに向けられていた。

 軽い息苦しさを感じて、小夜は窓辺に向かい、鍵を開けた。
 最新式のエアコンだ。当然ながら空気清浄機能がついているので、あえて空気を入れ換える必要はない。だが今は、そうしなければ耐えられないような気がした。

 窓を開けた途端、むわっとした熱気に包まれた。都会の夏は夜でも暑い。だがこのあたりは都会にありながら緑が多く、比較的静かだ。

 ひっそりと静かな夏の夜、熱風を肌に感じながら、小夜はひとり考える。
 あの強くてやさしいひとのために、自分にできることはあるだろうかと。

2021.8.30
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月とうさぎ