語りながら店の扉を開く、と、カウンターにいた人物が、ファットをみとめた瞬間視線をそらした。常ならば真っ先に声をかけてくるのにだ。
(……おった)
「ファット! 待っとったで! そちらお連れさん?」
「せや。小夜のお父さんや」
看板息子の声にそういらえると、カウンターの人物は「ほぉ」と小さく声をあげ、逸らした視線を再びファットとその連れに戻した。
(……おったわ。この江洲羽で、安くてセキュリティのしっかりした優良物件を即座に探してこられる人間が)
「ぶんだんちょお〜。こんばんはぁ」
「おー、ファット。久しぶりやなぁ」
「せやなぁ。ところで分団長、なんか俺に言うことあらへん?」
特にないわぁ、とにこやかに返答してくるあたり、さすが海千山千の不動産屋である。この初老の男は分団長と呼ばれているが、それは江洲羽市消防団にて分団長を務めているからだ。本業は江洲羽市とその周辺に十ほどの支店を持つ、不動産会社のオーナー社長だ。
小夜の家探しにはこの男が関わっているとみて、まず間違いないだろう。いろいろ聞きたいところだが、今それをするともめ事が増えそうだ。なにせ隣には、小夜の父がいる。だからファットは黙ったまま、案内された席についた。
「俺はいつもの。おとうさん、お酒はどうされます?」
「ビールでいい」
「料理はおまかせでええですかね?」
「好きにしたまえ」
ほんじゃ遠慮なく、と、いつものようにオーダーすると、数分おいて料理と酒が運ばれてきた。いつものファットの量である。
小夜の父はファットのジョッキの大きさと料理の量に目を丸くしたが、特になにも言わなかった。
「ほんじゃ、食べましょか。と、その前に、カンパーイ!」
だが元気よく掲げたジョッキは、ものの見事に無視された。小夜の父は黙々と杯を傾け、目前のカツに手をのばす。なに。こんなことは予想の範疇だ。この程度のことでめげていたら、ヒーローなど務まらない。
「ふむ、確かにうまいな」
しばらく無言で料理を口に運んでいた小夜の父が、おもむろに口を開いた。皿を下げに来た少年に空になった自身のジョッキを手渡して、ファットが応える。
「お口に合ぉたみたいでよかったですわぁ。小夜さんは、ここのアスパラ揚げが特に好き言うとりました」
「ああ、あの子はにんじん以外の野菜はなんでも好きだからな」
今はにんじんも食べとりますよ、と心の中で呟いて、ファットが新たな杯をあおる。
と、その時、懐に入れていた端末が音を立てた。
「ちょお、すんません」
小夜の父にそう告げて、席を立つ。電話の主はイレイザーヘッドだった。彼は現在一年生のクラスを担当している。おそらくはインターンシップに関する話だろう。三日後、ファットガムは彼のクラスの生徒を受け入れることになっている。
引き戸を開けて外に出ると、爽やかな秋の風がファットのまるい頬を撫でた。
*
予想通りの通話を切って店に戻ると、目前で驚くべき光景が繰り広げられていた。
あろうことか、小夜の父が分団長につかまっている。かつて小夜と分団長たちの間で似たようなことがあったが、あの時とは違い、捕まっている方は明らかに迷惑そうな顔をしていた。
「ちょお、分団長。俺の大事なお連れさんになにからんでくれとんの」
「からんどるわけやない。なんでファットと小夜ちゃんの結婚を認めへんのやっちゅう話をしとったんや」
「そらからんどる以外の何ものでもないやん。ほんでな、分団長」
と、ファットは一旦言葉を切って、人の悪い笑顔を作った。
「それ誰から聞いたん? その話、俺は誰にもしてへんで。知っとるんは、当事者の俺らふたりと小夜のご家族だけのはずなんやけどなぁ」
分団長がさあなあ、とへらりと笑ったが、それを受けた小夜の父の瞳が、ぎらりと光った。
