この街は、桜が多い。
我が家から事務所までは徒歩数分の距離だが、途中、小さな日本庭園を抜けていくのが、私のひそかな楽しみのひとつだ。そこにも、見事な桜が咲いている。
やわらかな春の風が、ソメイヨシノの花びらを散らしてゆく。庭園内を彩る木々の緑も鮮やかに萌え、小さな池にはメダカが泳ぐ。それらを眺めているだけで、心が躍る。
この季節が好きだ。春。すべてが始まる、うららかな季節。私がもう少し若かったら、恋の季節というところだろうが。
六本木のとあるビル。その最上階が私の事務所だ。
私個人の執務室はフロアの最奥にある。そこにたどり着くには、立ち入り禁止と書かれたひとつめの扉を開け、廊下の先にある、強固なセキュリティに守られたいくつかの鉄扉を潜り抜けねばならない。
当然のことながら、社員でも最奥の鉄扉をひらくことができる人間は、ごく一部に限られる。一般社員がひとつめの扉から先に足を踏み入れる機会は、まずないといっていい。
そのはずなのに、扉にぺたりと張りついている、あの生き物はなんだろう。淡いピンクのワンピースを着た、ふわふわした生物は。
うん、あれは女性だ。若い女の子。
だが、その若い女性があんなところにへばりついて、いったい何をしているのだろう。
「君!」
うしろから声をかけると、女性は文字通り、飛び上がって驚いた。
年のころなら二十代前半といったところだろうか。なかなか……いや、かなりかわいいお嬢さんだ。
「その扉の先は立ち入り禁止のはずだが、君はここで、いったい何をしているんだい?」
「え……ええとぉ」
ふわふわ髪にふわふわの頬、ふわふわの服の生き物が、上目づかいで続ける。
「わたし、今日からここの社員になった者なんですけど、どうしてもオールマイトさんにお会いしたくて……」
なるほど、理解した。
この子は私のファンであり、また新入社員でもあるということか。そういえば、今日から事務に、新卒の子が一人入ると聞いている。
サイドキックの人事には私も細かくチェックを入れるが、事務のほうは現場の人間まかせにしてきた。しかし、今後はもう少し気をつける必要があるかもしれない、と、ひそかに思った。
初日から、許可もないのに立ち入り禁止区域をうろつく新入社員はいただけない。公私の区別がつけられないようでは、困る。
彼がいてくれればこんなことにはと、四年前に別れた元サイドキックの神経質そうな顔がちらりと浮かんで、そして消えた。
「そうか。でも気の毒だけど、オールマイトには会えないよ。悪いけど、そこをどいてくれないかな。おじさんはこの先に用事があるんだ」
「ちょっとだけ……ちょっとだけでいいから、わたしも中に入れてもらえませんか?」
くいさがる彼女の瞳は、とても魅惑的だった。
こんなかわいい子に上目づかいでお願いされたら、たいていの男はいいよと言いたくなるだろう。
けれど残念ながら、私は普通の男ではない。オールマイトだ。かわいいばかりのお嬢さんの誘惑に、負けてしまうわけにはいかない。
「それはダメ。君を入れるわけにはいかない」
「ケチ!」
そのケチが雇い主とは知らぬ娘が、べえと大きく舌を出した。
「ケチで結構。ここには二度と立ち入らないように。ところで君は? 新しく入ったっていう事務の子かい?」
「はい。風月くるみといいます」
と、返事をしてから、娘が名乗った。彼女の雰囲気に似合う、いい名前だ。
「あの、失礼ですが、おじさまはどちらの部署の方ですか?」
人差し指を唇に添えて首をかしげる、そのしぐさがなんとも言えずかわいらしかった。職業柄、美人は見慣れているけれど、こんなコケティッシュな女の子におじさまなんて言われると、やっぱり少し、くすぐったい。
「それはナイショ。でもそれなりの立場の人間ではある。ただ、ちょっと敬語は堅苦しいかな。気軽な感じで話してほしい」
こくり、と、彼女がうなずく。
「じゃあ遠慮なく。おじさまはこの先に出入りできるひとなのよね。……ってことは、オールマイトと親しいの?」
「おじさまもやめてくれないか。オールマイトのことは……そうだな、よく知ってるよ」
嘘はついていないと思う。私のことを一番よく知っているのは、私だ。
