2話 草青む

 庭園を抜ける風が、とても爽やかだ。
 霞がかったように見える春の空はそれでもうっすらと青く、白い雲と薄紅色の桜花とのコントラストが美しい。
 わたしは桜が好き。
 淡いピンクの花びらが風に舞うさまは、とても儚げだと思う。桜が咲くこの国に生まれてよかったと思うのは、こんな時だ。

 ぽかぽかとした庭園を歩きながら、わたしは今朝の出来事を思い出していた。
 今朝は、かの英雄オールマイトが事務室に顔を出したのだ。

***

 我が社――オールマイトの事務所――は、会社としての規模はさほど大きくない。所属しているヒーローの数も、トップレベルのヒーローが経営している事務所としては少ない方だろう。
 それは、経営者がサイドキックを多く必要としないタイプであることに起因する。ただし所属しているヒーローは、数こそは少ないけれど、精鋭ぞろいだ。
 わたしが所属している事務室は、女性ばかりの数人の部署。
 オールマイトは事務については現場に任せている上に、とにかく多忙だ。事務員とオールマイトが顔を合わせる機会は、あまりない。入社して、一月以上会えないこともざらだという。
 入社の翌日にオールマイトに会えたわたしは、運がよかった。

「風月さん、これから頑張ってね」

 大きな躰を小さくかがめて挨拶してくれたスーパーヒーローは、モニター越しで見るより、ずっとずっと、カッコ良かった。
 ピカピカに磨き上げられた黒の革靴と、きっちりとプレスされたシャツの白さが眩しかった。
 筋肉質の身体にぴったり沿った仕立ての良いダークグレーのスーツは、この人のためにデザインされたんじゃないかと思うくらい、よく似合っていた。

 かぼちゃを馬車に変えてやる。
 絶対あの人と結婚してやる。
 小さなときめきと大きな野望を胸に、わたしはお弁当を片手に空いたベンチを探す。
 こんな陽気だもの。外でとるランチも悪くない。
 そう思いながら走らせた目線の先に、木蓮の下のベンチに座って池の方角をながめている、背の高い痩せた男の姿があった。

「おじさん!」

 痩せっぽちの男が顔を上げた。暑いのか上着を着ずにワイシャツ姿でいるため、彼はますます痩せて見える。全くサイズが合っていないシャツの首元がやたらとぶかぶかしていて、どうしてもっと細めの、自分の体に合ったサイズを着ないのかと、不思議に思った。そういえば、昨日会った時もやたらと大きな服を着ていた。

「ほかにベンチの空きがないの。ご一緒させてもらってもいい?」

 白い木蓮の花の下で、どうぞとうなずきにっこり笑った男の瞳の色は、晴れ渡った空を思わせる青。太陽のようにきらめく、金色の髪がまぶしい。
 男の笑顔は、どこかで見たような、不思議な安心感があった。
 ベンチに腰掛け、お弁当を広げ、隣に座る痩せぎすの男をふと見やる。膝上にちょこんと乗っているのは、身長にそぐわない大きさの、小さな包み。他人事ながら、これしか食べないのだろうかと、少し心配になってしまう。

「そんなちょっとで足りるの? おじさん、すごく痩せてるから、もっと食べて少し太ったほうがいいんじゃない?」
「うん。私は胃袋がないから」
「え?」
「だから、一度にたくさんは食べられなくてね、少量を何度かに分けて食べなくてはならないんだよ」

 ちなみに肺も半分ないよと静かに告げた低い声に、悪いことを言ってしまったと思った。ヴィランとの戦いで、大怪我をしてしまったのだろうか。
 よく考えてみたら、うちの職場はヒーロー事務所だ。この人は、身長だけならオールマイトに匹敵する。
 彼も臓器を失う前は名のあるヒーローで、今よりずっと立派な体格をしていたのかもしれなかった。サイズの合わないスーツを着ているのも、そのせいなのかもしれない。