「……あなた、先ほど不動産業を営んでるとおっしゃいましたな」
「言いましたなぁ」
「では、小夜の手引きをしたのは、あなたというわけですか」
「手引きとは人聞きが悪いですなぁ。くそおやじからの自立を考えとるっちゅう、けなげな娘の手助けをしたっただけですわ」
「やめてや。おとうさんは小夜のことを思て、俺らのこと反対しとんねん。ちゃんとお考えがあるんや。すみませんな、おとうさん。このおっちゃん口は悪いけど悪気はないんです」
分団長が、はー、と大げさにため息をつき、呆れ声を出した。
「ファット、自分ほんまええ男やな。湧水さん、こないええ男のいったいなにがあかんのですか?」
「小夜は子どものころから引っ込み思案な性格でしてな。争いごとどころか、人前に出ることすらも苦手で、ちょっとしたことで涙を見せる。誰かに支えられることには向いていても、支えることなどとてもできない。あの子はヒーローの妻が務まるような、そんな強い女ではないんです」
お宅のお嬢さん案外強いでっせ、と、ファットは心のなかで呟いた。
小夜はおっとりしているようで、こうと決めたら絶対曲げない。今回の引っ越しの件からも、それはわかろうはずなのに。
分団長が、杯を傾けながら静かに告げる。
「そうですかねぇ。親が思とるより、子どもは成長しとるもんです。しらん間にちゃんと大人になっとるもんですよ」
「あなたになにがわかる」
「ウチにも娘がおるさかい、お気持ちはようわかります。せやけど湧水さん、娘をいつまでも子ども扱いせず、もうすこし引いた目で見てやるのも親の務めなんじゃありませんかね」
(分団長、案外ええこと言うやん)
と、ファットは内心で快哉を叫んだ。
いわゆるシニア世代の人間は、ファットの世代……つまりは若造の話を聞く耳は持てずとも、同世代の人間の話ならば素直に聞けたりするものだ。
分団長は年齢も小夜の父に近く、また嫁に出した娘もいる。そういった相手からの言葉なら、小夜の父にも響くかもしれない。
「しかしね、自立だのなんだのと偉そうなことを言っても、小夜は結局あなたに頼っているじゃありませんか」
「や。そらちゃいますわ。俺が関わることになったんはまったくの偶然です。小夜ちゃんが行ったんは、江洲羽の本店やなく動物園近くの支店や。あっこの支店長に私的な用事があって顔だしたら、ちょうど小夜ちゃんが客として来とった。そこで事情もろもろ聞かせてもろてな、ほんならおっちゃんがええ物件紹介したろっちゅうことになったワケですわ。俺がファットの知り合いやから無下にはできんかったみたいやけど、あの子、ほんまは俺ん手ェ借りるんも不本意やったんちゃいますかね」
ファットは心の中で「せやろな」と呟き、小夜の父は「む……」と小さく声を漏らした。
分団長は続ける。
「自立のための引っ越しなんてまどろっこしいこと言うとらんで、ファットんとこ転がり込んで、そのまま結婚したったらええやんとも言いました。ほならアナタの娘さん、なんて言うたと思います?」
「私にわかるわけないだろう」
「それはこの男が望まん言うんですわ。親御さんに認めてもらわんと、結婚も同棲もせえへんちゅうて」
ほう、と小夜の父は眉を上げた。そして大きくため息を吐き、分団長に問いかける。
「…………それはそれとして、小夜の家は、いったいどこなんです?」
「この界隈で、もっとも安全な場所にある物件とだけ言うときますわ。それ以上は教えられへん。我々不動産屋にも、お医者さん同様、守秘義務っちゅうんがありましてなぁ」
「私はあれの父親だぞ」
「未成年ならいざしらず、小夜ちゃんは成人や。親やから言うて、個人情報を簡単に漏らすわけにはいかへんな。父親やっちゅうんなら、娘さんから直接お聞きにならはったらどないです?」
小夜の父親の顔色がさっと変わった。