「ねえ、どうすればオールマイトに近づけるの? オールマイトはどんな女性がタイプなの? 実はわたしね、彼と結婚するためにここに入ったの」
結婚とはまた熱烈な。だが、若くてかわいい子にそうまで思われるのは、悪い気がしない。しかし悪いね、お嬢さん。私はまだ、身を固める気はないんだよ。
「だけどまだオールマイトには会えていないの。どうしたらお近づきになれるかな?」
「オールマイトはなんだかんだと忙しいからね。熱烈なファンなのはわかるけど、会えるまではちょっと時間がかかるんじゃないかな」
「あら、わたし別にオールマイトの熱烈なファンってわけじゃないわよ。オールマイトは確かにかっこいいけど、顔だけだったらエンデヴァーのほうが好みだもの」
「ハア?」
自分でもびっくりするくらい、間抜けな声が出た。危うく吐血しそうになって、慌てて口をおさえる。
口を覆って呆けたままでいる私の上に、かわいい声が追いかけてきた。
「でもエンデヴァーは妻帯者でしょ。その点オールマイトは独身だもの。それに強いし、いい人そうだし、何より超お金持ちだし!!」
それじゃあなにか、お嬢さん。君は私の経済力を目的に結婚をもくろんでいると、そういうことか。
呆れる私に、にこにこしながら彼女が続ける。
「ただオールマイトってどんな時でも笑ってて、ちょっと馬鹿みたいだけど」
「ンン、痛烈!」
血を吐きそうになるのを再びおさえ、思わずのけぞる。
すると彼女が私をまっすぐ見て、きっぱり言った。
「おじさんも、お金目的での結婚はよくないって言いたいのね。でも聞いて」
と、彼女はてのひらをいきなり私の顔に向けた。
てのひらから、微かに空気が出ている。実にわずかな、空気の流れ。
「どう?」
「かすかに、風が出てるね」
「これが、わたしの個性、『微風』です。全力を出してもティッシュペーパーくらいしか動かせない、ちっぽけで平凡な個性」
「そんなことはないよ。風だなんてカッコいいじゃないか」
「うん、ありがとう。おじさんいい人ね」
少しさびしげな笑みに、いま己が放った不用意な言葉を大きく悔いた。個性の優劣がなにより重視されるこの時代において、秀でた個性を持たないものがどれほどコンプレックスを抱いて生きていることか。かつて無個性だった私は、それをよく知っていたはずなのに。
「いい個性を持っている子は、ヒーローを目指す。個性が平凡でも、頭がよければ偏差値の高い学校に行って、医者や弁護士や官僚になる。わたしは頭脳も個性もごく平凡だけれど、容姿にだけは恵まれた。だからそれを利用して、収入と社会的地位の高い男の妻を目指すの。そういうことよ」
なるほど、言いたいことはよくわかる。
この時代において、個性の優劣は人生を大きく左右する。だから、他力本願の上昇志向も、そう悪いものとは言いきれない。
だがしかし、それにしても、いささか自信過剰なのではないか。
いや、確かにこの子はかわいい。
職業柄、美しい女優やタレントには何度かお目にかかっているが、それら芸能人よりも、この子のほうが魅惑的なくらいだ。
印象的な瞳に、形の良い鼻。肌がきれいってこういうことかと、思わず手を伸ばしてしまいそうになるピンク色の頬に、柔らかそうなくちびる。
やせ形なのに、胸や腰のあたりにいい感じのボリュームがあるのがまたそそられる。そのうえで、媚びるような上目使い。
男好きする容姿と、くるくる変わる豊かな表情。
こういう若い女性を、小悪魔系女子と言うのだろう。この手のタイプに翻弄される男は、とても多い。
だがお嬢さん。見た目のかわいさに騙される青い男ばかりじゃないんだ。男がみんな、同じだなんて思うなよ。
私が黙っているのを肯定のしるしと受け取ったのか、彼女はにこにこしながら続ける。
「おじさん、話しやすいから言っちゃうけど、わたしね、モテを重要視しておしゃれをしているの。たとえば、服装はどんなに寒くても、スカート一択。女の子っぽいデザインを選ぶようにしてるのよ。男の人ってスカート好きでしょ?」
いや、それはどうだろう? ヒップラインがばっちりわかる、デニムパンツが好きな男だっているだろうに。
君の描く男像って、けっこうステレオタイプじゃないか?
