When the night is coming

「……まさかほんまに来るとは思うてへんかったわ」
「今日から新しいインターン生が来ると伺ったので、顔を繋がせていただこうかと」

 夕陽の差し込む事務所で呆れ顔を作ったファットガムに、小夜は笑みを返した。彼が呆れたように続ける。

「だいたい、切島くんが卒業後もうちに来るとは限らへんやろ。もしうちに来てくれることになったとしても、その頃には、君、もううちの担当じゃないかもしれへんやん。ちゅうか、例の話がまとまれば確実にはずされるやろ」

 例の話とは、ファットと小夜の結婚話のことだ。ヒーローと担当営業が恋愛関係になるのはたまにある話で、そうした場合、営業は担当をはずされるのが通例である。結婚して家族になるとしたら、なおさらだ。

 それはそれです、と小夜は答えた。
 小夜が担当を外れても、ファットガム事務所と弊社との契約は続く。小さなつながりも大切にしていくことは、営業マンの基本だ。

「……君はほんま仕事熱心やな。レッドライオット君! ちょっとおいで!」

 ファットガムの声に、奥にいた赤い髪の男の子が、「ハイッ!」と威勢よく返事をした。
 かわいくて素直そうで、この子は人気が出そうだな、とひそかに思った。

「あー、こちら、うちがお世話んなっとるウィクトーリア社の湧水さん」
「どうもはじめまして! レッドライオットこと切島鋭児郎っス! よろしくお願いします!」
「はじめまして、ウィクトーリア社企画営業部の湧水と申します」

 一連の挨拶の後、小夜は切島少年に名刺をさし出した。少年は瞳を輝かせ、ファットと小夜を交互に見つめる。

「すげえ! いただいちゃっていいんスか?」
「もちろんです。プロになったあかつきには、ぜひ弊社をお引き立てくださいね」
「もらっとき」

 大人二人のいらえに、「押忍! ありがたいっス!」と元気に答え、切島が頭を下げる。

「レッドライオットさんは、硬化の個性をお持ちとか。筋肉の質も硬めなんですか?」
「や、どうだろ。あんま意識したことなかったっス! 自分じゃよくわかんないっスね!」

 切島が自分の腹をするっと撫ぜる。
 わからない、という言葉を受けて、小夜は少年の体をよりよく観察するために、ずい、と一歩前に出た。
 切島はそう大きくはないが、よく鍛え上げられた脂質の少ない筋肉をしている。伸びやかでありながら力強い四肢、滑らかなラインを描く大胸筋と、きれいに割れた腹直筋。
 小夜は視線を少年の肉体から、ヘッドギアに守られた顔面へと移動させた。目元に小さな傷がある。これは戦闘で受けたものなのか、それとも自身の個性で負ったものなのか。

「……拝見した限り、筋肉の質は硬そうですね。カッチリとした筋肉のつきかたをしていらっしゃる。コスチュームは肌の露出が多めですが、これも個性に関係しているのでしょうか? 冬はインナーを着用されます? それとも硬化したときに筋肉量の変化があるので、あえて露出を多めにしていらっしゃるのでしょうか? ああ……でもアームカバーはされていますね。それは救助者を傷つけないための配慮でしょうか? それからその腰の布。ずいぶんとダメージがありますが、それはあえてそういう布を選んだのでしょうか?」 
「エッ……アッ……ハイ……あの……これは……」

 前のめりになりながら質問を続けていると、そこまで、という声と共に、頭をがしりと掴まれた。

「君ね、仕事熱心なのはええけど、インターン生をそない質問攻めするコトもないやろ。雄英生のコスは君んとこの会社の製品やのうて、学校から支給されたものやねんから。あと、距離、近すぎ」

 ファットの言葉に、小夜が我に返る。と、目前に顔を赤く染め、しどろもどろになっている少年の姿があった。

「あ、ごめんなさい。……つい……後学のためにと思って」

 すると切島は、赤面しながら慌てて両手を振った。

「大丈夫っス……ただその……きれいなお姉さんにいっぱい見られて、ちょっとドキドキしちゃっただけで……」
「せやろ。年頃のオトコノコやもんな。あないガン見されたら、どうしてもそうなってまうやんな」
「や、湧水さんは悪くないっス! 俺が未熟なだけなんで。ほんとすんません! あとこの布は男気布っス! 俺の戦闘スタイルだとなにを着てもすぐボロボロになっちゃうんで、だったら最初からズタボロの布をまとったほうが男らしいかと思ってこれにしたんス」

