幸せの風景

 ビルの谷間からのぞく空を朱色に染めあげて、太陽が沈んでゆく。空が鮮やかな朱に染まるのはわずかな時間だけだ。やがてあの朱は銀色を含んだ濃紺へ変化し、やがて漆黒の闇に飲まれていくことだろう。

 繁華街の夕暮れは、この時間帯特有のもの悲しさだけでなく、微かな高揚感を連れてくる。なぜだろう。子どもの頃は夜になるのが怖かったのに。
 これが大人になったということなのだろうか、と内心で独りごち、鍋の様子をみるために重たいフタを開けた。
 大きな鋳物ほうろう鍋を満たしているのは、人気料理研究家のレシピによるこしょう豚のポトフだ。

 ここ数日、ファットガムは帰りが遅い……というより、遅いを通り越して帰宅が翌日の朝か昼になることが増えていた。それだけではなく、食事をしひと眠りしたらまた事務所に戻るという生活が続いている。当然、会社員である自分とはすれ違いだ。ファットは繁華街のヒーローだからたまにこういうことはあったが、ここまで続くのは初めてのことだった。

 そんな彼が帰宅したときさらりと食べられるようにと、今日はおなかに優しく栄養価も高いポトフにしてみた。じっくり煮込んだ塊肉が入ったポトフは食事として出してもいいし、スープがわりにしてもいい。それに、温め直せばすぐ食べられる。

 ファットガムはなにを出しても嬉しそうな顔をしてぺろりと食べてくれるから、量が多くて大変だけれど、作りがいがある。
 満面の笑みを見せる彼の顔を思い浮かべながら、塊肉の端に菜箸を入れると、ほろりと崩れた。うん、いい感じの柔らかさ。続いて味を見るためにスープをひとくち。根菜の優しい甘みと塊肉や香味野菜から出たブイヨンが、なかなかにしていい味だ。

「ただ、ごはんのお供にと思うと、もうちょっと味濃いほうがいいかな……」

 ポトフにはフランスパンが合うと思うが、ファットは白米と一緒に食するのが好きだった。だから自分の朝食用にパリジャンも用意しつつ、ごはんも炊いた。我が家の炊飯器は三升炊きの業務用。初めて見たときはびっくりしたけれど、大量の炊飯も、いつしかすっかり慣れてしまった。
 鍋にファットのためのお塩をほんの少しだけ足して、火を止めた。

 ハーブティーを淹れ、それを片手にリビングへ。向かった先には、大好きな彼を模したクッションが待っている。彼と同じように大きくてふかふかな、ファットガムの等身大クッションだ。

「……グッズ化しても本人とそうかわらないってすごいよね。かわいい」

 クッションにもたれかかりながらぽつりと呟くと、どうしようもないほどの愛おしさがじわじわとこみ上げてきて、にかっと笑うクッションの口元に、ひとつ、キスを落とした。

「ちゃんとしたキスもしたいなぁ……」

 思わず独りごち、同時に、そんなことを口走ってしまった自分に驚く。だがこれは、秘め続けていた切なる本音だ。
 このところ、時間的なすれ違いのせいで軽いキスしかしていない。おかえりとか、行ってらっしゃいとか、おはようとかの、挨拶的なキス。

 欲しているのは、互いの愛情を確かめあうような、そんなキスだ。
 一緒に暮らしているというのに、今の状態はあまりにさみしい。けれどそれを口に出してはいけない気がした。いま、一番きつい思いをしているのはファットガムのほう。だから今できることは、彼が帰ってきたときに気持ちよく過ごせるよう、家の中を整えておくことだ。プロヒーローと添うというのは、きっと、そういうこと。

「お休みがとれたら、二人でゆっくりすごそうね」

 クッションのもっちりしたほっぺの部分をちょんとつついて、小さく、微笑んだ。

***

「はー、今日も疲れたァ!」

 独りごちながら伸びをした。身体は疲弊していたが、心は羽根のように軽い。大きな事件がやっとひとつ解決した。明日は久々に休みがとれる。

 ここ数日多忙を極めていたから、小夜とはろくに話もしていない。こんな状況でも、愚痴一つこぼさず見守ってくれている彼女の優しさには、心から感謝している。そして不満を口にしないからといって、彼女が平気でいるわけではないということもわかっていた。

