「太志郎さん!」
「おう、お帰り」
ただいま、と言いながら、小夜はわざわざ迎えに来てくれた彼の元へと駆け寄った。
常のように太陽のような笑顔で迎えてくれた彼は、常とは違う姿をしていた。
ファットガムは痩せると様相がずいぶん変わる。まんまるかわいい姿から、精悍で野性的な偉丈夫に。その姿はたしかにカッコイイけれど、と、内心で呟きながら小夜は眉を寄せた。
なぜって、彼が痩せるということは、それだけの衝撃を身体に受けたということだから。
それに個性とはいえ、一気に痩せたり太ったりすることはかなりの負担を肉体に強いる。
「あー、これな、さっき痩せてしもて」
小夜の心情を読んだのだろう、ファットがつとめて明るい声を上げた。
「せやけどなぁ、大丈夫やで。怪我はしとらんから、明日には元に戻せる思うねん」
そうだけど、と喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。言ったところで、優しい彼に気を使わせるだけだろう。
だから小夜はなにもなかったように微笑んだ。目の前の大好きな人が、そうしているように。
「一応な、明日は現場やのうて、たまっとる事務仕事やっつけよ思とんねん。ところで小夜、飯食うた?」
時刻は午後九時、大抵の人が夕飯をすませているであろう時間帯。
「残業しながらサンドイッチをつまんだけど……太志郎さんは?」
「俺はいつもの串カツ屋で食うてきたわ。けど、あとでまた食お思て、ちょお包んでもろた。一緒に食おな」
「嬉しい。実はね、ちょっと足らないなあって思ってたとこだったの」
「そらよかったわ。ところで」
「なに?」
「小夜、手袋どないしたん?」
あ、と小さく息を飲んだ。大雑把に見えて、ファットはこういうところにも気が回る。
「慌てて出たから、会社のロッカーにおいてきちゃったの」
「小夜冷え性なんやし、まだまだ夜は冷えるから気ぃつけなあかんで」
ファットの言う通り、小夜は冷え性。暖房の効いているメトロの中では平気だったが、階段を昇りきる頃にはすっかり手指が冷えてしまっていた。
「大丈夫、空いてる方の手はポケット入れちゃうから」
どれ、と彼が小夜の手を取った。
「あかんあかん、めっちゃ冷たなっとるやん。鞄も持ったるから貸してみ」
そう言って笑みながら、ファットが触れていた小夜の手を、自分の手と一緒にポケットの中に押し込んだ。
大きな大きなファットガムの、大きな大きなポケットだ。大きな大きな手に包まれて、あっというまにかじかんだ手が温まっていく。
じんわりと伝わってくるのは、幸せなぬくもりと、彼の優しさ。
「……ありがと。寒いから、帰ったら熱燗でもつける?」
「温まるんなら、もっとええ方法あるやろ?」
大きくこちらにかがみ込み、耳孔に流されたのは低いひびきだ。その声にぞくぞくしながら、小夜はあえて答えをはずした。
「お風呂とか?」
「せや。串カツ屋出る前に、リモートで風呂入れといたで」
はずしたつもりの答えが正解で、顔に朱が昇った。とんでもない勘違いをした自分が、とても恥ずかしい。
「あれ。顔赤くしてどないした? もしかして、ちゃうこと考えてた?」
にっ、とファットが人の悪い笑みを浮かべた。普段、愛嬌たっぷりのかわいい笑い方をするぶん、その威力は絶大で。
「……考えてないよ」
「うっそやぁ。思いっきり目ぇそらしとるやん」
うう、と心の中でちいさくうめいた。
嘘をつくとき視線をそらしてしまう、それが小夜の悪い癖。
そんな小夜を見おろして、ファットガムはくつくつと楽しそうに笑う。そして急に真顔になって、再び耳元でささやいた。
「そっちはあとでたっぷりしたるから、楽しみにしとき」
それは先ほどの甘いささやきとはやや異なる、愉快そうな明るい響き。即座にからかわれたことに気がついて、小夜は口をへの字に曲げた。