今のはまずい。そう判断したファットは、シニアの間に割って入った。
「おとうさん、この人が介した物件ならまず間違いはないですわ。セキュリティも、前の家と比べて遜色ないとこやと思います。今日のところは、それで安心してもらえへんやろか」
「……なぜ、小夜だったんだ?」
「は?」
「さっきから聞いていれば、まったく、評判通りまっすぐな男だな、君は!」
褒め言葉のようだが、口調はひどく強い。怒られているのか褒められているのかよくわからず、はあ、と言葉を濁したファットに、小夜の父は続ける。
「その人間性で、強く明るく逞しく優しい、そして収入もある。そんな君の周りには、すばらしい女性がたくさんいるはずだ。それこそよりどりみどりだろう。もちろん、うちの娘だって、申し分ない女性だ。親としては最高の娘だと思っている。だから君と小夜がつきあうまではわかる。だが結婚となるとまた話は別だ。引く手あまたであろう君に結婚を決意させたのは、娘のどんなところなんだ?」
ファットガムは一瞬目を丸くして、次に大きく息をついた。
景気づけにと手元のジョッキを半分ほど干して、ファットは静かに語り始める。
「おとうさん。俺、小夜さんとつきあう前から、嫁さんにするなら絶対この子や思とりました」
「どういうことだ?」
「俺たちが付き合い始めたのは三月やけど、俺が彼女に惚れたのは、昨年の秋頃です。せやけど、先日おとうさんが言わはったように、俺の仕事には危険が伴う。しかも彼女はうちの事務所に来てくれとる営業さんや。やから付き合うてくれとは、なかなか言い出せへんかった。でも顔が見たくて、一緒にいたくて、なんやかんやと理由つけては、会うてもろたりしとったんです」
話しながら、ファットは懐かしく思い出していた。
つかず離れず、永久機関の振り子のようにどっちつかずのまま、会い続けていた日々のことを。
甘くて、でも切なくて、相手を想うだけで少し胸が苦しくなるような、そんな気持ちを抱えていた、あの頃。
「で、ちょお危険な任務に出向く前日のことやったんですけど」
と、ファットは自分の右拳を見つめた。
「小さい頃ようやってもろたっちゅうおまじないを、やってくれたんですわ。めちゃめちゃ震えながら、こう、俺の拳を小さな両手で包んで。あなたは絶対誰にも負けへんて。……そんとき、俺思たんです。何があってもこの子だけは離さへんて。この子がそばで笑っとってくれたら、どんな相手にも打ち勝てる気がするて」
「……それは君がそう思い込んだだけで、現実が変わるわけではないな」
「ほんまですね。せやからこないだおとうさんに言われた後、俺も少しばかり悩みましたわ」
若くして命を散らした友がいて、同時に未亡人になった友がいる。ファットガムはあの日の鐘の音を忘れたことなどない。ないけれど。
「小夜はええとこのお嬢さんや。俺なんかと一緒にならんでも、なんぼでもええ相手は見つかる。それこそ、おとうさんが決めた縁談相手のお医者さんみたいな、ああいう男と一緒んなったほうが、小夜は幸せになれるんやないかて」
それでも小夜を失う選択など、ファットにできようはずもなかった。
「ほんでぐずぐず悩んどったら、小夜がまたおんなじことしてくれたんですわ……せやけど行動は同じでも、どこか最初んときとは少し違ぉとった。最初の時のは祈りみたいやったけど、これはちゃう……そう思いました」
ファットの中で、あの時の言葉が蘇る。
『あなたはぜったい誰にも負けない。必ず帰ってきてくれる。だからわたしは大丈夫なの』
「小夜さん、嘘つけへんやないですか。嘘吐くと、目すら合わせられんくなってまう」
「ああ……あれはそういうところがあったな」
「ほんでも必死に目をそらすまいと頑張って、俺の目をまっすぐ見つめて言うてくれたんです」