「久々に早よ終わったから、今夜は思う存分べたべたしたろ」

 早いといっても、日付がかわる寸前の時間帯。だが明日は土曜日で、小夜は休みだ。互いの休日が合うのは本当に久しぶりのことで、「だから今夜はあんなことやこんなことも……」とファットの脳裏では、すでにピンク色の妄想が広がっている。

 鼻歌交じりに、自宅へ向かう階段を上がった。その足取りは、自分でも笑ってしまうくらい軽やかだった。

「ただいまァー!」

 呼び鈴は押さず、自らのカードキーを使って解錠し、うきうきしながら扉をあけた。
 だが、常ならば出迎えてくれるはずのひとの返答がない。

 もう寝てもうたんやろか、と内心で呟きながら、リビングダイニングに続く扉をそっとあけると、ブランケットにくるまって、ファットガム自身を模したクッションの上で眠る小夜の姿が飛び込んできた。

「まーた、こないなとこで寝てもうて……」

 風邪ひいてまうで、という言葉を、ファットガムは飲み込んだ。見れば、自らを模したクッションの口元に、小夜の顔がある。それはどこか、甘えているようにも、キスをしているようにも見えて。
 さみしい思いさせて堪忍なぁ、と、ちりりと痛む胸の奥で呟いた。

 室内には、うっすらとうまそうな匂いが漂っている。キッチンに目をやると、コンロの上に、大きな鋳物ほうろう鍋が置いてあるのが見えた。
 ええ匂いやな、と心のなかでつぶやいて、ファットは目を細める。大食漢のファットが満足できる量を用意するのは、とても大変だろう。けれど小夜は、いつ帰れるかわからない自分のために、いつも食事を作っておいていてくれる。それがどれほどありがたく幸福なことかわからないほど、子どもではないつもりだ。

 小さく息をついてから、愛しい愛しい眠り姫を、ブランケットごと抱き上げた。
 なにしろこちらは沈ませ屋さんのファットさんだ。暴れる敵を何人もこの身に沈め、場合によっては吸着したまま飛んだり跳ねたり走ったりする。眠る女性を起こさず寝室に運ぶことなど、お手のもの。
 小夜をベッドに横たえ、羽毛布団をふわりとかけた。

「ほんま、いつもおおきに」

 ファットは安らかに眠る愛しい女に触れるだけのキスをひとつ落として、ひくく、ささやいた。



 カーテンの隙間から差し込む朝日を受けて、うとうとと覚醒と睡眠の合間を漂っていると、隣で人が動く気配がした。起きたんか、と微睡みながら内心で呟いたとたん、唇に、なにかが触れた。
 柔らかいこの感触に、ファットは覚えがある。

 うっわ、なにコレ。俺、いまちゅーされとるん? めっちゃドキドキするやんか。と、ファットは心の中で叫びをあげた。

 一緒に暮らしているのだから、キスどころかそれ以上のこともすでに何度も体験している。けれど、小夜からキスをしてくれることはめったにないことだった。あったとしても、ほっぺがせいぜい。それが、そんな小夜が、唇にキスをしてくれているだなんて。

 かわいいことをしてきた小夜を抱きすくめるべきか、このまま寝たふりしつつ状況を楽しむかを心ひそかに思案する。数秒ののちに後者を選んだその刹那、ふいに彼女の唇が離れた。

