――いやしかし、今日はほんまに疲れたわ。
ファットガムの管轄である江洲羽は、関西有数の繁華街であり観光地。常に人の多い場所だが、今日、つまりハロウィン当日は仮装した人々でますます賑わう。人出が増えると言うことは、小さな諍いも増えるわけで、本来ならばもっと早くに夜番のヒーローと交代するはずだったのに、気づけば時刻は十時を大きくまわってしまっていた。
しかもハロウィンの日は、かぼちゃの仮装をして商店街を練り歩くのが毎年の恒例になっている。仮装しながらのヒーロー活動はなかなかにしてしんどいが、それを楽しみにして訪れるちびっこたちもいると思えば、しないという選択はあり得ない。悪を倒すことや人を救けることだけでなく、次代を担う子どもたちに夢と希望を与えるのも、ヒーローの大切な仕事のひとつだからだ。
――夕飯は合間に食うたけど、こんな夜はあったかいモンでもつまみながら、冷たいビールをきゅーっとやりたいところやなあ。
そう内心で呟きながら、ファットは吸い寄せられるように、おでんと書かれたのれんをくぐった。
***
「たっだいまァー」
大量のおでんを掲げつつ、玄関扉を開けた。だが、小夜が先に帰ってきている場合に常に聞こえる「おかえりなさい」という声が、今日はない。
――電気ついとったから帰っとる思たんやけど、まだなんやろか?
こんな時間に独り歩きをさせるのは心配だ。
一息ついたら連絡を入れ、駅まで迎えに行ったるか、とファットは内心で続け、テーブルの上におでんを置いた。
「鬼ならぬ〜、かわいいヨメの居ぬ間になんとやらァ〜」
などと、適当なセリフに適当な節をつけて歌いながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
タブを引くと、ぷしゅっという小気味良い音が室内に響いた。間髪おかず口をつけ、金色の液体をごくごく飲んでいると、背後で扉が開く音がした。
「なんや。やっぱり先帰っとったんか」
飲みながら振り返る、と、そこにいたのは常とは違う服装の小夜。
「おかえりにゃん」
ファットは噴水のごとく、飲んでいたビールを吹き出した。それはもう盛大に。
なぜなら、小夜が猫耳のカチューシャをつけ、胸元が大きくひらいた黒いサテン生地のミニスカワンピを着ていたからだ。
なんやそれどないした、という言葉をかろうじて飲み込んだ。なにせ彼女はシャイだから、対応を間違えたら、やや難しいことになる。
「……なん……ソレ……めっちゃ……めっちゃかわいいやん! あまりにかわいさに飲んでたビール吹き出してしもたわ」
そう、かわいいことは間違いないのだ。ただ、ひどく驚いただけで。
「それは……ハロウィンの仮装やな?」
「うん。いつも太志郎さんがかぼちゃになってくれてるから、たまにはわたしも……と思って」
「いやァ。ほんまかわいい黒猫さんや。一緒にタンゴを踊りたいくらいやで!」
「タンゴ?」
「…………俺らが生まれるよりずっと前、そういう歌があったんや」
頭をかきかきそう告げる、と、小夜が花が咲くように微笑んだ。
「さすが、太志郎さんは年配の方と話す機会も多いから、そういうの詳しいね」
「俺は江洲羽のおっちゃんおばちゃんたちのアイドルやからな。しかし、キミ、ほんまに似合うなソレ」
「よかった。太志郎さんきっとこういうの好きかと思って」
「おう、めっちゃ好きやで。こないなサプライズは大歓迎や」
実際のところ、疲れなどこの一瞬で吹き飛んだ。
「ところで、お決まりのセリフは言うてくれへんの?」
「トリック・オア・トリート?」
「あー、残念や。今日はお菓子いっこも持っとらん。こらたっぷりいたずらしてもらわんとあかんなァ」
にやりと笑いながら小夜をそっと抱き上げる。彼女も、ファットの腕の中で照れくさそうに笑んだ。
「おでん、冷めちゃわない?」
「あとで温め直せばいいわ。もちろん、キミがいやや言うんなら話は別やけど」
「……嫌では、ないかな」
「ほな決定。ぎょうさんいちゃいちゃしよ」
白い額にちゅっとキスをすると、くすぐったそうに小夜が笑う。そんな小さなことが、どうしようもないくらい嬉しかった。
――三十路を越えたっちゅうのに、俺もまだまだ若いなあ。
ソファの上に腰を下ろして、リビングの調光ライトの光量を落とす。
今夜はかわいい黒猫と、共にタンゴを。ハロウィンはまだまだ終わらない。
2025.10.31
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