あの朝、ベッドで小夜が告げた言葉が真実ではないということを、ファットも小夜も知っていた。
ヒーローという職業が危険と背中合わせである以上、大丈夫だと心から思えるはずもない。あれは彼女の願いであり、祈りの言葉でもあり、そして……。
「あれは嘘のつけない小夜のついた、一世一代の嘘ですわ」
そして小夜は絶対に、あれを嘘とは認めないだろう。これから先も、ずっと。
「せやったら、このまま永遠にその嘘をついとってくれ思たんです」
あの時、ファットは心からそう思ったのだ。
俺を誰より強いと思わせてくれ、その嘘を永遠に信じさせてくれ。せやったら俺はなにがなんでも生き延びて、おまえのところに帰ってきたる。嘘がつけないおまえがついた一世一代の大嘘を、俺が必ずほんまにしたる、と。
「あんなええ女、ほかにおらへん。せやからお父さん、前回お会いした時言われへんかったこと、ここで言いますわ。お嬢さんを俺にください」
「……君にはやれんと言ってるだろう。だいたいなんだ。そのおまじないというのは。私は知らんぞ」
「緊張しいやった小夜のために、おかあさんがようやってくれたっちゅう話やったんですが……」
「……そうなのか?」
「台詞はちゃうみたいですけど、ピアノやら日舞やらの発表会の前に、ようやってくれはったって聞いとります。そういうええお話、他にもいくつかありますよ。たとえばにんじん嫌いの小夜のために、おかあさんがいつもにんじんをお花の形にしてくれはったっちゅう話とか」
「あれはそういうことにマメな女だからな……そういえば、うちのにんじんはすべて花型だった……」
「ははあ……」
と、今まで黙って話を聞いていた分団長が、おもむろに口を挟んだ。飲んでいたグラスを勢いよくテーブルに置き、彼は続ける。
「あんた仕事ばっかして、家のこととか子どものことは、女房にまかせっきりやったクチやな」
「なにをいきなり……」
「あたりやろ。俺らの世代には多いわなぁ。家族養うために死にものぐるいで働いて、家族と過ごす時間すらのうなってしもたって話。俺もそやったからわかるで。子どもの成長その目でちゃんと見ぃひんかったから、自分の子どもが大人になっとんの認められへんのや。あんた今からでも遅ないで。今の娘さんの姿ちゃんと見たり」
このやりとりを止めるか否か、ファットガムは一瞬迷い、そのまま言わせることにした。分団長の言うことにも一理ある。
「ほんで多分、あんた娘がどんな男連れてきても反対するタイプやわ。自分があてがったなんとかセンセにもな、話進めば進むほど娘渡しとうなくていちゃもんつけんで。かわいいかわいい娘やからなぁ。せやけどな、何度も言うけど、あんたの娘はもう大人や」
「失礼な……!」
椅子を蹴立てるようにして、小夜の父が立ち上がった。相当頭にきているようだが、分団長も一歩も引かなかった。
「娘信じて手ェ離してやったらどうですか、ちゅうとんねや。あんたの娘さんが選んだんは、最高の漢やで」
年長者二人の視線がからむ。そして先にそれをはずしたのは、総合病院の院長のほうだった。
「不愉快だ。帰る」
テーブルの上に1万円札を叩きつけるように置き、小夜の父は店を出て行った。
あーあ、と分団長が息をつく。
「援護射撃のつもりが怒らせてしもたみたいやな」
「まあ、しゃーないわ。分団長、俺たちのためにありがとなぁ」
「しかしへんこそうなジジイやな」
「……言うほど横暴な人でもない思うんや。今日のところはここで安心してくれ言うたら、ちゃんと引いてくれたやろ?」
「まァ……そやな」
「小夜の自立そのものを妨げるつもりはないんや。ただちょっとこう、おとうさんは心配性なんやな」
「そんなタイトルの漫画、昔、娘が読んどったわ」