「太志郎さん」

 ハイ、と返事をしそうになり、すんでのところでそれを止めた。なにしろこちらは寝ていることになっているのだ。

「……起きてるでしょ」

 ばれたか、と心の中で呟きつつ「寝とるで〜」と目を閉じたまま返事をした。そのとたん、顔の上に小夜の枕が降ってきた。

「なにするん。ひどいやないか」

 ぱちりと目をあけ抗議をすると、視線の先には半べそをかいている小夜の姿。
 こらあかん、と、自らの失策に気づいたファットは、慌てて両手を振った。

「いやいや、ちゃうねん。ちゃうねんで。ほんまにいま起きたとこ」
「嘘ばっかり」

 半泣きのまま、小夜が立ち上がろうとする。ファットはその手首をすばやく掴んで、自らの胸元に引き寄せた。

***

「離して」
「こないにかわいいことされて、離せるわけないやろ。お姫様からのキッスで、いま王子様目覚めたとこやもん」

 彼のクッションの上で本を読んでいたはずなのに、目覚めたら朝で、しかもベッドの中だった。帰宅したファットが運んでくれたのだろう。その優しさを噛みしめながら寝顔を見つめていたら、すやすやと安眠を貪るその姿があまりに愛おしくなって、思わず唇を寄せた。柔らかなほっぺではなく、大きなおくちに。

 そうしたら、寝ているはずの彼が実は起きていたというありさま。逃げようとしたところを引き寄せられて、大きな身体の上に乗せられてしまった。こちらとしては恥ずかしくって、どんな顔をしていいかわからない。

「なー。そない恥ずかしがらんと、こっち向いてや」

 顔を上げることが出来なくてふっくらした胸元に顔をうずめていると、大きな手が頭を撫でた。

「小夜と一緒になれて、俺、ほんまに幸せやねん。いつもおおきになぁ。昨日のポトフもめっちゃうまかったで」
「……うん」

 優しく頭をなでる、優しい人の、優しい声。

「あないデカい肉柔らかくなるまで煮込むの大変やったろ。仕事で疲れとるのに、ほんまありがとな」
「太志郎さんに喜んでほしかったから」
「めっちゃ喜んだわ。や、いまも喜んどるよ」

 うん、と、顔をあげると、ちゅ、ちゅ、ちゅ、と、いくつものキスが降ってくる。額に、頬に、そして唇に。
 このところずっとすれ違いだったから、こんなふうにされたら、やっぱり嬉しくなってしまう。思わず「ふふっ」と笑みを漏らすと、彼が唐突におどけた声を出した。

「な、さっきみたいにチューしてやぁ」
「…………嫌」

 まったくこのひとは、ちょっと油断するとすぐこれだ。

「ええやん。な?」

 こちらは嫌だと言っているのに、ファットはかわいいおめめを閉じてしまった。このひとのこうした甘えに、自分はいつも勝てない。そして困ったことに、ファットもそれを知っている。

「なー、早う。ええやろ?」
「……一回だけね」

 結局負けて、もっちりとしたほっぺに、軽いキスを落とした。すると返ってきたのは先ほどまでのかわいい声音ではなく、色気を含んだかすれた低音。

「ちゃうやろ。するならこっちや」

 え、と応える間もなく、大きな手が首の後ろに添えられて、そのままかみつくように口づけられた。先ほどまでの、触れるだけの優しいキスとは違う、互いの吐息さえも食らい尽くすような、そんな口づけ。
 唇が解放される頃にはすでに、こちらは息があがってしまっている。は、と大きく息をつくと、ファットはまた、優しく笑んだ。

「……ほんと、太志郎さんって、ずるい」
「今日は久しぶりに休みが合うたから、ふたりでゆっくりしよ」

 からりとした笑顔を受けて、まったくもうと思いながらも、うんとちいさくうなずいた。こうして微笑み合うだけで、一人で過ごしたさみしい夜が忘却の彼方へと消え去ってしまうのだから、我ながら現金なものだ。

「そろそろ朝ご飯にする? おなかすいたでしょ?」

 せやなあ、と彼は少し考え込むような顔をして、また、おひさまのように笑った。

「もうしばらくはこうしてようや。今はメシより小夜がええ」

 春先のおひさまのような笑みを受け、幸せな気持ちになって彼をみつめる。と、その上に、本日何度目かの、優しい口唇が降りてきた。
 これがふたりの日常で、ふたりの、幸せの風景。

初出:2023.3.19

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