 なんてまっすぐな子だろう、と小夜は思った。環とはまた違ったタイプだけれど、この素直な感じ、絶対ファットは好きだろう。
 すると環が、後ろからちいさく呟いた。

「切島君、そんな謝らなくていいよ。この人、大人げなくやきもち妬いてるだけだから」
「たまきぃ〜。インターン初日の子に、そない個人的なことバラしたらあかんやん」
「どうせすぐバレるよ。隠すつもりもないくせに」

 どういうことっスか?と、ファットガムと小夜と環を交互に見つめる切島に、小夜は曖昧な笑みを返し、環はため息をつく。
 そしてこの事務所の長たるファットガムは、にっ、と人の悪い笑みを見せた後、ぱんぱん、と、手を叩いた。

「ハイ。ほな紹介タイムはここまで。湧水さん、顔合わせはもうええな? 俺らぼちぼちパトロールいかなあかんねん。切島君、気合い入れて行くで」
「はい!」

 頬を上気させた切島が、硬化させた左右の拳をがちりと合わせた。
 個性を発動させるとああいう感じになるのかと、さりげなくインターン生を観察しつつ、小夜はぺこりと頭を下げる。

「お時間をいただきありがとうございました」
「ん。お疲れさん」

 私的には恋人同士だけれど、仕事中は公私の区別をつけなければいけない。そう考えて、小夜はいつもしごく真面目に振るまっている。ファットガムは、それを少し面白がっているようだった。その証拠に、「もうええな」というつれない言葉とはうらはらに、彼の表情は生き生きしている。
 愉快そうに輝く琥珀色の瞳に向かって、今後ともお引き立てのほどどうぞよろしくお願いします、と告げてきびすを返す。と、背後から、いつもの優しい声が追ってきた。

「気ィつけて帰りや。最近、チーマーやらチンピラやらのいざこざが多いねんから」
「はい、ありがとうございます」

 送ってやれなくてごめん、と言いたげな瞳に微笑みを返して、彼の事務所を後にした。

 秋の陽はつるべ落としだ、あっという間に夜が来る。
 小夜はまっすぐ家には帰らず、スーツのまま江洲羽商店街に出た。ネオンきらめくこの街に夜が来る前に、食事の買い物をしておきたかった。

「今日はファットと一緒じゃないん? 今度ふたりで寄ってってや」

 商店街に出たとたん、店主たちからかけられる声。
 それに小夜は、努めて明るく笑顔で答える。

 地元の人たちには、すでにファットとの仲を知られてしまっている。こちらに越してきて以降は、ファットと一緒に歩くことが増えたのでなおのことだ。だからこうして、ひとりでいるときも声がかかる。
 けれどもちろん、人々の好意が向けられているのは、小夜自身にではなく、「ファットガム」にだ。
 つまりは、ここで小夜がへたなことをしたら、ファットガムの名に傷がつく。小夜はそれを、絶対に忘れてはならないと思っている。
 悪く言われるのが自分だけではない以上、自らの行動にかかる責任は大きかった。

 スーパーの入り口に着いたその時、ポケットの中に入れていた携帯端末がぶるぶると震えた。端末を手に取り軽く傾ける。と、画面に浮かび上がったのは、ファットガムからの短いLIMEメッセージ。

「今夜、君んとこ行ってもええ?」と書かれていたそれに、「OK」というスタンプと共に「なにか食べたいものはありますか?」とメッセージを送る。と、すかさず「肉じゃがとさんまの焼いたん」という一言が返ってきた。

 なるほど、今日は日本酒の口か。
 普段、たこ焼きなどの粉物やピザなどの高カロリー食を欲することが多いファットガムだけれど、たまに和食を欲しがることがある。こうした時、彼は必ず日本酒を飲む。

 付け合わせはなににしようかな、と思案しながら、精肉コーナーで薄切りの牛肉を数パック手に取り、カートに入れた。
 煮物、焼き物ときたから、おひたしでいいだろうか。秋らしく、きのこと豆苗をぽん酢でさっぱりと。

 初めて彼が泊まりに来た時は、たくさんおかずを用意したけれど、今はせいぜい3〜4種類だ。これは別に愛が薄れたわけではなくて、ファットガムから一度言われているからだ。