「ごめんなさい」

 素直に謝ると、彼は少し、意外そうな顔をした。

「胃がないって、食べられないものとかあるの?」
「いや、しっかり咀嚼すれば普通の人と変わらないよ。ただ、量が食べられない。お酒もほとんど飲めないな」

 昔はけっこう強かったし、お酒自体は好きなんだよねと、彼は寂しげに笑った。見事な黄金色の髪が、光に反射してきらきらと輝いている。そのまばゆいばかりの華やかさと相反するような笑い方に、少し切ない気分になった。
 そんなわたしの気持ちを見抜いたのか、やせっぽちのおじさんが話題を変えた。
「ところで、くるみちゃん。ずいぶん機嫌がよさそうだけど、何かいいことでもあったのかい?」
「あ、わかる? 今日ね、事務室にオールマイトが来たの! 生で見るのとモニター越しで見るのとでは、全然違った。なんていうか、画風が違うっていうの? とにかくカッコ良かった!」
「そうかい。」
「エンデヴァーもステキだなと思ってたんだけど、生マイトのほうがずっとカッコ良かったわ。もうカッコ良すぎてどうしようって感じ」

 生マイトて、と響いてきた低音の主をふと見ると、なぜか、嬉しそうに笑んでいる。

「どうしておじさんがそんなに嬉しそうなの?」
「え? 私、嬉しそうだった?」
「うん。でもオールマイトは本当に素敵だった。ああ、あんな人に抱かれたい」

 わたしの声と同時に、おじさんがペットボトルのお茶と共に、ぶはっと血を吐きだした。

「ちょ……ちょっと! 大丈夫?」
「ああ、時々こういうことがあるんだ。気にしないでくれ」

 笑顔のままのいらえに、胸がずきりと痛んだ。
 血を吐くなんて、大変なことだ。肺が半分ないからなのだろうか。おそらく相当苦しいだろうに。
 それなのに、どうしてこんなふうに笑っていられるのだろう。折れそうな細い体をしているというのに、きっとこのひとは、心の折れない強い人なのだ。
 しかし気にするなと言われても、隣でごふごふと血を吐かれて、気にしない方がどうかしている。
 彼は口から流れる血を、大きなてのひらでおさえている。けれど、今にもこぼれ落ちそうだ。

「ああもう」

 おせっかいだと思ったが、あふれかけていた血を、自分のハンドタオルで受けとめた。

「口元もちゃんと拭きなさいよね」

 小さい子に言い聞かせるようにして、手だけでなく口元もぬぐってやる。
 するとおじさんは、またしても意外そうな顔をした。顔面だけでなく、耳まで朱に染めながら。
 どうしよう。このひと、ちょっと可愛いかもしれない。

「ごめん。汚しちゃったね」
「こんなの、洗えばすむことよ。それより本当に大丈夫?」
「血を吐くのは慣れてるから大丈夫だけど、想像しちゃうから過激なこと言うのやめて」

 今度は、わたしが赤面する番だった。

「おじさん、最低……それってセクハラだからね」
「くるみちゃんが抱かれたいとか言うからだよ」
「別に、おじさんに抱かれたいって言ったわけじゃないわよ」

 言葉に行き詰ったように、彼が頭を抱えた。それを無視してわたしは続ける。

「ところで、オールマイトは、どんな体つきの女性が好きなのかしら?」
「またか。どこまで過激なんだ、君は。過激プリンセスなのか」

 過激プリンセスって……なんなの? その表現。

「だいいち、外見ばかりを気にしてもしかたないだろう」
「でもね、おじさん。中身を変えるのはすごく難しいじゃない。もっとも簡単なのは、見た目を変えることよ。オールマイトが痩せた女性が好きなら痩せるし、ぽっちゃり系が好きなら頑張って太るわよ」

 だって、かぼちゃを馬車に変えるよりはずっと簡単だもの。
 いや大事なのは中身なんだよと、もごもご口を動かしているおじさんを無視して、また続ける。

「じゃあ、わかりやすいとこで、巨乳とかどうかな?」
「……まぁ、ないよりは多少はあったほうがいいんじゃないの?」

 なるほど、オールマイトは巨乳が好き、と。
 しかし痩せたり太ったりはなんとかなっても、パーツだけ変えるのは、努力じゃちょっと難しい。どうしたものかと思案している上から、掠れた低音が降ってくる。

「ちょっとそこメモしない! 今のは一般論だから。オールマイトの話じゃないから!」

 長い腕をわたわたと動かしながら、おじさんが突っ込みを入れてくる。そして彼は、話題を変えない限り私は何もしゃべらないぞと、横を向いてすねてしまった。
 いやだ。このひと。どうしてこんなにかわいいんだろう。