すると小悪魔系女子は、小鳥のように首をかしげた。くそっ、あざとい。
「おじさん、オールマイトと同じくらいの年齢でしょう? その世代の人から見たわたしって、どう?」
「かわいい、とは思うんじゃない?」
「そんなのあたりまえじゃない」
「へ?」
「わたしがかわいいのはわかってるわよ」
「……」
前言撤回。君のそういう性格、あんまりかわいくない。
「かわいかったり綺麗だったりするだけの女なんて、オールマイトの周りには掃いて捨てるほどいるわよね。その中で彼に見初めてもらうために、わたしは自分のどこをアピールしていったらいいと思う?」
ああ、そういうこと。なるほど、顔がかわいいだけのお馬鹿さんではないらしい。
「まずは中身を磨くことだね」
「それよりも、好みのタイプがわからないと」
「タイプなんてものは、そんなに気にしなくていいんじゃないかな。人はさ、外見じゃなくて中身を知って、好きになるものだろうから」
「出た、出ましたよ。大人の男の人って、みんなそうやってカッコつけたこと言うわよね。でも実際は巨乳好きだったり、脚フェチだったりするじゃない?」
「……性的嗜好と実際に好きになる相手はまた別なんだよ、お嬢さん」
「そうなの? じゃあオールマイトの性的嗜好のほうを教えてよ」
「ハア?」
まったく、今日何度目の間抜けな声だ?
冗談じゃない。なんで出会ったばかりの君にそんなこと教えなきゃならない。
かわいい顔して、ぐいぐいくるな、この子。
「それはノーコメント。彼にもプライバシーはあるからね」
これ以上この子と関わっていると、なんだか面倒なことになりそうだ。マッスルの時にもこの調子で来られたらたまらない。
悪いが時間は有限なんだ。特に私の場合はね。
これは少し幻滅させたほうがいいのかもしれない。
「かわりといってはなんだが、オールマイトがいつも笑っている理由を教えてあげよう」
「へ?」
「本当の彼は、実はそんなに強くない。オールマイトは怖いんだ。ナンバーワンたる重圧と、彼はいつも戦っている。彼は、自分の中にある恐怖や不安を払拭するために笑うのさ。格好の悪い話だろ」
「なにそれ、ほんとなの?」
「本当だよ、幻滅したろう?」
「何言ってるの? 逆にそっちのほうがカッコいいじゃない。あんな命にかかわるようなお仕事をしてて、何も考えないでいつも笑ってたらただのバカだけど。あんなにすごいヒーローが本当は恐怖を感じてるなんて。しかもそれを吹き飛ばすために笑うなんて、男前すぎるでしょ」
そういうものなのか。人が私に求めているのは、完全無欠のヒーロー像だと思っていたのに。
どうにも、若い女性はよくわからない。
「たいへん!」
と、彼女がいきなり大声をあげた。どうした、と問う前に、かわいい口からつるりと答えが告げられる。
「もう、お昼休みが終わっちゃう」
「ああ。そういうこと」
おじさんまたねとウインクし、慌ただしく去っていく後姿を見送りながら、変な子だなぁと、正直思った。
あの子の個性は微風だと話していたが、とんでもない。そよかぜなんて、そんなかわいいものであるものか。
そうだな、たとえるならば春疾風。あの子はまるで、春の嵐だ。
2015.2.28
2017.10.8(改稿)