「俺はとにかく量があればええねん。たぶん、その量用意するだけでもめちゃめちゃ大変やで。一緒んなったら、それが毎日のことになるやろ? 俺も出来るときはやるつもりやけど、仕事がら時間通りには帰れへんし、できひんことのほうが多い思うんや。せやから互いに疲れない方法考えてこ。栄養バランスなんてもんは、一日のトータルで帳尻あってりゃそんでええし、冷食も惣菜も大歓迎やで」

 膝を正してそう言ってくれたファットガムは大食漢だが、食事に関して本当にこだわりがない。というよりむしろ大雑把で、忙しい時などは、食事をたこ焼きやお好み焼きなどのいわゆる粉物だけですまそうとするきらいがあった。具材にキャベツやお肉などが入るお好み焼きはまだしも、たこ焼きだけでは栄養が偏る。
 本人もそういう時は焼き鳥屋などに立ち寄って、肉類も取るようにしているようだが、不足しがちなのは野菜である。

(肉じゃがににんじんと玉葱、おひたしに豆苗ときのこ、さんまに大根おろしをつけるとしても、もうちょっと野菜を取ってほしいな)

 少し考え、根菜をたくさん入れた粕汁にしよう、と心の中で呟いた。汁物なら無理せずいろんな野菜が取れる。それに日本酒の口になっているのなら、粕汁はきっと嬉しいだろう。



「太志郎さん、遅いな」

 時計を眺めながら、ひとりごちた。
 肉じゃがとおひたし、具だくさんの粕汁はすでに完成している。あとはタイミングを見計らってさんまを焼きつつ、大根をすりおろすだけ。

 ただいまの時刻は二十一時四十五分。二十時のパトロールを最後に相棒と交代する、という話だったのに、ファットからはなんの音沙汰もない。

「……結婚したら、こんなことも日常になるんだろうな」

 わかっている。ヒーローと添うということはこういうことだ。事件は待ってはくれないし、ヒーローの私的な都合に合わせてもくれない。
 
(やっぱり太志郎さんの等身大のクッションが欲しいなあ、寂しいときに埋もれたい)

 そう内心で呟いて、ころりとラグの上に倒れ込んだとき、再び小夜の端末が鳴った。

 今度はメッセージではなく、通話だった。もちろん相手はファットガムだ。
 やだな、とひそかに思った。
 これだけ遅れたあとにかけてきた電話の主が何を言うか、なんとなく予想がついたから。

 電話に出ると、開口一番、すまんなあ、と彼は言った。それに続いた言葉は、まったく小夜の予想通りのもので。

「いろいろあってな、遅くなってもうた。今いったん落ち着いて事務所戻ってきたとこやけど、この後も調べたいモンができてもうて、君んとこ行けなくなってしもたんや。せっかくごはん作って待っとってくれたのに、ほんま申し訳ない」
「太志郎さん、ごはんはたべたの?」
「いや、まだや。コンビニ弁当かなんかですまそ思とるんやけど」
「……いまだけでも落ち着いてるんなら、ごはん食べにきたら? そのあとお仕事に戻るならそれでいいし。コンビニ行くより、うちに来た方が早いでしょ?」
「……ええん? ほんまに食うだけ食ったら、また事務所戻らなあかんねんで」
「こんなにあっても食べきれないし、来てもらえたら嬉しいな。太志郎さんさえよければ」
「ああ、そか。そうやな。ほんなら今から行くわ。しかし、ほんま悪いな」

 だいじょうぶ、と答えて通話を切った。おそらく、なにかがあったのだ。

 夕方ファットガムもちらりと言っていたが、最近、治安が悪くなっていることをひしひしと感じる。この周辺だけでなく、社会全体の治安がだ。
 先日は会社の近くでもひったくり事件があった。あのあたりはビジネス街で、あまりそういう話を聞いたことがなかったのに。

 不動のナンバーワンヒーローが引退して以来、じわじわと悪が膨張してきているような気がする。
 オールマイトは平和の象徴であり、この世を支え続ける柱であり、世を照らす太陽でもあった。それはあまりにも、巨大な存在。
 太陽が沈んだあとに、訪れるのは夜の闇。

 これから世の中はどうなってしまうのだろうか、愛しいひとは無事でいられるのだろうか、そんな嫌なことを思いかけ、小夜は静かにかぶりを振りつつ、魚焼きグリルに火を入れた。

***

 窓に面した個人ブースで、小夜は弁当を広げた。今日の弁当はピタパンサンドとフルーツサラダだ。ひとつは汁気を切った肉じゃがをつぶしたもので、もうひとつには刻んだ豆苗ときゅうりとツナをマヨネーズであえたものが挟んである。