そう言って笑った分団長に笑みを返して、ファットは自身のジョッキを飲み干した。
***
「ちゅうわけでな、おとうさん怒らせてもうたわ」
店を出てすぐ、小夜に電話をかけた。
見上げた空に輝くのは、初秋の月。端末から流れてくるのは、懐かしくもやさしい愛しい女の声だ。
「なんか、相手させちゃってごめんね」
「それはええよ。俺もおとうさんとお話したかったし。それより、小夜の家ってどこなん? 最高レベルに治安のええ場所やて分団長言うとったけど」
「実はね、太志郎さんの事務所の裏」
「裏て、デザイナーズ物件か知らんけど、なんやこじゃれた感じの、白いマンション?」
うん、といらえた小夜に、タヌキおやじめ、とファットは唸った。
確かにヒーロー事務所の真裏で悪事を働く者はそういない。特にファットガムの事務所は、上階が彼自身の自宅になっている。名のあるヒーローが常駐しているエリアの治安は、そうでない地域よりも格段にいい。
江洲羽商店街の中でももっとも安全な場所だという分団長の言葉は、おおむね真実だと言える。
「せやけど、あそこ分譲ちゃうん?」
「分譲なんだけど、オーナーが急に海外勤務になったらしくてね、その間賃貸に出してるの。それでね太志郎さん」
「んあ?」
「体の大きな個性持ちにも対応してる分譲マンションだから、単身向けでも間口も広くてね、つくりもしっかりしてるから、太志郎さんくらい大きな人が泊まっても大丈夫だって分団長さんが……」
「……そら……是非ともお邪魔したいとこやな……」
「来る?」
泊まっても大丈夫言うんは「普通に眠る」という健全な意味ではないやろな、と思いながら「ええん?」とたずねる。帰ってきたのは「会いたいの」というやわらかな声。
俺もや、と返した声音は、自分でもどうかと思うくらい甘かった。きっと今の自分は、ひどくやに下がった顔をしていることだろう。
「コンビニ寄るけど、なんか買うてきて欲しいモンとかある?」
「……太志郎さん、スコッチとか飲む? シーバスのミズナラなんだけど」
「お、ええやん」
「そうしたら、わたしも一緒に飲みたいから、炭酸水を買ってきてもらってもいい?」
「ええで。軽くつまめるモンも適当に買ってくわ」
ほんじゃ、と告げて、通話を切った。
***
ええ部屋やな、と内心で呟きながら、ファットガムはリビングを見回した。「今日ですべてが終わった」という小夜の言葉通り、室内は引っ越してきたばかりとは思えぬほど、きれいに片付けられていた。
なんだかんだで、小夜は「持っている」とファットは思う。
コンシェルジュやドアマン付きの物件ではないにしろ、オートロックで防犯カメラがいくつも付いた、セキュリティのしっかりしたマンションだ。間取りも前の家と大差ない。それなのに、聞いた家賃はこの界隈の相場よりも安かった。
自宅近くの不動産屋に寄ったら、偶然江洲羽の物件を多く所有する社長に会う。しかも社長は自分の彼氏の知り合いだ。その上、ヒーロー事務所の裏にある、設備が整った分譲マンションの一室が、相場よりも安い価格で賃貸に出されている。
これら一部だけでも、なかなか現実にあることではない。
「お酒の準備、できました」
トレイにグラスとアイスペールと炭酸水、そしてファットの買ってきたスモークチーズとナッツが入った皿を乗せ、小夜が顔を出した。もこもことした部屋着姿が、なんとも言えずかわいい。
ローテーブルの上にそれを置いて、小夜はファットの正面にすとんと腰を下ろした。
「えー、ちゃうやろぉ〜。俺の上に座って飲んだらええやん」
ぽんぽん、と自身の腿をファットは叩く。小夜は、うん、とちいさくうなずいて、そのままファットの上に腰を下ろした。
久しぶりの感触が嬉しくて、自分より遥かに小さな体を抱きしめる。と、腕の中で、これじゃお酒が飲めないよ、と抗議の声があがった。
