香り

 地下鉄の構内で、反対側から歩いてきた女性とすれ違った瞬間、ふわりとミルキーなバニラとオレンジが混ざった、覚えのある香りがした。

 ここ最近、街中で出会うことが増えた香りだ。特に江洲羽周辺で。
 男性用のフレグランスだが、トップノートが甘めなせいか、女性の利用者も多い。もちろん小夜も持っているし、今も少しだけつけている。

 この香りを気に入ってくれた人が多いことは、とても嬉しい。嬉しいけれど、このフレグランスを身につけている女性が多くいることに、ほんの少し嫉妬じみた複雑な気持ちを抱いてしまう。なぜなら、この香りは江洲羽を守るヒーロー、ファットガムをイメージした香水だから。

 それでもやっぱり、大好きな彼の人気があるのは良いことだ、と思いなおしながら、地下鉄の階段を昇った。と、入り口の先に、見覚えのある丸い姿がちらりと……いや、ばっちりと見える。

「太志郎さん、迎えにきてくれたの?」
「おん。電車乗る前に連絡くれたやろ? そろそろ着くかと思てな」
「嬉しい」

 素直に喜びを伝えると、ファットはまんまるなお顔に満面の笑みを浮かべた。

「仕事の時は無理やけど、休みの時くらいはなァ。夜道を君一人で歩かせられへん」

 そう彼は言うが、ヴィランたちとの大きな戦いが終わって数年。この国の治安はどんどん良くなっている。ことにこの街は関西で一、二を争う繁華街でありながら、特に犯罪が少ないことで有名だ。なぜなら、人気ヒーローのファットガムが直接守る街だからだ。

 それでもファットの気遣いが嬉しくて、ありがとう、と告げると、ほい、と目の前に大きな手が差し出された。

 その手に自分の手を重ねる。と、大きな手のひらに包み込まれた。ファットガムはその個性上、どこもかしこももちもちしていると思われがちだが、拳は別だ。ごつごつしていて、「闘う男の手」という感じ。

 数え切れないほど人々を救ってきた、強くて優しいこの手が大好きだ。

「あれ?」
 と、ファットが軽く眉をあげた。

「君、もしかして俺の香水つけとる?」
「うん」

 と答えた小夜から香るのは、先ほどすれ違った女性のミルキーな香りに少し大人っぽさを足したウッディノートだ。香水というものはトップ、ミドル、ラストで香りが微妙に変化するものが多い。ファットの香水も例外ではなく、はじめは甘めだけれど、少しずつ爽やかで柔らかなウッディノートにかわっていく。だがこれは、優しいばかりの香りではない。根底にうっすらと感じるスパイス――たしかクローブだったと思う――が、漢ファットガムの気概を表現しているような気がする。

「ええ、いつ買うたん?」
「発売が決まったときに、すぐ予約したの」
「なんや。言うてくれたらサンプルくらいもらえたで?」
「いいの。微小ながら売り上げに貢献したかったから」
「おおきに。いや予約したっちゅうことは、何日か前から家にあったっちゅうことやろ? 全然気ィつかへんかったわ」

 照れくさそうに、ファットが笑う。おひさまみたいに。だから小夜も、ふふ、と笑ってから、甘えるように太い腕に寄りかかった。いまふかふかの身体から香るのは、自身の名を冠した香水ではなく、お日様と、そしてソースの匂いだ。

 瞬間、小夜がつけているファットガムの香水と、彼そのものの香りが混じり合い、ふわりと立ちのぼった。

 ファットが自身の名を冠した香水をつけたときの香り立ちと、まったく同じように。

 ふと、ファットガムの香水を身につけている女性は多かれどこの香り立ちを知っているひとはきっとわたしだけなんだな、と小夜は気がついて、なんだかとても嬉しくなった。

「どないしたん? めっちゃご機嫌さんやな」
「しあわせすぎて」
「ほぉん」

 ますます照れくさそうな顔をして鼻先を擦るファットを見上げて、もう一度、しあわせ、と呟くと、大きな手が伸びてきて、くしゃりと頭を撫でられた。

2026.7.9
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