 昨夜、ファットガムは一気に食事をし、飛び出すようにまた仕事へと戻っていった。本当に、何かキナくさいことが起きていることは確かだった。
 基本的にご機嫌な顔をしていることの多い彼が、食事中にも関わらず時折難しい顔をしていたことからも、帰り際、「これから、ちょお忙しくなるかもしれへん」と言っていたことからも、それはうかがえる。

 朝のヒーローニュースで、切島君ことレッドライオットの華やかなデビュー記事を目にした。彼の指導をしているファットガムが、それと無関係であるはずもない。けれど昨夜のファットは、それについて何も語らなかった。彼の性格からいって、それはとても不自然なことだ。常のファットであれば、ご機嫌な様子でそれを小夜に語って聞かせたはずだった。
 その事件と並行して、重大ななにかが起きている。そんな気がする。

 だが、小夜がそれをいくら考えたところで、意味はない。
 民間人である小夜に、ファットが事件の顛末を話すはずもないからだ。

 小夜は軽く息を吐き、キャラメルラテを飲み干した。甘くまろやかな飲料は、だがどこかほろ苦い。
 ビターな気分になりかけたその時、またしても端末が鳴った。誰だろう、と小夜は画面に視線を転じ、次に目を見開いた。

 そこに記されていたのが、長兄の友人であり、父親が勝手に進めていた縁談の相手でもあり、そして小夜の初恋の人でもあるひとの名であったからだ。

 そのひとと番号の交換をしたのは、もう十年以上も前のことだ。中学生になり、新しいスマホを買ってもらえたことが嬉しくて、ちょうど家に遊びに来ていた也久に、連絡先の交換をねだった。
 憧れの人の連絡先を手に入れて、その時はとてもとても嬉しかったけれど、実際に連絡を取り合ったことなど一度もなかった。それどころか、連絡先を交換したこと自体を忘れていた。本人から電話がかかってくる、今の今まで。

 出るか無視するか少し悩んで、小夜は結局出ることにした。
 なにしろあちらはいきなり小夜の父に結婚相手として指名され、そして小夜から一方的に断られている。也久の立場になって考えたら、これほど失礼なこともないだろう。
 かつてたくさんかわいがってもらった手前もあり、也久に対してこれ以上の不義理をするわけにはいかない。

「もしもし」
「あ、小夜ちゃん? 僕です、也久。いま大丈夫?」
「はい、昼休みですので」
「いきなり電話しちゃってごめんね。なんかさ、大が落ち込んでたから。君、りゅう先生だけでなく、まさるのことも着信拒否し続けてるんだって?」

 流とは小夜の父の名である。兄と父は同じ個性を持っている。二人とも、手から大量の消毒液が流れるというものだ。ちなみに次兄のあたるは、手から花の香りの水が出る。夜来香という花の香りを放つ個性の母、香夜かよと、父方の家系に多い水分が出る個性とのミックスだ。

「小夜ちゃん?」
「あ、ごめんなさい。もしかして、兄になにか頼まれたんですか? それでわざわざお電話を?」
「許してやってくれよ」

 小夜の問いには答えず、也久が言った。だがこればかりは譲るわけにはいかない。

「也久さんには申し訳ないですが、それはできません。この件に関しては、兄が悪いと思うので」
「そういうとこ、あいかわらずだな」

 也久が軽やかに笑った。気を悪くしているふうはないようだが、件の失礼をわびておくなら、今だろう。

「その……縁談の件では、父がご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて思ってないさ。ただ、ちょっとがっかりはしてるよね。僕は君と結婚するつもりでいたし、今でも、棚から君というぼた餅が転がり落ちてくるのを待ち望んでいるよ」
「悪い冗談ですね」
「そうだね。さすがにたとえが悪すぎた。君はぼた餅じゃない」

 いやそっちじゃなくて、と続けようとしたところを、也久の声が遮った。

「ま、大も反省してるみたいだからさ、今は無理でも、ほとぼりが冷めたら許してやってくれよな」

 小夜が返答する前に、受話器の向こうから「先生!早くしてください」という声が聞こえてきた。也久はそれに「今行く」と答え、続けて小夜に「それじゃ、またね」と告げて、一方的に通話を切った。

 今のは冗談だろうか、それともまさか本気だろうか。
 一瞬悩み、さすがに本気ということはないだろう、と思い直した。
 いきなり降って湧いた縁談に小夜はひどく驚いたが、それは也久も同様のはずだった。