「怒らんといてやぁ」
と、甘えたように微笑みながら、ポケットの中の手をもう一度握りこむ彼。
小夜はファットのこういうところにも弱い。こんなにかわいいのにあんなに強くて、あんなに頼りがいがあるのにこんなにも甘えじょうずな、そんなギャップに。
「な、許したって」
耳孔に注ぎ込まれた声は、低いだけでなく甘かった。
かわいいのとセクシーなのと、その両方を巧みに使い分けるから、このひとはずるい。
もう、と心の中で嘆息し、ファットを見上げると、大きな琥珀色の瞳とぶつかった。夜空に輝く満月のような、綺麗な瞳。
太陽のようにほがらかな彼は時にこうして、月の光のようにひそやかに、小夜の心のやわらかな部分を満たしてしまう。
「でもほんと、寒いね」
ポケットの中の大きな手のひらを指でくすぐると、ファットはほんの一瞬驚いたように目を見開いて、次に、愉快そうに微笑んだ。そんな彼に笑みを返して続ける。
「日中はあんなにあたたかかったのに」
「せやな。そろそろ桜も咲くんちゃうかと思たけど、この冷えようだとまだかもなぁ。ま、桜が咲いたら咲いたで、また忙しゅうなるんやけど」
声にわずかな疲れを滲ませて、ファットが言った。
関西有数の繁華街であり観光地のヒーローであるファットガムは忙しい。年末年始、夏休み、そして春のお花見シーズン。彼の守るこの街は、花見帰りの酔っ払いが多く流れてくる区域でもある。
それだけではなく、オールマイトの引退後、時世という名の天秤は、不穏の側に傾き始めている。今、彼が痩せてしまっていることも、それと無関係ではないだろう。
なにしろここ半年で、敵や事件はかつての倍以上に膨れ上がっているのだから。
そしておそらく、近々、大きな作戦行動がある。ファットは特にそういった話はしないし、小夜も聞きはしない。けれど小夜の職業は業界三位のサポート会社の営業だ。他のヒーローと接触する機会もあるし、職業柄、ある程度の情報も流れ聞く。だからなんとなく、察してしまった。
「ね、太志郎さん」
「ン?」
日々忙しく働く彼に、少しでも癒やしを感じてほしい。
「今日、おうちでお花見しない?」
「家で? なん? バーチャル花見的なやつ?」
「さー、どうでしょう」
「お、なんか企んどるな」
「企みっていうほどのものじゃないけど、ちょっとしたものを用意してみたの」
「ほお、そら楽しみや」
にかっと笑いながら、ポケットの中でファットが小夜の手をきゅうと握った。大好きなひとの、温かい大きな手。
このままずっと、このひとの優しさに包まれていたい。
そう願いながら見上げた先には、太陽のような笑顔と、満月のような光をたたえた瞳があった。
***
「あー、小夜が昨日一生懸命いけとったの、桜やったんか」
艶やかに咲き誇る桜木を前に、ファットが声をあげた。
ソメイヨシノよりも開花が早い淡紅白色の彼岸桜と、薄紅色の河津桜。二種の異なる桜を、リビングの大窓の前に設えた花台の上にいけてみた。思いきって枝を長く取ったので、花器を含めると高さも幅も一メートルを超える大作となった。当然、迫力もある。
彼の大きな身体に合わせた、間口の広いこの家だからこその花だ。
「なんでそないデカい花器に、ぎょうさん枝ツッコんどんねんて思とったわ」
枝って、と思ったが、無粋なことは言わないことにした。彼が今朝早くに家を出たとき、今ひらいている沢山の花は、まだ堅いつぼみであったのだから。
「しかしほんま綺麗やなぁ。朝はつぼみやったのに、なん? 桜ってこない一気に咲いてまうもんなんか?」
「ここ、日当たりいいでしょう。日中は気温高かったから、一気に咲いたのね。お稽古なんかでもたまにあるのよ、包みをあけた時は堅いつぼみだったのに、帰る頃には咲いちゃってること。それを予測してさっき期待させるようなこと言っちゃったから、咲いてなかったらどうしようってちょっと心配してたけど、ちゃんと咲いててよかった」