「じゃあ、ちょっと話変えるけど、オールマイトにプロポーズしてもらうなら、やっぱりダズンローズは外せないと思うのよ」
「……それは……ずいぶん気が早い話だな」
「あら、夢見るだけなら自由なのよ」
「ああ、なるほどね、たしかにそうだ。で、ダズンローズってなんだい? 一ダースのバラ?」

 苦笑しながらたずねてきたおじさんに、わたしはええとうなずいた。
 ダズンローズは、古代ヨーロッパの風習と言われている。
 男性は、プロポーズの時に十二本の薔薇をブーケにして、愛する女性に渡す。女性はそのブーケを受け取ってから、その中の一輪だけを抜き取り、男性の胸元に挿すことで、快諾の意を表す。
 現在は挙式のブーケセレモニー等でおこなうことが多いらしいが、わたしは起源通り、求婚時にしてほしいと思っている。
 オールマイトに一ダースの薔薇と共にプロポーズされて、承諾の証にその中の一輪を、彼のスーツのフラワーホールに刺すのだ。

 ずっとずっと憧れだった、ダズンローズのプロポーズ。
 そしてわたしは王子様に見初められたシンデレラのように、華やかで幸せな人生を送るの。
 一通り夢を語り終えたその時、春の柔らかな風に乗って、ふわりと甘い香りが流れてきた。
 木蓮の花の香りとは違う、バニラのような、ブランデーに漬けたドライフルーツのような。でも、どこかスパイシーな、男性用フレグランスの香り。

「おじさん、いい匂いがするんだけど、もしかしてなにかつけてる?」
「ああ」

 おじさんは、有名ブランドの男性用トワレの名を口にした。

「ふうん。でもフレグランスをつけている男性って、ちょっと色気があっていいよね。つけ過ぎは論外だけど、うまく香らせてる人を見ると、大人の男って感じがして、好印象」
「色気? そうかい?」
「うん。おじさんはちょっとセクシーだと思うよ。なんていうのかな。首のあたりとか、吸いつきたくなるくらい色っぽい」
「……君は、本当に過激だよね……」
「そう?」

 また吐血しそうなのか、おじさんが口元を覆いながら軽く首を振っている。
 わたしはこの時、ひとつ気づいた。この人の声は、オールマイトのそれとよく似ていると。低くて太くて、落ち着いた渋みのある声。
 同時に、この人はいったい何者なのかと思わずにはいられない。
 立ち入り禁止扉の向こうに行ける立場ということは、おそらく普通の社員ではない。サイドキックですら、許可がない限り行かれないという話なのだ。
 自由に行き来できるのは、オールマイト本人と、その美人秘書だけだと聞いている。それなのに。
 目の前で、木々を渡る風のように清しく笑んでいるこのひとは、オールマイトのなんなのか。
 それだけじゃない、わたしはこの人のことをなにも知らない。そう、名前すらも。

「ねえ、おじさん。名前、なんていうの? いくらなんでも、いつまでもおじさん呼ばわりは失礼だから、教えてくれない?」

 名前くらいなら、聞いてもさしつかえないだろう。
 そう思ったのに、おじさんはなぜか少し躊躇してから、口唇をひらいた。

「……マイトだ」
「マイトって、苗字? それとも名前? どんな字を書くの?」
「片仮名でマイト……今言えるのはそれだけ」
「ふうん。マイトさんって秘密主義なのね。わかったわ。じゃあさ、名前を教えてくれたついでに、連絡先も教えてよ。また一緒にランチでもしましょ」
「え?」
「ダメ?」

 マイトさんは少し考えこむようなしぐさをしてから、いいよと小さく答えてくれた。
 けれどこの時、一番驚いていたのはマイトさんではなく、実はわたしだった。自分から男の人の連絡先を訪ねるなんて、初めてのことだったから。
 ひそかに動揺しているわたしの隣で、ロップイヤーを連想させるマイトさんの長めの前髪が、春の風に揺れている。
 その向こうでは、青く萌えはじめた木々の葉が、陽光を受けてきらめいていた。

2015.3.4
月とうさぎ