***

 そのLIMEメッセージが入ったのは、レッドライオットが華々しいデビューを飾った、数日後の夜のこと。

『いまから行ってもええ? 玄関先でええんや。顔だけ見せてもろたらすぐ帰るから』

 そう書かれていたメッセージに、「ええで!」と笑うファットガムのスタンプを返して、待つこと1分。インターフォンが鳴らされたと当時に小夜は入り口のロックを解除して、ファットガムが上がってくるのを玄関先で待つ。そして再びチャイムが鳴った。

 すかさず扉を開けると、ヒーローコスチュームをまとったままのファットが、どーも、と言いながら玄関内に入ってきた。
 常ならばそのまま室内へと上がる彼は、今日はそうせず、三和土に立ったまま右手を腰に軽く当て、首をかしげてにこりと笑った。

「太志郎さん、それ、こないだ出たばかりのブロマイドのポーズと同じでしょ?」
「あ。バレたぁ? あのポーズ評判ええねん。かわいいて」
「うん。すごくかわいい。よかったらあがって? それとも時間ない?」
「そうなんや、ちょお立て込んどってな。ほんでも、どうしても小夜の顔が見とうなって、来てもうた。こないな時間に、スマンな」
「わたしは大丈夫」

 なんとなく、察してしまった。おそらく、明日出動があるのだ。だからあえて、笑顔を作った。

 数日ぶりに会うファットは、相変わらず大きくて丸くて、けれどどこか、いつもと雰囲気が違う。それだけ危険な案件なのだろうか、と思いかけ、それだけではないと気がついた。

「どうしても、救けたらなあかんねん」

 低くちいさく、ぽつりとファットが呟いた。

 その厚い肩からじわりじわりとにじみ出ているのは、押し殺された怒りの感情。敵に対する激しい怒りを、彼は全身に内包していた。

 詳細をたずねても、ファットは教えてくれないだろう。だから小夜は、黙ったまま、ファットガムの手に触れた。ごつごつしていて大きくて温かい彼の拳を、くるむようにして。

「大丈夫、きっと全部うまくいくから」
「……おおきに。もうちょっとだけ、そうしとってくれる?」
「うん」

 答えて彼を見上げると、やさしい琥珀色の瞳とぶつかった。先ほどまで大きな背からにじみ出ていた怒気は、今はもうない。
 そしてファットは、白い歯を見せて大きく笑った。

「ついでに、おててにちゅーもしたって」
「もう、甘えじょうず!」
「前から言っとるやん。俺、甘えたやて」

 告げながらばちりとウインクをキメた彼に、ふふ……と笑いかけながら、ごつごつとした手にキスを落とした。
 大きな手には、よく見るとたくさんの傷跡があった。これはきっと、人々の笑顔を守るために負った傷だ。この傷は、この大きくて強い人が、誰かのために戦い続けたその証。

 と、その時、見つめていた手が、目の前でいきなりぱっと開かれた。
 一瞬にして、太く柔らかな腕に包まれた。あっと思った時にはもう、小夜はファットの顔の位置にまで、抱き上げられていた。
 立っているときに遥か高いところにある大きなお顔が、目の前にある。

「ほな、行ってきます」
「いってらっしゃい」

 送る言葉を終えると同時に、優しく唇を塞がれた。
 久しぶりに交わした口づけは、いつもの通り、やさしくそしてあたたかだった。

***

 翌日のニュースで、小夜はファットが関わった任務の概要を知ることとなる。
 それは、インターン生も含む多くのヒーローと警察が連携した、大がかりな捕り物。

 八時ちょうどに出動した部隊は、八時半に指定敵団体死穢八斎會の事務所及び邸宅に突入し、九時十五分に作戦は完了した。

 突入から完全制圧までたった四十五分の、短い戦闘。
 だが時間こそは短かったが、受けた被害は甚大であった。
 まず死穢八斎會邸宅のみならず、周辺の家屋が4棟も崩壊した。その中で民間人の負傷者は三名、しかも全員が軽傷者であったことは奇跡に近い。
 そしてこの戦闘で、敵味方合わせてかなりの数の負傷者と、一名の死者が出た。
 作戦の立案者であり指揮官でもあった彼の名は、サー・ナイトアイ。

 闇に潜む敵を捕らえ続けてきた男がひとり散り、この国にまた、夜が来る。

2021.9.30
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月とうさぎ