「いや、こら見事なもんやで。しかも家の中で花見て、豪勢やなぁ」
ファットガムの言葉通り、リビングの大窓の前でいっぱいに咲いた二種の桜花は立派に見える。一メートルを超える大きなものにしたのと、前方向に迫ってくるような格好にしたのとが相まって、なかなかいい雰囲気だ。
「お花見だから、お酒あけようか?」
「ええな」
「いただきもののクラフトビールを冷蔵庫で冷やしておいたの。それとも和っぽく日本酒にしようか?」
「串カツやし、ビールがええな。あれ詰め合わせやったから、いろいろ入ってて味選べるし」
どちらからともなく手をつなぎ、ふたりはそのままキッチンへと向かう。こうして室内を移動するときに、気づけば手をつないでいるのがふたりの習慣。こうしようと話したわけではない。意識していたつもりもない。ただ気がついたら手をつないでいる。それが自然にできるふたりになってしまった。
巨大な冷蔵庫の中に納められたビールの中から、小夜はベルジャンホワイトを選んだ。クラフトビールはいろいろな味があるから面白い。フルーツ系だったり、ペールエールだったり、ピルスナーだったり。
「お、青鬼あるやん。俺これにする」
ファットが嬉しげにインディアペールエールを手に取った。
ローテーブルにそれぞれが選んだビールと、グラスと、そして大皿に盛り付けられた串カツを並べる。とすん、と花器の正面に座ったファットが、おいで、と両手を広げた。うん、と応えて、小夜は彼の腕の中にすっぽり収まる。
痩せてしまっても、ファットの身体はむっちりしている。二メートル半の巨大な身体を動かしている鋼のような筋肉の上にうっすらと脂肪がついていて、腕も胸板も太くてぶ厚いものだから、丸い時とはまた違った安定感がある。なにせ丸い時は、お肉に埋もれすぎて困ることがあるくらいだから。
席に着き、互いのビールをあけた。小夜はファットのグラスに、ファットは小夜のグラスに、それぞれのお酒を注ぎ合う。
小夜のグラスに注がれたお酒は、ホワイトの名の通り、普通のビールよりも一段淡い色をしていた。ファットガムのほうはそれよりも濃い、彼の瞳と同じ、金がかった琥珀色だ。
「乾杯」
と、グラスを合わせて、まずはひとくち。
「すごいフルーティ。ベルギースタイルのビールって初めてだったんだけど、わたしこれ好きかも」
ほお、と相づちを打ちながら、ファットが牛ヒレのカツを三本まとめて口に入れた。見れば彼の手元のビールは、すでに空になっている。食事をすませたばかりだと言っていたのに、さすがの早さ。
いつもながらの食欲に感心しつつ、二本目のペールエールをグラスにそそぐ。と、おおきにというやさしい声と、おおらかな笑顔が返された。
「くー」
と、再びビールをぐびりと飲んで、ファットが声を上げた。
インディアペールエールは、ビールの割にアルコール度数が高いときいている。いったいどんな味なんだろう。そう思いながら小夜が自分のグラスを傾けていると、目の前にずいとグラスが差し出された。
「飲んでみるか?」
小夜の大好きなひとは、こういうところがぬかりない。ほんとうに。
ありがとう、と受け取って、小夜もファットの前に自分のグラスを差し出した。
「太志郎さんもどうぞ」
「おおきに」
微笑みながら、彼がグラスを傾けた。ファットは痩せていても丸くても、こういうなんでもないしぐさが案外絵になるものだから、小夜はついつい見とれてしまう。
「なんか不思議やな、これ。フルーティなのにちょおスパイシーで。なんでこないな香りになるんやろ」
「変わってるけど飲みやすいよね」
「せやな。そっちも飲んでみ」
うん、と答えてグラスを口元に運ぶ。柑橘――グレープフルーツに似た爽やかな香りに誘われて、琥珀色の液体を口に含んだ……途端、柑橘系の爽やかな香りからは想像できない、強い苦みが口腔内いっぱいにひろがった。