「ええやん。お酒よりも先に、な?」
「もう……!」
今のもまた先ほどのも、表面だけの抗議だ。ファットガムはすでにそれを知っている。なぜなら小夜の腕が、即座に首に回されたから。
わきまえた男はそのまま大きくかがみこみ、やわらかな唇をついばんだ。
「この数週間、ずっとこうしたかったんやで。営業も俺のおらへんとき見計らって来てたやん? 俺がおらなあかん案件があったわけやないけども、君、ほんま徹底しとったな」
「ごめんね」
「責めとるわけやない、寂しかったんや。ほら、俺甘えたやから」
「わたしも会いたかった」
「ただもう、ああいうんはせえへんといてな」
うん、とこたえながら小夜が体を伸ばして、ファットの頬にキスをした。
小夜からの口づけは頬にされることが多いのが、ファットの抱くごくごく小さな不満のひとつだ。どうせなら口にしてくれればいいものを、恥ずかしいのか、そちらはめったにしてもらえない。
ファットの想いに気づいているのかいないのか、小夜が腕を伸ばして、シーバスのボトルを手に取った。
「お酒、あけるね」
「ああ、俺が開けたるわ」
ボトルの封を切りながら、ファットは続ける。
「ミズナラ言うから12年やとばかり思とったんやけど、これ18年やん。ミズナラの18年ははじめてやな。高かったやろ? どないしたん?」
「中にいさんが、新居で太志郎さんといっしょに飲めって」
「お、中さんはここ知っとるんか」
「うん。応援してくれてるみたい。頑張れよって」
「さよか。ありがたいな」
そう呟いて、ファットは二つのグラスに琥珀色の液体をそそいだ。ひとつはストレート、そしてもう一つはハイボールにふさわしい量を。ハイボールの方に小夜が氷を敷き詰め、その上からファットが炭酸水を流し込む。
「ほい、乾杯」
軽くグラスを掲げ、グラスに唇をつける。
「お! 12年もフルーティーやったけど、こっちはより濃厚やな」
「バニラっぽい香りもするね」
「せやな。甘いんやけどスパイシーで、ハーブっぽい感じもするわ。ストレートで飲むともっとようわかるで。飲んでみる?」
「ん」
手を出した小夜に、ちゃうわ、といらえてからグラスの酒をあおり、やわらかな唇を再び塞いだ。ウイスキーのアルコール度数は高く、そのまま口に含むと舌に軽い痺れがはしる。だがファットは、気にせず口移しで小夜の口腔内に酒を注ぎ込んだ。むろん、ごく少量だけを。
「どやった?」
「……香りがすごかった……あと不意打ちはずるいから」
「さよか」
ファットは笑いながら答え、小夜の口元にナッツを運ぶ。あーん、と促すと、ぱか、と小夜が口をひらいた。そこにナッツを入れてやり、次いで自分のぶんをがばっと掴み、己の口腔内に放り込む。
「そういえば、父となにを話したの?」
「さっきも言うたやん。分団長にボコボコにされとったて」
「そうじゃなくて、太志郎さんもなにか話したでしょ?」
あー、とファットは天井を仰いだ。
「さー、どやろなぁ」
「教えてよ」
(言えるかい。嘘がつけへん君がついた永遠の嘘を俺が必ずほんまにしたる、だなんてこと)
「せやな。お嬢さんを俺にください、とは言うた」
「そしたら?」
「あかんて」
そっかぁ、と眉を下げた小夜を、そっと抱きしめた。
「やけど感触は悪なかったで。うん、こないだよりかはええ感じやった。許してもらえるまで、がんばろな」
「うん……ありがと」
せやから君は、と、ファットは心の中で呟いた。
ファットガムは誰にも負けないと言い続けてくれ。誰より強いと思わせてくれ。
ずっと隣で微笑みながら、永遠の嘘をついてくれ。
2021.9.25
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