「にが……!」
「この苦みが癖になんねん。苦いけど、後味は悪くないやろ?」
言われて見ればたしかにそうだ。苦みは強いが、確かに後味はさっぱりとしていて悪くない。香りが爽やかなせいだろうか。
「あのなあ」
小夜の頭をぐりぐりと撫でながら、彼がしみじみとささやいた。琥珀色の瞳を薄桃色の花に向けたまま。
「来週な、仕事の都合で、ちょお、大阪離れる」
「……うん」
応えながらも、ぎくりとした。
近々大きな作戦行動があるのだろうと、それなりの覚悟はしていた。が、想像するのとそれが現実になるのとでは、やはり大きな違いがある。
動揺を見せぬよう細心の注意を払いながら、静かに告げた。
「じゃあ、いつものあれやる?」
いつもの、というのは、ふたりの中で定番になってしまったおまじないのようなものだ。大きなお仕事の前に、小夜がファットの拳を握って激励の言葉をかけるという、ただそれだけの。
「や、まだ早いやろ」
ははっ、とファットガムが笑った。
笑ってくれるくらいだから大丈夫なのだ、と安心したのが半分。いや、このひとは危険であっても笑うだろう、と思う気持ちがまた半分。
「……前日の夜か当日の朝、やってくれる?」
静かな声をうけて、身体がこわばった。意味を、理解してしまったから。
かろうじてうんと答えて、小夜は視線をはずした。ファットもそれ以上なにも言わなかった。ふたりの間に流れた、ある種の覚悟を含んだ沈黙。
けれどそれは、ほんの数十秒のことだった。
長く逞しい腕が、ふいに小夜を包み込んだ。やさしく、まるで宝物を扱うみたいに。
そして彼は、静かに続けた。
「俺な、こやってゆっくり酒飲みながら花見するん、初めてかもしれへん」
「そうなの?」
「若手んときはいつも花見の警備でかり出されてたし、事務所持ったら持ったで、呼び出し増えてなぁ。家で花見ができるなんて、思っても見いひんかったわ。ほんまおおきに」
「じゃあ、毎年こうやって桜をいけようか。そうしたら太志郎さんの都合にあわせてお花見ができるじゃない? 夜ごはん食べながらとか、ランチしながらとか、寝る前にちょっとだけとか、それこそ自由に」
「……ん」
絶対に、しあわせな来年は来る。そしてそれは、ずっと続くはず。そう強く思いながら彼を見上げると、太い腕に、少しの力が込められた。
「せやな、来年もさ来年も、そのさきも、ずっとそうしてもらえたら嬉しいわ」
「うん、約束する」
互いの声は、ほんのわずかにふるえている。寒くもないのに。
小夜はファットガムの大きな手をとって、その指を自分の指とからませた。
「これからお花見は、毎年おうちでしようね」
そう告げながらからませた指を口元へと運び、大きな爪を有する太い指先に、ちゅっと音をたてて、キスを落とした。
「これは、指切りのかわり」
最後の言葉を言い終える前に、キスをしたその手に捕らえられ、ぐいと上を向かされた。太志郎さん、と名を呼ぶ間もなく、重ねられた熱い唇。
歯列を割って侵入してきた厚い舌が、口腔内を動き回る。だがはじまりはこのように強引であったが、いちど捕らえられてしまったあとの口づけは、ひどくやさしかった。切ないくらいに。
唇が解放されると同時に振ってきたのは、大好きやで、という低い声。うんとうなずいたその目の端に、桜花と串カツと、そしてクラフトビールが映る。
綺麗なお花と、美味しいおつまみ、そして華やかな香りのするお酒。
「また来年も再来年も、そのさきもずっと、こうして一緒に過ごそうね」
小さな声でもういちどそうささやくと、「約束や」という言葉と共に、もう一度、彼の唇が降りてきた。
初出:2022.5.3
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